十年以上続いた東北の祭礼を訪ねる旅が中断することになった。理由はコロナ禍だった。メディアがこぞって騒ぎ立て、人々の顔がマスクに覆われると、遥か遠い時代より伝承されてきたすべての祭礼があっさりと中止されることになった。コロナ騒動がはじまった直後は関係者による自粛が行われたが、緊急事態宣言が発出されると祭礼は他のイベント同様に開催を制限されることとなった。人が集まるという行為そのものが広く制限されたのだから、祭礼を止めること自体は自然に思えた。祭りを行う立場にある人にとっても妥当だと思える判断だったのだろう。僕が知る限り、祭りの関係者による中止反対の声を耳にすることはなかった。しかし、僕としては祭礼が一般のイベントと同じように扱われることに不条理を覚えたし、多くの人がこの判断を簡単に吞んだことに不甲斐なさを覚えた。それは世の中に対する違和感としてコロナ禍のなかでより深まっていった。
この違和感がどういうものであったか、それは今だからわかることだが、「妖怪アマビエ」の登場と流行ではっきりとしたものに変わった。わずか数年前のことなので多くの人の記憶に残っているだろうが、「妖怪アマビエ」は突如、僕たちの世界に登場したように見えた。発端は、誰かが疫病退散のお守りとしていわれのあるアマビエの古い木版画をSNSにアップしたことだった。アマビエは、江戸時代に肥後の海に現れたとされる半人半魚の妖怪で、「疫病が流行したら、私の姿を描いた絵を人々に見せよ」と言ったことから、「疫病封じの妖怪」の一種と崇められることもあったという。とはいえアマビエに関する資料は極めて少なく、知る人ぞ知るという妖怪だった。そんなマイナーな存在だったアマビエがSNSの力を借りることで、コロナという未知なるウイルスの脅威にさらされた令和の世に驚くべき速度で伝播していった。
アマビエの拡がりは実に現代的な様相を呈した。SNSに掲載されたのは、江戸期に刷られた瓦版に描かれたアマビエの姿で、それがどこか可愛らしくユーモアに満ちたものだったからだろう。いわゆる「リツイート」での拡散にとどまることはなく、イラストレーターなどが江戸時代生まれのアマビエをデフォルメして現代的に描き直し、それらを再びSNS上にアップした。このアマビエたちは、デジタル空間で波紋を広げるように拡散し、やがてはアクセサリーなどの雑貨やTシャツのキャラクターとしても採用されることになった。まさにコロナ禍が生み落としたアマビエ・ブームだった。僕がこのブームの到来に居心地の悪さを感じた理由は、自分が長年見てきた北東北の祭礼がアマビエ・ブームにその存在を脅かされていると感じたからだった。
祭礼の役割はいくつもあるが、「五穀豊穣」と同様に「厄病退散」は祭礼に込められた大きな願いだった。医学が発達する以前は「流行病」と呼ばれた伝染病の前では人はあまりにも無力であり、村の存続が危ぶまれるほどの被害がもたらされることも度々あった。「厄病退散」を願う祭礼はいわば共同体の存亡を賭けた切実な営みだった。そして、この祭礼という営みは時代のなかでかたちを変えながらも、切実さの熱を失わずに僕たちが生きる現代へと受け継がれてきたはずだった。つまり、少なくともこの東北という地ではたとえブームであれ、今さらアマビエにすがる理由はどこにもないはずだった。アマビエに頼らずとも、自分たちには疫病退散への願いを受け止めてくれる祭礼がある、と胸を張ることができるはずだった。
しかし、実際は東北でもアマビエはもてはやされた。もちろん、アマビエに向けられたのは所詮、面白半分で稚拙な感情の動きだった。誰もが一過性にすぎない「ブーム」だと察してもいただろう。とはいえ、未知なる疫病を前にしたときの唯一の対抗手段として、連綿と続けられてきた祭礼を取り止め、代わりに現れたアマビエに手を伸ばそうとする人々の行動を見過ごすことはできなかった。彼らの行動は、祭礼を長く見続けるなかで何度も浮かんできた感覚をはっきりと呼び覚ますものだったからだ。それは祭礼が持ち続けてきた役割に終焉の時が近づいているという感慨だった。
僕は自分のスマートフォンの画面に映るアマビエを眺めた。プロのイラストレーターが描いたのだろうか、カラフルでポップなその姿は、少し意地悪な目で見ても愛嬌たっぷりで可愛らしく、人気アニメのキャラクターのようだ。しかし、それは僕が見てきた祭礼の世界で生きている存在ではなかった。スマホのなかのアマビエは祭礼を欲した人間の営みのなかにある陰影を少しもまとっていなかった。影を影として在らしめる光を感じることもできなかった。祭礼が人の世界に落とす陰影は、ときに月の見えない夜空をそのまま移し替えたかのように黒々と広がって僕たちを包み、この世界の奥行きをつくっているように思えた。反対に光は閃光のように眩しく、僕たちの瞳だけでは見えないものを照らし出して明らかにする力を持っていた。コロナ禍という得体の知れない時間のなかで、僕は美しい光と深い陰影に彩られたあの夏の日を思い浮かべた。
あれは、まだ犬のさくらが生きていて、一緒に旅をしている時代のことだった。僕は蟬の声を聞き、汗をかきながら脚立の上で大判カメラのセッティングに勤しんでいた。広げていた三脚は僕が所有するなかで最も長く伸びるもので、カメラを載せる雲台の高さは3m以上に達した。そのために、僕は自分の背丈より高い脚立の最上段に立って撮影の準備を進めていた。太陽は西に傾いていたが、お盆を迎えた八月の日差しは熱を孕んでいて、首筋を汗がするすると滑り落ちていった。さくらも暑いのだろう、脚立の下で黒い毛並みに覆われた身体を横たえ、赤い舌を伸ばしていた。
獅子舞が、日本海に沿って南北に伸びる津軽西海岸のある集落で伝承されている。東北各地で行われている祭礼の旅を続けていくなかでふと掴んだ情報だった。当時は今のように簡単に祭礼の詳しい情報を入手できる時代ではなく、撮影行は行き当たりばったりのことが多かった。津軽西海岸の獅子舞についても事前に詳細な内容を得ることはできず、獅子舞が行われている「正久」という集落の名前を頼りに西津軽の海を目指した。
津軽半島の先端に向かって伸びる津軽西海岸を北上して、午後の早い時間に正久集落に到着すると、海辺特有の強烈な日差しに迎えられた。海原の照り返しで増幅された陽光は、小さな港を中心にして海岸沿いに家が並ぶ集落を眩しく照らしていた。僕は家々が落とす濃い日陰を渡りながら、通りの奥にある公民館を目指した。獅子舞の準備は午後から公民館で行われることになっていた。
公民館の中には四、五人の男たちがいて、首に巻いたタオルで汗を拭きながら準備を進めていた。床の上には、獅子舞の装束が広げられており、黒い鳥の羽根をもさもさと頭に生やし、銀色の目をぎらりと冷たく光らせる獅子の頭が三つ並んでいた。この公民館で最初に掛けられた言葉は、「村外れの神社で待て」というひとことだった。それから、獅子舞を取り仕切る存在と思しき長老から、正久の獅子舞は、死者の鎮魂として盂蘭盆を迎えた夜の墓地で舞うことになっているのだが、その前に神社で最初の舞を行うということが伝えられた。
僕に土地勘がないことに気づいたのか、長老の脇で準備を進めていた男の一人が「正久らしい獅子の舞を見るんなら神社の境内がいな(いいな)。山さ向がっていげばわがるじゃ。田んぼのなかさ、産土さんの小さな森があるはんで。そごで待ってらど獅子がやって来るはんで」と笑いかけた。男は、「ワぁ(俺は)、囃子の一人だ」と再び笑った。
男の言葉を受け取った僕は山の方へと続く一本道をたどった。津軽西海岸は白神山地がそのまま海に落ち込むという独特の地形により平地らしい平地はほとんどなく、田畑として開墾できる土地はほぼ皆無に等しかった。しかし、正久地区は白神を源にして流れる笹内川が形成している扇状地の上に位置しているおかげで、海から内陸に入ると牧歌的な田園風景が広がっていた。風に揺れる稲は早稲品種だろうか、盂蘭盆を迎えたばかりのこの時期にもかかわらず早くも鮮やかな黄に色付こうとしていた。目的の「産土さんの小さな森」は視界の先にあった。午後の斜光を浴びて一層鮮やかな黄色に染まる田の向こうに、緑というよりも黒々とした色彩のこんもりとした森と赤い鳥居が見えた。
産土さんのお社は境内を取り囲む巨木の傘の下に建っていた。その佇まいは東北各地の村々で見かける素朴な神社と変わらないものだった。しかし、大きな土俵のような円形の境内は、木漏れ日が描く不思議な紋様でゆらゆらと揺れて見え、どこか遠い世界に迷い込んだかのような印象を抱かせた。寄せて引く波のように強弱をつけながら次第に大きくなっていく蟬の大合唱は、身体の中にも入り込んできてわんわんと鳴った。僕は想像を広げた。正久の獅子舞を見たことはなかったが、境内をいっぱいに使っておおらかに舞う獅子たちの姿が見えるようだった。獅子たちは頭上から降ってくる木漏れ日と戯れながら、ゆらゆらくるくると躍り続けている。
想像の光景をフィルムに定着させるための準備を開始した。境内全体を見渡せる位置に三脚を立て、カメラバッグから大判カメラを取り出す。カメラに装着したシュナイダー製レンズの焦点距離は、大判カメラでの撮影としては超ワイドな65mm。古いものではあるがドイツ製で陰影を捉えるのが得意な、今の光の条件にはうってつけの選択だと思えた。しかし、この撮影はある意味で賭けでもあった。大判カメラを使用した経験を持つ人間なら想像がつくと思うが、どのように考えても獅子舞という動きのある被写体に対し、大判カメラという選択は無謀といえるものだった。
暗箱にレンズが付いただけというシンプルな構造の大判カメラは、一眼レフカメラをはじめとする一般のカメラのように意のままに撮影することができない。もちろん、構図やピント位置を設定することは可能なのだが、その設定が行えるのは大判カメラの構造上、撮影前のみであり、フィルムを装填し、実際にシャッターを切るときには撮影前に設定した構図とピントで撮ることしかできない。つまり、一眼レフなどのカメラの場合は、レンズの前の世界に対して、リアルタイムで(構図やピントを変えるなどして)反応しながらシャッターを押すことができるのに対し、大判カメラはあらかじめ決めておいた構図とピントでしか撮ることができず、撮影時の自由度という意味ではシャッターのタイミングのみだ。もちろん、そんな不自由なカメラを使って初めて見る獅子舞を撮ることについては、自分でも間違った行為であると十分に理解していた。しかし、当時の僕は撮影が失敗する可能性が大きいことを無視し、大判カメラを使って祭礼を撮ることにこだわっていた。一番の理由は、写真の中に“祭礼を丸ごと取り込みたい”という思いがあったからだった。
当時の僕は祭礼を前にするたびにイメージする世界があった。それは遠い過去から続く人の営みを抱く土地の姿であり、“人間の営みと土地が時を越えて存在する姿”だった。するすると過去から伸びてきた人間の精神と営みを、土地というさらに大きな時間軸を持つ存在が包み込み、その結果として祭礼が生み出され、こうして僕の目の前で行われている。この時空を超えた人と土地が絡み合う「祭礼」という世界観を純度の高いまま写真で残したいと考えていた。写真はレンズの前にある世界を写すことしかできないのだから、こうした観念的で抽象的な世界を記録することには不向きだとわかっていたが、僕は諦めることができなかった。そして、いくつかの方法を試した結果たどり着いたのが大判カメラを使い、半ば当てずっぽうに写真を撮るというものだった。
大判カメラを選択した一番の理由は、その不便さにあった。前述した通り、大判カメラでは目の前の被写体を追いかけて構図を決めることも、ピントを合わせることもできない。しかも、シートフィルムというハガキサイズのフィルムを一枚ずつ露光させるので、一般のカメラのような連続撮影は完全に不可能である。つまり大判カメラを使った場合、撮影スタイルは“祭礼という行為と場に向けて、カメラをそっと置く”が原則で他に選択肢はない。具体的には、あらかじめ構図を決める際には、いわゆる“切り取る”ではなくできるだけ広範囲を捉えることを心がける。ピントはフィルムの中央に置き、レンズが捉えたものすべてを解像するようにできるだけ被写界深度(ピントが合う範囲)を深くする。そしてシャッターチャンスについては、両目で見ている世界をフィルムに写し取るような感覚で思い切って押すというもので、念写に近い。
結果を先にいうとこのような大判カメラでの撮影は失敗の連続だった。祭礼の動きを予測しきれず、あらかじめ決めておいた構図が完全に外れ、何度も空を仰ぐことになった。もちろんピンボケも頻発し、高価な大判フィルムをいつも無駄にしていた。しかし、その一方で、“祭礼を丸ごと取り込む”という行為を続けているという充実感を感じていた。僕は大判カメラの横に立ち、祭礼という行為全体に向けて、レンズからのびるレリーズ・シャッターを押す。シャッターが開いているのは1秒にも満たない一瞬だが、そのわずかな時間であれ、レンズの前に存在している土地と祭礼という、時空をも含む世界を、その奥行きも含めてフィルムの上に定着しようとしているという実感があった。
脚立の上に登った僕はカメラに顔を近づけると、カブリと呼ばれる大きな風呂敷ほどの黒布をカメラと自分の頭にかぶせた。次の瞬間、周囲からの光が遮られ、暗転した視界の先には光を集める小さな窓が現れた。僕はこの瞬間がいつも好きだった。小さな窓はカメラの背後に装着されたピントグラス(構図とピント合わせをする際に利用する)で、レンズの前に広がる世界の姿を映し出していた。僕はこの小さな窓に顔を近づけて境内全体を見渡し、木漏れ日が揺れる姿を見つめた。斜光はさらに強まって鋭さを増し、時間の進みを伝えていた。僕は、橙の光の綾にピントを合わせるような気持ちでカメラの脇にあるローレットが刻まれた金属ノブをゆっくりと回す。ピントが決まったら、フィルムを装填したホルダーを軽く叩き、ピントグラスを少し持ち上げて、フィルムホルダーをしっかりと奥まで滑り込ませる。最後にカメラの前面へと手を伸ばし、レンズ内に組み込まれているレンズシャッター幕を閉じてから、シャッターをチャージして一度、試し切りする。シャッター速度は1/60秒。チャッと薄い金属のシャッター幕が擦れる音が意外にも大きく響く。これが大判カメラ撮影での一連の所作となる。失敗を積み上げながら何度、繰り返しただろう。たとえ目をつむっていたとしても指先は確信を持って動いていく。
揺れる稲田の向こうから囃子が聞こえてきたのは撮影の準備が終わってしばらくたってからのことだった。近づいて来るにつれ、囃子を構成する笛と太鼓、鉦の音がはっきりと聞き分けられるようになっていく。笛の軽快な音色は風に乗ってふわふわと漂い、鉦の高音は細く鋭く伸び上がり、太鼓の響きは空気を揺らしていく。やがて、鳥居の間から三匹の獅子が境内へと入ってくる。頭の黒い鳥の羽毛を揺らし、のっそりのっそりと歩くその姿からは獣の匂いが立ち上る。獅子の後に囃子と法被姿の世話人たちが続く。この光景の異様さにすぐに気づく。境内に入場したのは三匹の獅子と囃子、数人の世話人のみで、祭礼では必ず見受けられる観客がひとりも存在しないからだ。しかし、だからといって何かが欠けているという感覚はない。むしろ美しい円環を見るような印象だ。
深い橙をまとった斜光を浴びながら境内の中央に歩み出た三匹の獅子は、銀色の目をぎらりぎらりと光らせ、全身から妖しいほどの生気を発している。囃子も境内に入ると勢いを強め、頭上の枝葉が震えるほどの激しさだ。この囃子の勢いに気圧されたのか、あれほど賑やかに鳴いていた蟬たちがいつの間にか沈黙している。
いよいよ舞が始まる。三匹の獅子たちは背後で鳴る囃子に突き動かされるように初っ端から激しく頭を振って跳ねあがり、ひらりひらりと身を翻す。草履を履いた足が地面を踏み鳴らすと砂塵が舞い、樹々の枝葉の隙間から差し込んできた光線が宙を舞う砂に届く。たちまち、空中には光の帯が描かれ、獅子たちはこの橙色の光の帯を自らの身体に巻き付けるようにして躍り続ける。
観客がいないからだろうか。脚立の上に立つ僕から見える光景は、獅子たちが躍動すればするほど静寂を深めていく。繰り返される囃子も獅子たちが地面を擦る足音も聞こえているはずなのだが、巨木の枝葉がつくる傘の下で沈黙を続けるお社に向かって舞い続ける獅子たちの世界には音がない。獅子が頭を振るたびに銀の瞳はギラリと光り、僕の視界のなかに眩い光の残像を残していく。僕の網膜の上で点光源となって輝く獅子たちの瞳。この瞳の光にピントを合わせるような感覚で、手にしていたレリーズ・シャッターを静かに押す。チャッと小さな擦過音を立ててレンズシャッターが開閉する。
産土さんの境内に集落の人が見に来なかった理由は明快だった。産土の神社での獅子たちの舞は、産土神への奉納であり、獅子と産土神の間でのみ成立する交歓だったからだ。地域の人間がこの舞を見てはならないという決まりがあるわけではない。しかし、昔から集落の人々でこの産土さんに足を運ぶ人はいない。人々が獅子と会うために向かうのは夕暮れを迎えた墓地だ。獅子たちは神社での舞を終えた後、夕暮れ時を見計らって集落の墓地に赴く。正久の人々は墓を前にして躍る獅子たちの力を借りて懐かしい祖霊の魂を迎える。正久の人たちと獅子との交歓は夜が更けるまで続く。
人々が産土さんでの舞を見ようとしない理由は畏れなのだろうか。獅子はいわば、神仏の世界に生きる「超自然」の存在だ。常世と現世に架けられた見えない橋を自由に行き来することができる。現世を生きる人間たちはそうはいかない。常世に向かうためには死を受け入れる必要があると知っている。だからこそ、常世の世界に向けられた舞ではなく、現世に向けての舞を選び、享受してきたのだろう。獅子という「超自然」を前にしたときの畏れで世界のなかでの自らのありようを知る。きっと、この精神の景色が獅子を獅子として今の時代に在らしめていることにつながっている。
コロナ禍が過ぎ去ってしまえば、アマビエ・ブームは簡単に終焉を迎えた。誰もその名を口にすることはなくなり、SNS内であれほど露出していたグッズを見かけることもなくなった。アマビエに限らず、コロナ禍の最中にブームを迎えたもののほとんどが同じ末路を辿ることになったのだろうが、少し哀れになるほど呆気なくアマビエは忘れ去られたように見えた。
改めてこの顚末を思い起こすと、アマビエという「超自然」に向き合う精神性の欠如の結果だと感じる。超自然といかに対峙するか。それは人々が潜在意識の中にある畏れを意識する瞬間ではないだろうか。超自然を前にしたとき、古来より人間という生き物は畏れの感情を最優先し、極めて慎重に向き合ってきたはずだ。ただ、ここでいう超自然とは決して僕たちから遠く離れた存在ではない。生命がどこからやって来て、どこへ向かうのか。そして、この生命の行く先を決める運命とはいかなるものか。生と死は僕たちの存在そのものを語るものだが、この問いに対して未だ明白な答えを持つことができないままだ。きっと、畏れとはその結果生まれたものだ。そう考えると僕たちは自身のなかに「超自然」と「畏れ」をともに宿しているとも言える。超自然なるものが人間の精神のなかで繰り返し想起され続けてきた理由はきっとここにある。そういう意味ではアマビエ・ブームとは結局、未知なるウイルスが引き起こすパンデミックに対する恐怖への安易な慰めに過ぎなかったのだ。正久の獅子が、人間が長い年月をかけ、自らの心に刻み続けてきた超自然への畏れの感情を想起させるものだとしたら、アマビエにはそれがなかったということだろう。
しかし、だからといって今の僕たちがアマビエ・ブームを嘲笑することはできないと思う。この連載で繰り返し書いてきたことだが、東北の祭礼を訪ねれば訪ねるほど、祭礼が本来持っていた役割が終わりつつあると感じられるからだ。祭礼が生まれ、伝承されていく長い時間のなかで人の暮らしは大きく変わっていくだろう。祭礼が、人が土地とともに生きていくための道具のひとつだとしたら、生活様式の変化から役割を終えることも自然の摂理だと感じる。しかも変わっていくのは生活様式だけではない。何より、僕たちが胸の内に抱く精神のありようが大きく変化しているとは言えないだろうか。僕たちは果たして自身のうちにある超自然の存在を信じることができているのだろうか。世界はまさに奔流そのもので凄まじい勢いで変化している。この流れに吞まれながらも手放さずに持ち続けられるものはあるのだろうか。祭礼が受け継いできた精神の姿に、今の僕たちの心の景色を重ね合わせることは可能なのだろうか。
祭礼は遠い過去からするすると伸びてきた一本の細い糸のようなものだ。人はこの糸を手繰り寄せ、そこに自らが生きる時代の色彩で染めて紡いだ糸を継ぎ足し、次の時代へと送り出してきた。進む時代のなかで、この営みがときに途絶えてしまうこともあるだろう。しかし、それを失うことで何かを得ることができたとするとどうだろう。役割を終えた古い道具を置いて、新しい道具を手にしたとき、視界の先では新たな世界が広がりはしないだろうか。祭礼を長く見続けて感じるのは、今が変化の過渡期にあるということだ。この国で長く続けられてきた、土地とともに生きていく暮らしを維持していくことはもはや夢物語だ。それは地方に暮らしている者の誰もが覚える実感だ。そして、その暮らしにはもちろん祭礼という営みも含まれる。十年後、二十年後の東北では多くの祭礼が失われるか、存続していたとしても大きくかたちを変えていることだろう。しかし、だからといって祭礼という糸が途切れてしまうと言い切ることはできないと思う。新しい時代のなかで紡ぎ出した糸を使って、祭礼の糸を撚り直すことで新たな土地と人の風景が生まれるかもしれない。そうなるならば、再び祭礼は人にとってかけがえのない役割を持つ営みになるだろう。
コロナ禍で長く中断していた祭礼の旅を再開する時期が来ているのかもしれない。東北の風土のなかで今日も紡がれている祈りの声は誰の胸を揺さぶり、何を伝えるのだろう。時を越えて今日へと受け継がれた舞は誰の胸を衝き、何を思い起こさせるのだろう。僕はそのひとつひとつの営みを見つめながら、あたらしい糸を待ちたいと思っている。