沢内が盛夏を迎えたのは、彼が去ってからすぐのことだった。お盆が近づくと湿度が一気に増して蒸すような熱帯夜が続いた。この暑さは関西で育った僕にとってもうんざりするほどだったが、ふと思い立って彼の田んぼに向かった。お盆が明ける前日のことだった。
風の噂で、彼が残した田んぼは地元の人が受け継ぐことになったと聞いていた。でも、山に囲まれた田んぼの周辺には人の気配はなく、畦にも足跡ひとつ残されていなかった。おそらくこの時期の仕事としては、沢から引いている水路の管理ぐらいで田に入るような作業はないのだろう。眩い夏の陽光を浴び、尖った葉先を風に揺らす稲の姿は、彼の手紙を受け取り、ここに立った半月前の日から何も変わっていないように思えた。
僕は首筋に流れる汗の存在を感じながら、クローバーが密生する畦にしゃがみ込んだ。人間が急に座ったことに驚いたのだろうか、草陰に隠れていたアマガエルがぽちゃんぽちゃんと少し間の抜けた音を上げて、田に張られた水の中に飛び込んだ。水深は10cmほどだろう。田の水は澱むことなく澄んでおり、底には黄土色の土壌が広がっていた。アマガエルは長い後ろ脚で伸びやかに水を蹴って、株立ちしている稲の裏側へと姿を消した。僕は等間隔に並ぶ稲を眺めながら、田植えをする彼の言葉を思い起こした。
「田植えの時には数本の茎しかない苗が成長するに従って茎を増やしていくんだよね。これを分けつと呼ぶらしいけど、茎が20本を超えると、しっかり成長したという証しになるそうだよ」。雪解け水が混じる5月の沢水を張った田に立つ彼はそう言って、手のなかにあるか細い稲を不思議そうに見つめていた。
目の前に生えている稲の茎の数をざっと数えてみると、軽く20本を超えているようだった。爽やかな緑色をした茎はいずれもまっすぐに伸び上がり、田植え時の弱々しい苗とはまったく別の姿だった。僕は、根元に向けていた視線を茎に沿わせながら葉の上へと持ち上げた。離れていると気づかなかったことだが、葉は完全に開くのではなく、両端からくるりと絞り込む形状になっていることが見てとれた。そして、そこに包まれていたのが若い穂だった。僕は稲の秘密を覗き見ているような気分になった。よく見ると、葉の内側で息を潜めているようにも思える若い穂の一粒一粒がわずかに開き、その中に小さな虫の卵にも思える淡黄色のオシベがいくつも並んでいたからだった。驚きはさらに続いた。この淡黄色のオシベが穂の内部からゆっくりと夏の光のなかへと飛び出していく最中だったからだ。オシベは口を開けた穂の内部と透明な繊維で繫がっており、パラパラと弾けるように穂の外へ飛び出していった。
秋の稔りにむけて今まさに稲の開花が始まろうとしている。この光景を前にした僕は改めて彼がこの地にはいないことを嚙み締めた。彼は、夏の陽射しの下で自分の手で植えた稲たちが神秘の儀式を繰り広げる光景を見ることもなく、この沢内から去った。本意はわからないが、この光景を捨ててでも得たいものがあったということなのだろうか。僕は、彼の葉書の文面を思い浮かべた。「あてはとくになく、気持ちだけ離れないようにして、前に進むような感じです」。自分を保つものとしての“気持ち”と沢内の生活を思う“気持ち”。彼が書いた“気持ち”とはこのふたつを意味するのだろうか。彼の胸の内を想像すると、淡い痛みのなかへと入っていくような感覚が広がっていった。大切な何かを捨てるとは、こうした柔らかで透明な膜のような痛みに包まれることなのだろうか。僕は稲たちが生命の讃歌を歌う姿を呆然と眺めていた。
彼がどこに向かったか全く見当がつかなかった。しかし、僕は彼に再び会う必要があった。彼が沢内の暮らしを捨てて得ようとするものをどうしても知りたかった。この思いは僕の極めて個人的で利己的なものでしかないことはわかっていたが、彼がいなくなった日々の中で次第に大きく膨らんでくるものだった。僕は釧路で一人暮らしをしている彼のお父さんに連絡を入れることにした。沢内に暮らしている間、彼は年末になると北海道に帰省していた。その際、僕が沢内から交通の便の良い盛岡まで車での送迎を買って出ていた都合から、お父さんが暮らす釧路の家の連絡先を聞いていたのだった。
お父さんに電話をして、彼が沢内から突然いなくなったことを話した。自転車に乗って、おそらく着の身着のままで何も持たず出ていってしまったこと。すでに2週間ほどの時間が経っているが、僕への連絡は出ていくことを知らせる最初の葉書のみで、以来まったく音沙汰がないこと。僕が知っていることをすべて正直に話し、もし彼から連絡があったら僕にも知らせて欲しいとほぼ懇願に近い口調で伝えた。
彼は新しい居場所が見つかった時点でお父さんに連絡すると、僕は確信を持っていた。何度も聞かされていた“父親との確執”がその理由だった。彼のお母さんはすでに亡くなっており、実家に暮らしているのはお父さんだけだった。彼はときどき、僕に向かって自分の父親に対する複雑な思いを口にしていた。口数の少ない彼は確執に至る原因を詳細に話そうとはしなかったが、北海道を出て本州に来た理由のひとつが「父」という存在から逃げることにあったと語った。そして、そんな自分を問い直しているといった類のことを口にした。
「今はなんて言えばいいか、父さんはやっぱり父さんで、家族というのかな。やっぱりそのなかで自分自身は生きてきたんだなと思うし、目を逸らすわけにはいかないような気がする。人と対峙するときの自分の弱さを父さんという存在に試されているのかな」。これが当時の彼の、父親への思いだった。親子の確執など珍しいものではないし、父親との関係性の難しさは僕自身、身に覚えのあるものだった。しかし、「試されている」という言葉から、彼の胸の中に留まっている思いは、僕の感じている親子関係とは異なるものなのだと感じていた。年に一度の帰省は、彼にしてみると自分に対する義務という感じで、沢内から電車とフェリーを乗り継いでお父さんが暮らす釧路へ帰っていった。
彼のお父さんから連絡があったのは9月の終わりで、岩手は早くも秋を迎え、朝夕の気温がぐっと下がり始めた頃のことだった。携帯の向こうから聞こえてくるお父さんの声で、彼は北関東のとある町に暮らしていること、何かの工場に勤務していることなど、彼の今を知ることになった。僕はお父さんから教えてもらった彼の住所に手紙を送った。どこでどのような生活をしているのか、ずっと心配していたこと、沢内の田んぼは無事に開花し、もうすぐ稲刈りの時期を迎えること、そしてもう一度会って話をしたいことを綴った。便箋を前にして言葉を選びながら、僕はふと、自分がなぜ彼にそこまでこだわるのかと問い直した。沢内を後にした彼を心配していたことは事実ではあったが、彼に問い掛け、彼を見続ける理由は、僕自身の中にあった。僕は自分が抱え込んだ問いを解くために彼を必要としていた。その問いとは、ひとことで言ってしまえば“生きていく”というものだった。でも、当時の僕には、この言葉を口にすること自体が憚られるという感覚があった。自分自身の中にこの言葉を語るだけの実態を見つけ出すことはできなかった。そこで僕は彼という存在を通じて、この言葉に息を吹き込もうとしていた。
「もう一度会って欲しい」という僕の言葉に返信があるかどうか不安だった。でも、たとえ返信がなかったとしても諦める気持ちにはなれなかった。いざとなれば、お父さんから教えてもらった住所を訪ねよう、そう決心し、手紙を投函した。
彼からの返事は想像以上に早く届いた。人材派遣会社を通じて、工場に職を得ることができ、今はライン工として三交代の勤務を続けていて、住まいは会社が提供してくれたもので、2階建てアパートなんだと近況が綴られていた。そして、もし会いに来るならこの日が非番だからと、日時の指定まであった。
それから数日後、僕は彼が暮らしている北関東の外れにある町に向かった。町のことを少し調べてみると電気製品や自動車部品などの製造工場がいくつもあり、日本人だけではなく日系ブラジル人などの外国人労働者も多く働いているということだった。
岩手から彼が暮らす町までは500kmほどの距離だった。僕は東北自動車道に乗り、南へと車を走らせた。沢内を出た彼は自転車を漕いでこの距離を進んだことになる。要した日数は1週間ほどだろうか。それ以上だろうか。その間、彼の頭のなかを巡った思いはどういうものだったのだろうか。何より、何が彼に沢内を去るという決断をさせたのだろうか。2年にわたり、彼と会話を交わすなかで、彼の胸の奥からは葛藤や苦しみが泉のように湧き出していることを知ることになった。生きていくなかで漠然とした苦しみが生まれてくるのは、僕にも理解できることだった。しかし、いくら考えても突然逃げるように沢内を去った理由を想像することはできなかった。他者である彼の胸の奥には僕には知ることができない光景が広がっている。ハンドルをしっかりと握りしめた。突然、行き先を見失ったかのような不安な思いに駆られたからだった。
天気の良い日だった。北関東の気温は岩手よりも高く、彼が暮らすアパートの前に車を駐めて外に出ると、夏の匂いがした。彼の新居はタイル模様に似せたサイディングが貼られたどこにでもある木造2階建てのアパートだった。部屋は2階だと知らされていたので、駐車場からどの部屋だろうかと眺めているとドアのひとつが開いた。Tシャツに青いジャージパンツ姿の彼だった。
彼に案内されて部屋に入った。典型的なワンルームアパートの間取りで、キッチンやトイレなどの水回りが集まった廊下の先に六畳ほどの部屋があった。部屋は彼らしく、ガランとして何もなかった。ただ、沢内の古民家とはあまりに大きく異なっていた。あの古民家の空間を支配していたのは濡れて滴るような翳だった。しかし、この部屋で待っていたのは光だった。部屋には大きな出窓があり、目が眩むほどの明るい光が室内を照らしていた。白いクロスが貼られた壁が光を増幅していたからだろう。空間全体が漂白でもされたかのように白かった。この部屋を前に、僕は彼の新しい生活がはじまっていることを理解した。部屋の真ん中に置かれた座卓の前で膝を抱えて座る彼は、古民家での彼の姿と同じだった。しかし、かつての彼がまとっていた陰影と匂いは目の前の彼から完全に消えてしまっていた。白い空間のなかで彼は穏やかな表情を浮かべていたが、僕の目には彼という存在そのものが薄らいでいくようにも映った。
僕が座卓の前に座ると、彼は自分から“あの日”のことを話し始めた。言うまでもなく沢内を去ることを決めた日のことだった。
彼は、いつものように田んぼで農作業を続けていた。稲は夏の陽射しを浴びて背丈を伸ばし、畑に植えていたジャガイモは薄紫の可憐な花を咲かせていた。この日、彼が行っていたのは田んぼの周りの畦の草刈りだった。
「鎌の刃が草に当たるとザクって独特の音がするよね。そして、次の瞬間、密生していた草が一斉に倒れ込んで、日陰になっていた地面にぱあっと日光が届くようになるじゃない? その感覚が好きというか、日の当たらない場所に日が当たる場所を作っている感じがするんだよね」。そう言うと彼はうっすらと笑みを浮かべた。鎌を使い、草を刈っていくという単純作業の繰り返しがとても好きだという割に、それを語る彼の視線は力無く宙を漂っていた。彼が語る草刈りの感覚は、長い間田舎暮らしをしてきた僕にとっても馴染みのあるものだった。ただ、僕が草刈りをする際に強く感じるのは、切り口から匂い立つ、生々しいまでの草いきれだった。僕はその匂いを思い起こし、彼の言葉を待った。
「今となっては、あの瞬間、何が起こったんだろうと思ってしまうんだけど……急に居ても立ってもいられなくなってね。パニックというほどじゃないんだけど……」。いつも言葉を急がず間を置いて話す彼だったが、今は普段以上に言葉を選んでいることが伝わってきた。僕は黙って続きを待った。
「鎌で切ってしまったんだよね。カエルの片目に鎌の刃先が一瞬触れてしまって。身体が切れたんじゃなくて片目だけ……。当然、目を切り付けられたカエルは苦しむわけで。カエルのあの手のひらで目をこうやって触って……。切れた目を元通りにしたいのか必死で、手のひらで目を擦って……」。おそらく今日まで、彼は幾度となくこの光景を思い返してきたのだろう。そして今も、一点を見つめて話す彼の視線の先には、突然の痛みで身を捩らせるカエルの姿があるように思えた。
「草の上で目を押さえて苦しむカエルを見ていたらなんだか急にわぁーっわぁーって頭の中から叫び声が聞こえてきてもうなんだかよくわからなくなって……自分がここにいてここに暮らしているからこんなことになってしまったって、自分がいなければこのカエルはこんな目に遭わなかったんだって……自分なんかここにいちゃいけないんだって……気がついたら鎌を放り出して逃げるように田んぼを後にしてたんだ……」。彼は焦りをそのまま口にするかのように珍しく少し興奮した口調で、初夏の田で起きた一瞬の出来事を語った。しかし、しばしの沈黙の後で彼は再び、道端に転がる石をひとつずつ拾うようにゆっくりと言葉をつないだ。「田んぼから自転車で家を目指しながら、もう、沢内から去ることは決心していて、家に着いたらすぐに片付けをはじめて、ほとんど何も持たずにまた自転車に乗って家を出たんだ。もちろん、どこに行くかなんて当てがあるわけではないし、ただただ、沢内からできるだけ遠くに行こうって自転車を漕ぎ続けて……」。当然、葛藤や後悔が押し寄せ、後ろ髪を引かれたのだろう。彼はそれを振り切るために夜通し自転車を漕ぎ続けたのだという。そして、着の身着のままでの野宿を続けながら南下した彼は、かつて仕事を斡旋してもらったことがある人材派遣会社に連絡を取り、この工業都市で職と住居を得ることになったということだった。
僕は正直、言葉を失った。まさか草刈りでのカエル相手の小さな出来事が、2年以上にわたった沢内での彼の生活を終わらせるとは想像もできなかったからだ。瞬間的に半ば憤りに近い感情を覚えたが、一方で、それが彼なのだと、鎮まっていく感覚もあった。おそらく、彼の胸の中では「ここにいちゃいけないんだ」という感情がいつ溢れてもおかしくはないほどに膨らんでいたのだろう。彼の持つ鎌で片目を切り付けられて苦しむカエルの姿は、彼の胸に小さくも深い穴を穿ち、感情を一気に溢れさせた。カエルと同様に彼は自分の胸を切り付けたのだ。
僕は彼に向かって問いかけた。それは、沢内でずっと暮らしていく未来を信じることはできなかったのかという、今となっては不毛に近い質問だった。彼は僕の質問を前にしてしばらく黙っていたが、「やっぱり何か間違っていたんだと思う。それは沢内がどうであるかではなくって、自分自身の問題というのか、結局、ずっと一人で古民家の中に籠って、毎日ただただ息をしているだけで。農業をすると言っても、それが将来への実態を作るということではなかったと思う。僕はあの場所で自分を開いて、明日を作ることはできなかったと思う」
彼の言葉を聞きながら僕は少し異なることを考えていた。それは、“時の忘れ物”として存在していた古民家に身を置いて、そもそも未来を作っていくことができるのかという問いだった。この問いは彼に対してだけではなく、僕を含む地方の今に生きる者に向けられるものだった。
彼が暮らしていた古民家の間取りは主人の居場所を中心とするもので、その建築様式はこの国で長い間踏襲されてきた家父長制を体現するものだった。沢内では長きにわたって家はいわゆる「イエ」の象徴であり、何世代にもわたって一族が生きていくための器として存在し、家父長制と村落共同体意識の拠り所となるものだった。別の言い方をすれば、沢内のような厳しい自然の地では家父長制と村落共同体意識の器である「イエ」を永続させることが、人が生き延びていく唯一と言える方法だった。
しかし、近代化が進むなかでこうした封建的な「イエ」や「ムラ」という世界観は日本各地で衰退していく。この流れは沢内でも例外ではなかったわけだが、僕がずっと引っかかってきたのが、その時代に生きた人たちのそれぞれの思いだった。集団を重んじ、個を蔑ろにする封建的な世界であれ、「イエ」や「ムラ」は少なくとも数百年以上にわたって続いてきた人間が生きるための営みのかたちだ。別の角度から見ると、この社会に暮らすことで安寧を享受できるという側面もあったはずだ。それでも、そこに生きた人たちは新しい価値観で古い世界を塗り替えようと願ったのだろうか。「イエ」や「ムラ」から出ていくということは、今まで一族の存在を支えてきた共同体の恩恵を失うことを意味する。個々人が独立して生きるためには、当然、孤独を飼い慣らす必要もある。こうした現実を前にして、同時代に生きる者それぞれの立場で、深い逡巡があったことだろう。しかし、結果としてはそれでも古い世界の外へと歩み始めた。そのとき、時代の先端に立って変わろうとする思いは、願いなどという穏やかなものではなく、切望と呼ぶべき感情だったのだと思う。そして、感情こそが精神を新たな世界へと飛躍させる力になったのだろう。
ある日、自転車に乗ってやってきた彼が住み着いた古民家という世界は、すでに役割を終えて人が去った後の世界であり、乱暴な言い方をすれば抜け殻だった。このなかで彼は自分を見つめ、古ぼけた忘れ形見のごとく残されていたかつての知恵を頼って新しい生活を作ろうとしていた。そう考えていくと、そもそも彼の「新しい生活」は最初から夢物語であって、将来を描くことなど不可能だったのかもしれないという思いに至る。しかし僕は、彼が忘れ去られようとする古い世界から今を見つめ、そこから彼にとっての大切なものを見出しながら、僕たちが立っている「今」よりも「新しい生活」を作っていけるのではないかと信じていた。
僕が岩手に暮らし始めたのは、21世紀を迎える数年前のことで、IT革命なるものがやってくると叫ばれていた時代のことだった。スマートフォンも存在せず、現在の僕たちが享受している情報化時代の到来など想像することもできなかった。マンハッタンに立つ2本の巨大なビルが、テロ組織に乗っ取られた旅客機の衝突によって崩壊するという衝撃的な事件で21世紀が始まったが、その様子を映し出していたのは、僕が学生時代から使っていた14インチの小さなブラウン管のテレビだった。20代の僕はこうした時代の岩手にやってきて、“風土”と呼ばれる世界を訪ねることに熱中した。
彼とはアプローチが異なっているだけで、同じことをやっていたのだろうと思う。古い知恵や暮らしを訪ね、自分が生きるうえで必要なものは何かを探し出そうとした。旅を続けるなかで僕は焦ってもいた。なぜなら、風土に醸成されながら長い時間をかけて育まれてきた暮らしの姿や知恵の多くが、すでに過去のものになろうとしていたからだ。自分は遅れてやって来た者だ。そう思うほかなかったが、それでも根気よく土地を見続け、遠ざかっていく世界に思いを馳せた。
当時の僕の前に広がる土地は揺れていた。実際はすでに「カタがついていた」のかもしれないが、古い世界とそれに代わる新しい世界が拮抗していた。人はその間で逡巡していた。しかし、時代は待つという猶予を与えてはくれず、IT技術による情報化の奔流に吞み込まれることになった。もちろん、その奔流の中には僕自身の姿もあった。それでも僕は岩手に暮らすことで出会った、土地とともにある生き方への憧憬を捨てることはできなかった。あまりにも封建的な世界観に息がつまるような思いを抱いたことは一度や二度ではなかったが、そこには「人が生きる」という確かな実態があるように思えてならなかった。「時代」がどういうものであったのかは、それが過ぎ去ってからしか知り得ない。遅れてやって来た者としての僕が、忘れ去られつつある世界を遠望した先で見つけたものは、本当にこのまま失ってしまってよいのだろうかという、重石のような焦りともどかしさだった。
彼がはじめようとした生活は、そんな僕にとって大きな驚きをもたらした。茅葺の古民家という忘れ去られた世界を出発点として、今の時代に手を伸ばす。そんなことが本当に可能なのか。どうしても見たい未来だった。ただ、これは岩手という土地に暮らし、今とこれからをどう生きるかを考えている僕が描いた未来であり、僕が彼に自分の姿を無理やり投影しているに過ぎなかった。彼には彼だけが選ぶことができる現実と未来があるはずだった。今の彼がこうして北関東の工業都市に暮らしていることは、彼が選んだ未来と呼べるものなのだろう。
僕は沢内から大きく変化した今の暮らしに対する思いを、彼に訊ねた。
「朝起きて、普通に仕事に行くんだよね。製造ラインに入っての仕事だから単調なもので、やりたい仕事ってことでもないんだけど、たくさんの人と一緒にラインに入って手を動かすことでどこか気持ちが楽になるというのか、沢内の生活では感じることがなかった気持ちになるんだよね。単純に、みんなで何かをするって悪くないことだと思うよ。でも、だからといって、これが答えではないと思うし、まだわかんないよね」。そう語る彼はやはり、どこかぼんやりとしていた。
日が傾いたところで、彼は近くに利根川があるから行ってみようと僕を誘った。天気の良い休みの日にはそこに出かけ、水の流れをぼんやり眺めているのだと教えてくれた。
アパートから出た僕たちは、平日の人気の少ない住宅街を歩いて、目的の場所に向かった。「川はこの向こうだよ」と彼が指を差す先には、一面を緑の草に覆われた堤防が壁となっており、視界の半分を占めていた。視界のもう半分、堤防の頂部から上は雲ひとつない空だった。汗ばむほどの陽気だったが、風はどことなく涼しげで秋の訪れを感じさせた。堤防には幅広な階段が設けられていて、僕たちは並んで一段ずつ登っていった。堤防の頂部に立つと一気に視界が広がった。眼下には河川敷が広がっており、その先で利根川がゆったりとした表情で流れていた。沢内ではどこに行っても山に囲まれていて、上げた視線は山で行き止まりとなる。しかし、この堤防の上では僕たちの視界を遮るものはなく、視線は先へ、その先へとどこまでも真っ直ぐ進んでいった。川は遠ざかるにつれて身を細めながら地平線に向かって流れていた。僕たちは堤防を下りて河川敷を横切り、川面へと近づいていった。流れに瀬らしいものはなく、満々と湛えられた水が音もなく動き続けていた。
彼は足元に転がっていた拳大の石コロを手にすると、川面に向かって投げ込んだ。太陽は対岸の空の低いところにあり、僕から見る彼は逆光で影のなかに沈んでいた。彼の身体のシルエットは、沢内からこの町までの自転車の旅によるものなのか、慣れないライン仕事によるものなのか僕には判断がつかなかったが、沢内にいた時よりも明らかに痩せて頼りない印象を抱かせた。彼は小さな石を拾っては川面に投げ込むという行為を飽きることなく続けた。正面から強い陽光を浴びながら全身を使って石を投げ続ける彼の姿は、見方を変えるとスポットライトを浴びて踊っているようでもあった。彼が投げた石はさほど遠くまで飛ばず、一つ残らず、小さな飛沫を上げて沈んでいった。
「何も決まっていないけれど、ここでしばらく暮らしてみようと思うんだ。結局ずっと逃げていたんだなって思うし、今の自分にはここでの生活が必要だと思うんだ」。岩手に帰るため車に乗り込んだ僕に彼はそうつぶやくと、「奥山さんも元気で」と笑ってみせた。
僕は今でも、沢内に暮らすなかで彼の胸の奥で生まれた「ここにいちゃいけない」という思いについて考え続けている。当時の彼はこの思いが何に起因しているのか言葉にはしなかった。もしかしたら、そもそも正体を突き止めるには至っておらず、言葉にはできなかったのかもしれない。そんな風に考えると僕の想像もまとまることがない。ぼんやりと思いつくのは、彼は吞み込まれそうになっていたのかもしれないという、ひとつの思いに至る。
風土と向き合って生きるために何が必要かと考えていくと、「時間」というものを見つけることができる。それは「月日」と言い換えることもできるし、もう少し感覚的に言葉を選ぶと「永遠」にも似ている。風土の時間は、人間が持っている時間よりも遥かにゆっくりと進む。だから人と土地の対話は世代を超える時間軸で進められる。これは自然の中で生きるうえでの不文律とも言える。
生きかはり死にかはりして打つ田かな
たとえば、俳人の村上鬼城はこんな言葉で田に立つ人を詠んだ。260年続いた江戸時代が終焉を迎える3年前に生まれ、明治、大正と日本の近代化のなかを生き、昭和13年に逝った俳人は、人が風土のなかで生きるためには、ひとつの命ではなく生き死にを繰り返すしかないと感じていたのだろうか。
風土に流れる永遠の時は今年も新しい春を運ぶ。沢水が引き込まれた田は空を映し、青い水盤となっている。この田んぼの真ん中で両足を泥に沈め、腰を曲げて、田植えをしている人がいる。昨年の春も、もっと前の春にもこの風景を見たことがある。しかし、よく見ると、その横顔は異なっている。めぐる春風の匂いや揺れる木々の緑、田に映る空の青は変わらないが、人は生と死の明滅を繰り返しながら、それでも変わらず田のなかにいる。永遠という時の上でひとりの人間はとても軽い。
もし彼が、沢内の風土に生きることを見つめる先で、鬼城の句のような風景を見出してしまったとしたらどうだろう。生まれかわり死にかわっていく人々のなかに自分を見つけることができただろうか。抜け殻にも等しい古民家に暮らし、放棄されて久しい田を借りて耕しはじめたたった独りの者が自らを省みたとき、この永遠性に自らを置いて、明日を想像することができるだろうか。
誤ってカエルの目を切り付けてしまったとき、片目を押さえて苦しむその姿に、彼は何を見たのだろう。眼差しの先にいたのは、田んぼで生きかわり、死にかわりを続ける無数のカエルたちではなく、痛みに耐えながらも生きようとする唯一匹のカエルだったはずだ。この存在の重さに気づいたとき、彼は自分にも同じ重さを見つけた。そして、言葉通り我に返った彼は、永遠なる時に吞み込まれる前に逃げ出すという道を選んだ。
彼が工場に勤めたのは結局、半年ほどだった。沢内ではなく釧路に戻るという決心をした彼は、「今、自分が大切にできるのは父さんなんだって気づいたんだ。そういう生活ができるか試してみようと思うんだ」とその理由を語った。僕は彼の旅がまだ途上であることに新たな胸騒ぎを覚えたが、彼らしいと納得もした。「住む場所や仕事が決まって落ち着いたら連絡するよ」と話してくれた彼と、僕は再び会いに行く約束を交わした。