みすず書房

母性の匂い

母性の匂い

本堂へと続く石階段の脇で揺れていたのは、淡い紫色に彩られたキクザキイチゲだった。冬を迎え、雪の下に隠された地面では色彩の変化が起きる。降り積もった落ち葉たちから秋の色が徐々に失われていくからだ。人の目からすると凍りついたかのようにも見える長い冬の時間も、落ち葉にとっては循環のときなのだろう。色彩を手放しながらゆっくりと土へと近づいていく。雪解けが始まると、そうした落ち葉の姿が露わとなる。幾重にも重なり合った葉は沈んだ灰褐色で華やかな秋の装いとは程遠い姿だが、雪解けの水分をたっぷりと含んで光り、美しくもある。葉の一枚一枚に目を凝らすと気づくのは葉脈の強い存在感だ。葉が土壌へと分解されていく過程で最後に残るのは、夏の光からつくった養分を運ぶ葉脈で、その精緻な姿で自然の神秘を改めて浮かび上がらせている。

この色彩の乏しい雪解け後の林床に突如賑やかさをもたらすのが「スプリングエフェメラル」と呼ばれる花々である。カタクリがその代表格だろうか。葉脈を浮き上がらせた落ち葉の上で赤紫の小さな炎を思わせる花をもたげ、春風に揺れて遊ぶ姿は文字通りの妖精だ。キクザキイチゲも同じスプリングエフェメラルと呼ばれる花のひとつだが、可憐で儚げなカタクリの姿に比べると大きく趣きを異にしている。カタクリの花期は短く、林床を華やかに飾ったかと思うとあっという間に消えてしまう。一方、キクザキイチゲは春の始まりから芽吹きの季節まで陰日向と場所を選びながら長く咲き誇る。その姿は、長い冬をしたたかに乗り越える北の生命の逞しさを大らかに謳い上げるようだ。「オシラ大祭」が開かれる久渡寺(くどじ)は、キクザキイチゲが放つ力強い春の息吹に包まれていた。

岩手に暮らして初めて目にしたもののひとつがオシラサマだった。蚕や農耕、馬、家などの守り神として祀られてきたその存在は『遠野物語』をはじめとする文献で知っていたが、ただの棒切れにしか見えない小さな神様がこの地で大切にされていることを深い感慨とともに実感したのは、「オシラ遊ばせ」という年中行事を見たときだった。場所は三陸沿岸の町から少し内陸に入った山間の集落で、もうすぐ冬を迎えようとする時期のことだった。行事は土地でもっとも古いとされる家柄の本家宅に集った女性たちのみで執り行われた。女性たちは皆、おばあさんと呼んでもよい年の頃で、下の名前で親しげに呼び合う姿は仲の良い姉妹のようだった。

女性たちは手分けして行事食を作り終えると、その家で祀られてきた男女のオシラサマの古い衣を脱がせて新しい衣を着せてやった。裸にされたオシラサマは噂に聞いていた通り、棒切れに等しい姿をしていた。主人の女性は新しい衣を着たオシラサマを大事そうに抱きながら、「おらほのオシラサマは強い神様で、川に流しても遡って戻ってくるんだ」と自慢げに話してくれたが、黒い棒に過ぎないその姿からはとてもじゃないがそのような霊力を感じることはできなかった。しかし、周囲にいた女性たちは、主人の言葉に「んだ、んだ。オシラサマは強い神様なんだ」と大きく首を縦に振って頷いた。

皆で作ったご馳走を食べおわると、物言わぬオシラサマを相手に女性たちがひとりひとり胸の内を打ち明けるという時間がはじまった。それは、「オシラサマを遊ばせる」という理由で集まった女性たちが、一年に一度、心の底に溜まった澱みを吐き出し、互いを励ますというものだった。女性たちは身の上話を終えると堰を切ったように涙を流し、泣き声を上げることさえも憚ることはなかった。僕はその姿に圧倒されつつも、山間の小さな集落で封建的な古いしきたりの中で生きてきた女性たちの人生を想像した。オシラサマは、明日を生きていくために心の糧を得ようする女性たちの営みの真ん中に存在していた。

ある人から「津軽一円のオシラサマが集う」という弘前の久渡寺の「オシラ大祭」のことを聞いたとき、もう何年も前に体験した「オシラ遊ばせ」を思い起こした。弘前でもオシラサマを前にした女性たちは心の内を露わにするのだろうか。僕は大祭が開かれる春を待った。

石段を登り終えて本堂内に入った僕はその光景に目を見張った。広々とした堂内の床を埋め尽くしていたのは、たくさんの丸い背中だったからだ。背中は色とりどり、さまざまな模様の服をまとっており、それが参拝にやってきた女性たち、ひとりひとりの背中だと気づくとさらに驚いた。堂内が鮨詰めになるほどの数の女性たちは一様に床に正座し、身をかがめて俯き、両手を動かしていた。僕は本堂の隅に移動するとうかがうように女性たちの表情を覗き込んだ。女性たちのほとんどが老人と呼べる年代だった。しかし、その横顔には妙な熱っぽさを宿しており、手の先をまっすぐに見つめる瞳は艶やかな光を放っていた。それは僕の知るその年代の女性とは異なる佇まいだった。

彼女たちが手にしていたのは、金や銀の糸で飾られた美しい着物や冠などの装飾具だった。行李や風呂敷を開いてそれらを取り出すと、目の前のオシラサマを着飾らせていった。津軽のオシラサマは包頭型と呼ばれ、この言葉の通り、桑の木などで作られた御神体は頭からすっぽり布が被せられている。知識を持たない者であれば、一風変わったテルテル坊主にも思える奇妙な姿である。オシラ大祭の当日、久渡寺にはこのオシラサマを連れた女性たちが津軽一円からやって来る。そして、本堂に入ると、オシラサマと一緒に持参した着物と装飾具でオシラサマを飾り立てるのだ。オシラサマ信仰においてはオシラサマが着る衣のことを「オセンダク」と呼ぶが、新しい衣に着替える行為自体を含めてそう呼ぶ場合もある。オシラ大祭が開かれる久渡寺においても、着飾る行為を含めて「オセンダク」と呼んでいるようだった。

「オセンダク」はオシラサマ信仰における共通の営みであるが、久渡寺のそれは特筆すべきものとして長く語り継がれてきた。特徴は他の地域では見られない豪華さである。例えば、岩手のオシラサマが着る衣は端切れなどで作られる。神様が着るものだからと鮮やかな色の布が好んで選ばれるが、端切れは端切れで、結果、岩手のオシラサマは素朴で土着的な佇まいとなる。一方の久渡寺型と呼ばれるオセンダクの布は端切れどころか、艶やかに光を放つ絹やメリンスが用いられ、そこに金糸や銀糸による装飾が施される。人が身に着けるもの以上に高価なものばかりである。しかもこうした美しい布を使い、いわゆる束帯風の衣装に仕立てる。もちろん、オシラサマに着せるためだが、手がないオシラサマのために義手を思わせる両腕も用意され、袖口から差し込まれる。加えて右手には平安貴族を想像させる(しゃく)を握らせる。また、オシラサマは男女一対の神様とされているので男神には烏帽子を、女神には冠を被せる。仕上げにオシラサマ信仰には欠かせない鈴の輪で首元を飾る。この豪華できらびやかな装いがこの地のオシラサマにとっての正装だという。いつの時代にこの久渡寺型の「オセンダク」の形式が広まったのかは定かではない。ただ、弘前の久渡寺がオシラサマ信仰の中心になったのは明治期以降のこととされているので、それ以降の文化と考えてよいだろう。

女性たちは夢中になってオセンダクを続けた。オシラサマを大切にする者同士で打ち解けやすいのだろう。手を動かしながら笑顔で言葉を交わしあっている。本堂は音が響きやすいのか、女性たちの話し声を言葉として聞き取ることは難しい。その一方で、それぞれの人が発する話し声、笑い声が複雑に絡み合うことで喧しくも重厚な〝女性の声〟として僕の耳に届く。初めて聞くような、どこか懐かしいような〝女性の声〟を聞きながら女性たちの表情を改めて注視してみると、その生命感あふれる気配に強い印象を抱く。上気した肌は艶やかな質感を保ち、オシラサマに向けられたふたつの瞳は暗闇に灯る小さな炎を映し出す鏡にも似た不思議な輝きを宿している。印象深さは姿だけではない。ずっと気になっていたのは堂内を占める匂いである。春といっても気温はまだ低く、窓を閉め切っているからだろうか。彼女たちの身体から発せられる熱と匂いが溢れ出すほどの密度で充満している。その印象はやはり〝女性のもの〟だ。女性特有の肌の匂いとでも言えばいいだろうか。胸がざわつくような〝匂い〟が〝声〟とともに僕を包み込んでいく。

オセンダクが終わると、住職による護摩祈祷が始まった。読経の声が熱を帯びるに従って、炎は勢いを増して高々と伸び上がり、護摩木から立ち上る煙と匂いが堂内に漂い出ていく。身を寄せ合って座る女性たちの多くが両手を合わせたまま顔を上げ、少し恐ろしいほど強く燃え盛る炎をふたつの瞳に映し出している。その思い詰めたような強い眼差しに再び気圧されるような印象を受ける。津軽では、この久渡寺でオセンダクを行い、護摩祈祷を受けることでオシラサマの「位が上がる」と語られてきた。ここでの「位」をどう捉えているのかはさておき、一年に一度、オシラサマを着飾らせて祈祷してもらうことで、家族や親類、集落が良くなっていくと信じられてきた。こうした信仰心は少なくもこのオシラ大祭に集う人たちには今も息づいている感覚なのだろう。しかし、その一方でこの場の求心力は、家族や共同体の幸いを願う思いとは異なる何かから発せられている印象が強い。護摩の炎は勢いをさらに増し、堂の天井を焦がさんばかりに高く伸び上がっている。読経を続ける住職は灼熱を浴び続けているせいか顔を歪ませ、赤鬼のような形相だ。女性たちは手を合わせ、あるいは膝頭の上で拳を握りながら、炎の後ろで揺れ動く住職を変わらず睨むような真剣さで見つめ続けている。住職が大きく手を振るたびに投入される護摩木から立ち上るいがらっぽい煙のせいで、前列に座っている女性の数人がこほんこほんと咳き込んでいる。

護摩の火が鎮まると、一瞬にして堂の気配が変わった。寺から温かなソバが振る舞われ、皆、美味しそうに啜っている。得意のおしゃべりも始まった。津軽弁特有の流れるようなアクセントが響き渡る。彼女たちにとって、護摩祈祷での沈黙のひとときは長い年月にも等しかったのだろうか。空になったソバ椀を膝に置いたまま、言葉を発する喜びに身を任せている。関西で生まれ育った僕にはこういった地元の人同士で盛り上がる会話を聞き取ることは難しい。とくに話者が年配であるほど訛り強いため、さらに困難となる。長く住んできた岩手の言葉でもそうなのだから、津軽言葉となると感覚的にはもはや聞き取りができない外国語を耳にしているようだ。

賑やかな昼食の時間が終わると女性たちは自分たちが連れてきたオシラサマを抱きかかえて寝かせ、ハレの日の装束から「普段着」へと着替えさせるためにまた手を動かし始めた。僕の視界には再び、もぞもぞと動く丸い背中が一面に並ぶ光景が広がった。さきほどまでわちゃわちゃと甲高い声をあげていた女性たちの表情も変わった。穏やかに笑顔をたたえてはいるが、その眼差しはまっすぐにオシラサマを見つめている。気がつけば、さきほどまで濃厚に漂っていた護摩木の匂いは影を潜め、女性たちの肌から発せられる匂いが空間を満たそうとしている。僕は胸のなかにその匂いを溜め込みながら、そうか、今日はこういう日なんだと小さな気づきの前に立った。

オシラサマに向かう女性たちは母だった。オシラサマは物言わぬ小さな棒切れでしかない。何かの拍子で簡単に折れてしまいそうなこの存在を神様とするのはあまりに頼りない。でも、こうして綺麗な衣装を着せてあげれば、とても立派になって嬉しそうな顔を浮かべているようにも見える。彼女たちの視線の先にいるオシラサマはきっと笑っている。かつて、「七歳までは神のうち」と呼ばれる時代があった。これは早逝する子供たちが多かったことを意味している。幼い生命を神として捉えることで、死によって消えるのではなく元いた神の世界に帰っていったと考えることができる。生まれたばかりの子供が迎える不条理を受け入れるためには、そう信じるほかなかったのだろう。人という生き物は、打ちひしがれて粉々になるほどの悲しみを乗り越えるために、「物語」を作り出す。ただ、「七歳までは神のうち」がたとえ、人が現実を受け入れるための道具としての「物語」だったとしても、この世に生まれたばかりの存在を前にしたときにその姿に神性を見出すのも事実だろう。それは相手が人にしても動物にしても変わることがない感覚だ。これまでこの世界に存在しなかった存在が自らの意志で動き、声を上げ、生の躍動に身を任せている。生命そのもの、生命だけがそこにある。この一切の混じり気のない存在に人の心は震え、そこに神性の宿りを見つける。

オシラサマに向き合う女性たちの胸に溢れたのはこうした感情ではないだろうか。彼女たちの多くは自らの身体が新たな魂を生み出すという体験を経ているだろう。男である僕に彼女たちに宿るこの記憶がどのような色や形、そして手触りを持っているのかは想像でしかないが、おそらく、生命に包まれた新たな魂の姿に対し、抱きしめずにはいられない深い親近感と、触れることさえ難しいほどの尊さというふたつの真逆の感情を持ち続けていると思えないだろうか。もし、僕のこうした想像が彼女たちの感情を少しでも言い当てているとしたら、一年に一度のオシラ大祭は、自分の胸から溢れ出すこのふたつの感情に身を任せる日ということができないだろうか。そして、こうして彼女たちの心を占めるふたつの感情を母性と呼ぶことができるなら、彼女たちの身体から立ち上る温かでいてどこか懐かしい匂いの源はきっとそこにある。彼女たちの胸から溢れたのは母性の香りだった。

振り返ってみれば僕の中にも、この匂いに身を委ねたという古い記憶が残っている。いや、オシラ大祭の女性たちが思い出させてくれたと言った方がいいだろう。

あれはまだ僕が十歳になる前だったと思う。心臓弁膜症を幼い頃から患っていた母が手術を受けることになった。母は若い頃に一度、心臓の手術を経験していたので二度目となる大手術だった。母はその生涯で十年から十五年ごとに人工心肺装置に生命を委ねなくてはならないリスクの大きな手術を受けることになるが、いずれの手術も完治を目指すものではなかった。心臓の機能がこれ以上衰えると日常生活を普通に送ることが難しくなる。そのギリギリのラインを維持することが執刀の目的だった。そんな調子だから、母の日常はいつも体調不良に苛まれるものだった。本人も自分の身体の弱さをよく理解していたので、昼間であっても寝室で横になって休むという習慣を続けていた。

ずっと体調不良を訴えていた母が定期検査を受け、心臓に再びメスを入れる必要があると診断されてしまうと、入院に向けての準備が慌ただしく始まった。そして、長期入院のため家にいなくなる母と入れ替わりのタイミングで、仙台から僕たちが暮らす奈良にやって来たのが母方の祖母だった。

祖母との暮らしで記憶に残るのは、僕たち兄弟を叱る甲高い声だ。悪童を絵に描いたような僕たち兄弟の行いは祖母を困らせ続けた。一番怒られたのは、友人たちと一緒にナマズ獲りをしたときだった。僕たちが暮らしていたのは十年ほど前に開発された新興住宅地だったが、住宅地から一歩外に出ると、田んぼや畑という奈良盆地らしい風景が広がっていた。春の田植えが終わり、梅雨を迎えようとする頃になると僕たちの興味はこの田んぼに向けられた。一年で最も気持ちの良い季節だった。風を受けて細波を立てる水田に並ぶ稲は柔らかな葉をすいすいと伸ばし、涼しげに揺れていた。でも子供の僕たちの興味はこうした穏やかな自然の佇まいではなかった。あの姿が現れるのを今か今かと待っていたのだ。

田んぼの水は周囲の溜池から引き込まれていた。日照りになることはなかったが、高低差の少ない盆地地形のため、川の水を農業用水に使用するのが難しかったのだろう。田んぼの周囲には農業用水としての溜池が点在していた。田で水が必要とされるのは田植え前の代掻きからで、この時期を迎えると溜池の堰が外された。溜池の底にはヘドロに近い黒い泥が堆積しており、池の水はいつも黒く見えた。しかし、まさに堰を切って用水路に流れ出した池の水は透明なのだった。澱み水なので沢水のような清冽さとは程遠い。匂いも泥から移されたのか腐敗臭がした。それでも、用水路を伝って田へと勢いよく流れ込む水は春の軽やかな気配をまとっていた。  

田植えが終わり、田から農家の人たちの姿が消える頃が僕たちの出番だった。登下校のとき、そして放課後と、僕たちは池の水が田へと流れ込む水口(みずくち)周辺に関心を払い続けていた。この水口から現れるのは大ナマズだった。わずか十センチほどの水深の田に自分の身体ほどもある黒々とした大ナマズが現れ、バシャバシャと丸い尾びれで水面を叩いてのたうつ姿に僕たちはただただ興奮した。

ナマズが田んぼに入ってくる理由は産卵のためだった。初夏を迎え、繁殖期に入った雌のナマズは、溜池の暗い水底から浮上し、堰を抜けて用水路を伝い、田へと入ってくる。それを追いかけるのが雄のナマズたちで、産卵期を迎えたメスに体を巻き付けて交尾をするためにやはり田に入って来た。ただ、雄にとって田んぼは試練の場でもあった。交尾をするためにはオス同士によるメスの争奪戦を勝ち抜く必要があるからだ。この戦いが始まると、田のあちこちで飛沫が上がった。稲の間を縦横無尽に泳ぎ回る雌のナマズを追う雄たちが、激しい攻防を繰り広げるからだった。

ナマズは雄よりも雌の方が体格が良く、大きなものになると一メートル近くにもなった。僕たちの望みは、この大ナマズを捕獲することにあった。溜池に釣り糸を垂れることは僕たちの放課後の日常だったが、釣れるのはフナやブルーギルなどの小物ばかりで、大ナマズはまさに伝説上の獲物だった。それがこうして目の前で大きな頭を露わにして泳いでいる。農家の人たちが大事に田植えした稲など全く目に入らなかった。僕たちは大ナマズの出現のニュースを聞きつけると勇んで駆けつけて、田に飛び込んだ。浅い田んぼとは言え、相手は大ナマズだ。仲間同士で示し合わせて行く手を塞いでもナマズは広い田を逃げ回った。必死になって追いつき、両手で力一杯その身を掴んでも、粘膜に覆われたナマズの身体はぬるぬるとしていて、するりと簡単に手の外へ逃げてしまった。捕獲に失敗した僕たちは勢い余って、田んぼの泥に頭から突っ込むしかなかった。もちろん、根が付いて成長期を迎えた苗をめちゃくちゃに踏みつけた。当時の僕は、こうした悪事を悪事と感じることさえなく、ただただ自分たちの欲望を優先していた。大ナマズに対してもそうだった。何とか捕獲に成功すると、大ナマズを家に持ち帰り、家にあった一番大きなタライに水を張って泳がせた。ナマズを飼育する技術や知識を持っていないのはもちろんのこと、飼いたいということでもなかった。大きなナマズを捕獲できた喜びに浸りたいだけで、存在感たっぷりの黒々とした身体をタライの中に横たえ、平べったい大きな頭から長いヒゲを伸ばしているその姿を見ているだけで満足だった。ナマズにとっては地獄でしかなかっただろう。僕たちに追いかけ回されたおかげで身を守る大切な粘膜を失っただけではなく、酸素が供給されないタライに閉じ込められたのだ。

翌朝になってタライを見に行くと、昨日までは「溜池の女王」として君臨していた大ナマズは息絶え、腹を見せて浮かんでいた。黒々とした背と対照的に、その腹は美しいほどの白さだった。きっとそのお腹の中にはたくさんの生命を宿していただろう。今になってナマズの腹の白さを思い起こすと胸がキリキリと締め付けられる。しかし、当時の移り気でしかない僕はたった一晩で大ナマズへの興味と興奮を失ってしまっていて、水の中で漂う大ナマズの白い腹を指で触れてみても、細い針でチクリと刺された程度の痛みを感じるだけだった。しかも、その痛みさえも一日もすれば忘れてしまうという残酷さだった。

祖母に叱られた理由はこうした生き物への残酷な仕打ちではなかった。祖母が呆れ返ったのは大ナマズの捕獲に夢中になり、比喩ではなく頭から足先まで泥にまみれたその姿だった。「こんなに汚い童(わらし)は見たことないっちゃ。どうしたらこんなに汚くなるっちゃ」と祖母は仙台の言葉を使い、甲高い声で僕たちを叱りつけた。そのまま家に上げるわけにはいかないと、庭で服を脱ぎ、庭木用の散水ホースで泥を落とすことを命じられた。僕たち兄弟はむろん従ったが、まったく反省することはなかった。頭の中は大ナマズ捕獲劇のことでいっぱいで、祖母の怒りが入ってくる余地はなかった。しかも翌日になると前日をさらに上回るほどの泥を被って帰宅する始末だった。祖母はきれい好きな人だったので、そんな僕たちの姿を見て悲鳴に近い怒り声を上げるのだった。

大声を上げてすぐに叱りつける祖母に対し、いささかの付き合い辛さを感じたが、感情のどこかで母に覚えるものとはまた違った親しみを感じていた。祖母は機嫌がいいと、ふいに優しく接してくれたからだ。あの日もそんな感じだった。母親の不在から来る寂しさを埋めてあげようとでも思ったのか、祖母は僕に一緒にお風呂に入ろうと誘ってくれた。祖母は母よりも背が高くて太っていた。だから服を脱いだ祖母が浴室に入ってくると僕の視界は祖母の白い肌でいっぱいになった。プラスチックの安っぽい風呂椅子に座った祖母は僕を自分の股の間に立たせると全身に石鹸の泡を塗りたくった。ここでも、「毎日毎日こんたに汚して。まったくおめえたちは汚ねえっちゃ」と僕たちに幾度となく投げかけることになった決まり文句を言い放ったのだが、僕の身体を洗いながら話しかける祖母の口調は優しく褒めるようだった。祖母は僕の身体についた泡を洗い流すと、湯船に入るように促した。僕はざぶんと首まで湯に浸かり、自分の身体を洗い始めた祖母の裸を眺めた。あの当時、祖母は何歳だったのだろうか。両手を使って身体全体に広げた泡をお湯で流したあとに現れた色白の肌は艶やかに光っていた。祖母は立ち上がると何も言わずに僕の背後からするりと湯の中に身体を沈めた。狭い風呂桶に太った祖母の身体が入ってきたものだから盛大に湯が溢れた。洗い場は一瞬にして湯でいっぱいになり、さきほどまで祖母が座っていた風呂椅子と洗面器がゆらりと浮き上がった。僕は湯の中で体育座りの姿勢でいたが、できるだけ小さくなった。祖母が僕を背中から包むように抱きしめたからだ。ふたつの大きな乳房が背中に押しつけられ、肩から胸にかけて両腕が回された。腰を両脇から包むのは肉付きの良い太ももだった。溶けて小さくなっていくんだと思った。僕をまるごと包み込んだ祖母の肌は風呂の湯と入れ替わるかたちで熱を伝えてきた。祖母の肌がなめらかだったからか一瞬ひやりと冷たく感じたように思えたが、それは錯覚で、実際は湯よりも熱かった。驚いたのはこの熱を伝えてくる肌の柔らかさと厚みだった。皮膚一枚ではない。僕を包む柔らかさは、祖母の肌の奥の奥、ずっと深いところまで永遠に続いているように思えた。僕はこの柔らかさと熱に溶かされて小さくなっていき、気がつくと祖母から伝えられる匂いを胸いっぱい吸い込んでいた。それは普段の祖母に覚えるものではなかった。今思い起こしても身体の奥がくすぐられるような不思議な匂いだった。僕は祖母の匂いのなかに身を委ね、小さな吐息を何度も漏らした。

オシラサマは風呂敷で包まれていた。「顔まで風呂敷で隠しちゃうと苦しいでしょう。だから、出してやっているの」と隣に座っていた白髪のお婆さんが笑って教えてくれた。お婆さんの膝の上に置かれたひと抱えほどの風呂敷包みからは、艶のある美しい緑と赤の布で包まれたオシラサマの頭がふたつ覗いていた。帰り支度が整った女性から本堂の外に出ていった。多くの女性たちはそこでオシラサマを背負った。大判の風呂敷をもう一枚出してオシラサマの入った風呂敷包みをくるみ、斜め掛けして背負う女性もいれば、慣れた手つきでおんぶ紐を回してオシラサマを背負う女性もいた。両肩から下ろしてきた紐を乳房の間でバッテンにして結ぶその姿は、僕が子供の頃によく見た母たちの姿でもあった。今日一日で気心が知れたのか、女性たちは昔からの友のように連れ立って歩き始めた。その楽しげな姿は赤ん坊を背負ったお母さんたちの遠足のようにも見えた。

本堂の外で立っている僕の前を、五、六人の女性のグループが笑いながら通り過ぎ、少し行った先で立ち止まった。最初に気づいたのは、短く切り揃えた白髪にパーマをかけたお婆さんだった。お婆さんは「あれー、龍神様じゃ」と少し素っ頓狂な声をあげて一緒にいた女性たちに知らせた。すると、女性たちも「あれまーたまげた。ほんとに龍神様がおる」などと黄色い声を上げた。そして、示し合わせたように龍神様をぐるりと取り囲んだ。龍神様と呼ばれたのは一匹の大きなアオダイショウだった。冬眠から目覚めたばかりなのか、落ち葉溜まりの陽だまりの上でとぐろを巻いたまま動かず、人に囲まれても逃げる素振りを見せなかった。蛇を見つけたお婆さんは勢いよく手を叩くと歌いはじめた。それは龍神様を歌ったものだった。僕は初めて聞くものだったが、一緒にいる女性たちにとっては誰もが知る民謡なのだろう。手を叩くお婆さんの歌声に合わせての合唱となった。オシラサマをまるで我が子か孫のように背負い、陽だまりでとぐろを巻いていた蛇に向かって手を叩き、歌を聞かせる女性たち。不思議な風景だったが、今日はこういう日なのだろうという気もした。龍神様の歌は次第に大合唱となり熱が入っていった。そして、歌い終えると皆で龍神様に向かってパンパンと柏手を打った。蛇はとぐろを巻いたまま澄んだ瞳を光らせ、赤く細い舌をちろちろと出した。

小さな神様との予期せぬ出会いに満足したのか、女性たちは、「あれー龍神様じゃ」と叫んだお婆さんを取り囲むと、その肩や二の腕をおおらかな素振りでぽんぽんと叩いた。お婆さんは誇らしげな表情を浮かべ、自分を讃える女性たちの手を握り返した。この一幕が終わると女性たちは再び賑やかな声を交わしながら、早朝に登ってきた石階段をゆっくりと下り始めた。石階段に用いられている石の大きさは不揃いで歩きにくいのだろう。彼女たちの背中は左右にふらふらと揺れ、背負われていたオシラサマも同じように揺れた。彼女たちは今日、この石階段を降りるまではきっと「母」で、それまではオシラサマは彼女たちから生まれた小さな魂なのだ。オシラサマは母の背に揺られながら、あの匂いを吸い込んでは小さな吐息を漏らしているのだろう。