みすず書房

父の手のひら

父の手のひら

今年も雪の便りが届いた。呆れるほどの暑い夏だったが、気温が下がり始めると山々は一気に秋を深めていった。そして、ある日の早朝、山の頂を見ると淡い雪をまとっていた。もちろん、これが根雪になることはない。まだ秋の最中だ。朝の陽光が柔らかな橙色から真っ白に輝く時間帯になると山の頂はもとの茶褐色の姿に戻る。そんな朝は、僕が暮らす小さな森は白い湯気を吐き出す。夜露に濡れた無数の葉が陽光を一斉に浴びての反応だ。想像以上に朝の光は強く暖かいのだろう。夜露はしゅうしゅうと音でも立てるかのように白い湯気となって光の中に漂い出ていく。おそらく、雪を抱いた山の頂でも同じ光景が広がっている。光を浴びた雪はますます白さを増し、岩肌を黒く濡らしたかと思えば、白い気体となって凛とした山の大気に溶け込んでいく。

東北に暮らしていると「雪」は特別な存在だ。この土地に暮らす多くの人にとって「雪」は雪かきなどで接することになる「生活」の中での雪だろう。しかし、雪のない関西で生まれ育ったからだろうか。僕にとっての「雪」は小さな物語に思える。いや、「物語のはじまり」といった感じだろうか。自然現象という意味では、雨が凍りながら降ってくるものにすぎないけれど、遠い空から見えない道を辿るかのように次々と降りてくる雪を見ていると、いつしか胸の内にも積もりはじめていることに気づく。冷たく軽く柔らかな雪は心象の中で凪の海を白くしたような風景を広げていく。芝居で言うと舞台背景が一新した瞬間にも似ていて、ここから何かが始まっていきそうな予感が漂う。しかし、風景が雄弁に語りだすことはない。冬は始まったばかりで、春はまだ先のことだ。雪の下には物語の種子が背中を丸めて眠り、物語の夢を見ている。物語が物語の夢を見るのは矛盾でしかないが、凛として一切の音の消えた雪の下では、物語は自らの夢に身を任せることができる。

こんな風にとりとめなく雪の印象を綴ると、ある光景が思い起こされる。それは、雪の夜に行われた秋田の祭礼行事だ。

小正月を迎えた日、岩手から奥羽山脈を越えて秋田の豊岩前郷に着いたのは午後の遅い時間だった。車を降りると背中から吹きつける強い風に煽られた。風は空気の動きだから見えないものだが、冬の時期の風はどこからやって来て、どこに向かっていくのか、手に取るようにわかる。舞い上がる雪が風の姿を教えてくれるからだ。前郷集落の外に広がる雪原では、いくつもの小さなつむじ風が雪煙を引き連れて走り回っていた。

集落の外れに公民館があり、この地域でよく見かける平屋の殺風景な建物の脇には、「やまはげ」と記された幟旗がバタバタと音を立ててなびいていた。イベント会場やパチンコ屋などで見かける簡素でどちらかというと寂しさを覚えさせる類のもので、祭りの日に神社に掲げられる型染の幟旗のような晴れがましさは皆無だった。雪に覆われた白い道が印象的な集落にも人気はなく、特別な日の印象を抱かせる気配はなかった。しかし、公民館の扉を開けると、そこは祭りの世界だった。大広間では男たちが床の間に向かって正座をして、頭を垂れていた。床の間に並ぶのは鬼の形相をした六つのやまはげ面で、その脇には一升瓶と藍で染められた分厚い装束が並べ置かれていた。

古老の号令を合図に男たちは揃って柏手を打つと、ガヤガヤと声を発しながら立ち上がった。まず、手にしたのが装束だった。「夜ぶすま」と呼ばれるそれは、冬の寒さをしのぐために布団の上から掛ける着物の形をした掛け布団のようなもので、東北では「夜具」とも呼ばれてきたものだった。この「夜ぶすま」を羽織ると男たちの姿が様変わりした。寒さの厳しい前郷では、少しでも暖かく夜を過ごすため、真綿の布に刺子を幾重も施して分厚い夜ぶすまを拵えた。結果、夜ぶすまは柔道着を何枚も重ねたかのような様相となり、一着で二十キロを超えるものになった。掛け布団をこの夜ぶすまの重さで抑えることで布団の中の暖気が逃げにくくなるのだ。

本来は衣類として使われるものではない夜ぶすまを身に着けた男たちは、口々に「錘をまとうようだ」と笑った。次に手にしたのが大人の太ももよりも太い注連縄だった。帯の代わりにこれをぐるりと腰に巻く。濃紺の夜ぶすまに青みを残す艶のある藁で編まれた立派な注連縄が加わると、男たちの姿は早くも異界からの使者の佇まいとなった。しかし、肩から上には人間の優しげな顔がまだ残されている。そこで手にするのが先祖から受け継がれてきたやまはげ面である。鑿跡を残して無彩色で仕上げられた面々はそれぞれ作り手が異なるのか、大きさも表情も様々だがいずれも二本の角を持ち、憤怒に満ちた気配を放っている。これをかぶった上にさらに「モグ」と呼ばれる大きな頭巾をかぶる。秋田北部、八郎潟に自生する藻から作られたもので、これがやまはげの毛髪となる。厚みは五センチほどもあり熊の毛皮を思わせる野趣と重厚感を備えており、豪快なヘアスタイルである。これで装束としてはほぼ完成だが足元もぬかりはない。外に出ていくときは裸足で大柄な藁の長靴を履く。

豊岩前郷の「やまはげ」は冬の秋田の来訪神である。類型として、男鹿のなまはげの名を挙げると伝わりやすいだろうか。鬼の形相をした赤と青のなまはげが「悪い子いねえがあ」と子供たちを震え上がらせる様子は、秋田という土地の代表的なイメージとして広く共有されているところだろう。しかし、子供たちを諭し、老人たちを労うために山から降りてくる小正月の来訪神は男鹿半島にだけ伝わるものではない。姿や名前を少しずつ変えながら秋田県北部から山形県庄内まで広く存在してきた。そのなかで豊岩前郷の「やまはげ」の特徴といえば、やはり容姿が挙げられる。濃紺の夜ぶすまを着て、注連縄を腰に巻き、モグの荒々しい毛髪の下には般若を思わせる不気味な表情をたたえる。この姿は日本海沿岸に広く伝承される「なまはげ習俗」の中で最も異彩で恐ろしい形相だと語り草となってきた。実際、準備を終えた男たちが並ぶと壮観だった。大きな面をつけ、そこに分厚いモグをかぶるせいか、身長は一回りも二回りも高く見え、足元まで身を隠す夜ぶすまは着物というよりも鎧と呼んでもよい迫力だ。

無事にやまはげに化けることに成功した男たちは車座になって御神酒を回し飲みした。これから二人一組で手分けして集落七〇軒ほどを回るのだという。「さあ、今年も行くべ」。男たちはのっそりと立ち上がると藁の長靴に足を通し、夜の帷が降りた集落へと出ていった。

細かな雪が降り始めていた。寒さが増した夜の雪は、昼に降る雪とは密度が異なる。空の暗さに目を慣らしながら降る雪の姿を捉えようとすると、その数に驚く。目の前から夜空のずっとずっと奥まで続く空間に無数の雪片がひしめいているからだ。広大で無辺なはずの夜空が雪に埋め尽くされて破れてしまいそうだ。雪の降り方が激しさを増すとそんな恐れさえ覚えるときがある。そして、そんな夜は決まって音が消える。膨大な数の雪片が宙に漂う音のかけらを残らず飲み込んでしまうからだろう。夜空は無音という状態に支配され、増え続ける雪に押されて際限なく膨張していくかのようだ。

さくさくさく。今、聞こえるのは、歩みを進めるやまはげの藁靴の周囲で鳴る雪の音だけだ。重い装束をまとっているせいか足取りは決して軽くないが、一歩一歩、夜の集落へと入っていく。その後ろ姿は、雪の夜から産み落とされた巨人が彷徨っているようにも見える。公民館から外に出て間もないが茶褐色のモグも濃紺の夜ぶすまも雪をかぶって真っ白だ。こんなやまはげがいきなり戸口から現れるのがはじまりだ。一般的に「なまはげ」が家に侵入する際、拳で戸を激しく叩き、雄叫びを上げる。地の底から鳴り響くようなこの叫び声と荒々しく叩かれて揺れる戸の音で、子供たちは震え上がるわけだ。しかし、やまはげは叫ばない。そっと戸を滑らせて玄関に入ると藁靴のまま上がる。廊下を伝う際の足音は柔らかな藁靴によって完全に消される。大人も子供たちも茶の間でテレビを見て笑っている。すると背後で戸車が小さく鳴る。あれ?と振り返るのは不幸にも耳のさとい子供だろう。ここからは恐怖でしかない。唸り声すら出さずにぬうと大きな顔を出してこちらを見るやまはげの姿は、地獄からの使者にしか思えない。恐怖で身体は硬直し、声を出すこともできない。やまはげはようやくここで「ウォー、ウォー」と不気味なうめき声を上げる。「なまはげ」のお約束である「親孝行しねえ、悪い子いねえがあ」などと人間の言葉を発することがないからよけいに恐ろしさが募る。そこで登場するのが家の主人である。主人はうめき声を上げるやまはげに恭しく近づくと家に訪れてくれたことに礼を述べ、酒とご馳走でもてなす。そして、子供らに「やまはげさんは、親孝行しねえ子供がいたら山に連れてけえるぞと言っとる。おめえらこんただ雪の深え凍れた夜に山さ行きてえか。どうだ、しっかり家の手伝いして、勉強もやんねばなんねえぞ」と諭すのである。子供たちはといえば、戦慄で縮み上がり、泣き叫ぶ子もいれば、母親の背中に隠れて出てこない子もいる。やまはげはそんな子供に歩みよって、ぬうと大きな顔を突き出して睨みつけ、さらに恐怖を植え付けるのだ。そして、何も言葉を発することなく再び雪の夜に出ていくのである。子供たちにとっては恐怖体験以外の何ものでもないのだが、ここでひとつの仕掛けがある。やまはげが去り際に開け放した玄関戸を閉めに行ったお婆さんは、茶の間に帰ってくるとこうつぶやくのである。「やまはげ、おらに婆様、まだまだ豆でけろや(まだまだ達者でいてくれよ)。来年も会うべ、なんて言って山サ、帰っていったぞ。ああ見えてもやまはげはあったけえ心持ってんだよ」。涙を拭う子供たちには半信半疑な言葉であるが、やまはげに対する恐怖が少しだけ和らぐのである。

家から家へ。僕が追ったやまはげの一組は、やまはげを演じる男たちのなかでは若手の二人で、ともに三十代だった。それでも十数軒の訪問が終わり、雪の道に出ると「寒い寒い。酒っコ、たらふく飲んでもやっぱり足がゆるくねえ。完全に凍れた。千切れそうだ」と震える声で言った。二人の藁靴に目を落とすと爪先の藁は黒ずんでいた。藁靴を脱がずに部屋に上がるものだから室温で藁についた雪が溶けて濡れてしまっているのだろう。そうなるともはや雪の上を裸足で歩いているのと同じだ。公民館を出て家を巡り始めてから早くも二時間が経とうとしていた。手袋をしていないせいか指先も真っ赤になってしまっている。このままだと霜焼けになってしまうだろう。それでも一人のやまはげが自らを奮い立たせるかのように大きな声で叫んだ。「よーし、次はオラの家だぞ。息子に親父がやまはげだってバレちゃ元も子もねえからな、たっぷり怖がらせなくちゃな」。そう言って粉雪をかぶった相方の肩を強く叩いた。

やまはげに扮した父親の意気込みはしっかりと実を結んだ。いきなり居間に顔を出した異界の怪物の登場に息子は泣き叫び、お爺さんの胸に飛び込んだ。お爺さんもちゃんと心得ていて、孫を抱きながら「たいへんだ、たいへんだ。やまはげが悪い子をさらいに来た」と大袈裟な声を出しながら、わざとやまはげに近づいた。するとやまはげの父は半分屈むような姿勢でお爺さんの胸の中で縮み上がる息子に顔を寄せた。モグの下で不気味な表情をたたえるやまはげの面が泣き叫ぶ男の子に触れるほどの距離まで迫っている。男の子はこのやまはげからどうやって逃げるかに必死で、お爺さんの胸に潜らんばかりの慌てぶりだ。周囲の大人たちはその様子を見て、満面の笑みだ。

「ウォー、ウォー」。酒とご馳走でもてなしも受けたやまはげの二人は低く唸りながら荒々しく戸を開け放つと、雪が降り続ける夜のなかに出ていった。

外に出た二人はひと仕事終えたことに満足したのかお面を外して顔を覗かせた。「いやあ、自分の家だもの。思わずくつろいじゃってそのまま風呂でも入りたくなったべな。それにしてもあいつびびってたな」と若い父親は笑った。その言葉に相方は「おめえ、怖がらせすぎたんじゃねえのか。もう金輪際、懐かなくなるぞ」と冗談を飛ばす。二人の頬はこの寒さのなかでも上気して赤く染まっていた。「あと何軒もねえな。最後にひとがんばりすっぺ」。二人はそう言い合うと再び面をかぶり、雪の道を歩き始めた。

もう十数年も前に見たやまはげの夜をこうして思い返すと、ひとつのシーンが忘れられないものとして浮かんでくる。それはやまはげに扮した父親がお爺さんの胸にしがみついて泣く我が子に顔を寄せた後の出来事だった。首を傾げてしばらくその泣き顔を眺めていたやまはげはゆっくりと顔を離し、涙でくしゃくしゃになったその顔に向かって右手を伸ばしたのである。男の子は四歳になったばかり。恐ろしいやまはげの手が自分に伸びてきたのだからたまらない。さらに大きな叫び声を上げるしかなかった。そこに「ほれ、やまはげがおめえと握手するべって言ってら。ほれほれ、手ぇ出してやまはげの手のひら握ってみろ」と、助け舟を出したのがお爺さんだった。もちろん、このひとことで男の子がすぐに手を伸ばすわけはない。お爺さんはさらに続けた。「おめえが握手してやんねば、やまはげは山サ帰んねえって言ってら。早く手ぇ伸ばしてやれ」。こうしたやりとりが何度か繰り返された結果、男の子は泣き腫らした顔を祖父の胸に埋めながら、恐る恐る手を伸ばし、やまはげの手のひらの中に自分の小さな手のひらを滑らせたのだった。

すべての家を回り終え、公民館に帰ってきたやまはげたちは、どさりどさりと夜ぶすまを畳の上に脱ぎ置いた。男の子の父親もホッとした表情でくつろいでいる。僕は握手のことを質問した。男の子は自分の父親の手のひらだと気づくかもしれませんね、と。すると若い父は屈託なく笑うと、「いやあ、あいつ、オラのこと、おっかねくてそれどころじゃなかったでしょ。まったく気づいてねかったでしょ」と満足げに語ったのだった。そう、きっと気づくことはなかった。あの時点はまさにそれどころじゃなかった。でも僕が問いたかったのは、男の子がいつか気づく日が来るのかもしれないという未来についてだった。今晩経験することになった恐怖は、男の子の記憶の内にしっかり刻みつけられただろう。もしかしたら、これから先しばらくは雪が降る夜が来るたびに繰り返し思い起こし、恐怖に震えることもあるかもしれない。しかし、成長し、恐れが薄らいでいく先で、自分の手のひらを握ったやまはげの大きな手の感触が、何度も何度も握ったことがある父の手のひらと同じだと、ふと気づく日がやって来ないだろうか。その日はもしかしたら何十年も先のことで、男の子が父となり、自らもやまはげを演じるようになってから訪れるとしたら作り話めいているだろうか。やまはげは冬の夜のたった一晩だけ現れて、人間が泣いたり笑ったり大騒ぎしているうちに雪の山に消えていくという幻想の物語だ。男の子に刻まれた父の記憶がこのやまはげの幻想から生まれたとしたら、少しぐらい出来過ぎとも思える物語を生み出しても不思議はないと思う。

やまはげと男の子との握手の光景を思い起こすと、僕は自然と自分の中にある父との記憶を探してしまう。父にまつわる記憶はたくさんあるが興味があるのは、僕が最初に父を父だと感じた瞬間だ。そんな昔の記憶は曖昧で自信がないが、いつも思い起こすのは父と母、兄と僕がベンチに座っている光景だ。映画で言うとワンシーンにすぎない記憶だ。そこは奈良公園で兄と母の手には鹿煎餅が握られていて、それを目当てにした鹿が二頭集まっている。季節はおそらく秋がはじまった頃ぐらい。奈良公園に行った理由はただの観光かもしれないが、別の理由も想像できる。僕は四歳になる頃、大阪の団地から奈良に引っ越している。父が法隆寺の近くに新たに造成された新興住宅地に土地を買い、家を建てたからである。両親はともに東北の出身で、知り合いと呼べる人は奈良にはいなかったが、大阪の会社に勤務する人間が比較的地価の安い奈良にマイホームを構えるというのは、当時としては一般的だった。事実、新興住宅地に暮らす父親たちは朝になると自転車に乗って住宅地から駅に向かい、大阪行きの電車で職場に向かっていた。僕の父もそのなかの一人だった。そう考えると、奈良公園に行った理由はもしかしたら、家を建てる場所を見定めるために法隆寺に向かい、ついでに足を伸ばして観光したという流れだったのかもしれない。

父はいわゆる昭和の典型的なサラリーマンとして生きた。しかし、その内実は全く異なっていた。当時の一般的な成人男性像と共通点を求めるなら喫煙ぐらい。酒も飲まなければコーヒーを飲むことも音楽を聴くことも、テレビドラマや映画を見ることもなかった。人づきあいは申し分ないほどに悪く、唯一の趣味は釣りだったがそれを通して友達を作ることもなかった。

僕が知る父はいつも同じものを食べていた。朝は焼いた塩鮭とほうれん草のお浸しにご飯と味噌汁、弁当は朝食の献立に卵焼きを加えた程度、夜は「イカのぽっぽ焼き」と母が呼んでいたイカ焼きと少しの野菜、ご飯と味噌汁を、毎日飽きることなく食べていた。この「毎日」は決して誇張ではなく、本当に一年中繰り返されていた。もちろん、兄と僕、母が食べる食事は父とは異なるものだった。母は身体の弱い人だったが料理が好きだったので、僕たちには手の込んだものをよく作ってくれた。当時はボビーという犬を飼っており、ボビーは僕たちの食事の分け前をいつももらっていたので、ボビーの方が父よりも間違いなく数多くの料理の味を知っていた。とは言え、当時の僕はそういう父の独特の偏食をおかしなものだと感じることはなかった。むしろ、大人の男とはそういうものだと思っていたので、今は子供だからいろんな料理を食べているが、やがて大人の男になれば父のように毎日決まった三食を一生食べ続けるのだと信じきっていた。

父の風変わりな性格を語り始めるとキリがない。今の時代から見直すと、当時の父は変人狂人と呼んでも大袈裟ではない感じだった。それでも父は世間の一般常識や動向のど真ん中を歩いていると信じて疑うことなく、それがまた父の変わっている点でもあった。そうした性格の現れのひとつが、大阪のベッドタウンとして開発中の奈良の造成地にマイホームを建てるという行為だったと思う。昭和中期を生きる当時のサラリーマンにとって、郊外のマイホームは最も信頼できる人生の選択だった。

僕は奈良公園でこの父の膝の上に座っていた。目の前には鹿の大きな顔があった。頭の後ろから聞こえてきたのは父の声だ。「あちち、鹿が煎餅を食いたがっているぞ。あげてみろ」。父はそういうと僕の手に煎餅を握らせた。当時、父は僕のことを「あちち」と呼んでいた。おそらく幼稚園に入るくらいまでのことだったと思う。

さて、父に煎餅を握らされた瞬間、何が起こったか。それは鹿からの一斉攻撃だった。二頭の鹿は相手が子供と見るや乱暴に口を突き出して煎餅を奪い取ったのである。一瞬のことで僕はおそらく煎餅を離すことすらできなかっただろう。半ば噛みつかれながら煎餅を強奪された僕は一瞬の間を置いて我に返り、爆発するように大声を上げて泣いた。目の前では首尾よく煎餅を平らげた鹿がまだ物欲しそうな顔をして泣き叫ぶ僕を眺めている。すると聞こえてきたのは父の大きな笑い声だ。「あちちはまったく弱虫だな。泣いてばっかりだ。泣き虫でどうしようもない」と僕をからかいながらご機嫌な笑い声を上げている。今の僕の印象に深く残っているのが、この陽気な笑い声だ。というのは、僕が知る父は陽気に笑うことなんて滅多になかったからだ。常に内に怒りを秘め、それを外に漏らさないために押し黙っているというのが家のなかでの父の姿だった。僕や兄は決して望んだわけではないが父のこの怒りにたびたび火をつけた。その先で待っているのは父の激しい怒鳴り声と暴力で、おかげで成長するに従って父への恐怖心が募っていった。結果、兄と僕の家での生活の基本は、父の怒りをできるだけ刺激しないようにし、もし怒りが爆発した際にはどうにかしてやり過ごすというものだった。

でも、父に関する記憶のはじまりを探してみると「あちちは泣き虫だなあ」と朗らかに笑う父の声と出会う。当時の父は四十代になったぐらいだっただろうか。マイホームを建てるぞと人並みの夢を描き、妻と二人の息子と一緒に四人で、奈良公園での休日をのんびりと過ごしていたのだろう。僕たちが成長するに従って、なぜ父があのような不機嫌で極端な人物になっていったのかはわからないが、奈良公園での父は、やまはげに扮して息子を怖がらせた若い父と同様に「父」の時間を愉しんでいたのだろうと思う。

ただ、この記憶には疑問も残る。僕の写真アルバムのなかに奈良公園で過ごした時を写した一枚が残っているのだが、それを見てみると写真の中の僕はいわゆるベビー服を着ており、ようやく一歳になった程度だからだ。一般的に考えて、この年頃の記憶がこうして詳細に語れるほど、鮮明に残されるものだろうか。後年になって、何かの機会に母が写真アルバムを開いて僕に思い出を語って聞かせ、その内容がそのまま僕の記憶となっていると考えた方がよほど辻褄が合う。でもそうなると、疑問に残るのは耳に残る父の声だ。「あちちはまったく泣き虫だなあ」と笑う父の声は今の僕が知っている父の声には一致しない。ずっと若々しく陽気で朗らかな声だ。もしかしたらあの声さえ、何かの思い違いや創作にも近い記憶の戯れなのだろうか。そうなるとそもそも煎餅を奪い取った鹿を前に大泣きしたのかさえ本当かどうか疑わしい。もし、真実を求めるなら、母親から聞き出すことはできるかもしれないが、肝心の父からはできそうもない。父は数年前から認知症を発症し、過去の記憶を一切語らなくなったからだ。父は今、母の介護のもと、一日のほとんどをベッドの上で過ごしている。外の世界に対する興味を失い、うたた寝を続けるその姿は現実を生きながらも、人生で通り過ぎた時間を逆に辿りなおしている人のようにも見える。うつろなその表情から多くを読み取ることは難しいけれど、もしかしたら父はずっと懐かしさのなかに立ち続けているのかもしれない。

記憶とは本来、個人のなかに留まっている過去の記録である。つまり僕たちは膨大な記録を収める器だ。古いものから順に並べ、かつカテゴリーで管理するのが記録装置としての正しいあり方なのだろうが、僕たちの記憶はそのように管理されていない。なぜなら、「感情」と呼ばれるいつも揺れ動いているものが人の記憶を管理しているからだ。僕たちは日々を生きながら新たな出会いを続け、新たな記憶を生み出すが、そこには必ず感情が付与される。しかもときには、話として聞いただけの他人の記憶や感情を自分のものとして組み込むこともやってのける。そんなことだから、新たな記憶が何かのきっかけで、とっくの昔に忘れていた古い記憶や他人の記憶と結びついて、古くとも新たな記憶として生まれ変わることも当たり前に起こる。つまり、人が抱いている記憶とは「自分の」であると同時に「誰かの」ものであると思う。記憶について思いを巡らせている時間は、物語を創作することに似ていると感じる。

僕が記憶している奈良公園での父の声もおそらくそういう類の「物語」としての記憶なのかもしれない。では、そんな風にもはや自分のものかどうかさえ怪しい記憶に、胸の奥が温かなもので浸されるほどの「懐かしさ」を覚える理由は何だろう。これこそが感情の働きなのだろうか。今があり、遠い過去がある。そこに生きた人がいる。それが不思議な力を持った糸で今という時間に結び直される。今と過去が初めて意味を持って僕たちの胸に広がっていく。そのとき生み落とされる感情があり、それを僕たちは「懐かしい」と呼んできたのだろうか。

数えてみると、やまはげと握手したあの男の子はもう十代の半ばに達している。あの雪の夜に握手した父の手のひらに覚えた感触を、どのような物語に変えて思い起こすのだろうか。