ある時期の数年間、僕は隣町の旧沢内村(現・西和賀町)に建っていた茅葺き屋根の古民家に通っていた。あの頃の僕は三十代の後半だったから、もう15年以上も前のことになる。
岩手県内有数の豪雪地とされる旧沢内村は当時で人口3000人程度。奥羽山脈に抱かれた美しい山里で、岩手らしい風景や生活文化が残る土地だった。茅葺き屋根の古民家は村の片隅に建っていて、僕はその家に暮らす人の生活にカメラを向けていた。僕より少し年齢が上の男性だった。
彼との出会いは偶然に過ぎなかった。彼が暮らしていた茅葺き屋根の古民家は、長い間、空き家として放置されていたものだったが、彼が暮らすようになる少し前から地区民による保存活動がはじまり、地域コミュニティーの新しい拠点として生まれ変わっていた。僕がここを訪ねた理由は、古民家を活用した地域づくり活動をレポートするためだった。当時の僕は岩手県で発行している県民向けの広報誌の撮影をするという仕事を請け負っており、日常的に県内各地の地域活動にカメラを向ける機会があった。
撮影を行うにあたり、築100年を越える古民家はゲストハウス的な用途を見込んでのリノベーションが施され、再び人が住めるようになったと聞いていた。実際の家を見てみると確かにその通りで、茅葺き屋根の傷んだ箇所は新しい茅が差し込まれて雨漏り対策が施され、屋内の水回りも新しい設備に取り替えられるなど、生活する上で不自由はない程度まで改修が行われていた。しかし、僕の目には家全体が“時の忘れ物”として映った。いくら現代的な要素が加えられたとはいえ、家が内包しているのは遠い時代に生まれた価値観に思えたからだった。玄関の引き戸を開き、土間に一歩足を踏み入れると、濡れた炭を想像させる深い暗闇と、この暗闇に抱かれた湿り気を帯びた底冷えする空気が僕を包んだ。この闇ひとつを取っても、古民家には懐かしさだけでは語ることができない複雑な土地の記憶が宿っているように思えた。
そこに暮らしていたのが彼だった。出身は北海道だが全国を旅しているうちにたまたま沢内村までやって来たのだという。ママチャリを漕ぎ、テントすら持たない彼の旅は野宿が常だった。ある日、隣県の秋田方面から山を越えて夕暮れの沢内に辿り着き、夜露を避けられる寝場所を探していた彼を見かねた人が「この古民家なら住んでもらっていいから」と提供を申し出てくれたのだという。僕が出会った時の彼は長い野宿生活のためか痩せており、服の汚れもあって疲弊しているようにも見えたが、その表情にはハッとするほどの清廉さがあった。
広報誌で必要とされる古民家の写真は、外観を映した一枚だった。僕は敷地の外れに脚立を立て、最上段まで登ると6×7フォーマットの大きな中判カメラを構えた。敷地には胡桃の大木が立っており、長く伸びた横枝をフレームの手前に配置すると、その奥にある建物を印象的に見せることができるように思えた。この構図に手応えを感じた僕は脚立から降りると、脚立の位置を前後左右に何度も動かして微調整した。そして、確信が持てたところで再び最上段まで登り、露出を変えながらシャッターを数枚切った。中判カメラはシャッターを押すたびにパカンパカンと大げさな音を午後の秋空に響かせた。
僕が撮影する姿を彼はしばらく眺めていたが、たった1枚の写真を撮るのに脚立の登り降りを繰り返し、簡単にはシャッターを押さない様子に飽きてしまったのだろう。胡桃の大木の回りを俯いてうろうろし始めた。僕はカメラを構えながら、そうした彼の行動を観察していた。彼はどうやら地面に落ちている胡桃をひとつひとつ拾い集めているようだった。
撮影を終えた僕は、彼と少し立ち話をしてから雫石の自宅に戻るために車に乗り込んだ。バックミラーに映ったのは、大きな胡桃の木の下で再び俯いて胡桃を探しはじめた彼の姿だった。
「北海道で育ったから本州を見てみたいという思いがあって旅に出たんだよね。でも何か特別な目的があったとか、見つけたいものがあったとかそういうことじゃなくって、なんとなく続けてきたというか。楽しいかと言われればそういうことでもないし、だからといって北海道にすぐに戻る理由もなくて。でも、この古民家での暮らしは何か特別な気がする」。車を発進させるためにゆっくりとアクセルを踏んだ僕は、彼が自らの旅を語った際の曖昧でどこか不安を帯びた表情を思い返した。彼の旅は北海道を出てから早くも3年目を迎えようとしていた。バックミラーの中で遠ざかる彼はやはり下を向きながら胡桃を探し続けていた。それは胡桃を探しているようでいて他の何かを探しているようにも見えた。
僕は時間を見つけて彼を訪ねるようになった。長い冬へと向かっていく季節のなかで、彼の日常は穏やかなものだった。近所の人に頼まれた農作業を手伝うことをのぞけば、家の中で静かに暮らしていた。彼が暮らす古民家の間取りは典型的な「直屋」のものだった。岩手には伝統的な古民家として「曲り家」と「直屋」があり、どちらも「常居」と呼ばれる大きな広間を中心に、土間、座敷、納戸、寝間、馬屋などで間取りが構成されていた。彼が暮らしの中心としていたのは大きな古民家のなかではもっとも狭い部屋で、四畳半ほどだった。ブリキの小さな薪ストーブが置かれたその部屋には木製枠の窓がひとつあり、煤けたガラスの向こうには周囲の山並みが広がっていた。彼の定位置はこの窓の下で、腰壁に背中を預けると膝を三角にして小さく座っていた。尻の下には薄い座布団が敷かれていた。彼は僕と話す際もこの姿勢を崩すことはなかった。人付き合いが不得意なことはすぐに伝わってきたが、だからといって僕の訪問を嫌っている様子はなかった。いつも穏やかな笑みを浮かべながら僕を迎え、薪ストーブにかけた薬缶の湯でインスタントのコーヒーを淹れてくれた。
こうした時間を通じて僕は彼のことを少しずつ知っていった。生まれ育ったのは道東の釧路で、高校卒業後は地元のスーパーに勤め、数年後には転職して札幌で営業職に就いたこと。その頃から農業に関心を持つようになり、いつしか農薬や化学肥料に頼らない有機農法に携わってみたいと思うようになったこと。北海道を出て本州に行こうと思い立った理由のひとつが有機農法を実践する現場を見るためで、本州に来てからはいくつかの有機農法を行う農家に住み込んで働くという経験もしたこと。このような話を聞いた僕はひとつの疑問を抱いた。それは、彼がなぜ、この古民家に暮らそうと思ったのか、また、ここで何をしたいのかという素朴な問いだった。彼が続けてきた旅の中身そのものはいわゆるノマドワーカー的なお気楽なものにも思えたが、それを語るときの口ぶりは重く、眼差しはどこか虚ろげに見えた。土に根ざした生活を目指し、旅を続けてきたことに嘘はないだろうが、彼のたたずまいからそれだけを追い求めてきたわけではないことが伝わってきた。彼は旅を続けながら“さがしもの”を追いかけてきた。そう感じた僕は余計に沢内での暮らしの意味を知りたかった。
いつも言葉を選びながら話す彼だったが、僕のこの質問に対してはさらに慎重になった。しばしの沈黙の後にようやく話すことになるのだが、そこでの言葉がはっきりとした輪郭を結ぶことはなかった。しかし、それが深い逡巡を秘めた彼の心境を表しているようにも思えた。彼は心の中の風景を語ることを恐れてはいなかったが、その話の行き着く先はいつも「中途半端」だという自らの行動への批判だった。「自然環境を大切にしながら土に根ざした暮らしを理想と考える一方、実際にその現場に入ってみると自分のなかにある理想と現実の間で逃げ出したくなるんだよ。わかっているんだよね。仲間に対して真っ直ぐに向き合えなかったり、本音での付き合いが怖くて避けたり。仕事以外でもそう。自分の思いに執着するあまり、他人に対して否定的になってしまって不義理をしたこともあったよ。振り返ってみると、こういう生き方が若い頃からずっとだったから、変わらなきゃいけないと思っているけれどいつも中途半端で逃げ出してきたんだよね。沢内の今の暮らしも結局は中途半端ってことはわかっているよ。ずっとこうやって隠れるように一人で暮らすことなんてできないだろうし、何より結局はいろんな人から助けてもらっているわけだし。それでも今の暮らしは、これまでの自分を見つめる時間になるのかなと少し期待しているんだよね。決して格好いいものじゃないんだけど、これからの自分を変えていくためには必要なことなのかなと思ったりしているんだ。無料で家を提供してもらって虫のいい話かもしれないけれど、今の自分はこんな感じなんだ」。自らに向ける彼の眼差しはいつもこうしたものだった。
彼の悩みは彼のものでしかないことは理解していたが、当時の僕にはなぜか彼だけの問題ではないように思えた。切実なまでに変わることを求め、それでも簡単に変わることができない自分を見つめている。彼の問題は彼のものだとしても、彼を立ち止まらせる心の揺らぎは決して彼だけのものではないように思えた。
彼が寝起きしている小部屋はいつもがらんとしていた。自転車で野宿旅を続けてきた彼の所有物は最低限の着替えだけで、何も持っていなかったからだ。また彼は居候であることを常に念頭に置いており、生活用品を増やすなどして古民家を私物化しないように努めていた。そんな暮らしだったが、彼が三角座りをする際にいつも背中を預けている腰壁には一枚の汚れたメモ紙が画鋲で留められていた。そこには鉛筆で「愛することを学ぶ者」というひとことが綴られていた。四十歳を迎え、もう若者と呼べる年齢ではない彼がどのような選択をし、明日の人生を歩んでいくか。それは当時の僕にとっても切実な問題として胸に残った。
当時の僕自身で言えば、二十五歳という年齢で岩手に移住してから、すでに10年が経とうとしていた。その間、ろくに計画も立てないままいきあたりばったりでカメラを携えて東北を巡り、写真を撮るという行為を続けていた。今となっては我ながらそんないい加減さでよく生きていくことができたなと思えるのだが、何とかやりくりしながら、東北という土地との距離を縮めていった。その先で自然と考えるようになっていったのが、自分が暮らしている東北の将来についてだった。もちろん、僕自身が東北の未来といかに関わっていくかなどと大風呂敷を広げる気は毛頭なかった。東北に暮らしている時間が長くなることで、時代のなかでの変化を目の当たりにし、結果、妙に気になりはじめたということに過ぎなかった。
僕が気にするようになった変化とは、目には見えないものだった。たとえば山が切り崩されて、造成地が作られるなどの変化は、まさに風景の変化として誰の目にもはっきりと映るだろう。しかし、僕が見たいと願ったのは人の心の中の風景だった。10年間にわたって東北を見続けるなかで感じたのは、当の本人も気づいているかどうかわからないレベルで、連綿と受け継がれてきた価値観に対して知らぬまに醒めていくような心の動きだった。この心の機微を具体例で語ることは難しいのだが、体感としては確実なものとして捉えることができていた。そして、僕はこうした心の姿を「時代の変化」などとひとことで片付けることはできなかった。今、東北という土地はそこに暮らす人も含めて大きく変わろうとしている。もしかしたら、そのためには大切なものを失う必要があるのかもしれない。僕たちは失うことと引き換えに何を得ようとしているのだろう。東北の伸びやかな風景を前にした僕の胸にはそんな思いが募っていった。
当時の僕は、東北に生きる人々の心の機微を写真で記録することができないかと考えていた。もちろん、人の心をカメラで写し撮るなど、簡単にできるものではないということは理解していた。カメラはレンズの前に存在する世界を写し撮るもので、見えないものを顕在化することはできない。もし、見えないものを顕わにしたいのであれば写真ではなく言葉の方が適していると思えた。しかし僕は、いくら不得手であっても写真でしか写し撮ることができない「見えないもの」がきっとあると信じていた。また、周囲を見渡しても、変わりゆく東北に生きることをはっきりと自覚し、見つめようとしている人もいなかった。だからこそ僕は今の東北に暮らす一人として自分自身で見つめる必要性を感じていた。東北で生まれ育ったわけではないが、この地に身を置き、東北各地を見続けた日々は僕の胸のなかに、今、東北に生きているという確かな実感をもたらしていた。それは変わりゆく土地のなかで自分も同様に変わっていくのだという不安と希望がない混ぜになる感情でもあった。
そんな僕の前に現れたのが彼だった。彼は自らが変わることを痛切なまでに願いながらも変われない自分を、丸ごと抱えながら生きている存在として僕の目には映った。彼の揺らぎは、東北という土地のなかで生きている僕たちとどこかでシンクロするようにも思えた。
もうすぐ初雪が来るという天気予報を聞いて、彼が暮らす古民家を訪ねた。沢内の冬は少ないときでも2mを超える雪が降る。寒さという点では彼が育った釧路の方が厳しいのだが、彼が暮らしているのは隙間だらけの古民家だ。何も持たない彼が無事に冬を越せるのかと心配でもあった。
彼も雪への備えを考えていたようだった。古民家で安全に冬を過ごしていくためには雪囲いが必須で、彼は土地の古老から昔ながらの雪囲いの作り方を学んだと聞かせてくれた。その上で、「今日はその材料の茅を刈りに行こうと思うんだ。そのために軽トラも借りてきたよ。一緒に行くかい?」とどこかのんびりとした北海道訛りの言葉で僕を誘った。
彼が運転する軽トラックの助手席に乗り込んだ。向かったのは川筋に沿って茅が密生して茂っている場所だった。かつて、こうした場所は「茅場」と呼ばれ、秋になると集落の者であれば誰もが茅を刈ることができる公共の場所だった。ここで刈った茅は雪囲いの材料にされたほか、茅葺き屋根の補修にも使われたんだと、ハンドルを握る彼は雪囲いの作り方を教えてくれたお爺さんから仕入れたばかりの知識を披露した。
茅場に着くと、鎌を手にした彼はさっそく作業を開始した。彼の言葉通り、蛇行した川の流れに沿って茅が広く密生しており、午前中の陽光を浴びた茅の穂がギラギラと眩しく光っていた。彼は乾いた冬の風に揺れる茅原のなかに分け入ると、ザクザクと音を立てて茅を根元から刈っていった。その手つきははじめての茅刈りとは思えないほど慣れたもので、農業に携わりながら旅を続けてきた日々の確かさを伝えていた。刈った茅は細い縄で縛って両手で抱えるほどの束にした。それを軽トラの荷台に積み込む作業は僕が引き受けることになった。長さにすると3mほどもある茅だったが乾燥が進んでいるのか、見た目からは想像できない軽さだった。茅の切り口からは、乾いた藁にも似た香ばしい匂いがした。
岩手では雪の季節が近づくと、一日中晴れていることは稀になる。午前中は晴れていても午後になると灰色の雲があっという間に青空を覆い隠してしまう。しかし、朝の天気予報は今日は秋晴れの一日で夕方まで好天が続くと伝えていた。確かにそんな日が毎年必ず1日か2日あるのだが、北国の秋は油断がならないものだ。僕たちはなるべく早く刈り取ってしまおうと忙しく手を動かした。軽トラの荷台が束ねた茅でいっぱいになると、一度作業を中断して古民家に運搬し、再び茅場に戻って刈るという作業を何度か繰り返すと昼になった。僕は雫石の町で買っておいた菓子パンを彼に手渡し、茅が減ってさっぱりした河原に座った。「久々の菓子パンだよ」と旨そうにほおばる彼が語り始めたのは、古老から聞いた茅場をめぐる集落の暮らしについてだった。
茅場は集落全体の共有財産とされてきた。そのため、集落に住む者であれば誰が刈ってもよかった。とはいえ、茅を自分のためだけに使うということは許されなかった。昔から集落内に建つ家の茅葺き屋根の改修は順繰りに行われることになっており、その際にはそれぞれの家で蓄えておいた茅を提供するというのが決まりだった。そこで秋毎に刈り取る茅の一部は大切に貯蔵していく必要があった。また、改修作業では各家から人手を提供するのが約束事となっていた。つまり、各家の茅葺き屋根は、集落全体で維持されていたのである。こうした相互扶助の営みは岩手の伝統的な共同体ではよくみられ、「結い」と呼ばれるものだった。この「結い」は茅葺き屋根の改修だけではなく、冠婚葬祭などでも欠かせない共同体の機能であり、岩手の伝統的な暮らしを支えてきた美徳の精神として語られてきたものだった。彼はひととおり「結い」について話すと、「釧路では岩手のような結いの存在を聞いたことがなかったよ。向こうは開拓民の土地で個人主義だからかな」と前置きしながら、「でも、そう甘いものじゃないって爺さんに教えられたんだよね」とつぶやいた。
彼が古老から聞いたのは「結い」を結べない人たちについてだった。たとえば子供を持たなかった夫婦は年老いていくにつれて、他人に茅と労働力を提供するほどの余裕がなくなっていく。そうなったとき彼らが選択できるのは、自ら「結い」から外れることだけだった。「爺さんが言うには、茅葺き屋根の結いから外れた人は、自宅の屋根の補修は自分の力だけで何とかしていくんだけど、いよいよそれさえできなくなったときには、茅葺き屋根の家を捨てて、簡素な板葺きの小屋を畑の隅に建てて住んだって言うんだよね。この話を聞いたとき、本当に生きるって厳しいって思ったよ。みんな、結いっコなんて聞こえの良い言い方をするし、助け合いと隣人愛の精神だと思ったけれど、実際はそう甘くはなかったんだなって思ったよ。だとしたら、結いのようなはっきりとした約束のようなものがない今の方が生きやすいのかな」。
僕は彼の話の意図を掴みかねていた。単純に生きていくことが難しいと言っているのだろうか。それとも何か別の意図があってのことだろうか。ただ言えることは、東北という土地が変わりゆくなかで人々が手放そうとしているもののひとつが、「結い」に見られるような強固な契約性を持った共同体意識であることは間違いなかった。僕はこれまで自分が経験した岩手の雫石での暮らしを思い返した。僕が二十五歳で移り住んだのは奥羽山脈の山裾に広がる二十数軒の小さな集落で、雫石でも伝統的な営みが残っている地区とされていた。もちろん、暮らしている人はお年寄りが多かった。若い僕はこの集落の人たちに可愛がられた。とくに大正生まれの古老たちは目新しさで近寄ってくる僕に遠い時代から受け継がれてきた営みを教えてくれた。それは僕にとって新しい世界との出会いそのもので、現代を生きるなかで忘れてしまった大切なものを見つけたと感じた。しかし後年には、その彼らでさえも自らが営んできた価値観のすべてを肯定しているわけではないことを知ることになった。この肯定できないものの中心で居座っていたのが、封建的な価値観に絡め取られた村落の共同体意識だった。よそ者の僕から見ると、共同体としての約束事を育み守ってきたのは彼らだった。にもかかわらず、彼ら自身がその営みを過去のものにしようとしている。そうした姿は僕にすべての人が変化のなかにいることを意識させるものだった。
午後からの作業は早めに終えることになった。晴れていてもやはり北国の11月で、日が傾くと気温はぐんぐんと下がっていった。古民家を茅の束で一周りさせるためには、少なくともあと2、3日は鎌を手に精を出すことになりそうだった。「まあ、雪が降るまでには何とかなりそうだよね」と彼は笑い、庭に山積みにしてある茅の束を壁に立て掛けていった。茅の束で外壁が隠された古民家を正面から見ると、家が分厚い毛皮でも着込んだように見え、微笑ましい眺めだった。
「明日は何をするの?」と僕が問うと、「明日は、売り物にならないって譲ってもらった大根があるから、それを煮て凍み大根を作ろうと思うんだ。冬の保存食として作っておくといいぞって作り方を教えてもらったんだよね。そんなことやったことないけど、いろいろと挑戦してみようと思うんだよね」と彼は笑ってみせた。
2年後、彼はこの古民家を突然捨てて、失踪にも近いかたちでいなくなってしまう。でも彼はこの時点では彼なりの新しい生活を作ろうと真剣だったし、僕もこの暮らしから何かを見つける彼の姿を見てみたいと願っていた。
冬を間近に感じさせる風を感じながら茅を刈ったあの秋の日を振り返ると、彼が握る鎌が茅の根元を切っていくザクザクという独特の音が聞こえてくる。