みすず書房

彼の生活 2

彼の生活 2

秋田では冬型の気圧配置が強まると、日本海から内陸に向かって吹く強い北西風にさらされる。かつては「(たま)(かぜ)」とも呼ばれたこの強風が運んでくるのが、日本海上空で水蒸気をたっぷりと蓄えた厚い雲だ。沈んだ灰色をしたこの雲は陸地にたどり着くや、当然と言わんばかりの顔をして雪を落としはじめる。ぼそぼそと止むことなく降り積もっていくこの雪は、太平洋側の乾いた雪しか知らない人から見ると、意外なものと映るだろう。握ると水滴が滴り落ちるほど強い湿り気を帯びた雪は雨よりも重く、色についても空を覆う重々しい雲の色彩を真似るかのように灰色に見えるからだ。

海岸沿いの平野で気が済むまで雪を落とした雲は、さらに南東へと進んでいくのだが、内陸部で立ち止まる。東北地方を東西に分ける奥羽山脈の峰々に行く手を遮られるからだ。山脈の裾野で停滞を余儀なくされた雪雲が退屈を紛らわすためできることといえば、雪を降らせること以外にはない。秋田地方において、奥羽山脈沿いの村々が豪雪地帯となってきたのはこうした理由による。だが雪雲の動きはここで止まるわけではない。山裾の集落に多くの雪を落としたことで身軽になった雲は、沢筋に沿って次第に高度を上げていく。そして尾根筋まで到着すると、蛇のように身をくねらせ、するすると鞍部を越えて「山向こう」へと降りていく。

岩手県の西和賀地方は、秋田側から見るとこの「山向こう」の土地である。岩手の冬の気候は太平洋型とされ、日本海側の山間部に比べると雪は少ないとされているが、湯田(ゆだ)沢内(さわうち)といった西和賀地方の山里は、秋田側の山裾にも負けないほどの深い雪に覆われる。西和賀の背後にそびえる奥羽山脈の一部が、秋田側からの雲の通り道となる形状をしているので、雪雲が次々と入ってくるからだ。西和賀の空はたとえると、雪雲の吹き溜まりなのである。

 

旧沢内村に建つ茅葺屋根の古民家での彼の生活は、冬が本格化すると、「山向こう」からの雲が運んできた雪に包まれた。彼が寝起きしていた六畳ほどの小部屋にはブリキの薪ストーブが置かれ、暖を取ることができた。しかし、床も壁も天井も隙間だらけで、火が少しでも小さくなると一気に冷え込み、吐く息が白くなった。少しでも寒さを和らげるため、彼は新聞紙を折ったものを床の隙間ひとつひとつに差し込むなどの涙ぐましい努力を続けていたが、沢内の寒さは容赦無く室内に入り込んできた。そうは言っても、この部屋が茅葺民家のなかで何とか生活できる唯一の場所だった。すべての開口部が雪囲いで塞がれた古民家の内部は日中であっても洞窟のように暗く、彼が暮らす部屋以外は野外よりも寒い状態となっていたからだ。

このような環境では普通に生活することすら困難で、たとえば食糧の保存ひとつとっても苦労があった。一日中、気温がプラスにならない家の中は冷凍庫と同じで、野菜などの水分を含む食材は固く凍りついて傷んでしまう。そこで彼が作ったのが、雪を1メートルほど掘って食糧庫とする「雪室」だった。外気温がマイナス10度を下回る状態であっても、分厚い雪が断熱材となる雪室の内部は0度を下回ることがなく、いわゆるチルド状態で食糧が保存できるということだった。こうした生活の知恵は、彼が土地の古老から聞き出したものだった。彼の興味は、この土地の人々が茅葺の家で暮らしていた時代に向けられ、古い知恵を役立てながら厳しい冬を乗り越えようとしていた。

西日本に暮らす者からすると、冬の東北の日照時間は驚くほどの短さだろう。太陽は、朝は8時過ぎになってようやく顔を出し、午後3時を回ればさっさと沈んでしまう。彼が暮らす山間の土地であれば、平地よりもさらに遅く太陽が昇り、早く太陽が沈むため、日中と呼べるのはわずか5、6時間程度しかなかった。北国の冬は、この短い時間で仕事や雑用をこなす必要があって忙しいのだが、彼は部屋に籠り、時間に追われることはなかった。大雪が降った際に古民家を守るための雪かき(豪雪地では決して楽な仕事ではないが)をする程度で、それ以外の時間、彼は寒く薄暗い部屋の中で壁に背を預けて座っているだけだった。土に根差した生活をしたいと願い、本州各地の篤農家のもとで仕事を手伝ってきたという過去の経験は聞かされていたが、だからといってこの沢内の地で農業者として生きていくための具体的な計画を立てるわけではなかった。

彼は一日の時間のほとんどを考え事に費やしているという話だった。思い起こすのは、自らの過去の行いらしかった。幼少期から現在に至るまでの記憶を掘り起こし、家族や他者との関わりを見つめていた。寡黙な彼は詳細を語ることを嫌ったが、自分の心には漠然とした不安や怖れがあり、それが他人に対しての不誠実な行為につながっていると、告白めいた口調で話した。彼はこの不誠実さを自分のなかから追い出し、これまでの人間関係とは違うものをつくっていきたいと何度も繰り返した。僕の訪問に対し、彼が嫌がる表情を見せたことは一度もなく、むしろ歓迎の意を口にしていた。そんな彼から他人に対する不誠実さを感じたことは一度もなかった。ときには、僕に向かって心の内にあるものを吐露する勇気もあった。しかし、その一方で、僕に対して見えない壁を作っていることは事実だった。僕は彼に対して親しみを深めていったが、彼は僕のことを寄せ付けない雰囲気を解こうとはしなかった。ただ、僕にとってはそうした彼の態度こそが彼なりの誠実さだと思えた。彼の日々は、迷路の中で落としてもいない探し物を続けているようで、もどかしく思うことも一度や二度ではなかった。しかし、当時の僕はそんな彼の姿のなかに、僕にとっても見過ごすことができない切実なものが存在していると思えてならなかった。

昨日も雪を見ながら考え事をしていたと言う彼に、夜も同じように考え事をしているのかと聞いた。すると彼は、「夜は薪の節約もしたいし、なるべく早く布団に入って寝ようとしているんだ。でも、なかなか眠れるものじゃないし、やっぱりいろいろ考えてしまうよね。昔のことだけじゃないよ。今、こうして沢内の人たちの厚意でこの家で暮らせているわけだけど、この先、どうやって恩返しできるのかなとか、そもそもここで生きていくってどういうことだろうかとか、わからなくなるよね。そんなときは布団の中の野菜を触っているんだ」と笑った。彼によると雪室から部屋に運んだ野菜は、そのままにしておくと夜の寒さで凍りついて傷んでしまうため、布団の中に入れて一緒に寝ているということだった。彼の部屋の隅には布団が敷きっぱなしになっており、掛け布団の下には彼が抱いて寝ている野菜が入っていた。白菜やキャベツなどでもこもこと盛り上がる布団の様子はまるで人が寝ているようにも見え、僕の笑いを誘うと同時に、彼の性格の不器用さを物語っていた。

 

「知り合いになった地元の人に、来年のための薪を伐りにいかないかって誘われたんだ」。ある日、生活の部分で何か手伝うことはないかと彼にたずねると、落ち着いた口調でこう返してきた。

沢内では薪ストーブで暖を取って暮らしている人が多い。すでに乾燥が進んでいて、すぐに燃やすことができる薪を購入することは可能だが、ほとんどの人が原木を調達し、チェーンソーと斧を使って薪を作る。この原木の調達については自分が所有する山から伐りだしてくることもあれば、山に生えた立ち木を所有者から購入し伐採する場合もある。彼が誘われたのは国有林の払い下げの山から原木を調達する作業で、伐採を手伝ってくれたらひと冬分の原木を提供するという話だった。この話題で彼が僕に手伝って欲しいという言葉を口にすることはなかったが、僕も一緒に山に入りたいと伝えた。立ち木を伐る経験はほぼないに等しかったが、僕も薪ストーブで生活しており、チェーンソーの扱いは慣れている。きっと立ち木だって伐ることができるだろう。僕にそう言われた彼は黙ってうなずき、予定していた日時を口にした。

彼を伐採作業に誘ってくれたSさんを先頭にして、僕たちは奥羽山脈の斜面を登っていった。時期的には厳寒期と言える2月の中旬だったが、日照時間が延びたことで日中の気温はプラスになってきているのだろう。雪の表面は、溶解と凍結が繰り返された、いわゆる堅雪の状態で歩きやすく、それほど苦労することもなく目的の払い下げの区画にたどり着くことができた。

伐採作業を行う現場は、尾根へ続く緩斜面に広がるブナの純林だった。尾根の「山向こう」には、いつもの雪雲が停滞しているのだろう。斜面の上からは細かな雪が混じった淡い乳白の靄がゆっくりと流れてきていた。薄灰色のブナの幹は靄越しに見るとほぼ雪の白と同じ色合いで、淡く透き通った樹が並んで立っているように見える。下界の音が届かない山の中で、しかも雪の吸音効果もあって、すべての音が消えてしまった世界に身を置いているからだろうか、森の深奥部を見ているような感覚が広がった。

積雪は2メートルほどだろうか。根元部分は雪の下にあるにもかかわらず、いずれの幹も大人二人が両手を伸ばしてようやく廻せるほどの太さがある。樹齢は軽く100年を超えているだろう。これから、このなかの一本を自分たちの手で伐って倒すのだと思うと、なんとも言えない罪悪感を覚えた。彼もきっと同じ気持ちなのだろう。口を固く閉じたまま見上げている。

最初に伐る一本を決めるために、樹間を縫って歩いていたSさんが立ち止まった。「最初はけず(こいつ)にするべ」。Sさんが見上げた先に立つブナは、一際巨大な幹を持つ一本だった。Sさんの口から、「マザーツリー」という言葉が出た。遠い昔、この森に伐採の手が入った際に、枝振りがよく健康な樹がぽつんぽつんと残された。これらの樹に種子を落とさせ、森の再生を促すためだった。Sさんが言うには、こうした母樹自体も更新が必要なので、今回の伐採では、老いた母樹を伐るかわりに子孫の幾本かを残すということだった。Sさんは、薄い雪雲が広がる白い空に向かって枝を伸ばすその幹に背中を預けた。頭上を仰ぎ、幹の傾きの確認をしたSさんは谷の下を指差し、「枝振りにクセはねえな。こっちさ倒そう」と呟いた。

最初に彼と僕が幹の周辺の雪を踏んで固めることになった。樹が倒れる段階を迎えたときに、Sさんが幹から素早く離れて安全を確保するために必要とされる作業だった。雪踏みで幹周りが平らになると、Sさんは大木伐採専用の長いバーが取り付けられた大型のチェーンソーのエンジンスターターを力いっぱい引っ張った。3度目でエンジンが掛かり、けたたましいエンジン音が一瞬にして森の静寂を打ち消した。と同時に清澄な大気のなかにガソリン特有の鼻につく匂いが漂った。この音と匂い。たったそれだけで世界が変わってしまったかのような印象だ。ぶるぶると震えるチェーンソーを両手で持ったSさんは、ヘルメットを被った頭をブナの白い幹に押し付けた。今から伐り倒す大樹に対しての敬意の表現だった。Sさんは顔を上げるとしゃがみ込み、回転数を上げたチェーンソーの刃をブナの幹に当てた。次の瞬間、大量の白い木屑が激しく飛散し、雪原の上に広がった。Sさんは最初に、「受け口」と呼ばれる木を倒す方向を決める大きな切り込みを作り、一呼吸おいてから水平にしたバーを幹に当てがった。大人三人が両手を伸ばしてようやく廻すことができる大樹だ。Sさんは立ち位置を変えながらバーを何度も押し引きして伐り進めていった。そして、受け口の付近まで刃が届いたことを確認すると、幹の奥に差し込んでいたバーをゆっくりと抜きとり、エンジンを停止させた。次に手にしたのは山仕事に従事する人たちが「矢」と呼ぶ木製の大振りのクサビだった。Sさんはこの矢を切り口に差し込み、大きなハンマーを振り下ろして叩き込んでいった。ハンマーの頭がクサビに当たるたびに鋭い金属音が森に響き渡った。ブナの幹によって反響するのだろうか。金属音はやまびことなり、次第に小さくなりながら森の中に消えていった。

ハンマーを打ち下ろす手を止めたSさんは斜面の上側で見守る僕たちに向かって、「もうそろそろだべ。もうちょっと上サ、離れて見ていた方がいいべな」と言うと、手のひらを振って離れろという合図を送った。再び、ハンマーがクサビに向かって打ち下ろされた。幹に食い込んでいくクサビは合計4本で、Sさんは足を置く位置を変えながら、順番に打ち込んでいった。やがて、鳥が鳴くようなキイキイという音が切り口の奥から漏れ出し、すぐにギイーギイーという濁音を含む音に変わった。それを合図にハンマーを持つSさんは、飛び上がるようにして素早く山側へと退いた。

ブナの大樹はお辞儀でもするかのようにゆっくりと傾きはじめた。しかし、次の瞬間、雪原に向かって突進するような激しさで倒れ込んだ。僕にとっては初めて聞く種類の轟音だった。2メートルを超える深雪に倒れ込んだにもかかわらず、爆発と破裂が混じったかのような猛烈な轟音が鳴り響いた。この衝撃で、周囲一面の雪がまるで沸騰したかのように1メートル以上も跳ね上がった。視界は宙を舞う雪で真っ白になり、倒れ込んだ巨木の姿は見えなくなった。森が静寂を取り戻したのは、斜面の上から流れてきた靄がこれらの行き場を失って漂う雪を完全に飲み込んでからのことだった。僕と彼は一本の巨木が倒れるという出来事に呆気にとられ、大樹が無数の枝を伸ばしていた空を仰いだ。そこには大きな円形の空白が広がっていた。

彼と僕の仕事は、倒した大樹を山から下ろしやすくするために、細い枝を落とし、太い枝や幹を玉切りして整理することだった。それぞれがチェーンソーのエンジンを始動させ、作業に取り掛かった。彼と相談し、最初に薪にはならない細い枝を伐り落としていくことにしたが、細い枝はチェーンソーの刃を当てると逃げてしまうので作業は難航した。チェーンソーの重さと振動に疲れた僕は腰にぶら下げていたナタを抜いて、枝を払っていった。ナタが枝に食い込むと灰色の樹皮の内側が、はっとするほど美しい肌色で現れた。手を止めて切り口に目を近づけてみると、緻密な繊維が通っており、そこからふわりと爽やかな香りが漂った。隣で作業をしていた彼を見ると、彼もチェーンソーを雪の上に置いて、手にした枝に目を近づけていた。「何か見える?」僕の質問に対し、彼は顔を上げることなく、「枝先の新芽、心なしか膨らんでいるよ。この小さな新芽のひとつひとつが開いて若葉が出てくるんだよね」と自らに言い聞かせるように呟いた。彼の言葉で、僕も自分が伐り落した枝を雪の上から拾い上げた。ブナの新芽は明るい褐色で細長く、先端が鋭く尖った様子から磯に暮らす小さな巻貝を連想させた。彼の言葉通りたしかに膨らんでいて、ニスでも塗ったかのように全体が艶やかに輝いていた。新芽たちのその姿は、木という生命が、今、この瞬間を生きて春を待っていることを僕に伝えた。枝から手を離した彼はチェーンソーを持ち上げ、スロットルを握ってエンジンの回転数を上げると作業を再開した。どこまでも純度の高い氷を溶かしたかのようにも思えた森の大気は、3台のチェーンソーが吐き出す排気ガスが混じり、完全に不快なものへと変わってしまっていた。また、たった一本の樹が倒れただけで、僕たちが最初に足を踏み入れた際に感じた調和に満ちた森のたたずまいもどこかに消えてしまっていた。

僕はふと、彼の心の中の風景を想像した。彼はいつも漠然とした怯えを持ち、繊細すぎる傾向があった。彼の心の風景とは、もしかしたら、こうやってたった一本の樹を失ってしまうだけで様変わりする森のような美しくも脆いものなのだろうか。もし、そうだとしたら、それは変えていく必要があるのだろうか。それとも、たとえばこの森が伐採を免れたマザーツリーによって再生していくように、彼は今の心を保ちながらも新たな自分を手に入れることができるのだろうか。ひとつ言えることは、少なくとも彼は今の自分を見つめながら、変わっていこうとしていることだった。

氷盤のような美しさで広がっていた雪原は、僕たちが歩き回った足跡で見る影もない姿になり変わっていた。汚れた雪の上には、空の広がりを支えていたブナの枝が無惨な姿で散乱していた。

 

茅葺の古民家に暮らすようになった彼は2度目の春を迎えようとしていた。2年間という日々のなかで彼の本質が大きく変わることはなかったが、新たな春を前にして彼のなかで何かが変わったようだった。彼はこの土地で本格的に農業に取り組むことを考えていた。土に根差した暮らしをしたいと願っていた彼は沢内で迎えた初めての春から農業に関わろうとした。しかし、最初の年は知り合いになった地元の農家の手伝いが中心で、自らの計画に則って作付けを行うというものではなかった。もちろん、それでも得るものは多く、彼は援農を通じてこの土地で営まれてきた農業の知恵を身につけようとしていた。こうした知恵の蓄積が彼の背中を押したのだろうか。雪解けの季節を迎えると、彼は知り合いの農家に声をかけて山間の休耕田の一部を借り、秋の収穫を目指して準備を始めた。また、田の隣にある畑も借りて、ジャガイモや葉物の野菜を栽培するという計画も立てた。変わったのは行動だけではなかった。沢内にたどり着いたときの彼は長い野宿旅を続けていたせいか、極端に痩せ細り、精彩を欠いていた。しかし、土を相手に一日を費やすようになった彼の身体は筋肉が加わって明らかに変化し、芯が通ったかのように姿勢も良くなった。日に焼けた顔は快活そのもので、短く刈り込まれた坊主頭がよく似合った。

5月に入り、いよいよ田植え作業に取り掛かるというので彼を訪ねた。彼の田んぼはすでに何日も前から水が引き込まれ、田植えの前の代搔き作業をしているところだった。彼が手にしていたのは「エブリ」と呼ばれる運動場をならすために使うトンボにも似た道具で、裸足で田に入ってそれを引っ張って歩いていた。田の水は雪解け水を集める沢から引いており、裸足で我慢できる水温ではなかった。そのことに驚嘆する僕に向かって、彼は「昔はもっと冷たかったみたいで、女の人や子供たちは半ベソかいて田植えしたって言っていたよ。でも、慣れればなんとかなりそう」と笑った。

僕は四つ葉のクローバーがびっしりと並ぶ畦に腰を下ろすと、田のなかで逆さになって映る山並みを眺めた。ちょうど若葉が開く頃で、山は一年のなかで最も豊かな表情を浮かべていた。若葉はいわゆる萌黄色をしているが、その色合いは樹の種類によって微妙に異なっている。おかげで山は萌黄色のモザイク模様をまとうかのようだ。しかも、開いたばかりの若葉は旺盛に伸び上がっていくので、山全体がもこもこと膨らんでいるようにも見える。この風景に華やかさを加えているのが緑のなかで点々と咲く山桜の濃い桜色だ。クロツグミなどの気の早い夏鳥たちはすでに渡ってきていて、陣取った梢の先で美しい囀りを響かせている。足元のどこかから聞こえてくるのは、草の蔭で鳴くカエルの吞気な春の歌だ。田んぼに立つ彼は間違いなくこの風景の一部だった。頭に手拭いを巻き、膝上までズボンを巻き上げ、裸足でエブリを引っ張る彼は沢内の麗らかな春のなかに立っていた。

午前中いっぱい、エブリを引っ張った彼はクローバーの絨毯の上に腰を下ろした。頬には泥跳ねの跡がいくつもあって汚れていたが、彼は気にすることなく朗らかに笑った。彼は足についた泥を人差し指ですくいながら少し先の秋の話をした。刈った稲穂はハサがけにして2週間ほど天日干しすれば、米に甘みが乗るという内容だった。「沢内に住んで気づいたことがあるとしたら、野菜や米の味なんだよね。ほとんど菜食というか、今は肉を食べる機会が滅多にないんだけど、そんな食生活を続けていると野菜それぞれの味を濃く感じるようになるんだよね。野菜からじわーっと濃い旨味が出てくるなんて、ここに来るまでははっきり感じることはなくてね。昔は肉が好きだったもんなあ。でも、今は天日干しした米の甘みならはっきりわかるんじゃないかって思っているよ」。彼はそう言って笑うと、自分が借りている田んぼのある地域の話を始めた。

彼が暮らす茅葺屋根の古民家から自転車で20分ほどの距離にあるこの山間の地域では、人の暮らしが消えてしまっていた。豪雪地帯ゆえの生活の困難さと高齢化により、ここに暮らしていた住民は便利な国道沿いに移転し、もう何年も前に無人の集落となったという。残された田畑を維持するために移転先から通って農業を続ける人もいないわけではないが、そうした人も高齢化し徐々に減ってきているということだった。彼はそんな状況を説明すると、「おかげでよそ者の自分が田んぼを無償で借りることができたんだけど、こうしてここで作業をしていると本当にいい土地だなってつくづく感じるんだよね。山があって沢が流れていて、田や畑にちょうどいい開けた場所があって。今の時代だからこそ、こういう場所で生活をつくっていくことができたらどんなに素晴らしいだろうってよく考えるよ。でも、ここに暮らしていた人もいろんなことを考えた結果に出て行ったわけじゃない? だとしたら望んでここを離れたことになるよね。ここで農作業をしていると、この田畑を捨ててでも手に入れたい暮らしってなんだったんだろうって、いつも考えてしまうよ」。彼はそう語ると、今やっている田んぼの作り方は、昔、この土地で暮らしていた老人から教えてもらった方法が基本になっていると付け加えた。彼は今日の作業となっている代搔きについて熱っぽく語り始めた。沢から直接田に水を入れると、水温が低すぎて苗が風邪をひく。そこで一番上流の田んぼを貯水池とする。田植えから逆算して2週間以上前にこの貯水池を沢水で満たし、太陽光で少しずつ温度を上げていく。そして田植えの1週間前に貯水池の水を田に引き込み、代搔きを開始する。以降、毎日代搔きをすることで水と土が混ざり、苗が根を伸ばそうとする土の奥まで温かな水が染み渡る。「この地で生きてきた農業者からすると当たり前の知識なんだろうけれど、昔の知恵ってひとつひとつが論理的ですごいなって感じることばかりだよ」。そこまで話した彼は、「よし」と立ち上がり、再びエブリを手にした。僕はそんな彼を眩しく思う一方、今の彼が目指そうとする場所が、この土地に存在できるものなのだろうかという不安を拭うことができなかった。

 

25歳で岩手の雫石に移り住んだ僕の興味は、彼のように土地の記憶や知恵に向けられた。昭和の高度成長期に関西の新興住宅地で育った僕にとって、岩手で受け継がれる知恵や工夫は新鮮であると同時に、それらのひとつひとつが、人がこの厳しい北国で生きていくことを支えてきたのだと知ると、深い感動を覚えた。それは当時の僕のなかで漠然としたまま、はっきりと輪郭を結ぶことがなかった「人が生きる」という問いへの答えのひとつだと思えた。そして、そうした古い世界から受け継がれてきたものに対し、そこに生きる人々が深い愛着を持っていることにも感銘を受けた。先祖から語り継がれてきた土地の物語のなかに自分という存在が加わっていくことを疑うことはなかった。彼らは、土地の記憶ともいうべきこの物語を、美しい口承詩を口ずさむような面持ちで遠い地からやってきた僕に聞かせてくれた。

その一方でこうした古い知恵や工夫を取り巻く世界が大きく変わりつつあることにも気づくことになった。手放すことでしか得られないものがあるという時代感覚の高まりは、長い時のなかでつむがれてきた世界を霞みの向こうへと遠ざけようとしていた。僕が驚いたのは、こうした感覚が、古い時代を知らない若い世代の者たちだけではなく、知恵の継承者である古老たちのなかにも生まれていることだった。「もう、オラたちの知っている世界は役に立たずだじゃ。昔の知恵は知らねくても、新しいものがあるから十分だじゃ」。彼らから初めてこうした言葉を聞いたとき、諦観から無理やり絞り出された言葉だと感じた。しかし、古老たちから土地の記憶を繰り返し聞くなかで、たとえ諦観の色を帯びていても底には本心が流れていると感じるようになっていった。なぜなら、古老たちの記憶こそが、その多くが、すでに失われた世界を語るものだったからだ。つまり、彼ら自身もまた、古い世界を捨てて変わることを選択したのだと僕は気付かされることになった。僕はいつしか、彼らを伝統の守人のような感覚で捉えることはしなくなっていった。そして、人という生き物には、衝動的であれ、過去を脱ぎ捨てて新しい世界へ向かおうとする意志が備わっているのではないかという思いを深めていった。「新しさ」を目の前にしたとき、それを手にして変わっていこうとする意志と熱量こそが、人の生きる力なのだと感じるようになった。

 

あの年の5月は晴れの日が続いた。小さな田んぼとはいえ、一本ずつ手で苗を植えていく「手植え」にはさすがの彼も苦労を口にしたが、天候に恵まれて予定よりも早く田植えを終えることができた。柔らかな葉をすいと伸ばした苗が小さな田んぼにきれいに並ぶと、若草色の水盤が現れた。梅雨に入ると、苗は背丈をぐんぐん伸ばし、風が吹くとさわさわと揺れて瑞々しい草原となった。

彼は足繁く田んぼに通い、水の管理や雑草取りに精を出した。暑さが増してくるにつれて日に焼けてより精悍な顔つきになった。初めて会ったときの不安げな表情は、今の彼から完全に消えてしまったと感じた。田畑を観察するのが楽しいようで、僕に向かって作物ひとつひとつの成長の経過を詳しく説明した。僕はそんな彼を見て、先の未来を想像した。それは彼がこの土地で、農業者として具体的で現実的な生き方をつくっていくのではないかという期待だった。住民が消え、忘れ去られていく農地で、彼が新しい生き方をつくっていく。僕はそんな彼を写真に収めていきたいと思った。我が身を振り返ると、ひょんなことから縁のない岩手に暮らすようになって早くも10年が過ぎようとしていた。写真家を名乗り、生活することはできていたが、岩手という土地とともに生きているという実感を持つことは難しく、彼とはまた異なるかたちの逡巡を抱えていた。彼を見つめ、彼にカメラを向けることで、この土地で生きるということへの理解を深めていけるのではないか。僕はいつしかそう思うようになっていった。

やがて本格的な夏がやってきた。彼の田んぼではそろそろ稲の花が咲くだろうか。彼によると秋の収穫の良し悪しを左右するのは開花時期の天候で、開花中に夏らしく高温の日が続き、授粉が滞りなく進むことが重要だということだった。

「東北は、この開花時期に温度が上がらない冷夏に悩まされてきたんだよね。寒い夏が来て水温も上がらず花が咲かないと、稲の葉は黄色くならずにずっと青いまま大きくなるみたい。お盆が過ぎても原っぱみたいな真っ青な田が広がっている風景は飢饉の始まりを宣告されるようで、二度と見たくないと近所のおじいちゃんが言ってたよ。今年はどうだろうか。蒸すような暑い夏になるかな」。彼はそんな風に語り、開花時期の到来を楽しみに待っていた。

しかし、いよいよ気温が上がり出し、稲の花が咲き始めるという時期になって僕の家に届いた葉書には、彼が茅葺の古民家を去ったことが告げられていた。

「前略、大変、急に、誰にも言わず、沢内を出ました。自分に正直に行動しようと決めました。あてはとくになく、気持ちだけ離れないようにして、前に進むような感じです。何があっているとか、こだわってきましたが、不安を振り払いその日を過ぎる。何かを感じながら。奥山さん、ありがとう。そしてお互いに有意義であればいいですね」

僕は葉書を読み終えると車に飛び乗って彼が暮らしていた古民家に駆けつけた。古民家の中は薄暗く、しんと静まり返っていて、盛夏にもかかわらず底冷えのする空気が僕を迎えた。すでに住む人が消えた空き家の気配だった。踵を返した僕は、彼が大切に育てていた田んぼに向かった。田植え時期は萌黄色でふわふわと膨らむようだった山々は濃緑の塊へと姿を変え、押し黙ってどっしりと座っていた。彼の田はとくに変わった様子はなく、稲はぴんと尖った葉を空に向けていた。かすかな風でも反応するのか、葉先がゆらゆらと揺れた。空は湿気を孕んでいて、少し濁っていた。雨が近いのかもしれなかった。突然、森の蟬たちがけたたましい声を上げて一斉に鳴き始めた。