みすず書房

岬の光

岬の光

津軽と聞くと、どのような土地の姿を思い浮かべるだろうか。大地を凍てつかせながら無尽に駆け回る地吹雪や春の陽を浴びて満開に咲き誇るりんごの花々だろうか。あるいは、夏の夜に燃え盛るねぷた祭りの情熱だろうか。

青森の西半分を占める「津軽」に僕がはじめて訪れたのは、二十年以上前のことだ。「つがる」という独特な響きに誘われるようにして、津軽半島の北端を目指した。以来、多くの時間をこの土地で過ごしてきて、今の僕にとっての「津軽」の印象は南北に走る長い海岸線とそこに射す光だ。

津軽半島の北端の竜飛崎から秋田まで、延々と続く津軽西海岸の渚は、僕の脳裏のなかでいつも午後の強い日射を浴びている。空の高みから水平線に向かってゆっくりと下降する太陽がもたらす金色の光。海原全体が巨大な鏡となってこの光を受け止めて反射し、海岸周辺の色彩を変える。港に並ぶ船もその奥で身を寄せ合う家々も、少し傾いた電柱も、あちこちに赤錆の浮いた自転車に乗る人も、すべてが一日の終わりを告げる光に染まっている。それは黄昏と呼べる光でどこか哀愁を帯びてはいるが、一切の濁りはなく澄んでいて明るい。きっと太陽に近いからだろう。海が光を増やすからかもしれない。津軽西海岸の遅い午後から先は、すべてが光に包み込まれていくかのような不思議な時間が続く。

この土地に魅かれるようになった理由はいくつかある。一番に思い浮かぶのはやっぱりあの人のことだ。時の流れは早く、亡くなって七年目の夏を迎える。僕はこの人と出会い、カメラを向けていくなかで、自分の知らなかったことを考えるようになった。それは、言葉にすると「霊魂」についてだった。この「霊魂」なるものが「生命」と決定的に異なると思えたのは、その人が僕に繰り返し語った内容が、肉体的な死に捉われない魂の姿についてだったからだ。還暦を迎えようとするその人の過去は、生きていくことの難しさを痛感させる体験の連続だったけれど、津軽の風土で受け継がれてきた「霊魂」についての学びを深めることで、自らの人生を大きく変えた。それをあの人は「自らの魂にまとう霊性に気づいたとき、自分が変わり、求めるべき道が御仏の世界に定まった」と、津軽訛りの野太いしわがれ声で僕に話してくれた。この言葉で僕は自分のなかにはこうした世界が何もないことを知った。僕が育った家には神棚も仏壇もなく、両親から神仏や霊といった見えない世界を聞かされることもなかった。また、両親の実家が遠かったせいもあって近親者の葬式や墓参りを体験することもなく大人になった。結果、僕はあえて霊的な世界を避けて生きることになった。そんな僕にとって西津軽の海で霊魂を語るその人は、それまで出会ったことがない種類の人だった。

僕はその人に強く魅かれていった。自分にはないもの、理解できないものがあり、それがその人にとって生きていくうえで最も大切なことであるという事実に驚き、大袈裟に言うと「新しい人生」を発見したという思いを抱いた。この感覚こそが僕の行動を促す決定的な契機となったのだろう。以来、僕はその人が生きる津軽西海岸の小さな集落に幾度となく車を走らせることになった。

その人を訪ねるたびに津軽という土地の見方が変わっていった。もちろん霊的な視座を身につけたということではない。しかし、土地に身を置く時間が増えるに従って、津軽という土地が、僕が知るほかのどの土地よりも霊的な世界を深く見つめようとする意志を持っていることに気づいていった。たとえば津軽ではイタコに加え、カミサマという霊媒師が多く存在することもその表れに思えた。イタコ習俗でよく知られるのは、「口寄せ」と呼ばれる技だ。「技」と書いたのは、「イタコ」とは、盲目で生きねばならなかった津軽の女性が生活していくための、生業のひとつだったからである。盲目の女性たちは、黄泉の国で暮らす死者を自らに憑依させる「口寄せ」を可能とする霊力を、厳しい修行を通じて身につけることで職業として成立させていたのだ。一方、カミサマはイタコに似ているようで(現代では同じ文脈で語られることも多い)異なる。カミサマも人々から霊界に関わる相談を受ける立場なので、霊力を培う修行が欠かせないが、盲目である必要はない。カミサマの多くが独自の神がかり(神霊体験)を経ることで、その世界に目覚め、修行を深めていく先で「憑依巫女(男)」となっていく。つまり、カミサマはイタコと異なり、身体的な特徴がはじまりではなく、神がかる素質を持っているかどうかだ。また、イタコが「死」の世界に傾倒しているのに対し、カミサマは「神」の世界を覗き見る能力を持ち、予言を得意とする傾向にある。そして興味深いのは、津軽の人たちにとって、イタコやカミサマが想像以上に身近な存在だということだ。とくにイタコの数が減ってきているからか、カミサマはイタコより身近な存在として認知されている。津軽の人によると「津軽では、カミサマはかかりつけの医者のようなもので、何か困りごとがあればすぐに相談にいく」というほどのもので、家族全員がそれぞれ異なるカミサマに入信している状況も珍しくないと教えられた。

また、死の捉え方も僕が知るものとは大きく異なっていた。このことについてはまたいつかじっくり書きたいと思っているが、津軽の人にとって、死者は生者と同様に流れる時のなかを生きている存在だ。死者が生きているとは矛盾でしかないが、津軽の人が考える死者は、時の流れから外れて永遠に留まり続ける存在ではなく、黄泉の国で我々と同じように成長していく。だから、幼くして亡くなったとしてもいつかは成人し、結婚もするし、子供もつくる。現世を生きる親は亡くなった子の黄泉の国での成長を親の務めとして長年にわたって支えていく。こうした津軽特有の死者への向き合い方は、僕には衝撃的だった。「生死の分かれ目」という言葉を出すまでもなく、ふたつの世界には見えないながらも決して越えられない線が引かれていると信じてきたからだ。しかし、津軽では、生と死のあわいはより曖昧なものであって、人々の意識も両方の世界を漂うように行き来している。こんなことでは死者を忘れることができず、死者の存在に引っ張られ続けることにもなりそうなものだが、多くの人たちは死者のなかに深い愛情と懐かしさを見つけてむしろ歩み寄る。津軽の人々のこうした姿に、僕はそれまでの自分が想像することもなかった死の在り方を見つけたのだった。

霊魂という言葉に気づかせてくれたその人に会うために、津軽西海岸に向かう。その際、ときどき立ち寄る場所があった。そこは深浦町にある森山海岸と呼ばれる岩礁帯で、「象岩」と呼ばれる岩がランドマークとなっていた。象岩は確かに象に似ていて、澄んだ青を広げる海の中にあって、さながら青い草原を気ままに歩く一頭の巨像だった。この象岩の背後には崖に近い様相の大きな岩山が聳えていた。森山と呼ばれるこの岩山は海と大地にまたがるように鎮座しており、全体の半分は海原へと突き出す岬の姿となっていた。この岬の先端へは崖下から一本の道が通じていて、僕は訪れるたびにその道筋を辿った。道案内をするのは犬のさくらで、当時の僕の旅を支えてくれていたパートナーだった。さくらは艶やかな黒い毛を全身にまとった頭の良い雌犬で、僕の気持ちをいとも簡単に感じ取ることができた。とくに一度来たことがある場所であれば僕がどこに向かおうとしているのかをすぐに察知して、黒い尾を振って先導するのが彼女のいつもの行動だった。

あの日もさくらは車から降りるなり、岬へと向かう道の入り口に立って、機材の準備をする僕を待った。夕方に近い時刻だったが、暦は八月のお盆前でまだまだ日は長く、太陽の位置も高かった。カメラバッグを背負った僕がさくらに近づくと、彼女は軽やかに踵を返し、尾を振って歩き始めた。登り始めは少し急な坂が続く。岩山といっても木々も生えていて、ナラなどの広葉樹にマツの濃い緑が目立った。岩山の頂上付近になるとこの植生に変化が表れ、密になって生える背の低いカシワ林が続く。冬季の激しい海風のせいだろう。カシワは幹を伸ばすことができず、皆、海に背を向けるようにして陸地へと傾きながら枝葉を伸ばしている。このカシワの純林の背丈が人の背よりもさらに低くなると道は平らになる。岩山の頂上は馬の背のようになだらかな形状をしており、そのまま緩やかな曲線を描くようにして波が寄せる海へと落ち込んでいた。さらに進むと、ふいにカシワ林が途切れて視界が開ける。いつも、なぜこの場所を境にカシワの木々が根を張ることを諦めるのかと不思議な気持ちになるが、風景の変化に興味がないさくらは、四肢の動きを止めることなく先を進む。だから僕もすぐにカシワのことは忘れて明るい方へ、光が多い方へと歩みを進める。

岬では白い翼をゆったりと動かす海鳥たちが迎えてくれる。海原から吹き付けてくる風が崖下から舞い上がってくるからだろうか。海鳥たちは翼をほとんど動かさないまま崖下から空の高みへと、長い直線を描くように一気に昇っていく。一羽の海鳥が視界に現れた犬の姿を見て警戒したのだろう。金属音にも似た鋭い鳴き声を風のなかに発し、それが僕の耳にも遅れて届く。

風化した大小の石がごろごろと転がる岬の先端は夏の草花に覆われていた。その多くは膝から腰程度の背丈で、海原から吹いてくる風を受けると一斉に揺れて翻り、白っぽい葉の裏を見せた。たくさんの種類の植物が生えていたがハマナスが目立っていて、岬でたったひとつの建造物である小さな祠も細かな棘を持つハマナスの枝葉に守られるようにして建っていた。簡素なモルタル作り。本州最北の地の風雪は誰かの忘れもののようなこの小さな建造物を容赦なく襲い続けているのだろう。モルタルの表面は大きくひび割れ、剝離し、倒壊する日が遠からずやってくることを伝えていた。

僕は祠の前に立って岬の全体を眺めた。そして、いつもの問いを思い浮かべた。なぜここが土地の人たちにとって「賽の河原」なのだろうかと。なぜこの陸と海のあわいを作っている岩山の先端に死者を弔うための祠を建て、あの世とこの世のあわいを見出すのだろうかと。

津軽西海岸に暮らす人にとって、世界はふたつに分かれている。半分は陸、そしてもう半分は海だ。海は糧を求める大切な場所であり、深い親しみを抱いている場所だ。風や光を受けて刻々と変えるその表情、匂いと音。この地の空には潮騒と呼ぶ独特の音が響いている。海が持っているあらゆる気配がこの地に生きる人々の身体の奥深くに染み込んでいる。でも、知らない海もある。それがあの世、黄泉の国へと通じている海だ。人々は、この地で生きた霊魂は海原の向こうに、いくつもの海を越えて旅立って行くと考えている。でも、どうやって海が終わり、黄泉の国がどのようにして始まっているかを答えることはできない。光に満ちて穏やかで寂しくないところだと言い聞かせて、逝く人の霊魂を送り出すだけだ。此岸で立ち止り、旅立つ霊魂に別れの言葉を伝え、海の向こうの彼岸へとその背中を押す。ここではそんな営みが繰り返されてきた。

僕は草のなかに腰を下ろした。草陰に隠れていて今は見えにくくなっているが、少し目を凝らせば、亡き人の名が刻まれている石があちこちで見つかるはずだった。また、風化に身を任せて表情を失った人形や、すっかり色褪せてしまったおもちゃなども見つかるだろう。海の向こうでもたくさん遊んでおいで。人々はこの岬に、先に逝った人を憶う心のかけらを置いて帰るのだ。

太陽の位置はまだ高く、雲がないためか陽射しは強さを保っていた。美しい夕日の到来を期待した僕は待つことを決め、赤い舌を出して隣で座っているさくらの黒い背中をなでた。豊かな毛並みの下でしなやかで強い筋肉が熱を蓄えているのがわかる。犬にとって、この時期の気温と日射はきついものがあるのだろう。軽く開いた口から漏れる呼吸音は少し速く荒い。でも、赤褐色の瞳はいつもと変わりなく、凛とした光を宿している。さくらは鋭敏な嗅覚と聴覚で得た状況の変化を、この瞳の輝きで伝えてくる。あの日もそうだった。火でも灯すように瞳を一瞬強く光らせると、僕たちが辿ってきた道の向こうを見つめた。少しして、カシワの木陰から草を踏む音とともに現れたのは、初老の女性と中年の女性、そして小学生ぐらいの男の子だった。女性の二人はそれぞれの手に白、黄、赤の三色の花を付けた菊の花束を携えている。そして、道から離れて草の上に座る僕の姿を見つけると軽く会釈してそのまま通り過ぎ、岬の先端へと向かった。

三人は僕から数十メートル離れたあたりで立ち止まった。そこが崖下から続く一本道の終点だった。最後のあたりはほぼ踏み跡程度でしかなく、青草がさらっと覆い隠しただけできれいに消えてなくなっていた。三人は示し合わせたように、それぞれの方向を向くと浅く生い茂る草地に足を踏み入れた。自分の周囲を見回し、ときどき手を伸ばしさらさらと風に揺れる青草をかき分ける。手分けして何かを探しているのが手に取るようにわかる仕草だった。やがて初老の女性がしゃがみこんだ。背中を丸めて、草のなかに両手を差し込む。次の瞬間、顔を上げて立ち上がると、二人に向かって手招きした。気づいた二人は少し大股になって草を漕ぎ、女性のもとに向かっていく。初老の女性の横までやって来て同じようにしゃがみ込み、草の中に両手を伸ばす二人。三人の丸めた背中が夏草の上に浮かび、強い陽光がそれらを照らしている。三人がしばらくその姿勢でいたからだろうか。まるで陽光を浴びた三つの丸石が並んでいるようにも見える。

ゆっくり立ち上がった三人は、腰を伸ばし、海の向こうを眺めた。ときどき互いの顔を見て、言葉を交わしているようだが、その声は風にかき消され、僕の耳には届かない。水平線へと近づく太陽で完全な逆光となっているので、それぞれが浮かべる表情も黒い影のなかに隠れてしまっている。顔だけじゃない。僕が座る位置からでは、三人は完全な影法師となってしまい、服の色さえもよくわからない。急に僕は、三人がそのまま光の海に溶けていくのではないかと心配になる。空を映す海は圧倒的な光量を投げ返し、影法師たちの輪郭を滲ませていたからだ。

岬から人の姿が消えたことを見計らって、僕は丸い背中が三つ並んでいた場所にそっと近づいた。その場に立ってみると草の密度はさらに薄く、三人が置いていった菊の花束は簡単に見つかった。小さな花をたくさん付けた花束の先には、素朴な字で姓名が記された拳大の石ころが空を見上げるように転がっていた。その名前から想像できるのは性ぐらいで、名の持ち主が何歳で逝き、どういう人生を送ったのか、まったく想像できなかった。

僕は、「霊魂」なるものについて教えてくれたあの人とはじめてこの岬を訪ねた日のことを思い起こした。それは冬が本格的に始まろうとしていた時期のことで、岩山の頂上付近に辿り着くや海から吹き付けてくる強風に迎えられた。雪混じりのこの風は進むほどにますます勢いを増し、僕とさくらは煽られて何度もバランスを崩した。でも、あの人はしっかりとした足取りで踏み跡をたどって岬の先端に歩み出ると、崩れかかった祠の前で真っ直ぐに背筋を伸ばし、両手を合わせたのだった。その姿にカメラを向け、シャッターを押した後、僕も祠に向かって手を合わせる真似事をした。祠に背を向けて海に向き直ると、風の勢いはさらに強く感じられ、ツバのないニット帽であっても両手で抑えなくてはどこかへ飛んでいきそうだった。でも、あの人は気にも留めないといった表情で、この岬がどんな場所であるかを、僕にとっては聞き取るのが難しい津軽の言葉で話し始めたのだった。

森山の岬があの世とこの世を分かつ「賽の河原」と呼ばれるようになり、人々は家族が亡くなれば、その霊魂をこの場所から送り出すようになった。霊魂は名残を惜しみながらも親しい者たちと別れ、海の向こうの黄泉の国を目指した。しかし、この岬にあるのは別れだけではない。再会の喜びが生まれるのもこの岬だ。

盆を迎えようとする頃になると、霊魂は黄泉の国を旅立ち、現生の入り口となるこの岬を目指した。霊魂であっても海を渡る旅は苦労が多く、岬に辿り着くときには疲れ切っている。とくに子供の霊魂は体力に乏しく、岬に辿り着くことがやっとのことが多い。だからこの世に残っていた家族は旅をしてきた霊魂を迎えに行く。岩山を登り、カシワ林の先に広がる賽の河原を目指し、旅を終えた霊魂と再会し、抱きしめ、おんぶする。数日後にはまたここから旅立たなくてはならない定めにある霊魂であるが、今は懐かしい家族たちの背に揺られ、家路に着く。家の座敷ではさらに多くの懐かしい顔が待ってくれていると揺れる背の上で聞かされる。食卓いっぱいに並ぶご馳走も待っている。だから早く帰ろうと。

あの人から聞いた賽の河原の光景は、人が語り継ぐ物語のなかで最も美しいもののひとつとして僕の胸に記憶されることになった。そして、その光景を目にしたいと、こうして僕は岩山を登ってきたのだった。

人の営みは美しい。光る海を前に霊魂を迎える人たちの姿は、僕の胸にこのひとことを生んだ。三人の胸の内を想像することはできないし、亡き人の姿や声を思い起こすことも僕にはできない。でも、先に逝った家族を憶い、光る海で霊魂を迎えるこの営みは、人が永遠の別れと悲しみを受け入れるためのたったひとつの方法だと、僕に教えてくれたのだった。と同時にこの営みに覚えた美しさが、失い、触れることさえ許されなくなった存在を胸に抱き続けようする人間の深い哀しみから生まれていることを知った。

海風が少し涼しくなってきたせいか、隣にいたさくらは口を閉じて、伏せの姿勢でのんびりと黒い脚を伸ばしていた。夕暮れまではまだ時間があり、凪を広げた海は、金色から朱色へと色彩を変えながら穏やかに光り続けていた。