みすず書房

赤倉の人

赤倉の人

雪の季節が終わり、あとは積もった雪が解けてなくなるという時期だった。朝から弘前の街をまわっていくつかの取材撮影を終えてしまうと、午後の早い時間にその日は終了ということになった。同行していた編集者とライターは適当に雑用でもするからと先にホテルに入った。駐車場に車を止めて撮影機材の整理を終えた僕は、夕暮れまで何をしたものかと漠然と思いを巡らせた。持て余すというほどの時間ではなかったが、そのままホテルに入ってしまうには少しもったいない気がした。空は晴れており、太陽はまだ高い位置にあった。

岩手に暮らすようになり、「そうか、こういうことなんだ」と徐々に気づくようになったのが冬の日照時間の短さだった。雪が降る地域で冬の印象を作るのは、やはり雪だろう。とくに移住者であれば、幻想的で美しい雪の姿に心が奪われたまま数回の冬を過ごすだろう。実際、僕もそうだった。しかし、長く暮らすようになると雪は慣れ親しんだ隣人となり、初雪に対しては旅に出ていた友を迎えるような気持ちになる。そうなってくると、冬を意識する感覚のなかで存在感を増してくるのが日照時間である。これは文字通り、日が照っている時間を指すわけだが、冬に入っていく時期の北国の太陽は、〝照る〟というほどの力強さを持ち合わせてはいない。日の出からしばらくは頑張って輝いてみせるのだが、昼を迎える前には勢いを失い、西の空に向かって足速に横移動を始める。午後になり、太陽の印象をさらに弱くするのが山の陰から湧いてくる灰色の時雨雲だ。空の低いところで小さく光る太陽を簡単に隠してしまったら、あとは好き勝手にみぞれや雪をばら撒いていく。そうなると空はもはや日中とは呼べない照度となり、下に広がる林や野原は暗く沈んでいく。こうした景色を前にすると「光景」と呼ぶことを躊躇するほど光が乏しく感じられるのだが、光を完全に失っていく夜とは異なり、仔細に見ていくと木々の幹は独特の鈍く微かな光をまとって冬の大気の中で凍りつき佇んでいる。

十一月に入ると、こんな感じで光を削ぎ落とされた時間が毎日、午後の多くを占める。だからこそ、北国に長く住む者は陰に沈んでいく午後の時間が減っていく様子にも敏感になる。始まりは冬至である。暦に記されたこの一日を境にして、わずかずつだが空は明るさを取り戻していく。岩手の場合、この時期から先は冬型傾向の気圧配置となり、寒さは増していくことになるのだが、一方で晴れの日も増えてくる。そうなるとさらに空は明るさを増していく。三月に入ると、この明るさは顕著になる。気がつけば太陽はずっと高みまで昇り、暖かで強い光を放つ時間を増やしていく。そして、日を追うごとに冬は追いやられ、小さくなっていく。

取材撮影が終わったときのもったいないという感情の発端は、この日がちょうどそういう時期だったからだ。大気はまだ冬の気配ではあるが太陽は空の高みでとどまったまま、暖かな日差しを放ち続けている。ふと、赤倉霊場に行ってみるかと思った。それは思い付きに過ぎなかったが、なぜか強く促される感覚があった。

二十五歳で岩手に移り住んで以来、東北各地に足を運んできた。何年も続けることになった旧街道を訪ねる旅では、東北の風土に根付く暮らしをつぶさに見てまわり、祭礼をめぐる旅では東北の精神性を間近に感じる機会を得た。結果、通りすがりを含めると東北では行ったことがない場所はないと言えるほどになっていた。にもかかわらず、赤倉霊場はまだ足を運んだことがない場所だった。決して訪れるのが困難な場所ではなかった。実際、赤倉霊場は津軽のランドマークである岩木山の北側の中腹にあり、弘前市の中心部からだと車で一時間程度の場所だった。しかし、簡単に訪れてはいけないという気持ちが先に立っていた。表現が曖昧になるが、「赤倉霊場」は、僕の人生のなかには存在しない場所だったからだ。

はじめて「赤倉」という場所のことを知ったのは、旧街道に関する歴史的資料で、そこには「津軽の霊能者たちとその信者たちが集う一大聖地」という当時の僕にとっては非現実的で訝しささえ抱かせる紹介内容だった。興味本位でしかなかったがこの一文に惹かれて「赤倉」について調べはじめた僕の前に現れたのが、「ゴミソ」や「カミサマ」と呼ばれる津軽の霊能者たちだった。彼らはいわゆる民間巫者(ふしゃ)や祈祷者と呼ばれるものであり、存在自体は津軽独自のものではない。しかし、文献から浮かび上がってくるのは「津軽のシャーマン」と呼ぶほかない津軽の地に深く根ざした霊能者としての姿だった。そして、このカミサマたちと深く関わっていたのが「赤倉」という場所だった。

赤倉霊場の歴史は謎の部分が多いが、津軽に生きる人々から「おやま」と敬われ古くから信仰の対象だった、岩木山という場所の力が深く関わっている。岩木山の峰は「岩木山」「鳥海山」「巌鬼山」という三つに分かれる。その代表となる南側「岩木山」には岩木山神社があり、「津軽総鎮守」として、歴代津軽藩主の手厚い庇護を受けてきた。この「岩木山」に向けられた信仰を陽とすれば、北側の「巌鬼山」は、陰の信仰を支えた土地とでも表現すればいいだろうか。通称「赤倉山」と呼ばれてきた巌鬼山は、古くから修験者たちの行場であり、夜空を飛び去っていく光玉など数々の奇譚が語り継がれる異界的な性格を持つ土地だった。そうした場所に集まってきたのが津軽の霊能者であるカミサマたちだった。  

カミサマたちが赤倉に集い、「行堂」や「霊堂」などと呼ばれる修行小屋を建てるようになったのは大正時代の末期だったとされている。昭和に入ってからもカミサマによる行堂の建設は続けられたが、赤倉が霊場として最も繁栄したのは昭和三十年代のこと。この時代の赤倉には三十近い行堂が建ち並び、何十人もの信者を収容できる宿舎や拝殿なども建立されていた。当時の赤倉はまさにカミサマの一大聖地として多くの信者で賑わったのである。しかし、この繁栄もやがて衰退の途を辿っていく。そこに至る理由は「一代限り」というカミサマ信仰の特質にあったとされている。津軽の民間信仰で必ず語られる「イタコ」とは、視覚障害を持った女性たちの生業のひとつであり、「口寄せ」をはじめとする特殊技能は、イタコからイタコへと伝承していくという形態をとってきた。つまり、「イタコ」とは伝統的な職能のひとつである。一方のカミサマは、技術を受け継ぐという職能的な要素はない。カミサマはある日突然、神の啓示を受けカミサマとなる。もちろん、それは「カミサマ」への始まりに過ぎず、その後の修行は必要なのだが基本的には自己流の修行を続けていく。カミサマも弟子を取ることがあるが、弟子がそのままカミサマになれるわけでもない。カミサマの特殊能力が弟子や親子間で伝承されることはごく稀で、あくまでその個人が霊能力を持つか否かによる。つまり、イタコはイタコという伝統から出発しているのに対し、カミサマはあくまで個人という枠内で成立する存在なのである。そう考えると赤倉霊場の衰退はある意味、約束されていた未来だったのだろうか。たとえ「カミサマ」であっても人間であることには変わりない。老い、いずれは死ぬ。ただ、赤倉においては、それは単なる人の死ではなく教祖の死であり、信仰の中心を失うことを意味する。結果、信者たちは精神的支柱を失い、信者集団は離散へと向かっていくことになる。昭和三十年代をピークにして赤倉霊場が衰退していった背景には、こうしたカミサマの死による信者の離散があるとされてきた。当時、赤倉を拠点にしていたカミサマの年齢がある程度似通ったものだとしたら、確かに霊場全体が衰退への道を歩みはじめたという考え方も納得いくものだ。ただ、本当にそうなのだろうかという疑問も抱く。ひとりのカミサマが死んで信者集団が離散したとしても、もし、津軽の人々がカミサマを必要とするのであれば、また新たなカミサマが出現し、霊場は新陳代謝を繰り返しながらある程度は維持されると考えられないだろうか。

赤倉に修行をするためにやってきたカミサマは、沢筋にノマ小屋と呼ばれる簡素な藁小屋を建てたという。そこでひとり滝に打たれるなどの行を続け、自らの心体に宿した霊力に磨きをかけた。かつての赤倉ではそうした新たなカミサマが跡を立たず、新たな信者を取り込みながら行堂がひとつまたひとつと生まれていった。こうした当時の様相から見えてくるのは、それだけのカミサマを必要とする人々がこの津軽に存在したという事実である。だとしたら昭和三十年代の繁栄を境にして赤倉霊場が衰退していった理由は、決してカミサマの死による信者の離散だけではないように思える。当時の日本の時代背景としては、高度経済成長が始まっていこうとする時期である。もちろん、ここで起きる社会の変化については、大都市と地方部では時間差があったことだろう。とくに本州の辺境とも呼べる青森に発展の波がすぐにやってきたとは想像し難い。しかし、それでも時代は確実に変化し、人々の気持ちが向かう先はより新しいものへと変わっていったに違いない。そんな時代において、人々の眼に赤倉霊場のカミサマはどう映っただろうか。変わらぬ思いでカミサマの前で頭を垂れて、その声に耳を澄ますことができたのだろうか。人生の苦悩を見つめ、信者たちを安寧の時へと導くために岩木山の深山で滝に打たれる人の姿は、かつてと変わらぬ求心力で人々の心を強く引き寄せることができたのだろうか。

赤倉霊場の歴史を紐解くことで見えてきたのは、かつては津軽に生きる人の精神的な拠り所でもあったこの場所から、理由はどうあれカミサマが消えていったという事実だった。そして、カミサマたちの行堂が建ち並び、多くの信者たちが詰めかけていた赤倉霊場の姿は遠い昔のことであり、今となってはこの津軽から「赤倉霊場」という言葉さえも忘れ去られようとしているというのが、資料から知り得た赤倉霊場の今だった。

白い雪を被った岩木山に向かってハンドルを握った。山麓に広がるりんご畑は雪解けが進み、ところどころで黒い土が顔を見せていたが、岩木山はまだ真っ白だった。赤倉は岩木山の中腹にある。道路は雪に閉ざされていないだろうか。辿り着けるかどうか不明だったが、車は徐々に岩木山の北側へと進んでいった。

道の両脇にはまだ分厚く雪が残っていたが、幸い車道には雪がなかった。数々の奇譚が語り継がれ、異界とされてきた場所だけに少し身構えるような気持ちだったが、実際にたどり着いてみるとあっけらかんとした世界が広がっていた。それは赤倉霊場の気配というより、厳冬期の凄みが消え去り、かといって深い闇を連想させる夏の陰も存在しないという残雪期特有の雰囲気からくるものだった。僕は道を塞ぐかたちでふいに現れた大きな赤い鳥居の下に車を止めて長靴に履き替えると、その先へと続く雪の道を徒歩で辿り始めた。鳥居の手前には文字が消えかかった案内板があり、この先が赤倉霊場と記されていた。

たどり着いたそこは何とも言えず落ち着かない場所だった。たとえば寺であれば伽藍構成という意識のもと、山門、本堂、仏塔、庫裡(くり)などの建物が配置される。しかし、赤倉霊場にはそういった何らかの秩序は存在しないようであった。霊場内にはカミサマが信者を集めて修行や祈祷を行った行堂がいくつも建っていたが、それは道沿いにバラバラに点在しているとしか言いようがなかった。また、建物の意匠や様式についても統一感は皆無だった。おそらくそれぞれのカミサマが霊感に従って建築場所を決め、思い思いの様式の行堂を建てたのだろう。さらに霊場内に漂う荒んだ空気も落ち着かなさを募らせた。冬季明けという時期的なものもあるだろうが、行堂の多くは空き家然としており、雪の下から捨てられた生活用品がのぞく様子は、「霊場」という言葉に似つかわしくないものだった。また雪の重さに耐えきれず屋根が落ちて廃墟化している行堂もあった。僕の目の前に広がる赤倉霊場には、この場所を忘れ去るための時間が流れているようにも思えた。

その一方で濃厚なまでに感じたのが、ここに人が集い、さまざまな思いを抱いたという、人間の情念から立ち上る熱のようなものだった。人々に忘れ去られた土地で、人間が残していった感情のかけらが互いに結び付くことで発酵にも似た作用を生むのだろうか。何かを求め、この岩木山の山中にたどり着いた人々の思いは消えるどころか自ら熱を放ち、深まっていこうとしている。耳を澄ませばこの熱の声が聞こえてくるのではないか。僕は誰もいない霊場に立ち尽くすしかなかった。今思うと、当時のこうした印象はきっと、僕が抱いていた赤倉霊場という先入観が生んだのだろう。しかし、人の気配を無くした赤倉霊場には、確かに「人」の存在があった。

男は黒いツナギの作業着にゴム長靴という姿だった。首に巻いている白いタオルの汚れが目立った。
 駐車した際に他の車はなく、霊場内にも人の気配はなかったので、行堂の前に立つ人の姿を見たときには少し身構えた。それは向こうにとっても同じだったのだろう。僕を見つめる視線は明らかに警戒の色を帯びていた。しかし、僕はこの人物に何か惹かれるものを感じ、会釈をするとそのまま近づいていった。

年齢は当時の僕と同じ三十代後半から四十代に入った位だろうか。少しやさぐれた雰囲気を漂わせており、青年と呼べる年齢ではなかったが幼さも感じられた。男は僕が尋ねる前に自分がここで何をしているのかを話し始めた。それはいわゆる家族の話であり、身の上話ということになるのだろうが、僕は引き込まれていった。僕と同年代であるにもかかわらず、男が口にする話は僕との同時代性をまるで感じさせず、奇妙な物語を聞くような感覚を覚えたからだった。

男の曽祖母が赤倉に行堂を建てたのは大正時代のことだった。当時の赤倉は修験の行場であり、女性が安易に近づける場所ではなかった。しかし、曽祖母は神のお告げを信じて女性で初めて赤倉に入ることになった。明治生まれの曽祖母がカミサマになるきっかけは我が子の病を治すために始めた(みず)垢離(ごり)だったという。夢枕に現れた神のお告げによるこの行は三年三ヶ月におよび、無事に満願成就したことで曽祖母はより本格的な信仰の道に入ることになった。そして、この時期を境に悩みを持った人々が曽祖母を訪ねてくるようになり、カミサマとしての名声が広まっていった。やがて曽祖母は赤倉に行堂を建立し、拠点を移すことになるのだが、そのきっかけも夢に現れた神のお告げだった。赤倉の行堂には悩み事を抱えた人々が日参し、曽祖母はひとりひとりから身の上話を聞いて救済にあたった。結果、曽祖母の霊能力は津軽一円のみならず、海を越えた北海道にまで知られることとなり、年を追うごとに信者の数を増やしていった。こうした曽祖母の活動がその後のカミサマたちによる赤倉霊場の繁栄の礎となったことから、曽祖母は赤倉の祖として崇められるようになったという。しかし、そんな曽祖母も寿命を迎えることになる。曽祖母が老境に入った頃より、曽祖母を開祖と定めての教団化が進められており、逝去後は子孫が信仰を守ることになっていた。しかし、実際はそう簡単なことではなかった。曽祖母の霊能力は特別なもので、それを受け継ぐことは困難だったからだ。先に書いたようにカミサマ信仰は、そこにカミサマが存在してその求心力を保つことで可能となる。絶対的な求心力を失った教団は自然の流れとして衰退の道へと進んでいくことになった。それは、昭和四十年代以降に加速する赤倉霊場全体の衰退期と重なるものでもあった。

男はそんなことを話すと、自分はそれでも曽祖母が築いたお社を守るためにこうしてこの赤倉に通っていると語った。気になったのはその話ぶりだった。決して排他的ではないのだが、僕に対し苛立ちを隠さない口調だった。また、カミサマとしての曽祖母やその後の教団を語る際には、どこか突き放した印象を残す言葉を選んだ。その言葉の端々からのぞいていたのは、赤倉に対して抱いている複雑な感情だった。男は一方的に話を切り上げると、自分が守っている曽祖母のお社を見ていかないかと誘った。

男が守っているという拝殿は、門外漢の僕からすると、一般的な神社様式に見えた。男によると、生前の曽祖母が行堂を神社と改めたのは戦後直後のことだったという。しかし何度も、自分たちの神社は神社庁には属していない存在だと強調した。その理由は、赤倉の信仰は赤倉だけのもので、こうした神社の様式であってもいわゆる「神道」とは別なものだからだということを繰り返し語った。そして、その口調はやはり苛立ちを隠さないものだった。

男は構わず話し続けた。若い頃から定職に着くことなく生きてきたこと。しかし、ずっと以前から曽祖母が残し、祖母、父親と引き継いできた赤倉霊場を忘れたことはなかったこと。赤倉に通って神社を守っている理由は父親が年老いて手伝おうと思ったからだが、ただそれだけでもないような気がすること。カミサマ信仰に対しては特別な感情を持っているわけではないが、自分の曽祖母がカミサマだったということには何か縁のようなものを感じること。「でも、カミサマがいねくなり、信者もいねくなって赤倉霊場そのものが廃れていくことに特別な感情を持ってはいねえよ。ただ、やっぱりこの場所をそのまま放置するってわけにはいかねえから、ここサ通って、こうして維持管理を続けているのサ。今日来たのは雪の被害を確認するためだよ。毎年、どっかのお堂が雪に押しつぶされんだ。オラたちの社も必ずどっかが雪に壊される。修繕は俺一人の力では何ともならないことばっかで、金もかかるしたまったもんじゃねえ。でもやっぱりそのまま放っておくこともできねえもの。ひと夏かけてでも修繕するしかねえな」。
 男の話は終始こんな調子だった。そして、カミサマの世界に興味があるという僕に対し、「雪が完全に消えて新芽が出る頃になると赤倉山の山開きがあるからよ、それに来たらいいんだ、自分は祭りを執り行う側としていろいろやってるはんで。おめえが暇だったらよ」と放り投げるような口調で言った。

結局、名を名乗ることも聞くこともなく男とは別れ、僕は赤倉霊場を後にした。しかし、その出会いは僕に深い印象を残すことになった。彼と話して感じたのは、彼がカミサマの世界に生きてきたわけではないということだった。その人生は「カミサマ」が身近なものではあっただろうが、そこで生きようとはしてこなかった。しかし、その一方で、今はこうしてカミサマの世界が忘れ去られようとする世界にひとり身を置いている。男の眼にはカミサマの世界と、それを忘れ去ろうとする世界が拮抗するものとして映るのだろうか。それとも反発しあいながらもどこかでひとつの流れになるものとして映っているのだろうか。と同時に、この誰もいない赤倉に絡め取られるような自らの存在をどう眺めているのだろうか。男の苛立ちは外の世界に向かいながらも、どこかで反転し、赤倉に複雑な思いを抱く自らに向けられるものなのだろうか。

伝統文化の終焉についてときどき考える。それは東北の祭礼をめぐる旅が僕に求める時間のひとつだ。祭礼の現場では「後継者不足」がいつも問題になる。祭礼の本当の目的はまた違うところにあるだが、一般的には祭礼を含む伝統文化はその言葉通り「伝統」を受け継ぐことが重要視される。そこで必要となるのが後継者だが、次世代の育成が滞りなく進むわけではない。担い手不足の理由としての常套句は少子高齢化だ。確かに現役世代は老いを深め、子供たちはわずかしかいない。しかし、問題は本当に人口減だけだろうかという疑問にいつも突き当たる。なぜなら、今の時代、祭礼が本当に必要なのかと問われると素直に首を縦に振ることができないからだ。祭りの部外者である僕がこのようなことを口にするのは失礼なことは百も承知だ。しかし、東北の各地で祭礼という営みを見続けて強く感じてきたことは、祭礼に与えられたそもそもの役割はひとつの終焉を迎えようとしているということだった。

たとえば、田植え後に行われる「虫送り」は、稲を食い荒らす害虫や病害を遠ざけるために始まった祭礼だとされている。当然、農薬が発明される以前のことで、収穫の出来不出来が生死に関わる時代の話である。そのときに生きていた人は、歌や祈りで害虫を遠ざけようとしたわけだが、それが可能だと本当に信じていたのだろうか。もしかしたら、自然を前にした無力さを思い知る余り諦観の方が優っていたかもしれないと想像することもできる。しかし、少なくとも切実な思いはあった。自然の前では祈るよりほかないという痛切な思いで虫送りという祭礼を続けていたのだろう。そういう意味では祭礼は人々の思いを受け止める役割を担っていた。では、今の僕たちにとって祭礼はどういった役割を果たしているのだろうか。地域振興や観光、あるいは世代間のコミュニケーションの創出などいくつもの役割を祭礼に見出すことは可能だ。しかし、そうしたもので遠い時代に生まれた祭礼を守り続ける理由になるのだろうか。今の僕たちが風に揺れる稲に向かって「虫にやられないように」と放つ祈り声を、先人たちの切実な思いにシンクロさせることに意味があるのだろうか。もし、そこに意味を見出せないとしたら、たとえ過去と変わらぬ様式で祭礼が行われたとしても、それは形骸化と呼ぶしかない行為にも思える。

祭礼は人が作り出した営みのひとつだ。人が存在している限り、「営み」が終わりを迎えることはないだろう。しかし、この変わりゆく世界のなかで、「伝統」というだけで未来永劫続くことを誰もが信じているのだろうか。少なくとも僕が見てきた祭礼の多くは「伝統」の前で立ち止まり、逡巡のなかにあるように思えた。もしかして、祭礼は生まれ変わろうとしているのかもしれない。だとしたら、今がその過渡期という気がしてならない。伝統のなかに遠い時代に生きた人の信仰や価値観を見出しながらも、それを捨ててでもそこに代わる新しい何か、この先の世界を生きる人にとって必要な何かを作り出そうとしている時代が「今」だと思う。ただ、現在がそうした時代だとしたら、誰がその終焉を見守るのだろうという問いが僕のなかにある。誰が受け継がれてきた営みを前にして「役割を果たした、もう十分なんだ」と声を掛け、見送るのだろうか。

赤倉霊場で出会った男は、その役割を担おうとしていると考えられないだろうか。赤倉に通う彼の眼に映るのは、おそらくカミサマ信仰のゆるやかな終焉だろう。冬が来るたびに赤倉に残された行堂がひとつまたひとつと雪に押しつぶされていく。そのなかには曽祖母が残した社も含まれる。考えようによってはその状況を自然の摂理と取ることもできる。岩木山中腹に広がる赤倉の大地はかつての何もなかった頃の姿に戻ろうとしていると。しかし、彼は曽祖母の世界を見捨てようとはしない。雪が解けたら修繕に取り掛かる。彼の言葉通り、途方に暮れることだろうし、いつまで続ければいいのかという葛藤が消えることはないだろう。苛立ちながらも、それでも彼が曽祖母の世界を守り続ける理由は看取りに近い感覚なのだろうか。それとも、曽祖母が残した世界に新たな意味や役割を作り出すことを諦めることができないからなのだろうか。

初めて赤倉霊場を訪れてから十年以上の月日が流れ、今日までに一度だけ再訪した。そのときは一人ではなく、赤倉霊場で修行をした経験を持つ知人と一緒だった。赤倉霊場で修行をした多くのカミサマと同様、知人が師事したカミサマもすでに鬼籍に入っていた。知人が案内してくれたのは、師匠のカミサマとともに修行したという行堂で、半ば崩れ落ちながらも森の中に残っていた。知人は荒廃した状況に胸を痛めつつも「懐かしいべな」と木陰で隠れていた観音様の石像に向かって手を合わせた。遠い昔、ここで修行をする知人の姿を想像した僕はふと、「パラレルワールド」という言葉を思い浮かべた。僕が生きてきた同時代に、岩木山の山中では、カミサマたちが自らの霊力を振るい、信者たちの救済にあたっていた。彼らのこうした世界は確かに実在していたが、僕自身が生きてきた人生とは全く別の世界の出来事で、一瞬でも交わることがないものだった。しかし、赤倉の磁力に引き寄せられたのか、今の僕はこうして再びこの地を訪れることになり、ときの忘れ物にも見える行堂の前に立っている。異界と畏れられてきた赤倉霊場も決して遠い世界ではなく、変わりゆく社会のなかで揺らぎながらも存在しているということなのだろうか。

少しだけ期待していたのだが、初めて赤倉霊場に足を踏み入れた日に出会った黒いツナギの作業着を着た男に会うことはできなかった。ただ、彼が苛立ちを隠せない口調で「いつでも見捨てることもできるけどサ、しょうがないから守っているんだ」と語っていた社はあの日と変わらぬ姿で静けさをまといながら凛とした表情で建っていた。彼があの日から今日まで、この赤倉に通い続けている証だった。緩やかに閉じていこうとする世界で彼は探し物を見つけることができたのだろうか。