東北北部を俯瞰して見ると、鹿角はちょうど中心に位置している。地形としては鹿角盆地となっているが、土地の印象は異なっている。視線を東に向けると屏風となって立ち並ぶ奥羽脊梁山脈で行き止まりとなり、反対の西に向けると身を寄せ合うようにして並ぶ出羽山地で再び行き止まりとなる。鹿角盆地はこのふたつの山脈の狭間を埋めるかたちで南北に長細く伸びている。東と西を高い山で遮られるせいで、日照時間は短い。奥羽の山々の頂からゆっくりと朝日が昇ったかと思えば、太陽は盆地の高みをするすると移動し、赤く色付く前に西で待つ出羽の山々の向こうへと身を隠してしまう。しかし、この土地は不思議と閉塞感を感じさせない。盆地の南端から北側へと米代川が流れているからだろうか。川は水を運ぶ道であると同時に風の道でもある。音を立てて流れる瀬の上を次々と群れになった風が追い越していく。盆地で停滞しようとする大気はこの風に追いやられ、新しい空気と入れ替わっていく。
小豆沢集落は鹿角盆地の南端に位置している。この小さな集落が盆地のなかで特別な場所だという印象を与えるのは米代川の存在による。奥羽の山々に湧き出す清水を集め、飛沫を上げて流れる姿に秋田を代表する大河の印象を持つことはできないだろう。しかし、この若々しい流れが風を運びながら盆地の広がりへと向かっていく様子は、ここから何かが始まっていくという瑞々しい感覚をもたらす。
春彼岸の終い日、僕は鹿角の盆地全体を望む山中にいた。春といっても山はまだ雪に覆われており、木々は凛とした表情で冬の沈黙を守っていた。
スノーシューを履いて斜面を登る僕の先には、小豆沢で「オジナオバナ」を執り仕切る古老の背中があった。カンジキを履いて一歩一歩山を登る古老は、ときおり立ち止まって後ろを振り返ると、木々の枝の隙間から覗く鹿角の盆地に目を細めた。午後の斜光に照らされた雪の盆地は鏡となって光を反射し、銀色に輝いている。
僕たちが登っていたのは集落の背後に立つ五ノ宮嶽だった。暖冬傾向で雪が少ないと聞いていたが、実際に山に入ってみると想像以上に積雪があり、踏み出した足は膝上まで雪に沈んだ。おまけに早春の陽光を浴びて緩んだ雪は長靴にまとわりつき、登り始めから泥のなかを歩くような苦労を味わった。ツボ足での登山を早々に諦めた僕は、バックパックにくくりつけていたスノーシューを装着することになった。
この登山で目指していたのは、五ノ宮嶽の中腹に鎮座する薬師神社で、そこまではゆっくり登っても2時間ということだった。しかし、僕と古老は、少し遠回りになるが稜線を伝って薬師神社を目指すことになった。稜線は日当たりが良いせいか雪はさらに緩み、粗いザラメ状になっている。持ち上げた足を下ろすたびにスノーシューの底からざくざくと大きな音が鳴った。
「シマ」は見晴らしの良い稜線に唐突な感じで立っていた。茅を束ねて円錐状にしたシマは2.5mほどの背丈があり、根元の直径は2mを超えるものだった。遠目から見ると束ねられた茅の質感は柔らかで動物の毛並みのようでもあり、円錐状のシルエットはしゃがみ込む人の後ろ姿を連想させた。稜線にはこのシマが13基、数十メートルほどの等間隔で並んでおり、それをひとつずつ確認するために遠回りしたのだった。
「今年は雪で倒れているシマもねぇ。根元の雪ももうすっかり溶けてらな」。古老はシマの前で満足そうに呟いた。確かに古老の言葉通り、シマの根元は雪が消えて地面がぐるりと露出しており、いわゆる根開きの状態となっていた。「今年も無事にオジナオバナを迎えられそうだな」。古老は目を細めて再び呟いた。
鹿角の言葉で「お爺さん、お婆さん」という意味を持つ「オジナオバナ」は、鹿角に暮らす人たちが大切にしてきた行事のひとつである。いわゆる祖霊信仰の意味を持ち、春彼岸の行事として続けられてきたものだが、興味深いのは、祖霊の魂を迎え、送るという同じ意味を持ちながらも、この地域には3つの異なる「オジナオバナ」が存在することだろう。そのひとつ、鹿角盆地の北端にある宮野平のオジナオバナでは、集落の人たちが力を合わせて雪が残る田んぼの真ん中に藁小屋を建てる。この小屋は黄泉の国から帰ってきた祖霊を労うための場所で、子どもたちが藁小屋の中に入ってお爺さんお婆さんの魂を迎える。また、藁小屋は送り火としての役割も持っており、最終的には火が灯される。次に小豆沢と同じく盆地の南にある谷内では、針金で結んだ空き缶の中に火を灯した木片や松の根を入れ、夕暮れの空に向けて缶ごとグルグルと振り回す。これをやるのは主に子どもたちの役目で、一見すると火遊びにしか見えないが、これもまた迎え火と送り火としての意味を持っている。
小豆沢のオジナオバナも先で挙げた2つと同様、火を灯して祖霊の魂をもてなす行事である。しかし、スケールの大きさでは様相が異なる。舞台となるのは集落の背後で雪を被って立つ五ノ宮嶽。小豆沢集落の人たちは彼岸の終い日を迎えると、この山に登って峰伝いに送り火を灯す。つまり山全体を使って大きな送り火をつくり、黄泉の国に帰る祖霊を見送るのである。
このオジナオバナの作業は前年の秋から始められる。最初に行われるのが茅の確保。集落の者で手分けして茅を刈り、乾燥させておく。十分に乾燥が進んだところで、男たちが茅の束を背負って五ノ宮嶽に登り、数十メートルごとにシマを立てていく。これを普段の年であれば12基、閏年であれば13基並ぶようにする。稜線にシマを並べ終えたら、そろそろ雪の季節の始まりで、シマは降る雪に包まれていく。年が明けて彼岸が近くなるとオジナオバナに向けての準備が始まる。一番の心配は山に降った雪。里に雪が少ない年でも山は深雪だということも少なくない。そこでオジナオバナ当日を迎える前に一度、五ノ宮嶽に登って確認する。もし、雪が深く、シマが隠れてしまっている場合は、掘り起こしてお日様に当てて乾かす必要がある。小豆沢ではこうした準備を整え、祖霊を送る日を迎えることができる。
13基のシマの確認を終えた僕たちは稜線を離れ、再び木立が並ぶ山中へと入っていった。登り口周辺はナラやホオなどの何種類もの広葉樹が混じる森だったが、標高が上がるに従ってブナが占めるようになっていた。ブナの白い樹肌はさらりと乾いていて、風景全体が軽くなったかのような印象を与えた。やがて樹間を縫って進んでいた古老が立ち止まって頭を垂れた。手を合わせた先にあるのは薬師神社の鳥居だったのだが、2本の柱は半分以上が雪に埋まっており、見えているのは貫から上だけだった。鳥居の後ろにある薬師神社の拝殿も同じように半ば雪に隠れてしまっている。ただ日当たりの良い南側の雪だけは溶けており、ざらついた板戸が剝き出しになっていた。ここから建物の中に入ることができそうだった。拝殿の装飾は簡素で、人の出入りが頻繁ではないからか鄙びた気配を漂わせていた。
拝殿内部は広さにすると10畳ほどの板間で、祭壇を除けば神社というよりも簡素な山小屋の佇まいだった。電灯もなく薄暗い拝殿内だったが、南向きの壁の高い位置に格子窓があり、そこから屋内に外光がもたらされていた。僕たちは窓の光が落ちる場所を選んで床の上であぐらをかいた。室内といっても火の気がないため外気温と同じで、床も氷のような冷たさだった。それでも寒さを感じなかったのは、雪の急斜面を登ってきたばかりで身体が汗ばむほど熱っていたからだろう。僕はくつろいだ気持ちで板壁に背を預け、古老から手渡された缶コーヒーを開けた。古老も同じものを飲みながら、「今から12人の若い衆が登ってくる。それを待とう」と掠れた声でつぶやいた。つぐんだ口の周りを白い吐息がふわふわと漂った。シマに火を点けるのは午後七時と決められていた。時間が近づくとシマごとに一人ずつ待機し、定刻を迎えると同時に一斉に火を放つ。そのため、点火時にはシマの数だけの人が必要だった。若者たちは自分の脚力に合わせて、時間までに集落からこの薬師神社まで登ってくることになっていた。
やがて一人、また一人と若者たちが現れた。ほとんどの者がこの行事の経験者らしく、まるで隣近所の家に顔を出すかのように「おう」といった簡単な挨拶とともに慣れた感じで拝殿内に入ってきた。そして上着を脱いで身体から湯気を放つと、床にどっかりと座り、背負ってきたリュックの中をごそごそとまさぐった。熱った顔に笑みを浮かべて取り出したのはビールや焼酎などで、ぐいぐいと躊躇なく登山で乾いた喉にそれらを流し込んだ。
人が到着するにつれて大きくなっていく酒盛りの輪で交わされる会話は世間話に終始し、特別に盛り上がることもなければ、だからといって沈黙が訪れることもなかった。彼らにとっては地元の幼馴染みたちとの気楽な時間なのだろう。しかし、雪に埋もれるように建っている神社の中で車座になって酒を酌み交わす若者たちの姿は、僕の目からはふわふわとして少し現実離れしているように見えた。耳に届くのは名も知らぬ彼らのぼそぼそと低い声で、慣れない鹿角訛りのせいかはっきり聞き取ることが難しかった。それ以外には服が擦れる音、あるいは酒のアルミ缶が床板に当たる高い金属音が聞こえてくるだけだった。拝殿の外に吹く風はなく、周囲に広がるブナの森からは枝擦れの音ひとつ聞こえてこなかった。だからなのだろう、車座になって酒を飲む若者たちを閉じ込めたまま、拝殿そのものが雪の山の静寂に飲み込まれていく感覚があった。
点火要員の13人が集まっても、拝殿の空気は古老と板戸を開けたときと変わらず凛と澄んでいた。南壁の窓から落ちてくる光は時間を追うごとに弱くなっていき、若者たちの一人一人の表情は陰のなかに溶けていった。しかし、ある時間からこの光は強さを増した。拝殿の外の世界では、太陽が盆地を挟んで対面する出羽の山々に沈もうとしていた。太陽は沈む間際に橙色の強い光彩を放つ。窓に切り取られてはいたが、光は若者たちの丸まった背中を暖めるように照らしていった。しかし、それもほんの束の間のことで音もなく光が去ってしまうと、より濃厚な陰が広がった。
酒を飲んでいた一人が「よーし」と唸るように立ち上がると風雨で汚れた格子窓に顔を寄せた。太陽は山々の背後に隠れてしまい、昼と夜のあわいのひとときが過ぎた風景は青みを帯びようとしていた。雪を被った盆地は青い湖にも似た色合いで眼下に広がり、そこには早くもぽつぽつと黄色や赤の明かりが灯り始めていた。「そろそだべな」。窓に顔を寄せた若者がそうつぶやくと、他の者たちも次々と立ち上がった。若者たちは何も言わず眼下の盆地を窓越しに眺めていた。盆地の夜景といってしまえばそれまでだが、山の静寂に飲まれるような不思議な感覚を抱いていたからだろうか。僕の目からすると、この明かりひとつひとつに誰かがいて、そこで、ここにいる僕たちと同じ時間を過ごしているということが遠いできごとのように思われた。近くて遠く、手に触れられそうでいて、届かない。胸のうちに広がっていくのは、遠い異国の地に暮らす友を望遠鏡で探すような、もどかしさと切なさがないまぜになった感情だった。
太陽が完全に沈むと拝殿のなかで飲む若者たちの顔はさらに見えなくなり、淡い闇の中で男たちの低い声が響いた。やがて、一人、また一人と用意していたヘッドランプのスイッチを入れ、頭に装着した。天井や壁にヘッドランプの鋭い光の線が何本も描かれると、拝殿内の静寂は自然と消えて、ざわめきにも似た気配が広がった。
古老の合図とともに若者たちは外に出た。森はすでに夜の帷が下りたあとで、吐く息がヘッドライトの光線で白く浮かび上がった。戸口には、灯油を含ませた布を巻いた松明が若者たちによって用意されていた。全員にそれが行き渡ると古老がライターで順番に火を点けていった。松明の炎でも13本になると相当の明るさだ。闇の中で青黒く広がっていた雪の山肌は、揺れる炎を映す鏡となって橙色の光を放ちはじめている。濃紺の空に隠れていた木々も尖ったシルエットを浮かび上がらせ、松明の火に強く照らされたブナの白い幹は赤く燃えているように見えた。
「よし、みんな、いいな。点火は七時ちょうど。早くても遅くてもわがねえぞ。時間まではシマの脇で待機だ。わかったな」。古老が少し厳しい口調で叫んだ。松明を掲げた若者たちは「おう」「おう」と低く応えるや、尾根に向かって一気に斜面を下り始めた。三月の後半とはいえ、夜を迎えて気温はマイナスまで冷え込んでいる。おかげで雪の表面が締まり、昼間とは比べられないほど楽に足を運ぶことができるのだろう。若者たちは軽やかに木々の間を縫い、するすると滑り降りていく。遠ざかるにつれ人の輪郭は闇に溶け、炎の群れが踊りながら森を駆けていくように見える。一人残された古老は最後尾の出発を伝えるため、「ほーいほーい」と森に向かって大声を上げると、若者たちの後を追って早足で斜面を降りて行った。
シマは午後に見て回った時と同じ姿で夜のなかに立っていた。三角のシルエットは暗闇のなかでも、やはり人の後ろ姿に見える。尾根の向こうには点々と明かりが灯る盆地が広がっているからか、その姿はさながら夜景を独りで眺める人だった。そこに松明を掲げた古老が歩み寄ると、茅の一本一本が明るく照らされ、茅特有の粗い繊維の質感がはっきりと見てとれた。
しばらく松明の炎に時計をかざしていた古老は、「よし、そろそろだぞ」と独り言をつぶやくと同時に、シマの根元に松明の先端を差し込んだ。パチパチパチ。茅の一本一本が乾いた音を立て白煙を燻らせたかと思うと、炎は大きく伸び上がり、あっという間にシマ全体を飲み込んだ。太陽が沈む前後に訪れる静寂の時間が終わって大気が動き出し、風が吹き始めていたのだろう。シマの頂部へと伸び上がった炎は風をたくわえる帆のように大きく広がり、轟々と獣の咆哮にも似た音を立てた。尾根の下を見ると、重なり合う木々の向こうでいくつもの赤い炎が伸び上がっている。無事に今年もすべてのシマを同時刻に点火することができたことに安心したのだろう。「火を点けてしまえば、あっという間だべな。本当にあっという間だ」と古老は早くも勢いを失いつつある炎を眺めながら同じ言葉を繰り返した。
山を降りながら古老とオジナオバナが作り出す風景についての話をした。それは、古老自身はオジナオバナを一度も見たことがないという意外にも感じられる話だった。
春彼岸の終い日、午後七時を迎える頃になると小豆沢の人々は見晴らしの良い広場に出かける。もちろんオジナオバナの送り火を見るためだ。このとき、ずっと守られている約束がひとつある。火が燃えている間、「オジナァ、オバナァ 明かりの宵に 団子背負って 行っとらえ 行っとらえ」と繰り返し歌うことである。彼岸を迎え、懐かしい故郷に帰ってきた亡き人の魂にとって、愛すべき家族と別れるのは辛いことだ。できれば、再び黄泉の国に帰ることなく、このままこの世で過ごしたいと願う。故人に深い親愛を寄せる家族も同じ思いだ。しかし一度彼岸に渡った者が、此岸で生きていくことは許されない。だからこそ、どこからでも見渡せる大きな送り火を、集落を見守る五ノ宮嶽に灯し、魂に向かって「オジナァ、オバナァ 明かりの宵に」と惜別の歌を届ける。夜空に歌声を響かせ、後ろ髪を引かれてたたずむ魂の見えない背中をその両手で押し出す。小豆沢ではこうした別れの儀式が数百年にわたり続いてきた。
古老はこの営みを見たことがないという。理由は明快だった。「オラは若え頃からずっと、こうして雪の山サ登って、シマに火を点ける役を続けてきたからな。いつもここサいるもんで、峰伝いにきれいに並ぶ送り火も見えねえし、歌っコも聞こえねえ。オラがオジナオバナを見れるのはそうだなあ。あの世に行ってからだべな。ま、それももうすぐだべ。んだども、ずっとこの行事を続けてくれるだべか。もし、途絶えてしまったらオラはやっぱり拝めねえことになるな」。古老はそんな風に話し、笑ったのだった。
ヘッドライトが僕たちの進む先を照らしていた。昼間、陽を浴びて溶けた雪の表面が夜になって再び凍りついたのだろう。緩やかな斜面に足を下ろすたびに、表面の薄氷が細かく砕けて跳ねた。氷の飛沫はヘッドライトを浴びると、硬く澄んだ小さな光を跳ね返して応えた。
あの日の古老の話を思い返すと、ひとつの問いに辿り着く。現代を生きる僕たちがこの「オジナオバナ」を、再び作り出すことができるのかというものだ。
祭礼が失われようとしているのは、今に始まったことではない。僕が東北の祭礼を巡り始めた十数年前の時点で、存続の困難を抱える祭礼がいくつもあった。それは部外者である僕から見ると、やめ時を模索しているようにも思えた。もちろん、すんなりとやめようとしていたのではない。代々続けられてきたものを自分の代で途絶えさせるわけにはいかない、という思いと、人手不足や高齢化、価値観の変化などの現実との狭間で揺れながら時を待つという感じだった。
この連載でも書いてきたが、僕は、祭礼とは共同体の営みのなかでひとつの役割を持つものと考えてきた。逆を言えば、祭礼は果たすべき役割があったからこそ生まれた。たとえばオジナオバナであれば、春彼岸で里帰りした祖霊の魂を敬いの心で迎え、再びあの世に送り出すために生まれた。この祭礼を必要とした世界では、「魂」が意志を持ったものとして存在しており、オジナオバナはそうした魂と交感するという時間だった。
では、小豆沢の人たちはこの変わりゆく現代のなかで、故人の「魂」は意志を持ち続けると信じていくことができるのだろうか。もし今後、彼らのなかから「魂」に語りかける理由がなくなってしまえばどうなるだろう。「オジナァ、オバナァ 明かりの宵に 団子背負って 行っとらえ 行っとらえ」という歌は必要がなくなってしまう。そうなったとき、オジナオバナは役割を終えることになる。
極端な話をしてしまうと、変わりゆく時代のなかでそれはそれで仕方ないと思う。数百年にもわたって必要とされてきた「役割」を終えるのだ。ある意味、成就ではないか。ただし、その一方で、祭礼を失った人たちがもしも再び祭礼を必要としたとき、かつてのような豊かな祭礼の世界を作ることができるのだろうかという問いも残る。もちろん、過去に失われた祭礼と同じものである必要はまったくない。「今」を生きる人にとって必要な祭礼とは過去を模倣することではない。そこで必要とされる役割を果たすためのかたちであるべきだ。
冒頭でも書いたように、小豆沢に伝えられてきたオジナオバナの準備は前年、茅を刈って、山に運んで尾根伝いにシマを立てるところからはじまる。そして、春彼岸の終い日の午後、男たちは山に登り夕暮れを待ち、盆地が夕闇に包まれる頃を見計らってシマに火を放つ。集落の人々は広場に集まり、雪の山で男たちが放った火に向かって、声を限りに歌う。このとき、おそらく彼らには日常では見えない世界が見えている。深い藍を湛えた夜の空を鳥のように飛び去っていく魂の姿が、この瞬間にはきっと見えているのだと思う。つまり、オジナオバナとは、小豆沢の人々が生と死を身近なものにするために生み出した物語なのだ。
祭礼とはきっとそういうものだ。見えない世界や抗いようのない運命を前にしたとき、人は多くの人たちと想像力を共有しながら、何世代にもわたる時間のなかでそれを読み解いてきた。その先で導き出された解こそが、祭礼という繊細な織物にも似た美しい営みを生み出し、人と土地を結ぶ物語となって語り継がれてきた。果たして今の僕たちにこれほどの豊かな物語を紡ぎ出す創造性や時間があるのだろうか。
小豆沢の集落まで降りてくると、シマに火を灯した男たちは公民館に向かった。こぢんまりとした平屋づくりの建物で、ガラガラと引き戸を開けると、そこで待っていたのは男たちの妻と子供たちだった。館内はサウナのような熱さで、ストーブから放たれる熱気のなかに女性と子供たちから立ち上る甘酸っぱいような匂いが充満していた。僕は妙な恥ずかしさを覚えつつ、男たちと一緒に酒が並ぶ長テーブルの前に座った。そこにエプロンをした妻たちが次々と料理を運んできた。彼女たちが用意していたものが、オジナオバナの郷土料理ではなくカツカレーだったことには拍子抜けしたが、大きな皿に山と盛られたカレーを頬張る男たちの姿を見ると、腑に落ちる思いだった。
小さな子供を持つ若い父親が多く、妻たちも若かった。料理がいきわたると妻は笑顔で自分の夫に寄り添い、熱心に話しかけた。子供たちは父の大きな背中によじ登ったり、服を引っ張ったりして遊んでいる。夫たちにとって、これはもはや家庭内での日常なのだろう。騒がしい妻や子供たちに構うことなく無心になってカレーを胃袋に放り込んでいる。妻も子供もそんな夫に小言を言うことなく、笑ったり、大きな声を上げたりして楽しげな表情を浮かべている。
そうか、男たちは帰ってきたんだなと、僕は公民館を満たす人いきれをしみじみと吸い込んだ。思い起こされたのは、出羽の向こうに太陽が沈んだあとに眺めた、淡い蒼を広げた盆地の風景だった。あの風景はまさに魂が眺めている風景だった。故郷に帰ってきていた魂たちは、終い日を迎えた今日、再び彼岸に向かうために旅立とうとしていた。夕刻が迫ってきたのを合図にその小さな身体をふわりと持ち上げ、盆地を見渡せる空の高みにたどり着いたとき、魂たちが見たのは盆地に灯る無数の灯りだった。そのひとつひとつに重なるように、家族や友の顔が浮かんでくる。手で触れることはできないが、愛すべき存在を包み込む盆地の風景だった。拝殿の窓に顔を寄せて夕暮れの盆地を眺めていた男たちの視線は、あの瞬間、彼岸へと渡る魂の視線と重なりあうものだったと思う。そして、外に飛び出して送り火を灯し終えると、山を降りて家族が暮らす世界に戻ってきた。でも、今はもうあの世のことなんてすっかり忘れて目の前のカツカレーに夢中になっている。祭礼という時間が生み出すハレとケとはこういうことをいうのだろうか。
空になった皿に気づいたのか、妻たちのひとりが僕におかわりを勧めてくれた。すでに満腹になっていた僕が遠慮をすると「それは残念。カツだけでも食べますか」と笑いながら、「下から山を見ているとね、暗い山に大きな火が灯ったと思ったら、次は小さな火がいくつも並んで山を滑り降りてくるの。狐火というか、魂が走っているみたいでちょっと怖いの。でも、あの火のひとつがウチの人だって思うと毎年、不思議な感じがするの」とつぶやくように言った。その足元には2歳ぐらいの男の子がしがみついていて、若い母の言葉を遮るように、あどけない声で僕には聞き取れない言葉を叫んでみせた。