みすず書房

汀の向こう

汀の向こう

二十代半ばで岩手の雫石に移住したから、ちょうど三十歳を迎えた頃だろう。僕はカメラを携えて東北各地に足を伸ばすようになった。旅の目的は、土地土地で古い時代から伝承されてきた「祭礼」と呼ばれる営みだった。

仮に、この列島に暮らす人を「日本人」と呼び、何らかの共通点を見出すとしたら、「日本語」を使うこと以外に、正月やお盆といった年中行事を執り行うこともそのひとつとして挙げられるだろう。しかし実際は、この共通点の中身は土地土地で大きく異なっている。新しい年を祝う、先祖の霊魂を迎えるといった行事の大きな目的は同じであっても、そこでの語り口や表情は土地独自のものとなる。ただ、これは今の僕だから言えることだ。かつての僕は、この国で暮らしていれば共通の経験とされる、初詣やお盆などのごく一般的な年中行事すら体験することなく育ったからだ。

昭和の中期、「高度経済成長期」と後の歴史の教科書に記されることになる時代に僕は大阪で生まれ、奈良で育つことになった。おそらく当時であれば、今よりも多彩なかたちで古くからの伝統文化が息づいていたことだろう。しかし、核家族の象徴とも言える大阪の「団地」と、田を埋め立てて開発した奈良の新興住宅地で育った僕の視界の先にあるものは新しさを求めるものばかりで、いわゆる伝統文化と呼ばれるものは存在しなかった。

大阪のベッドタウンとして生まれた新興住宅地に移り住んできた人たちのルーツは日本中に散らばっていたので、家庭によっては、両親が生まれ育った土地の年中行事を続けている場合もあっただろう。しかし、僕の父と母は伝統に対する意識が低い人間で、自分たちが生まれた宮城県の海沿いの町の年中行事を家庭に持ち込むことはなかった。それもまた時代の気分と呼べるものだったのだろうと思う。昭和の価値観に覆い尽くされた当時の生活のなかでは、伝統の重要性が語られることは極めて少なく、たとえそうした声が上がっていたとしても、多くの人の耳に聞こえてくるものではなかったように感じる。そもそも「新しさ」を求めるという感覚が今とは全く異なっていたと思う。デジタル技術によって新しい世界を獲得していく今という時代においては、「新しさ」はときに反発や疑いの対象になる。しかし、あの時代の「新しさ」は切望のもとに生まれるものだった。「新しさ」を手にした僕たちは全身を(ほて)らせて、幸福な近未来を信じ続けていた。

僕は、こうした昭和の前進しか信じていない空気感のなかで成長していくことになるのだが、その当時のことを振り返ってみると、決定的に欠如していたものに気づく。それは人の死に関することだった。三十代の両親に兄と僕という四人家族が暮らす造成地に建てられた家には仏壇もなく、いわゆる「先祖」のことが語られる時間は皆無だった。また、祖父母が亡くなったときも遠方を理由に僕と兄が葬式に出席することはなかった。だからなのだろう、記憶のなかに、僕を可愛がってくれた祖父母たちとの別れの体験は存在せず、消えるように亡くなったかのような淡い印象を残すだけだ。また、新興住宅地に暮らすのは、ほぼ同じ世代の夫婦と子供たちだったからだろうか。家人を亡くし、葬式をおこなう家を見ることもほぼなかった。つまり、僕たちは人がどのように死んでいくのかを日常生活で感じることができなかった。そして、僕個人で言えば、「人の死を知らない」という体験が別の感覚を生むことになった。それは生きることの対比としてある「死」への何とも言い難い関心で、興味というには軽すぎ、畏れというには実感はなく、それでも知らぬ間に引き寄せられるという奇妙な感覚だった。

ただ、死について何も知らないわけではなかった。子供の頃の僕は熱狂的なまでに動物を飼うことに夢中になっていて、イヌ、セキセイインコ、ハムスター、ハト、保護した野鳥など、家にはいつもたくさんの動物たちがいた。これらの動物たちは「生命」との絶対の約束を守るかのように時を迎えれば死んでいった。目の前で、今まさに死にゆこうとする動物たちは、生と死の間にある見えない境界の存在を伝え、生きてあること、死ぬことの生々しいまでの姿を僕の胸の奥に残すと、温かな小さな身体を捨て去っていった。動物たちの死の情景に立ち会う機会が幾度となく繰り返されることで、僕のなかに「死」が確かな輪郭を持って形づくられることになった。しかし、ここで得た「死」のイメージを、自分自身を含む人間には当てはめることができなかった。動物の死が身近になればなるほど、人の死というものが希薄なものに思え、逆説的に強く意識するものとなっていった。

岩手に移住後、数年を経てからはじまった祭礼への旅。そこで僕の胸を掴んだもののひとつは、この「人の死」だった。もちろん、人が目の前で死んでいく姿がそこにあったわけではない。僕が見たのは逝く人ではなく、逝く人を見送る営みだった。それは僕の目には「死」という、手を伸ばそうとも届き得ない世界をどのように理解し、より身近なものとして扱うかという人間の試みの結果として映った。つまり、祭礼で扱われる「死」は、人が「死」を飼い慣らすことに成功した例でもあった。東北各地で行われるそうした営みは、人の死をめぐる僕の死生観を改めて問い直すものであったと思う。

とくに印象深く残っているのが、人々から「死ねばお山サいく」とささやかれ、肉体を離れた霊魂が集う場所として信仰を集めてきた青森の恐山だろうか。下北半島の青い瞳とも言うべき宇曽利山湖の奥で鎮座する恐山の霊場についての歴史の多くは謎に包まれている。恐山霊場を守る恐山菩提寺の寺伝によると、今から一千年以上前に慈覚大師が創建したと記されているが、「霊場」としての場の力、求心力は高僧の教えから生まれているというわけではない。恐山菩提寺の山主代理の(みなみ)直哉(じきさい)氏がその著書でも語っているように、霊場である恐山での営みは表向きは仏教的ではあるが、源に流れるのは下北の地霊に向き合ってきた民間信仰である。イタコの口を借りて先に逝った人と語らって過ごす束の間のひとときも、白い砂を広げた極楽浜の汀で死者に花を手向けるのも、この地で生まれた死との向き合い方なのである。

恐山菩提寺では夏と秋にそれぞれ数日にわたって例大祭が開かれる。とくに夏の大祭が特別だ。日々のお勤めとして続けられている法要や祈祷以外に、施餓鬼供養と大般若祈祷などの特別法要や山主上山式が執り行われ、一年を通して最も華やかな日を迎える。ただ、そうはいってもここは霊場だ。人々は、「大祭の時期に地蔵に祈れば、死者を苦難から救う」という死者への思いを胸に大祭の恐山を目指す。そして、こうした死者に思いを寄せる信者に寄り添うのが、例大祭に合わせて津軽や下北一円から集まってきたイタコたちだった。

昭和中期頃まで、大祭を迎えた恐山は境内から人が溢れるほどの賑わいだったという。その当時の光景を知る者からすると、今の例大祭は少し寂しいと感じられるだろうか。幟旗が並ぶ境内には普段よりも多くの人の姿があって賑やかには違いないが、祭りという言葉からイメージされる喧騒には程遠い。また、境内に所狭しと建てられていたというイタコ小屋も今では数棟にも満たない。なるほど、時代や価値観の変化は、この恐山にも押し寄せているのは間違いない。でも、むつの街からヒバの巨木が立ち並ぶ黒々とした森を縫って進む参道を登り、釜臥山を頂点にして並ぶ八峰の外輪山の底で密やかな時をつむいできた恐山霊場にたどり着いた人々の表情は、やはり祭りのそれだ。疲れを忘れた晴れやかな表情をして足のさばきも軽やかに山門をくぐり、菩提寺の奥に鎮座する地蔵殿の前で目を閉じ、手を合わせている。

地蔵殿での参拝を終えた人々の多くは、何かに導かれるように石畳が敷かれた参道から外れ、西の方角へと向かう。頼りにするのは先人が辿った細い踏み跡で、ときどき立ち止まっては行先を確かめる。このとき視界に映るのはまさに異形と呼ぶしかない激しい景色だ。大地には焼けた白骨を想像させる灰色の小石が厚く堆積し、踏み跡の脇で露出する大小の岩は崩壊の時を迎え、いずれも原形をとどめていない。ここが霊場であるという意識がそう見せるのだろうか。砕けていく無数の岩の前では、「岩石の墓場」という言葉すら脳裏に浮かぶ。そして、この岩の割れ目のところどころからシュウシュウという不気味な音と共に噴気が立ち昇る。むせるほどに濃厚な硫黄臭が漂い、よく見ると噴気の出口ではぶくぶくと泡立ちながら熱い温泉も湧き出している。地表は常に温泉を吐き出し、大気は濃厚な硫黄ガスで満たされる。周囲を見渡しても草木一本見つからないのは、過酷極まる環境によるものだ。

この石と岩から成る世界が、ゆるやかな起伏を描きながら宇曽利山湖の湖畔まで続いていく。すべての生命を拒み、鉱物だけが存在できるこの荒涼とした光景は、仏教における八大地獄の最下層に位置付けされる「無間地獄(むげんじごく)」と呼ばれている。相応しい呼び名であると感じられる一方で、本当に地獄なのかと疑問にも思う。なぜなら、この無間地獄をたどる時間は不思議な高揚感と浮遊感をもたらすからだ。どこか朦朧とするのはおそらく地中から噴出するガスの効果だろう。最初は(だる)さを覚え、やがて地面を踏み締める足裏から無駄な力が抜けて軽くなっていく。高揚感はなぜだろうか。生命が拒まれる無間地獄に踏み込むということは自らの内なる生命の力をひととき鎮めることになるのだろうか。生きていくためには、当然だが生命は欠かせない。しかし、生き続けることを強いる生命という存在はときに僕たちに重くのしかかってくることもある。無間地獄は殺伐とした光景を広げながらも、この重さを束の間、少しだけ和らげてくれるのだろうか。その証拠に、噴気を浴びながら歩む人の表情は次第に和らいでいく。

見えない手のひらに押されるかのような感覚を背に感じながら、無間地獄の斜面をゆっくりと降りていくと、やがて噴気の切れ目にたどり着く。ここまで来ると、ついさきほどまではどこか朧げに見えていた視界が、まるで重い扉が開いていくかのようにゆっくりと広がり、鮮明さを取り戻していく。目に入るのは、日射を浴びて眩しく光る白浜と、青い水を湛えた宇曽利山湖の風に揺れる水面、そして、ずっと奥で濃い緑を滲ませる外輪山である。魂は、極楽浜と名付けられたこの場所から旅立って行くとも、逢いに来るとも伝えられてきた。特別な場所だが特別なものがあるわけではない。森羅万象が調和した世界を、空白にも近い静けさが取り巻く。それが訪れた人の心を広く迎えてくれるだけだ。極楽浜という場所はそれで十分だと、誰もがここに来ると知る。陽光を含み、穏やかな熱を放つ白い砂に腰を下ろし青い水が揺れる汀を眺めていると、不思議なほど満ち足りた気持ちが胸の中に広がっていく。

先に逝った人と再会するためにこの浜にやって来た人たちは、手に携えてきた花束を白い砂に刺し、マッチを擦って線香に火をつける。風はいつも穏やかに陸から湖面に向かって吹いていて、赤く燃えはじめた線香の先端から立ち昇る煙は宙で解けながら、ゆったりと湖面で漂い出ていく。

午後の極楽浜で老夫婦が砂の上に腰を下ろしていた。男性は膝を三角に立て、伸ばした両手を腰よりも後ろの砂の上に置いて倒し気味の上体を支え、空を仰ぎ見るようにして座っている。隣の女性は膝を崩しながらも背筋を伸ばして座り、視線を湖面の向こうにそびえる外輪山の緑に向けている。二人の間の砂の上には数種類の色を集めた花束が立ち、その脇には燃え尽きて根元だけを残す線香の束も見える。波が砂を洗う小さな音が数メートル先の水際から聞こえてくる。湖底は遠浅の様子を呈しており、澄んだ水の底では白い砂がずっと沖まで広がっているのがわかる。この湖底のあちこちから無数の小さな泡が生まれ、明るい湖面まで揺れながら昇っている。火山活動から生まれた外輪山の内側は全体が源泉のようなもので、あちこちから湯が湧き出している。宇曽利山湖の湖底も例外ではなく、無数の湧出口が存在している。揺れながら昇る泡は、湯とともに湖底から吐き出された噴気の一部なのだろう。湖にはこの泡と遊ぶ小魚たちがいる。揺らぐ泡のまわりで、くねくねとしなやかな肢体を絡ませる姿は踊っているようだ。風はなくとも水面はいつも静かに揺れていて、光が射し込むと透明に近い淡さで湖底に波の紋様が描かれる。泡と遊ぶ小魚たちの躍動が影となって、その紋様に重なるとき、湖底そのものが永遠のリズムで揺れ続けているようにも見える。

湖底から温泉が大量に湧出することによって、湖水は強い酸性を帯びている。結果、この宇曽利山湖は生命を拒む死の湖とされてきた。しかし、特殊な進化を遂げることに成功したウグイたちは死の世界と呼ばれる水の中を自由に泳ぎ回っている。生命は僕たちが考えるよりもはるかに強く、したたかな力を持っているのだろうか。それとも、生命そのものが死の内に抱えられながら存在しているのだろうか。

下北に暮らす老夫婦が会いに来たのは、遠い昔に逝った息子だった。今日が命日で、墓参りを済ませた後、恐山までやってきたのだという。「墓でも供養はするんだけど、やっぱりここに来てしまうの。ここはこの通り、何もないでしょう、ただ湖があるだけで。でも、ここに来ると息子の今の声が聞こえるような、きっと気のせいなんだけど、そんな気がして来てしまうの。命日を迎えるたびに、あの子、どうしているかなあって思うとやっぱり来てしまうの」。白髪の母親は水面に向けた視線を僕の方へと移すことなく、青森の土地言葉で切れ切れに呟いた。仰向けに近い姿勢で座っていた父親はゆっくりと背を起こし、今度は俯いて手のひらで白い砂を弄んでいる。隣で話す妻の声に耳を傾ける表情は穏やかで声を出さずに笑っているようにも見える。

恐山を訪れる人の多くが似たような思いを抱えている。この青い水と白い砂がつくる汀は、人の心に秘められた、指先でそっと触れることさえためらうぐらい儚く、それでいて消え去ることもなく打ち消すこともできない思いを受け止めてくれる場所なのだろう。だから、人々は日常から離れてふらりとこの場所にやってくるのだろう。

やがて、老夫婦は気が済んだのか晴れやかな顔で「穏やかでいい日だったなあ」とつぶやくと、立ち上がって尻についた砂を払い落とした。これから山を少し下った先にある薬研温泉に入ってから帰るのだという。「毎年、ここに来た後は湯サ行ってから帰るの。兄さん、いい湯だから行ってみたらいいんだ」と母親が笑いかける。きっと僕の母と同じくらいの年齢だろう。噴気を上げる無間地獄へと消えていく二人の背中を眺めながら、僕はあの日のことを思い起こしていた。

あれは、僕がまだ学生の頃だった。当時の僕はバックパックを背負ってのアジア旅行に夢中になっていた。世界への興味と自分探しという、それなりに切実な思いを持って続けていた旅だったが、今考えてみるとお気楽なもので、勉学をそっちのけでバイトをし、それを資金にして旅に出るといった行為を繰り返していた。

数度目の中国の旅を終えたばかりのことだったと思う。帰国後、奈良の実家でやることもなく無為な時間を過ごしていると、母が「ヨシノリちゃん」という懐かしい友人の名前を口にした。ヨシノリちゃんは小中学校時代の同級生で中学時代は同じサッカー部員として一緒に汗を流した一人だった。母の話は一瞬、耳を疑うものだった。それはこの夏、ヨシノリちゃんが逝ってしまったという内容だったからだ。二十歳になったばかりの僕にとって身近な同級生が亡くなったと聞かされるのははじめてのことで、それ自体が大きな驚きだったが、不意に感情の真ん中を強い力で突かれたような感覚に陥った。「死」そのものの存在は認めていても、当時の僕のなかのどこを探してみても自分に関わる「死」を見つけることはできなかった。だが、ヨシノリちゃんの死を通じて、自分の中にも死が存在することを不意に気付かされてしまったのである。母はそんな僕に向かって、ヨシノリちゃんの家に行って、ちゃんとお別れをしてくるように言ったのだった。

僕はヨシノリちゃんの家に向かうために自転車に乗って住宅地を出た。新興住宅地にはちょっとした買い物ができる店さえも皆無で、何かの用事を済ませるためには、必ず住宅地の外に出る必要があった。この行為は当たり前すぎて誰も特段意識することはなかったが、今思うと僕を含む住宅地で育つ子供たちの潜在意識の中にひとつの約束事を埋め込むことになった。それは、大切な何かを得るためには、この住宅地を出て生きていかなくてはならないという妙な人生訓だった。

駅や店があるのは隣町で、住宅地と隣町の間には田が広がっていた。ヨシノリちゃんの家はこの田んぼの中にあり、いわゆる在の家だった。僕が通った小中学校にはふたつのルーツを持つ生徒たちが通っていた。ひとつは僕たちのように新興住宅地に暮らす、いわゆるサラリーマンの核家族の子供たちで、もうひとつはヨシノリちゃんのように先祖から農地を受け継いで営みを続けて来た在の集落出身の子供たちだった。ただ、僕の時代では在の家のほとんどが専業農家ではなく、祖父母が農業を行い、若夫婦は勤めに出るといった兼業農家が一般的となっていた。ヨシノリちゃんの家は典型的な在の兼業農家で、田んぼに囲まれた広い敷地に黒瓦を載せた大きな日本家屋の母家を構えていた。同じ敷地内に建つ納屋は、僕たちが暮らす住宅地の家一軒分に相当する大きさだった。

どのような挨拶をして、仏間に招かれたのかは覚えていない。小学校時代には何度も遊びに行ったことがあったので、きっとヨシノリちゃんのお母さんは僕の顔を覚えていてくれたのだろう。僕はすぐにヨシノリちゃんの遺影が納められた仏壇の前に案内された。縁側に接したこの仏間は見覚えがあった。小学生の頃、ヨシノリちゃんはクラスの男子の中では早い段階でファミコンを手にした一人だった。僕の父はこの手の新しいものを忌み嫌う人間だったので、僕がゲームをするためには友達の家を代わる代わる訪ねるしかなかった。色黒で背が高く、大きな瞳と太い眉が特徴的なヨシノリちゃんは口数が少ないたちで、一緒にいて愉快だという印象を持つことはなかった。でもファミコンのコントローラーの扱いに不慣れな僕に対し、丁寧に使い方を説明してくれたのは、少し引っ込み思案で気立ての良いヨシノリちゃんだった。僕はそんなヨシノリちゃんの性格を利用して、ファミコン遊びの時間を手に入れたのだった。

仏壇の脇には電源の入っていないブラウン管のテレビがあった。放課後、このテレビの前にヨシノリちゃんと並んで座り、ゲームをした小学生の日々が確かにあった。僕たちが夢中になっていたのは、当時日本全国で一世を風靡したマリオブラザーズで、ヨシノリちゃんは小さな声で何度か、マリオを上手に動かして高得点に結びつけるコツを教えてくれた。あの日の僕の視界には、こうして後年対面することになる仏壇の存在が入ってくることはなかった。成長期のただなかにあった僕にとって、すぐ隣にあった仏壇から醸し出される死の気配や匂いは異世界のものであって、知覚することさえできなかったのだ。

仏壇の前で正座する僕の目の前には名も知らぬ仏具が並んでいた。黒い漆が塗られ、金箔で装飾されたそれらは、僕が日常生活で目にするものにはない厳かな質感を備え、気軽に触れられるものではなかった。今でこそ、こういった場合にはお焼香をすれば良いと知るに至ったが、当時の僕は仏壇の前に座ること自体はじめてのことで途方に暮れるしかなかった。でも、何かをしなくちゃいけないという強迫観念でそこから動くことができなかった。そんな僕の背中を、静かに風が撫でていた。仏間は縁側に向いていて、開け放たれた襖の向こうには夏の終わりの光を浴びる庭が広がっていた。そこから聞こえてくるのは、午後になって日差しが強くなると一層音量をあげて鳴き始めるアブラゼミの喧しい声だった。僕は正座したまま、ゆっくりと後ろを振り返った。縁側とは異なる方向から吹いてくる風が自然の風ではないことに気づき、そこに何かを感じたからだった。僕の背を撫でていくのは、ヨシノリちゃんのお母さんが手にしたうちわから届けられる風だった。座卓に少し身を預けるようにして座るお母さんは、振り返った僕と目が合っても無言でうちわを静かに動かし、風を送り続けてくれた。そよ風よりももっと淡いその風は、内気なヨシノリちゃんの、僕にゲームの仕方を教えてくれた小さな声にも似ているようでもあり、急にこの世から消えてしまったヨシノリちゃんそのものでもあるかのように感じられた。

その後、僕はどうやって仏壇から離れたのか、今では思い出すことさえできない。もちろん、お焼香などができた記憶はない。ようやく思い起こせるのは、ざくざくと大ぶりに切られたスイカが盛られた皿が座卓の真ん中にあって、ヨシノリちゃんのお母さんと対面しながらそのスイカを食べたという場面である。自分と同じ年齢の息子を亡くしたお母さんを前にして、スイカに手を伸ばす。この場面で思い起こせるのは、スイカと座卓、そしてヨシノリちゃんのお母さんの首から下の姿である。お母さんが来ていた白い開襟シャツは、当時の中年の女性たちがよく着ていた少しタイトなデザインのもので、淡い紺色の小さな花柄模様が全面にあしらわれていた。盆地地形のせいで奈良の残暑はいつも厳しく、夏の終わりまでスイカを頻繁に食べた。とくにヨシノリちゃんのような農家から譲ってもらったスイカは甘く美味しかった。あの日のスイカの赤い果肉も、ヨシノリちゃんのお母さんが身につけていたシャツの模様も、こうして鮮明に覚えているのに、お母さんの顔に湛えられていた表情の記憶が一切ない。僕は、ヨシノリちゃんのお母さんにたったひとことのお悔やみの言葉すら掛けることができないまま、下を向いてスイカを食べ続けたのだった。

もし、誰にも人の死に触れた最初の記憶があるとしたら、僕にはあの夏のヨシノリちゃんの家での出来事ということになるのだろうか。あの日、僕が感じたのは人の死の見えなさと、いなくなったあとの空白の重さだった。そこにいたはずの人がもういない。淡い影さえもなく空白になってしまった。でも、なぜか、ヨシノリちゃんがいない空白の場所はずっしりと重く、温度さえも帯びているようだった。これが面影と呼ぶものなのだろうか。人生の中で縁あった人が突然亡くなり、一緒に過ごした場所にその存在を探す。見つかるのは空白でしかない。それでもそこにはあの人が確かに生きたという重さが残る。ゲームの仕方を教えてくれるヨシノリちゃんの小さな声と、お母さんが無言のまま送り続けるうちわの風。ヨシノリちゃんの空白はこのふたつを伴って僕の胸の底に今も深く沈んだままだ。

宇曽利山湖の汀で、遠い日に逝ってしまった息子に会うことを願った老夫婦は、息子の姿や声をはっきりと思い起こすことができたのだろうか。あの幼い手を握り締めるような確かさで思い起こすことができたのだろうか。人生はいつもまったなしで、胸の中で大切に抱いているものですら忘却へと追い立てようとする。だからこそ、人は大切なものを繋ぎ止めるための何かを必要とする。僕が東北に暮らし、恐山を訪ねる旅で感じたことは、この「何か」を必要とする人たちの営みの姿だった。同じ思いを抱く仲間たちと知恵を分かち合い、想像し、遠ざかっていくものを繋ぎ止めようとする。青い水面に白い砂を広げた極楽浜は、時を巻き戻すことが叶わず、永遠のときは存在し得ないことを知った人たちの最後の願いとしてつくられた場所なのだろうか。

人が逝った日のことを僕たちは命日と呼んできた。生命を授かった日ではなく喪った日を「命」と名付けたのはなぜだろう。ヨシノリちゃんのお母さんも、僕が宇曽利山湖のほとりで出会った老夫婦のように年を取り、それでも夏が来ると「今日は昔に亡くなった息子の命日だから」と、遠くから聞こえるあの懐かしい声に耳を澄ませるのだろうか。