小正月は決まって秋田を目指した。この日の夜に雪に覆われた深山から降りてくる「やまはげ」に会うためだった。その頃の僕は、秋田から山形へと続く日本海沿岸の集落で広く伝承されている小正月行事である「やまはげ(なまはげ)習俗」を訪ね歩いていた。やまはげが行われるのは小正月の一日のみ。一年にひとつずつ新しい「やまはげ」を知るという、ゆっくりと歩む旅だった。当時の僕にとっては、新しい「やまはげ」との出会いが新年を感じるひとときとなっていた。
あの年に向かったのは秋田市南部に位置する豊岩地区の中島集落だった。雄物川に沿って集落が並ぶこの地では、各集落でやまはげ行事が受け継がれていた。興味深いのは、小正月の夜に深山から降りてきた荒ぶる来訪神であるやまはげが集落の家々を訪ね歩き、子どもを諭し、老人を労い、厄災を祓い、五穀豊穣をもたらすというストーリーは同じだが、その姿かたちが集落ごとに異なることだった。
岩手から奥羽山脈を越えて中島集落に到着したのは朝の九時過ぎで、準備を行うと聞いていた農小屋に向かうと、やまはげ行事を執り仕切る男たちの手で作業が進められていた。数台のストーブが焚かれていたが、一年で一番冷える時期だ。男たちの口からは小さな雲のように見える白い息が漏れていた。
中島のやまはげの特徴に、美しい藁装束と素朴な木彫面が挙げられる。面には彩色が施されており、いわゆる赤鬼・青鬼的な雰囲気をまとっているのだが、その表情はどこまでもユーモラスだ。吊り上がった二つの眼を大きく見開き、ニョキニョキと白い歯を生やしている面があれば、二本の大きな牙を剥き出しにしながらも、血走った目で泣いているのか怒っているのか判断に迷うような意味深な表情を浮かべている面もある。これらの面の出自は不明だが、想像するに一度に作られたわけではなく、行事が受け継がれていく過程で必要になるたびに異なる手によって作り足されていったのだろう。面はそれぞれが似て非なる表情を浮かべており、残された荒々しい彫り跡からは作り手の肉声が聞こえてくるようだ。
この面と同様に重要な存在となるのが、ケボシ(帽子)とケラ(蓑)からなる藁装束だ。やまはげ(なまはげ)の装束が稲藁で作られるのは一般的ではあるが、中島の藁装束は群を抜いた迫力だ。腰の強い一本ものの長い稲藁を大量に束ねて作り上げるからだろうか、ケボシを被り、ケラで全身を覆ったやまはげの後ろ姿は巨大な蓑虫そのもので、異様としか言いようがない。しかも、前を向くと、二本の角を生やした無骨な鬼の顔が藁の間からぬっと出ているのだ。大人であれば、この“鬼蓑虫”を前にすると、そのおおらかさに思わず声を出して笑ってしまうかもしれないが、子どもにしてみると驚きでしかないだろう。しかも、しんしんと雪が降る戸外から突如現れ、大声を張り上げて追いかけてくるのだ。さすがのいたずらっ子も泣き叫ばずにはいられない。
また、中島のやまはげを語る際に忘れてはならないのが、「ピッピ」と呼ばれる笹笛だ。やまはげ(なまはげ)習俗全体を眺めてみると、ほとんどのやまはげは武器として大きな出刃包丁を持つ。これを大袈裟に振り上げて子どもたちを脅かすわけだが、中島のやまはげは出刃包丁の代わりに御幣で飾った竹竿と「ピッピ」を持つ。笹の葉を丸めたピッピが吹き鳴らされるのは、これから侵入しようとする家の前。玄関の外で一の笛が吹かれ、玄関戸を開けた後に二の笛が吹き鳴らされる。中島の人々はピッピ特有の甲高くどこか哀愁を帯びた音色でやまはげの来訪を知るのだという。
農小屋には大量の稲藁が持ち込まれていた。男たちが最初に行ったのは選別だった。穂先部分から取られた細い稲藁はケボシ用で、根元の太くてまっすぐな稲藁はケラに向いているとのことだった。男たちが稲藁を抱え、床に広げると雪のように細かな藁埃が舞い、同時に稲藁特有の甘く芳しい匂いが農小屋全体に広がった。藁を広げた初老の男は深呼吸をすると、「ひさびさに嗅ぐ藁の匂いだな。ええ匂いだ」とつぶやき、カメラを向ける僕に向かって、「今の時代、こうやって長え藁揃えるのも大変なんだ」と笑った。
中島集落がある雄物川流域は秋田有数の穀倉地帯として知られる。それだけに近年は大型農業機械による大規模農業化が進められている。かつては家族総出で長い期間をかけて行われていた稲刈りも、最新の大型コンバインを使うことで信じられないほどのスピードで進められていく。コンバインは現代の稲作には欠かせない農業機械で、刈り取りと同時に穂から籾を外す機能を備えている。つまり、この機械を使えば、手間のかかる脱穀作業は完全に省かれる。ただし、人の手で脱穀作業をすることで生まれていた稲作の副産物である稲藁は失われる。コンバインは脱穀後の稲藁を細かく裁断し、刈り取ったばかりの田に散布するからだ。裁断された稲藁が翌年以降の稲の肥料となるという意味では循環的ではあるが、それは農村の暮らしの中に存在した“藁”という文化を捨てる行為でもある。
日本列島で営まれてきた暮らしを振り返ってみると、稲藁は重要な素材だった。藁縄は日常の中で欠かせないものだし、筵などの敷物、蓑や靴などの身に着けるもの、カマスやお櫃入れなどの容器の類いも稲藁から作り出される。しかし、進む時代のなかで次第に藁を使う文化が衰退し、今は日本有数の稲作地帯の秋田であっても藁は必需品ではなくなった。すらりと気持ちよく伸びた藁を束ねてケラを作りはじめた男性が揶揄するように言う。「やまはげの装束をこさえるためだけにわざわざ鎌持って田さ入って手刈りして藁を集めて、いいとこばかり選って保管するのさ。昔は稲藁なしの暮らしなんて考えられなかったども、けづ(これ)は今となっては貴重な藁なんだべ」。
藁装束作りは集落の男たちの手によって着々と進められていった。中島ではやまはげ二人が一組となって行動することになっており、今年は三組のやまはげで手分けして集落を回ることになっていた。そのため、今日は六人分の装束が必要だった。質の良い藁を選び、丁寧に作られる装束は一晩でダメになる代物ではないが、縁起物として毎年新調することになっていた。手を動かしながら談笑にふける男たちの話題は、子どもの頃のやまはげ体験だった。恐怖のあまり泣き過ぎて過呼吸になったとか、白目を剥いて倒れたとか、今となっては愉快な恐怖体験がいくつも披露されたあとは、やまはげの裏側にいつ気づいたかという話で盛り上がった。つまり、やまはげを演じる大人たちの存在に気づくという、この土地の人間であれば誰もが経験することになる種明かしについてだった。大きなケラをつくるために四苦八苦していた初老の男は、自分の父親がやまはげをやっていると知ったときはただただ啞然としたと笑った。「だってよう、あんなにおっかねかったやまはげが、かーちゃんにいっつも小言ばかり言われてるオヤジなんだもの。へー、この飲んだくれ親父がやまはげなのかって、キツネにでも化かされたような気さなったべ。それ以来、やまはげなんてまったくおっかねえって思わなくなったな」。また、まだ子どもっぽさを残す青年は、「おらはずっと前から気づいていたんだよな。だってよう、やまはげの次の日になると決まって、おらいのオヤジがニヤニヤしながら、昨日のやまはげは恐ろしかったべ? 恐ろしかったべ? って何度も聞くんだよな。子ども心にこれはなんかあるべ、怪しいべって思ってたから、オヤジがやまはげって知ったときは、ははーん、思ったとおりだべ、やっぱりそうだったと合点がいったものな。おらいの時代は、鼻水垂らしても吞気に遊んでいる昔の童っコと違って、スマートだからよ」などと語り、周囲を笑わせた。皺の寄った手のひらをすり合わせながら器用に縄をなっていたお爺さんは若者の話を引き継ぐように、「おらが覚えている最初のやまはげは、いつの頃だったべなあ」とつぶやき、遠い時代のやまはげを語り始めた。
それは今よりもはるかに深い雪に包まれていた小正月の夜だった。あの頃は年が明けると毎日雪が降った。降り始めるのは決まって午後で、まずは大雪の雪がぼそぼそと舞い、暗くなる頃になると砂のように細かい雪がさーさーと降った。大きな雪よりもぺっこな(小さな)雪の方が深く積もるもんだと90歳まで生きた婆さんがよく言っていた。あの年の小正月の日も午後になってやっぱり雪が降り始めたが、一緒に風も吹いてきて窓がガタガタと騒がしい音を立てて揺れていた。あの頃の家は今と違って隙間風があちこちから吹くものだから、明け方になると掛け布団の首元にうっすらと雪が積もった。この雪が胸元に滑り込んできてハッとして目覚めたものだった。真っ白な雪が舞う外の様子を見て、明日の朝も布団の上さ、雪が積もるなと思っていたら、日が落ちて暗くなるとぴたりと風が止んで、窓の外はすっかり静かになっていた。思えば小正月の夜は不思議と静かな空になることが多かった。
台所では婆さんと母さんが忙しく立ち回っていた。小豆粥、ぜんざい、団子、煮しめが小正月のご馳走で、いつも腹を空かせている童子たちにとっては台所から流れてくる匂いを嗅ぎながら、いつお膳が並ぶのかとそわそわしていた。おらは甘いぜんざいが食いたくて唾を飲み込みながら今か今かと待っていたな。ピッピの甲高い音色が響いたのはそんなときだった。窓ガラスを通り抜けるように鋭くピッピの音が部屋に飛び込んできた。もちろん何の音かはわからねえ。でも、何かが始まるって感じがしてハッとしたな。するとよう、玄関の戸がガラガラっと荒々しく開いて、再び「ピィィー」っと鷹が鳴くようにピッピの音が響いた。次の瞬間さ、猛獣が地の底から叫ぶような野太い声が響き渡ったのさ。と同時に雪交じりの風がびゅうと居間に吹き込んで来てな、童っ子のおらとしたら何が起こったのかはわからねえけど、ただ、これはもうただ事じゃねえってことには気づいたな。それからは、おめえ達が知っている通りだな。二人のやまはげがドカドカと居間さ雪崩れ込んできて、おらたち童子を追いかけだして。あんときはもうおっかなくておっかなくて、ただただ泣き叫んだな。ところがよう、大人たちはしれっと落ち着いていてな、婆さんなんてニコニコしながら、やまはげさん、よぐ来たよぐ来た。たんと食ってけろ、なんてご馳走を載せたお膳を出すんだから驚いたな。それにしてもよう、昔のやまはげは大きかったな。ケボシの先が天井に当たるぐらいでな、おらの目には大人の倍もあるように思えたな。この日以来、小正月が近くなるとよ、あの恐ろしいやまはげが来るんだって思うとな、怖いような嬉しいような不思議な気持ちでな、ずっとそわそわしてどうにもならんかったな。
やまはげに扮しているのがオヤジたちだって気づいのたのはいつの頃だったべな、今では思い起こせねえな。おらのなかでは、やまはげはずっとやまはげだったような気がするな。今はこうしてやまはげになる側になったんだども、それもいつの間にかって感じだな。気づいたらやまはげをやるようになっていたな。やまはげをやっているときはそうだな、この面コかぶると、足先から頭のてっぺんまでやまはげになるな。やまはげの面コの穴から見える童子や大人たちの顔は何だか違って見えるものな。やまはげのおらを見て、泣いたり笑ったり、そわそわしたりしている人の姿は不思議なもんでえらいめんこいものな。とくに我の家族はいつもとは違う感じでよ、よっぽどめんこく見えるべ。お爺さんはそういって昔話を結び、満足そうに白い息を吐いた。今夜、やまはげに扮する男たちも自分に言い聞かせるように、「んだ」「んだな」「めんこいべな」とそれぞれがつぶやいた。
装束が完成を迎えたのは午後の遅めの時間で、窓の外は早くも薄暗くなろうとしていた。男たちは農小屋の真ん中に設置された石油ストーブに手をかざし、青味を帯びはじめた薄明の空を舞う雪を眺めながら出発の時を待った。「やっぱり今夜も雪が降ってきたべ」と誰かが顔を上げて言った。
やまはげ装束を身に着け、面を手にした男たちは暗い戸外へと出た。雪を被った白い道の両脇に家々が建ち並び、ところどころ、窓から漏れた灯りが雪を黄色く染めていた。中島集落はいわゆる散居集落ではなく、雄物川に沿って伸びる南北の大通りに集中して家々が建ち並んでいた。この道を上、中、下と三分割し、三組のやまはげで手分けして地域を回ることになっていた。
通りの真ん中でやまはげは額を寄せ合った。一人のやまはげが手にしていたのは集落の回覧板だった。それは今年度の「やまはげ」の来訪を告知するものだったが、お知らせ用紙の下部には、やまはげの訪問に対しての各家の受け入れの可否が○×で記されていた。「やまはげ」という伝統行事と事務的な回覧板の組み合わせに違和感を覚えないわけでもなかったが、不幸があって新盆を迎える家には訪問しないのが昔からのしきたりとなっており、その確認という意味でも告知が必要だということだった。自分たちが訪問する家を確認した三組のやまはげは、「さあ、行くべ」と気合いを入れ、暗闇でも視認できるほどの白い息を吐きながら雪の中へ消えていった。
事件が起きたのは、上と中を分担していた二組のやまはげが予定していたすべての家を訪ね終え、最終組である下の組に合流したときだった。時刻は八時を回り、寒さはいっそう厳しくなっていたが、六人のやまはげはわいわいと賑やかに会話を交わしながら残りの家に向かった。やまはげたちはひどく酔っ払っており、足元がおぼつかない状態だった。家に上がるたびに家主から労いの言葉を掛けられ、酒とご馳走で心からのもてなしを受ける。もちろん断るわけにはいかない。なみなみと注がれた酒盃を各家で繰り返し空けるのだから酔っ払って当たり前だ。しかも、残す家はあと数軒。やまはげに扮する男たちは、今年も無事にやまはげとしての役割を終えることができた安堵感と酔いに身を任せて雪の道を歩いていただろう。
次はこの家だ、と皆で足を止めたのは、中島集落では少し見慣れない現代的な雰囲気の家だった。ひとりのやまはげが、この家の玄関に近づくと「さあ、行くべか」とドアノブを力強く引いた。中島集落では小正月の夜は玄関に鍵を掛けないのがしきたりだ。やまはげが自由に家の中に侵入できるようにするためだ。しかし、結果を先に言うと、この家のドアには鍵が掛けられていた。ドアを引いたやまはげはひどく酔っ払っており、こういうこともあるだろうと思ったのだろう。きっと、やまはげの訪問を忘れて鍵を掛けてしまったに違いないと。そこで、やまはげはドアの脇にあるインターフォンのボタンを荒々しく連打した。ブーブーと電子音が鳴り、数秒後、聞こえてきたのは「はい、どなたでしょうか?」という女性の声だった。小さな箱状の機械から届くこの声を聞いた瞬間、僕は嫌な予感を抱いた。若い女性のようで柔らかで澄んでいる声だったが、声色の中に醒めた気配を覚えたからだった。しかし、泥酔状態のやまはげがそのような機微を感じるわけはなく、インターフォンに顔を擦りつけると、張り裂けんばかりの大声を上げた。「やまはげが来たぞー、ウォーウォー」。わずかに沈黙が流れ、再びインターフォンの向こうから澄んだ声が流れてきた。「いいえ、結構です」。一切の迷いもなく、毅然とした声だった。後になって、この家が回覧板で告知したやまはげ訪問に対して「×」を付けていたことを知ることになるが、このときは呆然とするよりほかなかった。一瞬にして酔いが醒めるというのはこういう状態を指すのだろう。六人のやまはげは暗闇を見据えてしばし立ち尽くした。この沈黙を破ったのは、インターフォンを押したやまはげだった。行き場のない思いを隠すかのように「さあ、最後の家さ、向かうべ」と下を向いてつぶやくと歩き出し、残る五人のやまはげは肩を落としたまま後に続いた。
ピッピが甲高く鳴り響いたと思ったらガラリと玄関戸が開き、ドンドンと足音が響き、ガサガサと藁がこすれる音がする。雪の夜、やまはげたちが家に入ってきた瞬間だ。さあ、ここからは「やまはげの時間」だ。異様な空気感を敏感に感じ取り、子どもたちはすでに大人の懐に潜り込んでいるが、やまはげは荒々しく子どもたちに近づき、優しく賢く生きるように大声で諭す。涙をぼろぼろとこぼし、何度も頷く子どもたち。この様子を見て何とも満足そうな表情を浮かべる両親や祖父母たち。そして、ひととき騒ぎ立てたやまはげが闇に帰っていったあとに残る安堵感と寂しさ。高揚感が静まっていくにつれて深さを増していく雪夜の静寂。やまはげの時間が運んでくるものと残されるものは毎年変わることがない。素晴らしい大団円だったと思う。この年のやまはげたちの最後の訪問はかけがえのないひとときを残して無事に終わった。
しかし、あの日のやまはげを思い起こすと複雑な思いが渦巻く。やまはげとは毎年決まって行われる一夜のショーに過ぎないものなのだろうか。それとも、もう少し違う何かがそこにあるのだろうか。これは僕が祭りと向き合うなかでずっと考えてきたことだ。遠い昔、祭りが祭りであった頃、そこには祭りを行う確固たる理由があった。五穀豊穣、家内安全、疫病退散といった願いを前にしたとき、人は祈るよりほかなかった。祈りだけがよすがだった。祭礼はそうした祈りに少しでも近づく時間だった。つまり、祭りは、そこに生きる人たちの生きることへの切実さから生まれていた。
やまはげの訪問を拒否した「いいえ、結構です」というひとことは、稲藁を準備し、朝から集まって藁装束を手作りし、雪降る寒空の下を歩き続けた男たちにとっては残酷な言葉だったと今でも思う。しかし、その一方でこれは今の時代に存在しようとする「やまはげ」が聞くべき言葉なのだろうとも思う。今の時代、誰が、何のために祭りをするのか。祭りの役割とは何なのか。「いいえ、結構です」というひとことは、やまはげに、今こそこの問いに答えなくてはならないと、強く促している。
やまはげを、これからもこの習俗を続けていくとするならば、これまでと同じように男たちは忙しさの合間を縫って藁装束を作ってやまはげを演じ、やまはげを受け入れる家は、ご馳走作りなどのもてなしの手間を惜しんではならないことになる。これらの行為はとても面倒なことだが、やまはげという存在に他では代えられない意義を見出すことができれば、そのひとつひとつは決して面倒なものではない。だとすると、やまはげの訪問を断った家にとって、やまはげはもはや必要な存在ではなかったのだ。やはり、祭りという営みは人にとって生きていくための「道具」なのだろうと思う。道具を使って何かをする場合、より便利で機能性が高い道具が登場すれば、誰もがそちらを選ぶ。それを僕たちは進化という言葉で表現してきた。やまはげの訪問を断った家は、やまはげに代わる新たな道具で今を生きていくことを選んだということなのだ。
これからも祭礼の現場においては同じことが起こるだろう。現実的に言って祭礼の多くがすでに役割を終えてしまっていると感じるからだ。では、祭礼は消えていく運命なのだろうか。大局で考えると今の日本ではそうなっていくのだろう。祭礼を続けたくとも続けられない理由を挙げだしたらキリがないのが現状だ。では、そうした現実のなかで祭礼が続けられるとしたら、今までと同様に必要とされ続けるとしたら、これからの祭礼はどうあるべきなのだろう。中島のやまはげはこの揺らぎの中にいるのかもしれない。誰のために、何のためにやまはげをするのか。あの夜を経験したやまはげたちはきっと、日々の暮らしのなかでそのことを考え続けていることだろう。
集落を巡り終えた六人のやまはげは、村外れにある氏神様の境内に立つ御神木のところまで来て、ケボシとケラを脱いだ。雪は相変わらず降り続けており、男たちが身に着けていたケラとケボシにもたっぷりと雪が積もり、白い毛皮のようにも見えた。御神木の杉の巨木は闇に溶けて朧にしか見えなかったが、目を凝らしてみると、太い幹には立派な注連縄が巻かれていた。男たちは手にしていたやまはげの面を御神木の幹に立て掛け、何も見えない闇の先に向かって手を合わせた。
今年ももうすぐ雪の季節がやってきて、やがて新たな小正月が巡ってくる。中島では、これまでと変わらず雪に覆われた深山からやまはげが荒々しい形相で現れ、ピッピを吹き鳴らすのだろうか。そして、そんなやまはげを今か今かと待ちながらご馳走を用意する人々の営みがずっと続いていくのだろうか。