みすず書房

お盆の光

お盆の光

お盆を迎えると思い起こされる海の風景がある。秋田県の南部、山形との県境を目の前にした象潟(きさかた)の海だ。「日本海」と呼ばれるこの海の顔は夏と冬では全く異なる。表情を作り出すのはいつも空だ。おびただしい数の雪雲が居並ぶ冬空の下では、海は沈んだ鉛色をまとい、風雪に舞う白波は鈍色の光を放って千切れ飛ぶ。風と雪、そして波が冬の海を支配し、すべての者を遠ざける。一方の夏の海は、柔らかで透き通った布をまとうかのように凪を広げ、澄み渡る空の青に包まれる。渚に寄せる波の響きも天空に吸い込まれ、夏の一部となって広がる。

「盆小屋」は、この穏やかな夏の海を舞台とする営みである。はじまりは、お盆入りの八月十二日。白い砂がまだ青味を帯びている早朝の浜に人々が集まってくる。最初に動くのは古老たちだ。砂浜を歩き、周囲を見まわし、ここだと場所を決める。続いて、それ以外の男たちが古老に示された砂の上に数本の棒杭を立てる。そこから先は全員での作業となる。(むしろ)、藁などを使って「小屋」を掛けていく。小屋と言っても骨組みを筵で覆うだけだから作業自体は難しいわけではない。しかも、毎年の繰り返しだ。ときおり、古老がしわがれた声で指示を出すだけで、淡々と作業が進められていく。全体のかたちができたら、最後に小屋の正面に祭壇がつくられる。ホオズキやシマウリなどの色鮮やかで可愛らしい野菜がぶら下げられ、ロウソクが立てられる。忘れてはならないのがハマナスの丸い実。砂浜を覆うハマナスの原から傷がないものを集め、数珠繫ぎにしたら祭壇の中央にぶら下げる。完熟したハマナスの実は血のように赤く、きれいだ。象潟の人々は、こうやってお盆を前にすると、先に逝った人たちの霊魂を迎えるために「盆小屋」と呼ばれる小さな小屋を浜に建ててきた。海の向こうから故郷に帰って来る霊魂が、この盆小屋を目指してやって来ると信じているからだ。

遠い昔から、象潟に暮らす人たちにとって海は大きな意味を持ってきた。まずは糧を得る場所として海があった。背後にそびえる鳥海山と、その山麓の広大な森から湧き出す水脈は象潟の海に流れ込み、豊かな漁場を育んできた。人々はこの恵みに向かって船を繰り出し、網を仕掛けた。豊穣の海は人々の身体を育んでくれる存在だった。一方、心の風景を育む海もあった。海はいつも茫洋としていて、どこまで続くのか、広がっているのかわからなかった。凪の表情を見せたと思えば、次の瞬間には荒れ狂い牙を剝く。人生と同じで安寧の時がずっと続くわけではない。海は怖ろしい世界だ。しかし、この大きな水の広がりには深い何かがある。自分たちの存在を丸ごと受け止め、抱き上げてくれるようなおおらかさがある。人は海からやってきて、海に還っていくのでないか。してみると海の向こうが死者の霊魂が暮らす国ではないか。海とともに暮らす人がそう思い至ったのは自然の流れだったに違いない。

やがて時が進み、仏教思想が広がっていく過程で、この地で受け継がれてきた死生観は、仏教の世界で語られる言葉を受け入れていく。海は三途の川であり、その遥か彼方、無数の波を越えた先に浄土があると、誰彼なく話すようになっていく。そして、最初の盆小屋が作られる。肉体が死を迎え、彼岸へと旅立っていった霊魂を迎えるためだ。見渡す限りの海原を越えてくる霊魂が迷ってしまわないように、ようやくたどり着いた故郷の地でほっとしてくつろげるように、海原を見晴るかす浜辺に小屋を建てた。「盆小屋」は、そうして生まれたと僕は想像している。

盆小屋が浜に建った日の夕暮れ、灯籠やロウソクを手にした人たちがぽつりぽつりとやって来る。そろそろ海の向こうから懐かしい人が帰ってくると知っているからだ。盆小屋の祭壇に手を合わせ、そっと置くのは茄子や胡瓜で作った(しょう)(りょう)(うま)だ。長旅で疲れた霊魂をこの愛らしい馬に乗せて、一緒に家に帰るのだという。

西の空の残照が消えて、海が藍色の濃度を深めていくと、反対に盆小屋に灯されたロウソクは光度を強めていく。夜の海を前にした盆小屋は赤く燃えるひとつの光のようだ。この光を前に夕暮れの浜でつぶやかれ、歌われてきた言葉が「ジーダ、バンバーダ、コノヒノヒカリデ、キトーネ、キトーネ」というものだ。「お爺さん、お婆さん、この火の光で、いらっしゃってください」と、祖霊を誘う言葉は、この地で育ったわけではない僕にしてみると、まるで遠い国の言葉で歌われる一編の短い詩のようにも聞こえる。歌は何度も繰り返される。もちろん、魂が僕の目に映ることはない。しかし、懐かしい人の魂を待ち、海を眺めていた人々はしばらくすると、「ああ、来たった来たった」と家族で顔を見合わせ、灯籠を揺らしながら家路についていく。海が完全な暗闇に包まれると、ロウソクの火は一層強く燃え上がり赤々と輝いて揺れる。この夜はロウソクの火を絶やしてはいけない、遠いあの世からゆっくりと帰ってくる霊魂を迷わせてはいけないからと、迎え火は守られる。

お盆の間、盆小屋は夏の日差しを浴びて建ち続ける。海で遊ぶたくさんの人を無言で眺め続ける。この間、盆小屋に足を運ぶ人はほとんどいない。海の向こうからやってきた魂たちは、無事にそれぞれの家にたどり着いたのだろう。ひとまず役割を終えた盆小屋は、ゆったりと涼しげな表情を浮かべ海風を浴びている。

盆小屋の周辺が再び賑やかさを取り戻すのは八月十五日。海がちょうど夕凪を迎えようとする時刻だ。一年で最も暑い時期だがそれも今日で最後だ。お盆の終わりを迎える頃になると、海から涼しげな風が流れて来て、浜に溜まった暑気を払っていく。浜に現れた人々は数日前と同じようにロウソクや灯籠、精霊馬を手にし、汗ばんだ額や頬をなでていく風で秋の気配を感じ取る。盆小屋には短い行列ができ、自分の番がめぐってくると手を合わせてロウソクに火を灯す。盆飾りのハマナスを見て、誰もがハッとする。色は真っ赤で変わりないが、あれほど丸く張っていた実はしぼみ、無数のシワを刻んでいる。盆棚に並んでいたナスやキュウリの精霊馬も半ば干からびてしまっている。明るさを増すロウソクの火を前に、さきほどまで残照で橙色に光っていた海が輝きを消し去って藍色に暮れていこうとしていることにも気づく。風景は数日前と変わってはいない。しかし、そこに流れる時間は決して止まることがなく、前に進んでいる。

盆小屋で手を合わせた後、小さな波が繰り返し寄せる渚に向かう人もいる。波でしっとりと濡れる砂の上に幾本かの線香を立て、先端に火を点ける。細い線を引いてゆらゆらと波間に漂い出た線香の香りは、夏の海の強い匂いのなかに消えていく。手を合わせ目を閉じる人たちが、波打ち際にぽつりぽつりと等間隔で並ぶ。暮れなずむ凪の海から微かに潮騒が聞こえてくる。人が水平線の先を見つめ、胸に秘めた言葉で祈る風景は、耳を澄ませると聞こえてくる詩のようで静かな時を連れてくる。

水平線の空が微かに残していた赤味を失い、白い砂浜が暗く沈んだ色になる頃、集まった人全員で盆小屋を取り囲む。古老が松明に火を点け、少し神妙な顔をしてみせる。やがて一歩、二歩と盆小屋に歩み寄り、藁で作られた小屋の壁にそっと松明の火を近づける。「ジーダ、バンバーダ、コノヒノヒカリデ、イットーネ、イットーネ」。声を合わせて歌われるのは、「行っておいで」と霊魂を再び送り出す歌だ。燃え盛り、大きくなっていく盆小屋の火に負けないよう、歌声は次第に高くなっていく。「ジーダ、バンバーダ、コノヒノヒカリデ、イットーネ、イットーネ」。歌う人たちの頬はハマナスの実のように赤く輝き、大きく開いた口から放たれる別れの歌は炎の中へと投げ込まれる。赤い火のなかで焦がされて燃えていく言葉。哀しみやおかしみといった姿あるものは炎のなかで溶け合い、人間の情感という言葉なき言葉が最後まで残り、やがて消えていく。

火が鎮まり、歌声が途切れてしまうと聞こえるのは潮騒だけだ。夜の海の向こうから響いてくる波の音は震えるようで、誕生したばかりで目も開いていない獣が微かな声で唸っているようにも聞こえる。

かつて、この盆小屋の風景は集落ごとに見られたという。象潟の長い海岸線には、足跡のように点々と盆小屋が建てられ、夕暮れと同時に火が点され、燃え上がった。去り行く霊魂たちはそれをどのように眺めていたのだろう。海と陸の(あわい)に並ぶ炎は、単なる「火」ではなく、地上で生きる人たちの身体のなかで燃え続ける生命の光に見えただろうか。「ジーダ、バンバーダ、ジーダ、バンバーダ」、海に漂う歌声は懐かしさを伴いながらその胸の深いところに広がっていったのだろうか。

 

翌朝、僕は再び盆小屋が建てられていた海岸に出かけた。夜半過ぎから大気の流れが変わったのか、海には薄い靄がかかっており、水平線がぼんやりと霞んで見えた。たくさんの人の足跡が残された砂浜はしっとりと濡れており、ときおりキラリ、キラリと小さく光った。燃えた盆小屋は広々とした砂浜の中で一点の黒い塊となっていた。四隅に立てた柱は崩れ落ち、筵や藁などは、すべてが細かな灰となってしまっている。

そこにやってきたのがスコップを持った一人のお爺さんだった。お爺さんはタバコを咥えながら燃えた盆小屋の脇に穴を掘り始めた。砂は柔らかく、穴はすぐに人一人が入るぐらいの大きさになった。すぐ隣にまた別の穴を掘り始めた。この浜は海水浴場で人気の場所だったが、今の時間は他に人の姿はなく、スコップが砂に突き刺さる際に生まれるざくりざくりという濁った音がやけに大きく聞こえた。僕は砂をそっと踏んでお爺さんに近寄っていった。

お爺さんが浜に来た理由は盆小屋の後片付けをするためだった。「集落の取り決めだと、朝飯後にみんなでやるべえなんて喋ってたども、朝早ぐ(まなぐ)が覚めだがら、やってしまうべと思って。夏ぁ、いつも夜明け前に起きてしまうもんな」とお爺さんは笑い、少し困った顔をしてみせた。それから、「まだまだ掘らねばなんねえな」と独り言をつぶやくと、黒々とした灰をすくい、最初に掘った穴へと放り込んだ。遠目からでは、盆小屋はきれいに燃え尽きていると思えたが、実際にスコップの上に乗っている柱は完全には炭化していなかった。それでもお爺さんは躊躇することなく、燃えかすをざくざくとスコップですくって穴の中に放り込んでいった。年齢を訊ねたわけではなかったがおそらく八十歳を過ぎたぐらいだろう。秋田の人によく見られるように瞳の色が少し薄い褐色だった。

穴が燃えかすでいっぱいになると、お爺さんは脇に積んであった砂をすくって埋め戻していった。黒い燃えかすは砂ですぐに見えなくなり、余った砂を盛ったので、最終的にはゆるやかな曲線を描く砂の山となった。お爺さんの首筋には汗が浮かんでいた。いくら早朝とはいえ、まだ夏の盛りの時期だ。高い湿度のせいで僕も知らぬ間に汗ばんでいた。お爺さんは首に下げていた手拭いで乱暴に顔を拭き、砂に刺したスコップに身を預けると、タバコに火をつけた。そして、目の前の砂の山を見ながら「まるで仏サマを葬ったようだべ」と呟いた。そして、「おめえぐらいの年齢だと見たことねえべ」と僕の顔を見た。お爺さんは白い煙を吐き出し、結んだ紐を解くようなゆっくりとした口調で語り始めた。それはお爺さんが初めて見た埋葬の光景だった。

お爺さんが数え年で八歳のとき、家のお婆さんが死んだ。連れ合いのお爺さんは、婿として隣の集落からやって来た人で、若い頃に亡くなっており、会ったことはなかった。「仏間の長押(なげし)の上さ、写真だか絵だかよくわかんねえどお爺さんの姿が飾ってあったから、それは見てたけんど、声も知らねば、背の高さもわかんねえから想像できなかったな。でも、婆っちゃは好きだったなあ。えらいめんこがってもらったからなあ。おら、小学校さ、上がっても婆っちゃの布団の中さ潜り込んで寝はっていだもの。んだって()ぐなると、やっぱり悲しかったな」。お婆さんもよく懐いて甘えてくる孫が可愛かったのだろう。寝床に潜り込んできた孫に向かってお婆さんは、「おらが逝ってしまっても、おめのごどは草葉の陰がら見守ってけるがらな」と話して聞かせるのが口癖だった。そして、お婆さんは事あるごとに、「もう十分生ぎだぁ。そろそろお迎えが来る頃だなぁ」と大きな声で独り言を言っていたという。「夏の暑い盛りに畑がら帰ってぎたら、縁側で喉渇いだなぁ、水飲ませてけろって、ついつい(さか)ぶべ。婆っちゃの、ああ、お迎えが来る頃だべなぁってセリフもそんた感じだったな。自分さ言い聞かせるようだったども、本当は誰さに向けて言ってたべかな」。

そして、それはある日、現実になった。身体のどこかが悪いとかではなく、どうも風邪を引いたようだと言って数日寝込んだと思ったらそのまま息を引き取った。「婆っちゃが仏さんになったのは梅雨さ入る頃で、今の暑いばかりの梅雨と違って冷え冷えとする日が続いてたな。んだもって最後の言葉は遺言ちゅうのかな、寒いから布団さかけてけろって言ったって、おらの親は喋っていたな。婆っちゃ、夜中に亡ぐなったから、おらは寝ていたものな。この歳になると、人が亡ぐなったって話は数え切れねえぐらい聞いてきたども、亡くなるときはきまってみんな夜だな。なぜか知んねえけんども、生まれるのも死ぬのも夜だな。海で魚が卵を産みつけるのも夜だって聞ぐから、夜はそういう時間なんだな」。

通夜が終わり、お婆さんは先祖代々の墓に葬られた。土葬だった。「あの頃は、今と違って墓は家の土地さのどこかにあったな。田んぼの脇とか山の中とかな。おらいの墓は山の陰さ、あったんだな。そこに婆っちゃを埋めるって、今日みたいに穴掘ってな。棺桶は大きな丸い桶さ。貧しい家は桶をこさえることもできねぇから、そのまま埋めるんだって聞いてらな。おらいのとこは婆っちゃのために立派な桶、作ることがでぎたんだもの、幸いだったな」。穴を掘るのも埋め戻すのも、血縁の男たちの仕事で、葬儀に集まった者たちが見守る中、黙々と弔いの作業が続けられた。葬儀で記憶に強く残っているのは、桶のなかで膝を抱く格好で入っているお婆さんの姿でも僧侶の読経や悲しむ親族の姿でもなかった。「婆っちゃが入った桶を穴の中さ入れてから土を戻していくべ。すると桶の分、土は余計だもんで最後は山になるべ。土饅頭ってやつさ。婆っちゃは小せえ人だったんだども埋め戻してみると、子供からすると結構おっきな山になったんだな。こんもりして丸い山だったな。草が生えているわけでもないし、何つうか禿山みたいなんだども、ああ、婆っちゃはこうやって山になったんだなって思ったな。その山が今も目に焼き付いてらな。参列した年寄りたちも同じこと思ったのかもしれねえな。ああ、いいモリだべ、立派なモリだべって言って手を合わせていたな。昔の人たちは土饅頭のこと、モリって言ったな」。お爺さんはそう言うと、スコップを両手で握り、今しがた埋め戻した穴の隣に掘っていたもうひとつの穴に燃えかすを放り込みはじめた。白い砂と黒い灰が混じり合いながら穴が埋まっていく。ざくりざくりと意外なほど大きな音を立てて砂が鳴った。何かの小説で、潮騒は波が砂を引っ搔く音が空で集まって響いている音だと読んだことがあるが、目の前で鳴る砂の音に耳を傾けると、小さな音が無数に集まって大きな音を立てていることがわかる。お婆さんの上に土を盛っていくとき、無言で手を合わせる参列者の耳に響いたのは、無数の砂と土がつぶやく密やかな声だったのだろうか。

やがて、ゆるやかな曲線を描いた小山がもうひとつ現れた。スコップの背で山をパンパンと押し固めると「さあて、あとふたつ、みっつぐらいは掘らねばなんねえな」とお爺さんはつぶやき、再び汗を拭いた。確かに砂の上にはまだ半分以上の黒い燃えかすと灰が残っていた。僕はお爺さんに、お婆さんをこの盆小屋から送り出した遠い日の盂蘭盆(うらぼん)の様子を訊ねた。

「昔は今では考えられないぐらい浜さ、人が集まったな」と、お爺さんはしわがれた声で答え、立てたスコップに再び身を委ねた。新盆はできるだけ賑やかなものにすると故人が喜ぶとされていた。とくに大事なのは、十三日までに座敷に作る盆棚だった。盆小屋と同じように小屋組みにして、ハマナスの実やシマウリなどで飾り立て、霊魂を迎える準備を整えた。また、あの世から無事に渡って来られるように精霊馬も用意された。昔の精霊馬はマコモを束ねて作られたが、新盆の場合は裸馬ではなく、赤や金の色紙を使って立派に飾り立てるのが習慣だった。もてなされて嬉しいのは死者でも生者でも変わらないからだ。

「家で、そうやって新盆の準備している間、おらは盆小屋さ泊まったんだ。昔は通してロウソクを焚いて、仏さんが帰ってくるのを待ったんだな。もちろん、泊まるっていってもそんな何人も入れる小屋じゃねえべ。小屋の周りの砂の上さ、座って若え人たちは酒っコ飲みながらな、夜通し大声でしゃべってたな。おらたち(わらし)は眠てくなったら砂にごろんと横さなって寝るの。昔は盆入りすると今より冷や冷やとしたんだども、昼間、お日様が照って砂を温っためてくれてんだな。砂の奥がじんわり温ったけえんだよな。だから、仰向けになってな、背中を温めながら寝るんだな。眼、つむるとさわさわって波の音が聞こえてきてな、この音が聞こえるずっと遠くから婆っちゃが帰ってくるんだって思うと、少し不思議な気持ちがしたな。まだ童だったから、死ぬことが怖いとか、そんなことは思わねかったども、自分も死んだらこの海を飛んでくんだべか思うとな、どんな景色なんだべかとか、大変なのかなとか、何日かかるのかなとかいろいろ考えたべな。んだども、生きている人は誰も向こうさ、行ったことねえわけだから誰に聞いても知らねって言われたな」。

お盆の間は、大人たちも仕事を休んで墓参りをしたり、本家に親戚が集まって、皆でご馳走を食べたり、のんびりと過ごした。お盆中の空はいつも晴れていて白く眩しく、誰もが仕事を休んでいるせいか集落は普段よりも静かで蟬の声が大きく聞こえた。そして明日、お盆明けするという日の夕方間近になると、誰もが海に建つ盆小屋に向かう準備を始めた。

「あの頃は、集落で盆小屋に行かねえ人はいねかったな。なんて言うか、大人も童もふわふわとな、海の方さ誘われていくようにな、夕方の道を辿って歩いていったんだな。浴衣姿で盆馬(精霊馬)を下げてな。婆っちゃは、お盆の間、家さ帰ってきた仏さんは帰りたくねえって我がままいうから、家族みなして海まで連れ立って、仏さんを送り出してやんねばなんね、とか言ってたな」。海に着くと最初に盆小屋の前で手を合わせた。祭壇にはロウソクが何本も立てられていて、小さな炎がゆらゆら揺れていた。昔は人がもっと簡単に死んだから、新盆の立派な盆馬を下げている人が幾人もいて、みんな、話をすることもなく日が暮れるのを待っていた。今年もそうだったように十五日の海はいつも凪だった。太陽が水平線に沈んでも空はしばらく明るかったが、徐々に暗くなってくると盆小屋を中心に人の輪ができていった。「あとは昨晩の通りだな。盆小屋に火が点けられるとみんなでジーダ、バンバーダ、コノヒノヒカリデ、イットーネ、イットーネって歌ったな。童の頃に聞いたこの歌は、もっと寂しいって感じだったべな。大声で叫ぶもんじゃねくて、小さな声で歌ったな。んだども歌う人がいっぺえいたもんだがら、大きな歌声になって遠くさ響いてたな。あの頃は、集落ごとに盆小屋を建てたから、浜さは人がいっぺえだったなあ。示し合わせていたのかわかんねぇけど、盆小屋さ火を点けるのも一緒で、浜全体がメラメラっつう感じで真っ赤に燃えてな、眩しいくれえだったな」。

ひと呼吸を置いたお爺さんに、「ご先祖様の魂はそうやってみんなに見送られて海の向こうに旅立っていくんですね?」と僕は尋ねた。お爺さんは微かに笑みを浮かべ、「わかんねえなあ。もうすぐおらも行くんだべなって思っちゃいるんだどもなあ。童の頃は大人になったらわかるんだなと簡単に考えていたんだども、この歳になってもやっぱり、わかんねえなあ」と答えた。お爺さんはゆっくりと続けた。「ただな、婆っちゃの新盆が終わって、親父に墓の掃除してこいって言われてよ。お供えの花やなんか片付けるべってさ。で、墓さ行ってみたらよ、婆っちゃの土饅頭がまっ平らとは言えねんだども、ぺたんっつう感じになってたんだよな。おらいの家の墓には代々の仏さんの丸い墓石がいくつか並んでてな、広場みたいな感じなんだども、周りは背の高え木にぐるっと囲まれててな。あの日は風が吹いてたから、夏の暗い葉が揺れてざあざあざって音が鳴ってな、そのとき、婆っちゃの小さくなったモリを見て、おらわかったんだよな。婆っちゃ、盆小屋の光を見ながら、あの世さ、飛んでいったっけなあって」。

僕たちの背後で車のエンジン音が響いた。お爺さんが話を終える頃を見計らうようにやってきたのは、荷台に三人の男を乗せた軽トラックだった。男たちはスコップを片手に荷台から飛び降りると、盆小屋の後片付けをするために砂を掘り始めた。

 

 

何年にもわたって東北各地の祭礼を訪ねる旅を続けてきた。祭礼には様々な種類があるが、お盆という行事は僕にとって興味深い人間の営みのひとつだった。

祭礼は固有の風土から生まれるゆえに個性的だ。しかし、その一方で、眼に見える姿が異なっているだけで、営みに込められた意味や祈りは、通底している場合が多い。盂蘭盆はまさにそうした祭礼行事の代表格だろう。地域ごとにその営みの姿は大きく異なり多様だが、人の死と霊魂を扱うという同じ根っこを持つ。

お盆とは簡単に言ってしまうと、今を生きる者が先に逝った者の霊魂と交感するための時間を作り出そうとする営みだ。そのために、人は亡き人の霊魂をいかに“生きている人”のように扱うか、ということに心を砕き、工夫を積み重ねてきた。象潟の盆小屋もその通りだ。海の向こうにある浄土から霊魂が帰ってくると考え、浜に小屋を建ててそこで霊魂を迎える。そして、お盆が過ぎれば、小屋を燃やして霊魂を再び浄土へと送り出す。「物語」に喩えると、これが「お盆」というもののあらすじとなる。物語を成立させるためにはあらすじの枝葉となる「細部」も必要だ。それが、お盆の時期とその前後で行われるいくつもの勤めである。たとえば、赤と黄色の色紙で飾った美しい盆馬を作ることもそうだろうし、盆棚を飾るために浜に出向き、鋭い棘に手を痛めながら、赤い宝石のようなハマナスの実を集めることもそうだろう。墓地の草取りをしてきれいにしておくことも大事な勤めだ。「お盆」という物語はこうした緻密な細部によって、「現実」として立ち上がってくる。忘れてはならないのは、こうした緻密な枝葉を持つ物語を、それを営む人々で分かち合っていることだ。土地を語る大きな物語として、そこに暮らす者であれば誰もが語ることができる物語として成立している。土地に受け継がれてきたお盆の営みとは特定の誰かのものでなく、誰のものでもある物語なのだ。

では、こうした「お盆の物語」を語り続けながら、人は何を感じ、知りたいと願ってきたのだろうか。親しい人が亡くなり、その霊魂と交感するという物語の中に自分の心身を投じることで、何を得ようとしたのだろう。やはり、死んだ先のこと、つまり死後の世界について、ということになるのだろうか。

「人」が死んだらどうなるか。「心」はどこへいくのか。その問いは人が人として存在して以来、切実であり痛切であり続けてきた。「お盆」は、この問いに対するひとつの「答え」であり、これをともに生きる者たちで分かち合おうとしてきた。ただ、それにしても、と思う。人はなぜ、こうも「死」に引き寄せられるがごとく捕らわれるのだろうか。生命あるものが何らかの原因によって死を迎えるということに不思議さを覚える者はいないだろう。日々、生きていくことは自分以外の生命を奪い続けることだという現実を知らない者はいないだろう。にもかかわらず、なぜこうも死んでいくことを見つめ続けるのか。

「心」というものを信じているからだろうか。胸のうちに棲まう「心」という存在。「心」は「私」を思いながら育ち、「私」を常に伴っていくことで本当の「心」になっていく。言い換えると、「心」は「私」によって、唯一の存在となっていく。この存在こそがつまり霊魂であり、肉体はそれを育む役割でしかない。だから霊魂は肉体の死とともに消えてしまうことはない。肉体は単純に霊魂の器であって、肉体が役目を終えれば、そっとそこから抜け出ていく。では、そこからどこへいくか。霊魂は再び新たな肉体に宿ると考えることもできる。あるいは、霊魂が暮らす世界がどこかに存在し、そこに向かうのかもしれない。答えを得るのは難しいが、その答えのひとつがお盆のような祭礼だと捉えることもできる。ただ、だからといって、決着したわけではない。燃えた盆小屋の灰を砂の底に埋め戻し、「婆っちゃの死」を語るお爺さんのように、風に混じる淡い匂いを感じるように人の死の不思議さを抱き続ける人もいる。やはり、問いは解かれることなく今も漂っている。だからこそ、迷路で迷子になるような結果になることを薄々感じながらも、人はこの問いから離れることができず、死を見つめ続けるのだと思う。

 

この問いの答えになるかどうかわからないが忘れられない言葉がある。今から何年も前に、僕はマレーシアのボルネオ島の旅をしていた。目的は、とある写真プロジェクトに出展するための作品制作にあった。そこで出会ったのがリアムという、当時の僕と同じ年頃の四十代の男性だった。彼はドゥスン族と呼ばれるボルネオの先住民で、この島の最高峰である標高4000mのキナバル山の中腹にある小さな村で暮らしていた。リアムは村の顔役的な存在でありながらも気さくな性格の持ち主で、現代のドゥスン族の暮らしを知りたいと思っていた僕のガイドとなって村内を案内してくれることになった。

キアウ・タブリと呼ばれる村に暮らす人たちの生業は主に農業だった。パイナップル、ドリアンなどのフルーツや稲作(といっても水稲ではなく陸稲)に加え、パーム油の原料となるアブラヤシやゴムの木などを栽培していた。リアムはこれらの農場をひとつひとつ案内してくれ、そこで働く人と引き合わせてくれた。また、「豚を獲った男たちがちょうどパーティーしているんだ」と、丸焼きにした獲物を肴にドブロクで盛り上がる農小屋に僕を案内してくれたこともあった。ドゥスン族にはジャングルで狩猟中心の暮らしを営んでいた歴史があり、現在でもくくり罠による野生豚の狩猟が盛んに行われていた。

キアウ・タブリを歩いてみると視界の先にはいつもキナバル山の威容があった。中腹までは深いジャングルに覆われているが、森林限界の先では灰褐色のとてつもなく巨大な岩塊が空に向かってそそりたち、それがこの山が持つ圧倒的な存在感をつくっていた。岩塊は、ジャングルが広がる風景の重さをすべて集めた存在とでも表現すればいいだろうか、まるで、この世界の重力を司る存在ではないかとさえ思えた。こうした風景のなかで暮らすキアウ・タブリの人々にとって、キナバル山の存在がいかに大切なものであるかは聞くまでもなかった。

あるとき、リアムは僕を村の外れの見晴らしの良い場所に案内した。「俺たちのことを知るためには見ておかなきゃいけない場所だ」と言われたが、そこはまばらに草が生えた緩斜面で、作物が植えられているわけでもなく、ただの荒地にしか見えなかった。この緩斜面に高床構造の小屋がひとつ、ぽつんと建っていた。小屋といっても人間が入れるような大きさではなく簡素な祠のような雰囲気だった。リアムは僕を手招きし、小屋の方へと歩いていった。近づいてみてもその印象は変わることがなかった。小屋はどこにでもありそうな薄いベニヤ板で作られており、何か特別な意匠が施されているわけでもなかった。

小屋の前面には観音扉が付けられているが、鍵は掛けられてなかった。リアムは錆びた鉄の取手をつかむと造作なく扉を開けた。薄暗い小屋の内部に光が届き、そこに現れたのは十数個ほどの人間の頭骨だった。いずれも白い砂をまぶしたかのような乾いた質感をしており、ぞんざいな感じで積み上げられていた。もちろん、突然現れた頭骨を前に、一瞬どきりとした。しかし、あっけらかんとした気配が勝っており、山道で白骨化した野生動物の死骸を見るような感覚を抱いた。リアムは何も言わずに手前にあった頭骨に手のひらを伸ばし、鷲摑みして持ち上げた。その拍子に白い骨の欠片がパラパラと剝がれ落ちた。「これは、俺たちの先祖なんだ」。リアムはそう言うと笑い、「写真を撮れ」と頭骨を胸に構えてポーズした。僕は言われるがまま笑顔で頭骨を抱えたリアムに向かってシャッターを押した。リアムは満足そうな表情で親指を立てると、頭骨を小屋の中に戻した。リアムの手から離れた瞬間、頭骨は少し転がり、別の頭骨とぶつかって乾いた音を立てた。この音に驚いたのか眼窩の中からわらわらとたくさんの赤い蟻が外に這い出てきた。蟻たちは頭骨の上を行列になって歩き始めたが、リアムは気にかけることなく、そのまま観音扉を閉めた。そして、静かに前方でそそり立つキナバル山へと視線を送ると、「俺たちの村では人が死んだら……」と、話を始めた。

キアウ・タブリでは、人が亡くなると村外れに穴を掘った。先に逝った人の肉体を安置するためだった。葬儀が終わると、遺体を入れた棺桶をこの穴の底に下ろした。土をかけず、穴に蓋をした。この穴の中は魂が肉体から離れるのを待つ場所だった。待つ日々は数年にも及ぶ。長く暮らした肉体だ。暗い穴のなかで魂はゆっくりゆっくりと肉体から旅立とうする。その間、肉体は完全に役割を終え、ゆっくりと朽ち、肉体という束の間の夢から覚めるように消えていく。時が満ちたとき、家族が迎えにくる。穴を閉じていた蓋を開け、赤道の太陽がもたらす強い光を暗闇へと導く。この光で魂は完全に肉体の外に出て、ゆっくりゆっくり昇っていく。目指すは、キナバルの頂だ。だが、その前に少し寄り道して懐かしい村を見ていこう。路地では追いかけっこする子供たちの喧しい声が聞こえるだろう。畑では働く若者たちの汗の匂いを嗅げるだろう。家の窓からはうたた寝をする老人のいびきが心地良い響きとなって漏れ出ているはずだ。みんな、何も変わることなくこの村で生活を続けている。何も心配することはない。さあ、ジャングルに向かおう。ここが自分たちの始まりだ。森は変わらず草木で鬱蒼として鳥や獣たちで満ち、無数の生命が生と死を繰り返す場所だ。時代は変わりゆくが精霊が暮らすこの森がある限り安心だ。いよいよ少し遠くを目指そうか。森が途切れたその先で天空へとそそりたつキナバルの岩山に導かれるままに遠く遠くまで向かおうか。

リアムが語ってくれたのは霊魂の旅だった。霊魂がどうやって肉体から離れ、どこへ向かうか。まるで自分が旅立つ霊魂になったかのように「肉体を離れた魂は、村に残した家族たちの声に耳を傾けたあと、キナバルの頂へと向かい、そこから空へと向かっていく」と語ったのだった。顎を上げて見上げるリアムの視線の先には、頂の下で薄い雲をたなびかせるキナバルの姿があった。リアムは僕に向き直り、「生きている者は、キナバルの頂を目指す魂の旅立ちを見送ったら、こうして死者の骸骨を集めておくのさ。いつかまた新しい魂がやってくるのをこの場所で待つんだ」と人懐っこい笑顔を浮かべた。

ドゥソン族は精霊の存在を信じてきた民族だ。森には精霊が暮らし、自分たちを守ってくれているという世界観を持ち、ジャングルでの暮らしを営んできた。今では、現代的な生活文化を取り入れている彼らだが、目には見えない精神世界によりどころを置く感覚が、心の奥底に流れているのだろう。何より「魂」という、それなしでは自分たちの生の在処を語ることができないものを見つめ理解するために、先人たちが語り継いできた世界観を必要としている。だからこそ、彼らは今もこうしてキナバル山を望む場所で先祖の頭骨を守り続けているのだろう。

僕は、「ドゥソン族の人々はどうやって、この魂の物語を作ったのだろう」と、大きな瞳を細めて笑うリアムにひとつの問いを投げかけた。間違った聞き方だということは理解していた。彼らの生と死、魂をめぐる世界観は“作られた”ものではなく、彼ら自身に備わっているものだからだ。実際、僕の質問を前にしたリアムは戸惑った表情を浮かべた。しかし、考えあぐねた末にリアムは口を開いた。「人は死んでから目が覚めるんだよ。人の一生なんて、夢みたいなものだろう。いつかは覚めて終わってしまう。だから、続きが必要なんだ。魂の旅は夢の続きだ。ここは、魂たちの夢の続きが生まれる場所なんだ」。

「いつか終わってしまう人生には続きが必要だ」。この言葉が、人間という生き物が“生と死、魂をめぐる問い”をなぜ抱き続けるのかという問いの答えにはならないだろう。しかし、その一方で、人がこの問いを抱き続ける理由のひとつにはなるような気がする。いつか終わりが来ることを知っているからこそ、その続きを求め続ける。しかし、これは“問い”というよりも胸の内に宿る切実な感情で、ほとんど祈りだ。“逝こうとする人”の前で人は問うのではなく、祈ってきた。そして、これがあるから、たとえば盆小屋のような営みが生まれ、続けられてきたのではないか。祭礼に必要ないくつもの小さな営みの積み重ねは、人の一生といういつか消えてしまう物語を理解し、さらにその先にあるものを想像するために必要だった。この物語を編むことで、人の一生という夢かうたかたに過ぎないものが、手のひらで握ることのできる確かなものとして姿を現す。

 

象潟の海で、燃えた盆小屋の灰を砂浜に埋めていたお爺さんは、別れ際にこんなことを話してくれた。「おらいの婆さん(妻)は、別の土地から嫁にやってきたんだ。婆さんの村では盆になると、帰ぇって来る魂を迎えるために墓さ行くんだ。無事、魂と落ち合ったらな、背中におぶって家さ帰えるんだ。そのとき、しきたりがあってな、おぶっている間、絶対振り返っちゃだめなんだと。ずっと前さ向いて、おんぶの格好して歩くのさ。家さ着いて、座敷で背中の魂を下ろして、ようやくそこで懐かしいべって再会するんだと。まったく昔の人は変わったごと、考えたな」。お爺さんは笑い、大げさにおんぶする格好をして見せた。