みすず書房

ろうそくの火

ろうそくの火

雪雲からこぼれ落ちるような降り方だった。青森県、弘前市の南西にある旧相馬村沢田集落の厳寒期。初めて向かった土地で目にしたのは、天気予報が「記録的な大雪」と伝える凄まじいまでの雪と、白神へと続く山々の懐に抱かれた暮らしの美しい佇まいだった。

集落へと続く道に沿って、白神山地のブナ林を源とする作沢川が流れていた。水温は一年で一番低い時期で、清冽な流れは澄み渡っている。しかし、真っ白な雪の世界を流れる川面は、意外にも黒く沈んだ水を運んでいた。陽光を閉ざした分厚い雪雲の下で流れる水は輝くことができず、夜を運ぶように暗い色彩をまとっていた。

川の両脇は切り立った断崖が続き、崖上に広がる森は深い雪がつくる静寂のなかにあった。風が止んでいたからだろう。木々は、太い枝の一本一本はもちろんのこと、針のように尖らせた枝先にまで白い雪を載せたまま立ち尽くしていた。

そのまつりは沢田集落の入り口にある神明宮で行われると聞いていた。そこで思い浮かべたのは鎮守の森に抱かれた産土(うぶすな)神の社だった。過去に訪ねた東北の農村集落での村祭りの多くがそうした場所で開かれていたからだ。しかし、沢田の神明宮が建っていたのは断崖の中腹だった。断崖上部は垂直に近く、周囲の雪とは対照的に黒々とした岩肌が剥き出しになっていた。一方、断崖の中腹から下腹部にかけては緩傾斜になっており、上から滑ってきた雪をたっぷりと蓄えていた。沢田神明宮の白い拝殿が建っている場所は、黒い岩が剥き出しになった崖の上部と、雪を蓄えた下部とのちょうど境目だった。ただし、拝殿と言ってもその印象は実に簡素なものだった。神社らしい意匠は一切施されておらず、赤いトタン屋根に幅広の格子窓がついているだけの建物は、農小屋と呼んだ方が相応しかった。

この神明宮までの道のりは雪の階段だった。登り口には鳥居があり、参拝客はそこで頭を垂れてから、雪の斜面に作られた九十九(つづら)()りの階段道を辿って中腹にある神明宮を目指す。時間にすると数分だろうが、切り立つ黒い岩肌が徐々に迫ってくる時間は、穏やかな高揚感をもたらすものだった。そして、この感覚は神明宮の内部に立ち入った瞬間、奇妙な違和感と緊張感が混ざり合ったものへと変わった。建物の中で待っていたのは岩壁が大きな口を開けたかのような「(いわや)」だったからだ。一般的に言って、人の意識は、建物の中に入ったその瞬間、自然と屋外から屋内に切り替わる。つまり建物とは、人の意識を外界から内界へと導く役割を持っている。そういう意味では窟への入り口となる神明宮は人の意識を岩の内奥へと導くものだった。

雪の世界に立つ岩壁と、神明宮に足を踏み入れた先で出会った岩は同じ岩には違いなかったが、その表情は異なっていた。窟内の黒い岩肌は濡れるように艶やかで生々しく、柔らかな気配すら帯びており、まさに“岩の胎内”と思しき世界だった。

昼なお暗く、静けさが支配する岩壁の窟。自然の作用によって生まれた漆黒の闇に、この地に生きた人々は、おそらく世界の始原を見出した。それは神聖なるもの、畏怖すべきものだった。闇の始まりか、あるいは源にも見える窟は、人々のなかの“霊感”を呼び覚ました。必然、この場所は人々の祈りを集める神聖な場所になっていったのだろう。こうした土地の信仰の起こりを今に伝えるのが、窟の最奥部、濃厚な闇のなかに建つ本殿だろうか。祠を少し立派にした程度の大きさではあるが、この世の神秘を司るかのように厳かな気配をまとい、鎮座している。実はこれこそが神明宮を祀る本殿なのである。つまり、地元の人がこの場所を「神明宮」ではなく「岩谷堂」と呼んできたことからも想像できるように窟全体が信仰の対象であり、崖下から見える格子窓の建物は、本殿を含めた窟を守護するいわゆる鞘堂(さやどう)的なものだった。

 

「沢田のろうそくまつり」で()されることは、この窟でロウソクに火を灯すことである。一年に一度の祭りの日を盛り上げるため、崖下の広場では地元のお母さんたちの手による山菜汁やおにぎりが並び、夜になれば巨大な焚き火を囲んでの岩木山名物の登山囃子の演奏などもある。しかし、祭りの中心にあるのは、この窟の中でロウソクを灯すという、たったひとつの行為である。

窟のなかに大きな岩がある。断崖全体がひとつの岩盤なので独立した岩ではないのだが、丸みを帯びた形状をしており、巨大な亀の甲羅に見えることがあれば、象の背に見えることもある不思議な岩である。参拝客は携えてきたロウソクをこの岩に立てて火を灯し、祈る。岩肌には無数の凸凹があり、好きな場所に立ててよい。少し不安定であっても、わずかな凹みの上にロウソクを立てる人もいれば、できるだけ平らで安定した場所を選んで立てる人もいる。ロウソクの大きさも様々だ。法事などで使われるものよりも大きく立派なものを立てる人がいれば、ささやかで控えめなロウソクに赤い火を灯す人もいる。

参拝客が増えてくるのは、ロウソクの炎を強く感じられる夕暮れ頃からだ。といっても時刻にすると午後三時過ぎ。冬至を過ぎ、昼間の時間が延びる時期ではあるが、雪雲に覆われた空は早々と夜を連れてくる。雪が降れば降るほど夜は深まり、朝は近づくどころかむしろ遠ざかっていく。それを知っているのか窟に向かう参拝者に急ぐ人はいない。ロウソクを携え、ゆっくりと踏み締めるように雪の階段を一歩一歩登っていく。白い鞘堂の中は人が訪れるにつれてロウソクの数が増え、明るさは強まっていく。雪があるからだろうか、格子窓から漏れ出す光は眩しく、ロウソクの火が作り出す光だとは信じ難い強さで雪面に拡がっていく。

本当であれば、吐く息さえも凍りつくほどの寒さに支配され、どこまでも深い静寂を湛える窟の中だが、この日だけは違う表情を見せる。岩肌に隙間なく立てられたロウソクの火に照らされた窟の中は穏やかに燃える火の玉のようで暖かだ。窟を覆う鞘堂には外と通じている隙間があるのだろう。微かに動く空気によってロウソクの炎が揺れ動き、窟の天井にはゆらゆらと踊る炎の姿が映し出される。気まぐれな風が崖を撫で、その拍子に窟内の空気が大きく動くことがある。すると岩壁に並ぶロウソクの赤い火は一斉に伸び上がり、閃光にも思える強い赤い光を放つ。黒々とした岩肌がこの光を受けて真っ赤に染まる姿は、まるで溶岩流だ。また、降る雪が勢いを増せば、粉雪が忍び込んで窟の中を舞う。岩肌はうっすらと雪をかぶっていき、ロウソクの火は音もなく雪を溶かしていく。約450年の間、続けられてきたという祭りの夜はこうしてロウソクの火に見守られながら静かに更けていく。

 

参拝客が姿を消した翌日の早朝、崖下の鳥居の前に集まったのは沢田集落の人々だった。人々が見上げるのは昨日と変わりない姿で断崖の中腹に建つ岩谷堂だ。口にされる言葉は「昨日の雪はひどぐであったな。こったらに降ったのはひさすぶりだ。やっぱす、ろうそぐまつりの日は雪がよぐ降るな」などと他愛もない。しかし、人々の表情はどこか不安と緊張の翳を帯びている。一人のお爺さんが人々のそんな気配を察してか、「さあ、そろそろ時間だな。きちんと見定めでくるはんで待ってけ。きっといい報せだべ」と明るく大きな声を上げる。場の空気は一転して和み、人々の表情も和らぐ。

お爺さんは一礼してから鳥居をくぐると、雪の階段を登りはじめた。黒い長靴を履いていたこのお爺さんは片足が不自由だった。そのため雪の階段を一歩登るたびに両肩が大きく左右に揺れた。それでも一歩一歩、登っていく。九十九折りの雪の階段道の二つ目の曲がり角でお爺さんは足を止め、後に続く僕に向き直った。「あど、わんつか(わずか)だな。若え頃はこった坂、一気さ登れだんだが、今じゃそうはいがね。歳取ったものだな」。そう言って真面目な顔をすると、鳥居の下で上を見上げる人々を眺め、「みんな、まだ不安そうな顔すてらはんで、早ぐ見でごねばなんねえな」と笑い、再び両肩を揺らして登り始めた。

祭りの翌朝に岩谷堂に向かうことができるのは、たった一人の村人と昔から決められていた。祭りの始まりと同時に参拝客が次々と雪の岩谷堂を訪れ、黒い岩肌にロウソクを立て、火を灯す。夜が更けるにつれてその数は減っていき、日付が変わる頃になると完全にひと気が途絶える。しかし、窟の中に立てられたロウソクの炎の勢いはこの頃が最高潮となる。鞘堂の正面にある格子窓から漏れ出す光は雪の上で煌々と輝き、雪の夜を赤く染める。誰もいなくなった窟の中でロウソクの火はこうして燃え続けるが、朝を迎える前にすべての炎が音もなく消える。窟の中は再びいつもの闇に覆われ、岩肌には、溶けて流れたロウの跡や途中で消えたロウソクが残される。このロウの様子から、今年の秋の稔りの豊凶を見極めるというのがお爺さんに託された役割だった。

雪の階段を登り詰めたお爺さんは、鞘堂の入り口で長靴に付いた雪を払ってから慣れた様子で窟の中に入った。窟の中は厳冬期の寒さを完全に取り戻しており、お爺さんの吐く息は雲のように白い。長靴を引きずりながら窟の奥でひっそりと佇む拝殿の前に進み出たお爺さんは、岩の天井から吊るされた鈴緒(すずのお)を大袈裟に揺らしてから手を合わせ、頭を垂れた。そして顔を上げると昨夜はロウソクの炎の輝きで赤く染まっていた岩肌に近づいた。炎が消えて、岩肌は完全に冷え切っているのだろう。黒い岩肌にはうっすらと雪が積もっている。お爺さんは軽く息を吹きかけてこの雪を飛ばし、そのまま顔を近づけて岩肌に残るロウを見つめている。溶け出したロウが岩肌の上を流れてそのまま白く固まった姿は、凍り付いた涙のようにも見える。また、根元を残して途中で消えたロウソクも意外と多い。窟の中を流れる空気の動きで炎が揺れ続けたからだろうか。燃え残ったロウソクは、冬の沢で凍り付いた飛沫のような不思議な形をつくっている。お爺さんはひとことも発しない。表情を変えることもなく、岩肌に炎が残していったロウをひとつひとつ仔細に見続けるだけだ。

やがて、「判断がついたべ。さあ、みんなのとこに戻るべ」とお爺さんは呟いた。ロウソクが燃えた跡から今年の豊凶を占うと聞いていたが、実際に岩肌を前にした僕の目に映ったのは、たくさんのロウソクがそれぞれ勝手に燃えただけの光景だった。しかし、僕はお爺さんに問うことはなかった。お爺さんの口はすでに固く結ばれており、部外者の僕がそれを開かせることに躊躇いを覚えたからだった。

お爺さんは鞘堂の外に出ると、九十九折りの階段道を降り始めた。下り道は登りよりも歩きづらいのだろう。両肩は登りよりも大きく左右に揺れ、それでもお爺さんは休むことなく下り、鳥居の下で待っている集落の人たちの前へと歩み出た。お爺さんは前置きもなく「今年は大変な難しい年になるな。決すて良い稔りは見込めね」とはっきりと宣言した。その直截な言葉に僕は驚いたが、そこにいた人たちから疑問や反論めいた言葉が発せられることはなかった。僕の耳に届いたのは、「だったら、村全体でいろいろ気つけねどいげねな」、「りんごの苗植えるのは来年さ先送りすた方がいがもすれねな」、「畑の種まぎ時期も油断せずにお天道様の様子をちゃんと見極めて慎重にやんねばなんね」といった言葉だった。僕はさらに驚くよりほかなかった。ロウソクの燃え跡など、その日の天候でいくらでも変わるはずだ。まさに「当たるも八卦当たらぬも八卦」の占いの世界のことであり、確かな未来予想などではないはずだ。にもかかわらず、なぜ、このように信じ切ることができるのだろう。しかも、燃え跡を見てきたのはお爺さん一人だ。お爺さんの判断を問い質す言葉のひとつもないのは、どういうことなのだろうか。雪が再びちらつき始めていた。しかし、集落の人たちは雪を頭に載せたまま、熱っぽい口調でやがてくる凶作に向けて、いかに対応するべきかと言葉を交わし続けた。

 

僕のなかには、ろうそくまつりで見られるような吉凶占いは信じるに足らないという感覚がある。身も蓋も無い話になってしまうが、吉凶占いなど時代遅れだと思えるからだ。そう感じるのは今に始まったことではない。むしろ若い頃は今よりも強くそう考えていた。だってそうではないか。今、この時代において、仮にロウソクの燃え方ひとつで豊凶を知ることができるのであれば、人類が長い時間をかけて培ってきた自然科学や農業技術が必要とされる場所はどこにあるのだろう。言い換えると、何の根拠もない豊凶占いなどに頼ることに対する疑問に気付いたからこそ人は自然科学を学び、農業技術を研鑽してきたはずだ。そして、これらの営みの積み重ねで得たものによって、過去から悩まされてきた多くの問題を解決してきたはずだ。この事実を前にしてなお豊凶占いをする理由はどこにあるのだろう。

しかし、沢田のろうそくまつりの翌朝に集まった人々から発せられた言葉には、豊凶占いへの揺るぎない信頼が込められていた。しかも、そこにはいたずらに怖れを抱くような妄信めいた感情は皆無で、やがてやってくる困難にどのように対処していくか、冷静で明晰な言葉が生まれていた。何より彼らの思考は現実的だった。それでも、ロウソク占いをどこかで時代遅れだと決めつけていた当時の僕は、彼らのこうした言葉を素直に受けとることはできなかった。彼らのロウソク占いへの信頼に対する違和感を拭うことはできなかった。しかし、一方でこの違和感は、別の意味で僕自身へ向けられるものでもあった。なぜ、自分は彼らのようにロウソクの燃え具合が示唆する未来を信じることができないのか。生きてきた土地が異なるとはいえ、同じ時代に生きる者なのになぜこうも異なる思考を持つのか。彼らには見えないものが見えて、僕には見えるものしか見えないということなのだろうか。

実をいうと、このような感覚に陥ったのはこのときが初めてではなかった。25歳で岩手に移住し、土地に受け継がれている風俗に興味を持った僕は、東北各地で行われている祭礼行事を訪ね歩いてきた。そこで見たものの多くは、やはり沢田のろうそくまつりで見るような遠い時代より受け継がれてきた精神世界だったが、当時の僕にとっては、“ときの忘れ物”と感じられるものだった。僕は彼らの営みを、近い将来、失われる世界の姿なのだろうとどこかで決めつけていた。おかげで自信を持ってカメラのシャッターを押すことができた。カメラほど、失われる世界を記録することに長けた道具はないからだ。

しかし、この“忘れ物”に関わる人たちの姿に大きく揺さぶられたのも事実だった。人々は決して盲目的に先人のメッセージを信じていたわけではなかった。彼らは僕と同じ今を生きる人たちであり、先人から受け継いできたものを「今」という世界に取り込むための模索を続けていた。僕には伝統的な世界を受け継ぐという具体的な経験はなかったが、「今」を生きることの難しさを感じている点においては共通していた。その一方で、彼らが僕には持ち得ないものを持っていることに気付かされた。彼らは“祈る”ことができた。今という時代と遠い時代の間で揺れる彼らだったが、祭礼の世界の見えないものを前にしたとき、それを信じる前に迷うことなく祈ることができた。それは僕にとって大きな衝撃でもあった。僕は彼らの世界を信じることもできなければ祈ることもできなかったからだ。そこに気づいたとき、自分が移り住んだ東北という世界の姿がはじめて僕の前に現れたような気がした。この土地には、見えないものに対して“祈ることができる人たち”が確かに存在している。それができる理由がこの土地に生きる彼らの中に確かに存在している。これが僕の見つけた東北という土地とそこに暮らす人の実相だった。

以来、僕は彼らの祈りを支える世界をもっと深く知りたいと願ってきた。彼らに見えて僕に見えないものは何かという問いは、僕の旅の重要な動機となっていった。問いの答えは、彼らの来し方、つまり、世代を越えて生き継いできた日々であることはわかっていた。そうであるならば、ある日、何の準備もなくこの地にやってきた僕が、彼らの心の内に広がるこの風景を見渡すことなどできるのだろうか。何より、彼らの精神世界を支える一番重要なものは簡単に見ることができないものだという気がした。見えないものへの祈りを生みだすものは彼らの胸の奥で熱を持ち、呼吸を繰り返しながらも透明な姿で存在しているのではないか。僕は、彼らの祈りや信じるという行為の秘密は、この透明な存在の誕生にあると考えた。

 

忘れられない情景がある。藩制時代を中心に整備された旧街道の地図を手に、東北を旅していた頃のことだ。人の生活を支えてきた道は必要とされる限り維持整備が続けられる。その一方で産業の仕組みや生活の変化によって往来が減っていく道もある。こうした道は当然、整備が滞り、早晩廃れていく運命にある。僕が旅の目的地に選んでいたのは後者の、移り変わる時代のなかで翳りゆく道だった。旅の理由は、街道沿いで見られる暮らしの風景にあった。賑わいの日々が遠く過ぎ去り、静けさに包まれた街道沿いの農村は、今の言葉で表現するとしたら過疎化した農村の姿ということになるのだろう。しかし、“遅れてきた者”という感覚を持っていた当時の僕にとっては、かろうじて間に合ったと思える“東北の原風景”だった。

あの日、旅をしていたのは出羽国(山形)の内陸部と庄内の海を結ぶ「六十里越(ろくじゅうりごえ)街道」という街道だった。「六十里越」という名の通り、道筋はいくつもの峠を越えるものだった。舗装されて車道となっている箇所を除くと、街道は深いブナの森の中を縫って進んだ。こうした山道をたどり、峠を越えて下っていくと決まって小さな集落が現れた。その多くは谷筋にあり、少し開けた平らな場所に古い家が身を寄せ合って建っていた。険峻な谷であっても山肌は開墾され、自給用の農作物が育てられていた。人影は少なかったが家の煙突からは青白い煙がゆるゆるとたなびき、どこかの牛舎から少し高い声で鳴く子牛の声が聞こえ、牧歌的な雰囲気をまとっていた。もちろん、空き家も多かった。人が去って久しい家は屋根が落ち、勢いよく繁茂した草が前庭や畑を吞み込もうとしていた。僕は街道の道筋を記した古い地図を手に、こうした集落をいくつも通り過ぎていった。そして、今では名前を思い起こすことも難しい小さな集落であの光景と出会った。

最初に目に付いたのは五色の旗の鮮やかな色彩だった。仏教的な意味合いを持つ緑、黄、赤、白、紫で構成された仏旗(ぶっき)は、谷の向こうの斜面で風を受けてはためきながら、ゆっくりと山の深い緑のなかを進んでいく。揺れる旗が見える斜面の下には数軒の家が並んでおり、そこから一本の道が山の上へと伸びていた。誰かが旗を携え、この道を進んでいるようだったが、枝葉を伸ばす木々が人影を隠しており、僕から見えるのは竿先で揺れる仏旗だけだった。おかげで最初は五色の布が風に舞って飛んでいると思えた。

やがて、死角となっていた木々の並びの陰からゆっくりと龍頭(りゅうず)が現れた。赤い口を開き、金色の瞳と青い髭を持つ顔が遠目でもはっきりと見える。張子で作られたものだろうか。竿先に乗っている龍頭はふわふわと宙を舞うように揺れている。次に木々の陰から白装束を身にまとった人が現れた。龍頭を先頭にして一列に並び、最後尾の人が仏旗を掲げている。人数は七人。最後尾の前を歩く人の胸の前には純白の箱があった。土地に伝わる野辺送りの光景だと気づく一方で、僕の目には一匹の龍が山の頂を目指し、ゆっくり登っていく姿として映った。金色の瞳を妖しく光らせる龍頭に続く人の列は、龍の滑らかな白い胴体であり、風に揺れる仏旗は五色の色彩をまとった龍の長い尾だった。

龍は斜面を縫って延びる道を進み、山の上を目指した。道の行き止まりには一本の杉の大木が立ち、根元には白や黒の墓石が立ち並んでいた。龍はするするとこの墓地へと入っていくと、黒い葉をこんもり広げる杉の太い幹の周囲をゆっくりと回り始めた。少し濁った手平鉦(てびらがね)の響きと、龍のもの悲しげな歌声が谷を渡って、僕の耳に届いた。この土地で古くから受け継がれる死者の魂に向けた御詠歌だろうか。土地の方言を知らない僕の耳では言葉として聞き取ることはできなかったが、だからこそよけいに不思議な気持ちになった。もの悲しさを紛らわすために龍が歌っている歌だと思えた。龍は白い胴体を杉の大木に絡ませるようにして回り続け、鼻先を空に向けると、蛇が首をもたげるように伸び上がった。その姿は死者の魂を携えた龍が螺旋を描きながらあの世へと昇っていくという物語を僕に運んできた。同じリズムで繰り返されるもの悲しげな御詠歌は谷の静けさのなかに溶け込んでいった。ふいに龍が首を下ろし、歌声が止んだ次の瞬間、手平鉦が鋭い音色で鳴った。ひとつ、ふたつ、みっつ。手平鉦の高い音は、魂を天に運ぶ龍の道標となって空に昇っていった。

初めて見ることになった野辺送りの風景は、僕に強い印象を残した。それは人の営みに宿る「美しさ」だった。山々に抱かれたこの集落である日、人が人を産み、生まれた人は生き、やがて死んでいく。この小さな存在に宿っていた魂を無事に彼岸に送り出すために、残された人々は龍の力を借りた。死後の世界という誰も見たことがない世界を前にしながらも、魂をめぐる物語の力で死者をあの世に送り出そうとした。

窟の闇を照らすロウソクの炎に祈り、燃え跡を信じるという行為を支えているのは、こうした静かに心を揺らす営みの積み重ねと考えることはできないだろうか。僕はロウソクを単なるロウソクと見たが、沢田の人たちはロウソクを、己の祈りを受け止めてくれる存在として見つめ、その燃え跡を自らを育んでくれた土地から語りかけられる運命の言葉として聞いた。だからこそ、心から祈り、どのような内容であっても信じようとした。たとえば魂を送る龍のように味わい深く、美しく、それでいて切実なまでの実感を伴った体験の積み重ねが、彼らの胸の内に深く根を張り、この根の広がりが祈り信じるという行為を可能にした。

もし、僕が岩手に暮らすことなく、ただの旅人であれば、おそらくこういった思考に辿り着くことはなかっただろう。他所者に過ぎない僕がこの東北で生き続けているからこそ、“土地と生きる”という、見えるようで見えない生命の光景について思いを巡らせることができていると感じている。もちろん、いくら思索を重ねようとも仮説の域を出ないだろうが、“遅れてきた者”としてはこれが東北を理解するための唯一の方法だと感じている。僕にとって、東北に受け継がれる営みを見つめた先で考えることは、“東北に生きている自分自身の営み”だと思う。もちろん、だからといって今になって彼らのように祈り信じるという行為を身につけることはできないことは承知している。先に想像したように祈り、信じるという行為には、胸の奥深くに根を張るほどの体験と時間が必要だと感じているからだ。しかし、僕にはそれがないからこそ、彼らの胸の内の風景をのぞいてみたいという願いを今日も持ち続けることができている。

もしこれからも僕が東北という土地を何らかのかたちで表現できるとしたら、これまでと同様に、東北という風土で生きてきた彼らと、同じ時代に生きている、というこの一点をよすがとするのだろう。この土地で今を生きているという日々が、僕のなかにあたらしい言葉を生むと信じているからだ。