みすず書房

春日祭

春日祭

大間越(おおまごし)へと向かう道は、長く伸びた一本道だった。もちろん、それは感覚の話で、実際には、僕が暮らす岩手の内陸部から津軽西海岸に面したこの小さな集落へと向かう際には、いくつもの道を辿った。まずは奥羽山脈を越える必要があった。道は何度も険しい山を登り、谷に降り、川を渡った。ハンドルを握っていると、ときに迷路の中を走っているように思える瞬間もあった。しかし、秋田の能代に入って進路を北に向けて進み続けると、道筋はやがて日本海に沿って走る一本の道となった。海は当然、海抜0メートルの場所に広がっている。だから海に近づいていくということは降りていくものだと思っていたが、その印象はここに来るといつも覆された。

秋田の岩舘(いわだて)から青森との県境となる須郷岬(すごうみさき)へと向かう道筋は登りとなる。一本道が海岸線を刻む断崖の上へと延びていくからだ。断崖に登り詰めると、当然、海から離れていくはずだった。しかし、ここで不思議なことが起こる。車窓の左半分を占める海原は遠くなるどころか、次第に大きく広く膨らんでくる。海が眼前に迫ってくるのだ。視界の広がりに圧倒されるだけではない。断崖の頂きとなる須郷岬に至ると、無数の波の襞に覆われた海原がさざめきながら青く光り、全身が吞み込まれていくような感覚に陥る。この岬では水平線など虚空に描かれた幻影の線に過ぎない。水と大気は隔てなく混ざり合い、同じ色に染まっている。見晴るかす風景のなかで海は空で、空は海だ。

この須郷岬に立って両眼を真北に向けると、右眼は弧を描く岩肌の海岸線を捉え、左眼は海岸線のずっと先で平らに伸びる半島に引きつけられていく。半島は艫作崎(へなしざき)と呼ばれ、黒ずんだ緑の身体で海と空を押し出すかのように横たわっている。大間越はこの半島へと至る途中にある集落だが、ここから視認することはできない。途中、小さな山が道を遮る格好で半ば海に落ち込みながら居座っており、大間越の集落はその山陰に隠れているからだ。

この岬まで来ると、いつも早る気持ちを抑えながら眼下で弧を描いて延びる海岸線へと降りていく。道筋はやがて渚と重なり、海が荒れると白波に洗われ、晴れると道まで青く見える。松と柏を茂らせた小山はその先で道を塞いでおり、この山の下腹に穿たれたトンネルを潜った先が大間越だ。集落の中心を流れる津梅川(つばいがわ)を挟んで、わずか数十軒ほどの背の低い家々が身を寄せ合って建ち並んでいる。家々は海のはじまりを目前にして、陸地の終わりに人が暮らす姿を刻むかのようにも見える。この土地に生きる者にとって「前」は海で、「後ろ」は山だ。

大間越にはいくつかの美しい祭礼が受け継がれていた。そのひとつが夏至の海を舞台に行われる春日祭(かすがまつり)だ。行いとしては、「春日丸」と呼ばれる船神輿を担いだ男たちが、「太刀振(たちふ)り」と呼ばれる杉の棒を携えた踊り子たちと一緒に集落を巡り、一日の終わりに春日丸を海に流すというものだ。美しく楽しげに見える祭りだが、その目的は村から「(けが)れ」を祓うことにある。穢れは日々のなかでは誰にも見つからないように隠れている。人がその存在に気づくのは、穢れがたとえば疫病などに成り代わって人の心身に取り憑いてからである。しかし、そうなるともう遅い。穢れによって人々は蝕まれていく運命となる。穢れに吞まれる前に何とかすることはできないか。それが春日祭という営みに込められた祈りだった。

 

春日祭は、太陽がちょうど頭の上を過ぎた頃を見計らってはじめられる。太刀振りの先導役である先振(さきふ)りが暁の空に鳴く雄鶏のように「オーイ、エンヤラエンヤラホーイ」と第一声を上げると、それに続いて横笛の涼しげな音が軽やかに風に乗り、細いバチが鞭のようにしなって太鼓が弾ける。この囃子を合図に浴衣姿の太刀振りたちが「エンヤラエンヤラ、エンヤラホーイ」と先振りよりもさらに大きな声を空に向かって投げ掛け、手にしていた太刀棒を振り上げる。そして、身体を左右に振って「アー、シッチョイシッチョイシッチョイナ」と歌いながらくるりくるりと回り、「エイヤッ」と跳ね上がると対面する者同士で太刀棒を叩き合わせる。このときの「かぽーん、かぽーん」という打撃音がこの祭りには欠かせない。常に波の音に抱かれた土地であっても、これらの音は不思議なほど大きく聞こえる。波音に打ち消されるのではなく、むしろ潮騒に乗って遠くまで運ばれていく。いよいよ春日祭がはじまったという合図は、この太刀棒の音によって各家に届けられ、祭りの行列は集落のなかへと入っていく。太刀振りたちのしんがりを務める春日丸は、海に生きてきた老人たちの肩という波間でゆらゆらと揺れながら進んでいく。

太刀振り、囃子、春日丸の登場で集落の人たちは色めき立つが、一番の人気者は春日丸だ。とくに老人たちは春日丸の周りに集まって、しげしげと眺める。神輿の上に乗る春日丸は毎年造られるものだから、出来栄えが年によって異なるからだ。春日丸の造り方は決められている。おおもとになっているのは、江戸時代に蝦夷と大坂を結んでいた北前航路(大間越の沖は北前航路にあたる)で使われていた廻船だ。北前船や弁才船と呼ばれたこの船の造りは、熟練の船乗りたちに「板子一枚下は地獄」と怖れられた荒海を乗り越えていくものとされていて、春日丸もこの船に倣って造られる。

しかし、人の胴体ほどの春日丸を囲んであれやこれやと話す老人たちの心配は尽きなかった。村中の穢れを積んだ春日丸が、傾いたりひっくり返ったりすることなく、沖に流れる潮流に乗って艫作崎のさらに先を目指して航海できるだろうか、この小さな船が「白兎」が跳ね始めた海(白兎は小さな三角波のことで、これが海原に現れ出すと海が荒れると大間越では言い伝えられてきた)を越えていけるだろうかと不安な思いを口にした。老人たちの一番の心配は、遠くの海に押し流したはずの春日丸が穢れを積んだまま、再び大間越の浜に戻ってくることだった。春日丸が一度海に出たなら、たとえ帰ってきても触れてはならないというのが春日祭の禁忌だった。もし、誰かが指一本でも触れたら最後、穢れが集落を覆い尽くしてしまうと言い伝えられてきた。もちろん、触れなければ済むという問題でもなかった。帰ってきてしまった春日丸に触れることはできないのだから、再び海に流すこともできない。結果、祓ったはずの穢れが集落のそばにずっと居座ることになる。最悪の事態に怯える老人たちにとって、船の出来の良し悪しは大問題なのだ。

老人たちのこうした心配をよそに、春日丸の甲板に立っている船乗りたちは吞気な表情を浮かべていた。広げた手のひらほどの長さの木の枝の皮を剝いたもの、それが船乗りたちの顔であり身体なのだが、白い樹肌に墨で描かれた髭面は目鼻立ちのバランスが崩れ、間が抜けた感じだった。船乗りたちは端切れから作られた浴衣を羽織り、豆絞り柄の鉢巻を巻いて(かい)を握っていたが、この表情のせいで頼りなく見えた。しかし、結果として、この姿が老人たちの不安を和らげる役割を担っていた。少し前には心配な表情を浮かべていた老人たちは、船乗りのひょうきんな顔つきを笑い、このおおらかさで荒波を越えていくのだろうと満足げに語り合うのだった。

 

集落の路地をすべて巡り、村外れまでやって来た春日祭の一行は踵を返し、大間越で一番広い砂浜に向かって歩き始めた。一列になって歩く太刀振り、囃子、春日丸の向こう側には突き刺すほどの光を放つ太陽。それぞれの姿を象った黒い影法師が地面に落ちて揺れている。夕暮れはまだまだ先だったが、影法師の主人の倍ほどの背丈にもなっていた。

目的地の白い砂浜に着くと春日丸は砂の上に降ろされた。太刀振りの先導役である先振りが春日丸の舳先(へさき)の前に立った。先振りの視線の先には光る海があり、顔全体がギラリと照らされた。やがて口を大きく開くと絞り出すような声で、「アーラ、エンヤラエンヤラエンヤラホーイ」と海に向かって叫んだ。すかさず太刀振りたちが反応して、「エンヤラエンヤラエンヤラホーイ」とさらに大きな声で返す。

最後の舞いが始まった。今日一日で何度も繰り返したものだった。「アー、シッチョイシッチョイシッチョイナ」「アー、シッチョイシッチョイシッチョイナ」。太刀振りたちの身体が揺れ、足裏から白い砂が跳ねる。ゆっくりゆっくり、一周、二周と春日丸の周りを回る。乾いた唇から熱い息を吹き込まれた横笛の音はかすれながらも波間に向かって広がり、しなるバチに強く震えた太鼓の響きが虚空の横笛を追いかけていく。浜にはいつの間にか大間越の人たちが集まっている。浜の後ろに陣取って、波打ち際で舞う太刀振りを見ているようだが、視界の多くは夏至の光を浴びた海が占めている。まるで横たわった巨大な魚が金銀の鱗を陽光に晒し、ゆったりと腹を動かしているようだ。海原の反射があまりに眩しすぎるからだろうか、波打ち際で踊る人たちの身体が半ば透けて見える。祭り衆は海に溶けていきそうだ。

「アー、シッチョイシッチョイシッチョイナ」、太刀振りが三周目の終わりに再び声を上げる。この言葉の意味を誰も知らないが、それを問う人はいない。次の瞬間、太刀振りは崩れるように渚に駆け寄り、一日中握りしめていた太刀棒を寄せる波に勢いよく放り投げる。太刀棒が海に落ちる瞬間の音は、波打ち際で砂を洗う波の音でかき消されて聞こえない。気が付けば、海は橙に染まろうとしている。水平線は世界を分かつ一本の線としての存在感を増している。波間でぷかぷかと漂う太刀棒は、早くも橙の海の上で黒い影となっている。

両手の空いた太刀振りたちはおもむろに浴衣を脱ぎ、浜に放り投げた。のしのしと砂を踏んで春日丸まで歩み寄ると、いささか乱暴に担ぎ上げた。春日丸は彼らの肩の上で左右に大きく揺れ、甲板に乗る船乗りたちは振り落とされまいとしがみついている。「よーし行くべ」、春日丸を担ぎ上げた男たちは、躊躇することなく寄せる波のなかに全身を沈めていく。人の肩から離れた春日丸は気持ち良さそうに波間に浮かんでいる。男たちは水を蹴る足に力を込めると、船の尻である(とも)に手を掛け、沖へと押し出していく。浜からは溜め息にも似た歓声が上がる。続いて、初夏の冷たい海水の中を進んでいく男たちへの励ましの声が飛ぶ。

浜から見えるのは帆を上げる春日丸の黒い影と男たちの濡れた頭だ。金色を帯びつつあるうねりに身を任せ、ともに浮き沈みを繰り返している。そこに沖から横笛と太鼓の音が届く。まるで大気の動きが変わって吹き込んで来た一陣の風のようだ。さらには漁船の乾いたエンジン音が響き、燃料油の粘りつくような匂いが浜に漂う。沖から現れた二艘の漁船の、一艘の甲板には横笛と太鼓が陣取って陸と同じリズムで囃子を鳴らしている。船の上で生まれた音は海面を滑り、浜で大きく広がる。  

漁船の登場で、男たちは春日丸の艫を押す力を緩める。もう、ずいぶん沖までやってきた。浜から届く声が小さくなっている。二艘の漁船が春日丸と男たちに近づくと、船外機の単調なエンジン音を響かせ、ゆっくりと旋回を始める。一周、二周、そして三周、春日丸と男たちを真ん中にして旋回する漁船の航跡は、海に白い輪を描いていく。陸の上では、太刀振りの男たちが春日丸の周りを回り、横笛と太鼓は立ち止まって囃子を奏でたが、船に乗っている今は、春日丸と太刀振りの周りを横笛と太鼓が回り、春日丸と男たちは囃子に包み込まれていく。

旋回を終えた漁船は静かに春日丸に近づき、船上の者がその小さな木造船を甲板の上に引っ張り上げる。浜に残っていた人たちは、この瞬間を待っていたのだろう。春日丸が甲板に上がったことを見届けると、大きな歓声を上げ、背伸びをして手を振った。春日丸になのか太刀振りに向けてなのか、あるいは漁船を操る者に対してなのかわからないが、浜に立つ人々は海面の眩しさに眼を細めて「おーいおーい」と叫んでいる。その表情から読み取れるのは、別れを惜しむ者特有のもどかしさやそこはかとない焦りだ。

漁船の甲板には春日丸が鎮座し、風を受けて白い帆を丸く膨らませている。太陽は水平線近くまで移動しており、そこから届けられるのは真横から射るような光だ。二艘の漁船はゆっくり旋回するとこの光が放たれる方向へと舳先を向ける。ブルルンと大きな音を上げて船外機が震え、黒い煙の塊が宙に漂い出る。このエンジン音で、浜に立つ人は高く上げていた手を下ろす。漁船に乗る者たちの視線は水平線へと向けられており、船が沖に向かって勢いよく滑りだすと、もう背後の浜を振り返ろうとはしない。

 

春日祭の日だけは特別で、小さな禍の種であっても見つけ出すことができる。そう信じてきた大間越の人々は穢れの匂いを嗅ぎ取り、禍の種をひとつひとつ拾い集め、春日丸と一緒に海に流してきた。ただ、この祭礼を前にした者が、そこに「穢れ」の世界を見つけることができるだろうか。

豆絞りの手拭いで鉢巻きをし、「重てえなあー、ナ(お前)、もっと気合い入れて担げ」と互いに声を掛けて春日丸を担ぐ古老たちの足取りは軽く、表情は向日葵のように朗らかだ。腕ほどの杉の丸太を色紙で鮮やかに飾った「太刀棒」を振りかざし、跳ね飛ぶ太刀振りたちの身体から飛び散る汗は、清冽な沢の飛沫そのものだ。人々の表情のどこを探しても、穢れや禍に怯える感情を見つけることは難しい。むしろ、浮かび上がってくるのは幸いだ。

太刀棒を勢いよくぶつけ合わせた際に生じる「かぽーん、かぽーん」という音は、野良で聞く牛の声のように屈託のない伸びやかさで空に響いていく。この音に誘われて通りに出てくる集落の老人たちは、懐かしい人とようやく出会えたかのように柔らかな笑みを溢れさせる。庭先に持ち出したいくつもの座卓の上に色とりどりのご馳走と酒をずらりと並べ、「もう近ぐまで来てら」と祭り一行の到着に胸を躍らせる母さんたちの瞳が瑞々しく輝く。春日祭は穢れを祓う祭りだと何度聞かされていても、その風景から見えてくるのは、穢れではない何かだ。今日一日、人々が力を合わせ、汗を流し、心を込めて集めて回ったものはもっと柔らかで温かなものだ。それらがいつの日か海から再びもたらされることを願って、この夏至の海に流そうとしているのではないか。

これは今の時代だから見えてくる風景なのだろうか。津軽は古くから凶作に苛まれてきた土地だった。飢餓に加え、流行病(はやりやまい)は音もなく空に広がる雨雲のように集落を覆った。生まれてきた子供らにとって生き延びること自体が奇跡のような時代もあった。また、海に糧を求める大間越のような土地であれば海難事故は必然と呼べるものだっただろう。人が生きることが難しい時代に行われていた春日祭の光景は、今とは異なるものだっただろうか。老人たちはきつく結んだ口をへの字に曲げて神輿を担ぎ、太刀振りたちは怒りの形相で、太刀棒が折れるまでぶつけあったのだろうか。集落の人々は春日丸を前に両手を合わせ、固く目を閉じた後は、棒切れでしかない船乗りに痩せた手を延ばし、すがり付いたのだろうか。それとも、祭り衆もそれを見守る人も自らを煽り立て、喉が嗄れるまで大声を出し、夏至の一際強い光に溶け入るまで踊り続けたのだろうか。

北の地で続けられてきた祭礼を前にすると、僕はときおり、自分のふたつの眼が近視と遠視に分かれてしまうような奇妙な感覚を覚える。僕の目の前で舞い、祈りを捧げる人は、同時代の存在であるのは間違いないが、その背中に、過去に生きた遠い人々の幻影が、朧げであっても確かなものとして見えてくるからだ。現在と過去、あるいは生と死を越えて、ひとりの生身の人間に遠い時代を生きた誰かを重ね合わせることを可能にする祭礼は、今と遠ざかる時を分かつ谷間に掛かる長い橋にも思える。

 

陸地での春日祭は終わったが、海の上での春日祭はここからだった。僕は沖に向かう漁船に乗り込んでいた。「ワも船さ乗って、沖さ出るのは久すぶりだはんで懐がしいな」。そう言って一緒に乗り込んだのは、僕が大間越に来る理由にもなっているレンジさんだった。

レンジさんのことを思うと、はじめて大間越で春日祭を見た日の姿が浮かんでくる。まずはその体軀だ。初老にもかかわらず、太い丸太が直立したかのような頑健な体つきは、太刀振りの男衆のなかでひときわ目立つ存在だった。かすれながらもよく通る声も強い印象を残した。その声は法螺貝の音色にも似た野太さを持ち、夏の野を駆け抜けてきた風のような熱気を孕んでいた。短く刈り込んだ坊主頭はいつも日に焼けており、彫りの深い目鼻立ちと一文字に結ばれた口元が特徴的な風貌は、一見すると強面の部類に入るものだった。しかし、真っ黒なまつ毛が並ぶ瞳は深く澄んでいて、どこか少年のような印象を抱かせた。そして、レンジさんはいつも、この顔をくしゃくしゃに崩して笑い続けていた。その笑い方はまさに破顔といった具合で、端正な顔立ちは笑い皺の中に消え、屈託のない人懐っこさが顔全体を覆った。

僕はどこか不思議な存在感を放つこの人物に魅かれていった。レンジさんの陽気さや朗らかさは見ているだけで楽しく、幸福感を覚えるほどだった。しかし、吸い寄せられるように魅かれていった本当の理由は別なところにあったと、今になって思う。僕はレンジさんのなかに自分とは異なる世界の存在を感じていた。僕の目に映るレンジさんの笑顔は確かに笑顔ではあるが、単純に「楽しいから」「面白いから」といった感情に由来しているものではない気がした。レンジさんの笑顔に隠された感情の源泉は、僕がうかがい知ることができないほど深く、まだ見ぬ色彩をまとっているのではないか、どうしてもそんな気がした。そして、結論を言うと、僕のこの予感は当たることになった。レンジさんが歩んできた人生は、僕にはまったく想像もできないものだった。しかし、不思議なことに僕はこういう人に出会う日が来ることを待っていたんだと、めぐる季節を迎えるような思いで、その出会いを受け取った。以来、僕はレンジさんが暮らす大間越を頻繁に訪ねるようになった。

レンジさんは、僕の前で津軽という風土の扉を開いてくれた。レンジさんが生きてきた世界は津軽西海岸が全てといってよく、そういう意味ではレンジさんが知る世界とは津軽の片隅でしかなかった。しかし、レンジさんが導き手となって僕に見せてくれたのは、津軽という土地に生きた人々が永いときのなかで記し続けてきた精神の地図とも言えるものだった。そして、この地図の上に、レンジさん自身も自らの人生を携えて立っていた。

 

漁船の船長が船外機の出力を上げた。船体はすぐに反応して舳先が持ち上がり、波を切りはじめると船縁(ふなべり)の下を白波が流れた。

「沖で北さ流れる強え潮さ、春日丸乗せてけるんだ。潮の流れの目印はあそごだ」。そう風のなかで叫び、レンジさんは海原の向こうを指差した。黒々とした緑を載せて横たわる艫作崎だった。海上から見るその姿は海面を割って姿を現した鈍重な巨大鯨のようだった。船が速度を上げたせいか、横風が船上に吹き付けていた。甲板の春日丸の白い帆は限界まで大きく膨らんでいる。レンジさんが羽織っている白い浴衣も同様だ。

大間越の浜から西の水平線に向けてまっすぐに進む漁船は、陸方向に向かう無数のうねりを越えていく必要があった。船は小さなうねりを越える際には波の上を跳ね、大きなうねりのときは波の山を登った。僕は船縁に片手を置き、身を少し乗り出して過ぎ去っていく波を眺めた。船の上にいると風は進行方向の沖から吹いているようだったが、実際の風は陸から沖へ吹いており、うねりは向かい風を受けていた。三角に盛り上がる波の表面は風を受けると鱗のような紋様を浮かび上がらせ、波頭の先端から宙に舞う細かな飛沫は、無数の小魚が跳ねる姿を連想させた。

色の変化に僕は見惚れた。水深が変わるからだろう。漁船が沖に向かうに従って、海の色が淡く明るい青緑から、深い青へ、さらに濃紺へと変わっていた。そして暗くなっていった。揺れる波の奥を覗き込むと黒々とした底なしの淵を見ているかのような錯覚に捉われた。それでも恐怖を覚えなかったのは、水は黒さを増しながらもより透明になっていったからだ。海面全体が固まることを知らない深い碧色のガラスのようで、伸びたり縮んだりと変幻自在だった。水平線から届く陽光は、伸び上がった三角波をいくつもすり抜けて陸地に向かっていた。波を通る際、光は波のなかで乱反射を繰り返し、光もまた変幻自在だった。

僕と二人で舳先に座っていたレンジさんが突然、般若心経を唱え始めた。おそらく自分の胸に向かって唱えていたのだろう。いつものよく通る太い声ではなく吹き付ける風のなかでようやく聞き取れる程度だった。船には僕とレンジさん以外に船長と囃子の二人が乗っていたが、他の人にレンジさんの声は聞こえていないようだった。レンジさんは、舳先の向こうから迫ってくる波を両目で見据え、般若心経を読み続けた。今日一日、ずっと見せていたくしゃくしゃの笑顔はなかった。高い鼻は吹き付ける風を切り、瞳は光る波を映し出していた。

いつかレンジさんが話してくれたことを僕は思い起こした。レンジさんの家は大間越の家のほとんどがそうであるように浜寄りに建っていた。「小さな平屋の()だはんで海荒れば、なんもかも波を被るし、風吹げばどこさか飛びそうになる」とレンジさんは自分の家について笑って話していた。この家のなかでレンジさんの部屋は一番西側にあり、壁一枚隔てた向こうは海だった。この壁には小さな窓が付いていた。この部屋では唯一のものだった。本来であればこの窓から空が見えてもおかしくはなかったが、水平線はいつも目線より高い位置にあり、窓は海だけを切り取っていた。レンジさんは、カーテンのないこの窓が部屋に呼び込んでくる光を眺めるのが日課だということだった。「窓はワの胸元の高さにあるはんで、畳の上で横さなってると窓の外は見えねえじゃ。でも窓からの光は壁や天井さ、四角く照らしていで、ワはそれをいつも眺めてらな」。レンジさんが眺めていた壁の四角い光とは、海原が反射したものだった。風がなくゆっくりとお日様が沈んでいく日であれば、海面は静かに揺れるだけだから、壁に映る四角い光も微かに揺れるだけだった。一方、風があって、ざわざわと波が立つ日であれば、壁には木漏れ日のように揺れ動く光が投影された。

「そったどぎさ、海で死んだ人の声聞ごえでくるようなんだ。恨みごとを言うとか、そんなことじゃねくて、みんな、懐かしい、懐かしいって、つぶやいでんだよな」。レンジさんはそういうと、死者の胸の中に広がる景色について語った。海で遭難して死んだからということではなく、人はどこで死んでも、死者になると胸の中に残る感情は「懐かしさ」だけになっていくのだという。いや、心の中だけじゃねえぞ、仏さんの身体のなかをいっぱいに満たすものはやっぱり「懐かしさ」なんだ。天井に映る四角い光を見ているときに聞こえてくるのは、死者たちが、そんな「懐かしさ」の泉を前にして偲ぶ声なんだとレンジさんは語った。

レンジさんから教えてもらったことは、僕が遠ざけてきた世界だった。レンジさんはいつも臆することなく霊魂について語った。霊魂について思いをめぐらせることが自分と他者を救うと信じているが故だった。信仰心のない僕にとって、レンジさんが語る霊魂の世界を素直に信じることはできなかったが、レンジさんの胸の中にあるものならば信じたいといつしか願うようになっていった。

この話を聞いた僕が、実際にレンジさんの部屋の窓を目にするのは、ずっと後のことだった。だからなのかもしれないが、不思議な力を持つこの小窓が、海原の光と死者の声を集めてレンジさんに届けているように思えた。レンジさんの人生は僕にしてみると「魂の遍歴」と呼べるようなもので、ときどき思い起こしては、立ち籠める濃霧で先が見えない一本道にひとり立つレンジさんを想像していた。小窓から届く光を横になって眺めているレンジさんは、そこでも人生の旅のなかにいるのだろうという気がした。

レンジさんはお経を読みあげると水平線に向かって深く一礼をし、再び顔を上げた。横にいる僕に向けた顔はいつもの屈託のない笑顔に戻っていた。「仏ずのは、どごさでもいて、ワぁたちを見守ってけるもんだ。こうやって生者の声を聴かせてへると、仏も安心できるな。仏サ、春日丸を遠ぐまで押してけるよう頼んでおいだ」と少し真面目な顔をしてからまた笑った。

船の周りの海はいよいよ黒く碧く透明になっていた。船長がエンジンの出力をゆっくりと下げ戻し、アイドリング状態にすると「よーし、ここいらで十分だな」と誰に言うでもなく大きな声を上げた。艫作崎へと向かう潮の流れはまるで海のなかの川だった。さきほどまで陸に向かっていたうねりは完全に姿を消してしまい、海面には無数の細かな波が現れ、シャバシャバとせせらぎのような音を立てていた。ときどき海底から水の塊が浮上してくるのか、海面に円い波紋が繰り返し現れた。滔々と流れる大河を思い起こさせる光景だった。

「よーし、下ろすべ」。レンジさんが大きな声を上げ、春日丸を抱えた。僕も急いで立ち上がり、脇から艫を支えた。風を浴び続けていたからだろう。春日丸の船体はすっかり冷たくなってしまっていた。船長も加わり、3人で春日丸を支えると、船縁に上半身を乗り出して静かに海面に下ろした。誰かが「今年の春日丸はぁ、いい塩梅に立づだ」と叫んだ。年によっては重心が悪く、強い潮の流れでバランスを崩してしまうこともあり、それが古老たちの心配のひとつでもあった。大丈夫、僕たちの手を離れた春日丸は舳先を北に向け、白い帆をまっすぐに立てている。

再び船外機が震え、沖の清浄な空気の中に黒い排気が混じった。同時に横笛と太鼓が響く。大海に放たれた囃子は簡単に波に吞み込まれ、消えていく。しかし、そんなこと承知だと言わんばかりに横笛も太鼓も奏で続けた。二艘の漁船は潮の流れに乗って進む春日丸を追いかけ、挟み込むような陣形を取ると、春日丸を中心にしてゆっくりと旋回を開始した。一周、二周と旋回する船の上では、誰もひとことも発しなかった。そして三周目を終えた二艘の船は描いた円を解くかのようにまっすぐに滑って潮の流れの外へと出た。

隣に座っていたレンジさんが突然、甲板に仁王立ちになった。浴衣の裾がバタバタと風になびく。レンジさんは叫んだ。「おーい、おーい、おーい、おーい」と掠れた声を精一杯張り上げ、分厚い手のひらを空に掲げて大きく振り続ける。その横顔には必死で何かを追い求めるような切実さが宿っていた。それはレンジさんが僕にときどき見せる表情でもあった。

潮の川を北に向かって流れる春日丸は、早くも豆粒ほどの大きさになろうとしていた。波の陰に隠れると見失ってしまいそうだった。気が付けば夏至の太陽は真っ赤になって水平線の向こうへと沈む準備に入りつつあった。長い一日の終わりを迎え、陽光は澄んだ朱色の幕を広げて音もなく海を包み込み、陸に向けて走る船とそこに乗る者たちを鮮やかな朱色に染め上げていった。

夏至の長い一日を使って行われた春日祭は終わろうとしていた。ハレの日の出来事だといっても、定められたことを淡々と行うだけで、特別な何かが起こるわけでもなかった。言ってみれば、のろのろとした太陽の動きに合わせて冗長な行為を繰り返すだけだった。しかし、この冗長さこそが人の営みの輪郭を作っているようにも思えた。人生も、そこにある日々も驚くほど冗長で、でもだからこそ繰り返すことができると春日祭が教えてくれていた。

日没のときを迎え、海風は急速に湿り気を帯びつつあった。頬に絡みつくように流れていく海風を感じながら大間越の集落を眺めた。漁港の防波堤は残照を浴びて明るい橙色をまとっていた。その奥に立ち並ぶ家も同じ色だった。この土地に暮らす人はこうして海が運んでくる匂いや色に染まりながら一生を過ごしているのだと思うと、永遠とはこういうものかもしれないと思えた。繰り返し、繰り返し、生まれては消える人の一生が風や土の一部となっていく。それがずっと続いていく。

隣でレンジさんが後ろの海を振り返り、「なんぼ穢れだばって、離れ離れになりゃすげねな(寂しいな)、もう春日丸のことが懐かしいべ、やっぱ懐かしいべ」と繰り返した。僕の目ではどこを探しても春日丸を見つけることはできなかった。船は大間越の港に向かって走り続けていた。