みすず書房

カナシイホトケ

カナシイホトケ

青森に通っていた時期があった。出発する時間はたいてい夜で、ある程度の地点まで進むと、その日は静かな場所を探して車中泊をした。岩手に暮らしているのだから距離的には必ずしも一泊する必要はないのだが、北へとまっすぐに延びていく夜の道を走る時間が好きだった。

こうした旅には、今はもう死んでしまっていないけれど、犬のさくらがいつも一緒だった。助手席が彼女の定位置で、夜のドライブの際にはシートの上で丸くなって、フロントガラスの先を眺めていた。犬の瞳は人間の瞳よりもより球体に近い。さくらの瞳は、「北辺(ほくへん)」とも呼ばれてきた土地の夜空を大きく映し出していた。

なぜ、「北辺」に魅かれるのだろう。北の地に自分を引き寄せる強い磁力めいた存在を感じていたが、それが果たして何なのか、そこで何が見たいのか、はっきりとした言葉で語ることができなかった。北辺を目指す夜、想像のなかに現れるのはいつも茫々とした大地だった。僕はそこに人の匂いを嗅ぎ取っていた。

北辺の風景を歩いてみると、そこには人の営みがあった。厳しい北国の自然のなかで生きる人の姿は不思議なほどおおらかだった。しかし、その一方で人の営みが潰えて忘れ去られようとする土地を目にすることも少なくなかった。ここに暮らした人はどのような思いで土地を去ることを決めたのだろうか。最後まで土地に残り続けた人が見ていた風景はどういうものだっただろう。林に還っていこうとする田畑や草陰で息を潜める廃屋などを前にしたときに伝えられるのは、土地で生きた人々の息遣いを思わせる気配だった。そして、これを静かに語り継ごうとするのが僕の目の前で広がる土地だった。北辺のモノローグは、この大地で生き、死んだという人々の姿を語り継ぐ物語だった。

土地から人が去れば、そこに刻まれた記憶はいつか消えていくと思っていた。でも今の僕は、結晶化して残ると感じている。もちろん、すでに名を知ることも難しい人の記憶など、いくら結晶化したところで路傍の石に等しく、特段目を引くこともないだろう。しかし、北辺の大地の表皮を一枚剝けば、それらが無数にひしめき堆積していることに気づく。そして、土地を前に感覚を研ぎ澄ませることができれば、結晶化した記憶のなかにはっきりとした間隔で刻む脈音の響きを聞くことができる。この脈音こそが土地に生きた人の声だ。

北に向かい、暗闇に目を凝らし、そして、耳を澄ませる旅の先で見つけようとしたものは、北辺と呼ばれる土地が“人間の土地”として在り続ける姿だったように思う。

 

夏の盛りを迎えたある日の夜、僕は再び北方に向かって車を走らせていた。目指したのは津軽半島の中央部に位置する五所川原から、さらに北に向かうと現れる旧金木町(かなぎまち)の芦野湖だった。

一般的な湖というものを想像していると、芦野湖の姿に違和感を覚える人が多いだろう。湖面は広々として湖岸に密生している葦の姿が印象的だ。しかし、そこに湛えられた水はほかの湖のそれとはどこか異なっている。平野が広がる津軽は風が強い土地だ。とくに冬は猛烈なまでの地吹雪が駆け回る。しかし、この芦野湖の湖岸に立つと風がそよとも吹いていないことに気づく。風というものは強く吹き始めて気づくもので、無ければ意識の外の存在だが、風が吹いていないことが強く意識されるほどこの湖の静けさは際立っている。

夏を迎えると、蓮が大きな緑の葉を浮かべ、風光明媚な水辺の風景が広がる。しかし、奇妙な違和感を拭い去ることはできない。水があまりにも静かだからだ。風が吹かなければ湖面が動くこともない。結果、湖全体の水は静けさを深め、沈黙を続けることになる。おかげで芦野湖の姿は沼に近い。粘度の高い水を溜め込みながら、この土地に移ろいゆく季節を眺めているように見える。

夜を迎えると、この湖の表情はさらに神秘性を深める。日が沈み、湖が夜の世界に完全に包まれると、大気が少し緩むのだろうか。湖畔に立ち並ぶ葦が揺れ、さわさわと乾いた音を立てる。暗闇の向こうで鳴き声を上げたのは水面に浮かぶ水鳥だろうか。水辺が生き物たちでざわついていく様子が音だけで伝えられる。そんなときに決まって聞こえてくるのがパシャパシャと子供が水遊びをしているような水音だ。闇が濃く、音を立てるものが誰かを判断することは難しい。五感を駆使して音の発生源を探ると、すぐそばの浅瀬から聞こえてくるように感じられるが、しばらく耳をそばだてていると沖からも同種の音が流れてきて混乱させられる。水の音だけではない。ときおり、人が笑ったり、小さく叫んだりする声にも似た音が混じる。キツネやタヌキなどの小動物たちはときどき、驚くほど人間に似た声色で鳴くことがあるという。暗闇が支配する湖畔で、動物たちは気ままに遊び、人に似た声を上げているのだろうか。

さらに夜が更け、やがて朝が近づくと、濃い靄が立ち込める。水分をたっぷり含んだ空気は湖面から数メートルほどの厚みで停滞し、闇に重さを加えていく。白々と夜が明けていく頃になると、闇そのものは噓のように薄くなって消えていくのだが、乳白色の靄は湖面の上に居座り続ける。この靄を解くことができるのは唯一、津軽平野の東の端の空に昇った朝日で、靄は朱い朝の光に染まりながら透けていく。

 

芦野湖を訪れるのは数度目だった。目的は東岸の林の陰にある川倉賽(かわくらさい)河原(かわら)地蔵尊だった。川倉賽の河原地蔵尊では、闇がもっとも深くなる旧暦の6月23日を選んで例大祭が行われてきた。つまり、今日がその日だった。

「川倉賽の河原地蔵尊」。この場所についての記憶を巡らせると、初めてここを訪れた日のことを思い起こす。やはり、闇が本当の漆黒をまとう旧暦6月の例大祭の日のことだった。

当時は今のように詳細な情報を入手できる時代ではなかった。いくつかの資料から読み取れたのは、古くから下北の恐山同様に、死者の霊魂を供養する津軽の霊場として人々を引き付けてきたことと、供養に訪れる人の多くが我が子を亡くした悲哀を抱え、亡き子の面影を探してこの場所を訪れるということぐらいだった。

その頃の僕は、できるだけ観光化されていない祭礼を探して訪ね歩いていた。そういう意味では川倉賽の河原地蔵尊の例大祭は、開催日を平成の時代であっても旧暦で記すほどで、観光的な文脈は皆無と言ってよかった。旧暦と新暦を照らし合わせ、その年の開催日を知った僕はその前夜に雫石を発って、津軽を目指した。

結果を先に言ってしまうと、川倉賽の河原地蔵尊での体験は、僕に大きな衝撃をもたらした。曖昧な言い方になってしまうが、東北の本当の姿を見たいと願っていた当時の僕に、「たどり着いた」という強い印象を刻むことになった。

青森への旅を続けるなかで、この地には土の底で発酵を続けるような精神世界があると感じていた。仮にそれを「北辺の精神性」と名付けるならば、川倉賽の河原地蔵尊は、この北辺の精神性が長い睡りを続けている揺籃(ようらん)だと感じた。以来、僕は例大祭への訪問を重ねることになった。僕はそこである人物を探していた。初めて例大祭を訪れた日に出会った名も知らぬひとりの老婆だった。

 

祭礼を訪ねた際には、土地の古老に話しかけるようにしている。祭礼の由来をはじまりにして、土地の人と祭礼との関わりや日々の暮らしについて雑談を持ちかける。このとき、メモを取ることはほぼない。会話を書き記す姿を見せると、語る人の言葉が余所行きなものに変わってしまうことが多いからだ。他愛のない会話の良さは、土地に暮らす人の今の姿を描き出してくれることだ。祭礼によっては綿密な調査が行われていて、縁起やしきたりなどを記した報告書が残されているものもある。しかし、だからといって、目の前で行われている祭礼がかつて記された報告書通りのままだとは限らない。“譲り受けたものを受け継ぐ”という使命を持って祭礼が遂行されていることには違いはないが、それを担うのは“今”という時代のなかで生きている人々だ。暮らしの姿や価値観を変えていく時代の作用は当然、祭礼にも及ぶ。時代とともに人の生き方が変わっていくのと同様に、祭礼もまた変わっていく。土地の人との会話を通じて僕が知りたいのは、こうした“祭礼の移ろい”とも言える姿だった。土地の今を生きる人の口から語られることによってはじめて、目の前で繰り広げられる祭礼がまとっている時代の色を知ることができるからだ。

川倉賽の河原地蔵尊の例大祭の遠い時代の姿を教えてくれたのも、あの日出会った老婆との会話だった。老婆は、静かな口調でありながらも匂いを放つほどにクセの強い津軽訛りであぶり出すように、一年で最も深い闇が支配するという例大祭の夜を僕に語り継いだのだった。

 

川倉賽の河原地蔵尊は芦野湖の汀から少し上った台地にある。入り口には長い歳月のなかで銀鼠色をまとった白木の鳥居が立ち、その先へと進むと境内にたどり着く。便宜上、「境内」と表現したが、ここは神社でもなければ寺でもない「霊場」であり、津軽の風土が生み出した信仰の拠り所として存在してきた。とはいえ、この霊場が「賽の河原」「地蔵尊」と仏教用語で呼ばれることからわかるように、この国で独自の発展を遂げた仏教と強く結び付いてきた。おそらく津軽の土着の信仰に仏教思想が融合することで、現在の信仰形態が生まれたのだろう。また、入り口に鳥居が立つ姿からは、神と仏をともに拝んできた神仏習合の流れに組み込まれていた時代があったことも見て取れる。

現在の川倉賽の河原地蔵尊の佇まいは寺院に近い。主なる建物は4棟。敷地の真ん中に本堂然とした地蔵尊堂が構え、その両脇には管理棟と人形供養堂が建つ。最後の一棟は、敷地の外れの原っぱのなかの小さな演芸場だ。

例大祭の行いは、近隣の寺で住職を務める僧侶が地蔵尊堂に詰め、訪れた信者たちの依頼に応じて故人を供養する「特別法要」が中心となる。祭日の間、普段は静けさに満ちた地蔵尊堂内に僧侶たちの読経が響き、香の紫煙が立ち昇る。

例大祭では年老いた女性の姿を多く見かける。風呂敷包みやリュックを背負い、入り口の鳥居の前で手を合わせて頭を垂れると、ゆっくりとした足取りで地蔵尊堂に向かう。そして、僧侶を前にして深々とお辞儀すると、線香と蠟燭の先に小さな炎を灯し、香炉に立てる。読経を聞いている間はずっと下を向いている。その間、目を開けて足先を見つめている人もいれば、固く瞼を閉じている人もいる。読経が終わると顔を上げて、堂の奥に進む。正面には本尊の地蔵尊が祀られており、そこで再び手を合わせ、頭を垂れる。これが終わるとゆっくりと顔を上げ、そのまま本尊の背後へと回る。

初めて堂の奥の壁を前に立つ者は、思わず大きな吐息を漏らすことだろう。大きな壁の全体が雛壇状の造りとなっており、すべての壇に隙間なく石地蔵が安置されているからだ。その数は二千体以上。壁一面を地蔵が埋め尽くす光景は圧巻としか言いようがない。これらの地蔵たちが皆、違う顔をしていて、異なる着物をまとっていることにも驚かされるが、身がすくむような感覚を抱かせるのは、地蔵たちの視線だ。地蔵といっても石であることには違いなく、人を象っているに過ぎない。しかし、人の像をした石が無数に集い、さらには「わたし」をただただ見つめてくるという時間は、じわじわと胸を射抜かれるような感覚を連れてくる。当たり前だが石たちはひとことも発しない。圧倒的なまでの沈黙は計り知れないほどの重圧となって「わたし」の上にのし掛かってくる。

初めてこの場所に立ったとき、僕は逃げ出したい感情に駆られた。地蔵たちの視線に射抜かれ、声にならない声をあげるしかなかった。堂内の空気は夏であってもひんやりとしていたが、背筋に冷たい汗が流れた。

しかし、この堂の奥を目指してやってきた老婆たちの表情は違った。地蔵たちを前にすると、僧侶を前にした法要や地蔵尊に手を合わせていたときの神妙な表情とは打って変わり、瞳を輝かせ、晴れやかなものへと変わっていった。そして、ためらうことなく雛壇を登り、ときどき立ち止まって右に左にと首を振って、地蔵たちの顔をひとつひとつ覗き込んだ。これを何度か繰り返すと「あーいたいた」と歓声を上げた。満面の笑みを石地蔵に投げかけ、「やっと会えだ。着物の色、赤だと勘違いしてたはんで、なかなか見つからねがった」などと高揚した声で話しかけた。

津軽の村々を巡ってみると、村境に小さな祠があることに気づく。この祠の中には決まって十体を超える石地蔵が安置されている。仏教の世界では、地蔵菩薩は釈迦に代わって衆生を地獄から救済する仏と信じられてきた。津軽の村境の祠のなかに立つ石地蔵にも悪疫や飢饉などから人々を救い出して欲しいという切実な願いが込められている。こうした地蔵信仰は他地域に根付いているものと共通なのだが、その地蔵の数の多さに驚く。なぜ津軽の人はこれほどの数の地蔵を必要としたのだろうと疑問が湧く。答えは、早逝した子は皆、地蔵菩薩になるという津軽の死生観にある。子供が死ぬと地蔵に救われ、やがて地蔵に生まれ変わる。そう信じる津軽の人々は、子供が死ぬと生まれ変わりとしての地蔵をつくるという行為を続けてきた。つまり、地蔵尊堂に並ぶ無数の石地蔵たちは死者そのものであると同時に、津軽の人たちによって新たに産み落とされた生命でもあった。

僕はしばらくの間、言葉を失っていた。自分のなかにあった生と死の姿を問われた時間だったと思う。胸のうちにこのふたつを並べたとき、基準になっているのは間違いなく生だった。生はいつも新たに生まれて在り、熱を放ち漲っているものだった。そのとき死は、これらの生を飲み込むものだと思っていた。死は僕たちの前から生を運び去って、一緒にどこかに消えてしまうものだと。そういう意味では、死は透明な存在に近く、目に見えないものだった。しかし、この地蔵尊堂の内には無数の死があった。いつの時代からかわからないが先に逝った子供の生まれ変わりとして、人々はここに地蔵を立てるようになった。消えて忘れ去られることが死者の運命だとしたら、ここは運命に逆らうことができる場所なのだろう。死者は地蔵に成り代わって、濃密で生々しいまでの存在感を放ち続けている。静けさに満ちたこの芦野湖のほとりは、死者が生き続けられる場所だった。

僕は半ば目眩を覚えながら地蔵たちの前に歩み出た。地蔵たちの視線がさらに迫ってくる。彼らの眼差しから何か意思めいたものを読みとることはできない。視線の重圧に耐えながら僕は雛壇に設けられた階段状の通路を登り始めた。この異界に等しい場所を理解するための手がかりを探そうと思ったからだった。

老婆の存在に気づいたのは雛壇のちょうど中段あたりで、背が高い地蔵が混み合って並んでいる場所だった。大きく背が曲がっている上にうずくまるような姿勢でいたからだろう。下からひな壇を見上げていたとき、そこに人の気配は感じ取れなかった。しかし、目の前でもぞもぞと動く老婆の背中は、地蔵たちの沈黙を破るほどの強さで存在していた。

足を止めた僕は覗き見でもするような感覚で、老婆の横顔を眺めた。老婆は少し離れたところに立っている僕に気づいていないのか、口のなかで何かを言いながら目の前の地蔵に両手を伸ばしている。老婆の痩せた10本の指は、白粉でうっすらと化粧された地蔵の顔を撫で回していた。まさに泣いている赤ん坊をあやすような仕草だった。次に老婆が始めたのは衣替えだった。地蔵は黄色の頭巾をかぶり、金彩模様の布で仕立てられた着物を着ていたが、老婆は慣れた手つきでそれらを脱がせていった。そして、風呂敷の中から紺色の頭巾とやはり金彩が施された黄色の着物を取り出すと丁寧に着せていった。着物はマントのように覆い被せるような形のもので、手作りなのだろう、地蔵の背丈に合わせて仕立てられていた。

最後に巾着袋から取り出されたのが、手のひらに載るほどの地蔵の人形だった。これもやはり手作りなのだろう。胴体は何種類もの古布をつなぎ合わせて作られていて、そこに赤い頭巾を被った白い顔が乗っていた。顔は刺繡のようだった。眉と瞳は黒い糸で、頬と口は赤い糸で表現されていた。胴体の裁縫は見事だったが、顔の目鼻立ちの表現は稚拙だった。しかし、それがこの人形に素朴さと愛嬌をもたらしていた。僕は思わず「お地蔵さん」と小さく呟いた。老婆はこの声でようやく僕の存在に気づき、はっと我に返るかのような大げさな素振りでこちらに顔を向けた。そして、「ありゃ、めぐせいはんで(恥ずかしいな)」と困ったような顔で小さく笑った。つい声を出してしまったことに軽い後悔を覚えた僕は、「可愛らしいお地蔵さんですね」と作り笑いを返した。この言葉で少しホッとしたのだろうか。老婆は自らの手に握っている地蔵の人形を眺めると、「めごいべか(可愛い)? わ(私)の孫みてえなものだはんで。したてば(けれど)カナシイホトケのコッコだべ。おめえにははんかくせいべ(馬鹿馬鹿しいでしょう)?」と再び笑った。

老婆の口調はゆっくりとしたものだったが、強い訛りの津軽言葉は聞き取りが困難だった。そこで僕は老婆の方に歩み寄り、地蔵に触れないように注意しながら自分の目線が老婆のものと同じ高さになるように片膝を着いた。「カナシイホトケのコッコ? どういうことですか?」僕は意味を捉えることができなかった言葉を復唱した。死者を指す「ホトケ」と動物の子供を指す「コッコ」。ふたつの言葉の繫がりには違和感があった。

「わの母っちゃのめらし(娘)の頃だはんで、たんげ昔っこ(すごく昔)の話のな。地蔵様の命日で起こったごとだな」。老婆はそう言うと、遠のいた時間を巻き戻すかのようにゆっくりと語り始めたのだった。それは僕が生まれた昭和という時代からさらに時を遡った時代の物語で、僕にとっては想像するしかない世界の光景だった。

 

「賽の河原の地蔵様の命日」。ここで行われる例大祭がそう呼ばれていた時代のことだ。死者への祈りを携えた者が津軽一円はもちろん、聞いたことがない土地からもたくさんやってきた。

死者を憶う者たちは、身体の中に霊魂の面影を溜め込んでいる。そういう人たちが、津軽平野の臍と呼ばれている、この川倉賽の河原地蔵尊に向かってくる。だからなのかわからないが、地蔵様の命日が近づくと闇が次第に濃くなっていくのを、誰もが感じていた。真夜中、はっと目を覚まして用を足すために便所に行こうとすると、外は墨をこぼしたような闇で濡れて黒く光るほどだった。「地蔵様の命日だはんで、こったに濃い闇になるんだ」とお爺さんが子供の頃から教えてくれていたから怖くはなかったけれど、長い時間、闇を見つめていると、身体の中心がぞくぞくした。理由はこの時期になると決まって聞かされる話を思い起こすからだ。

地蔵様の命日が近づくと、誰もが死者の話を持ち出すようになった。とくに年寄りたちがよく話していたのが、飢饉で死んだ人々の話だった。飢饉が来て、最初に死ぬのは年寄りや女子供だと思っていたが、実は男盛りで体力もあった男衆が最初の犠牲者で、空腹が続くと呆気なく弱ってばたばたと倒れていった。ただ、天保の大飢饉のように神も仏もないほどひどいことが起こると、生き残ること自体が奇跡で、最終的には女子供も年寄りも分け隔てなく骨と皮になって死んでいった。

もちろん、大飢饉の最中で葬式などあげられる状態じゃない。そこで村外れに大きな穴を掘って、飢え死にした者を次々と放り込んで葬った。この穴は「イクグアナ(いっしょくた)」と呼ばれていて集落ごとにあった。地蔵様の命日が近づくと、家のお爺さんはこの「イクグアナ」の話をするのが常で、穴に放り込まれた者たちは戒名どころか命日も何もなくて、生きているか死んでいるか今もわからないままだから、地蔵さまの命日には誰かがちゃんと念仏を唱えるのがせめてもの供養だと、繰り返し語っていた。

子供の頃は大人に手を引いてもらって地蔵様の命日に行った。本宮の前には夜宮があるのだが子供は朝か昼間に行くと決まっていた。理由を親に聞くと、娘になったらわかるって言われていたからそんなものかと思っていた。今の地蔵尊堂は建て替えられたものだが、昔は木造の大きな蔵のようで、内部はいつも暗く、紫色の線香の煙が充満していた。

今の例大祭と違うのは、昔は本当にたくさんの人が来たことだ。とくにイタコは津軽中からやってきて、その数は数十人にも及んだ。イタコは決まってお堂の裏を陣地にしてムシロで小屋掛けして口寄せをしていた。口寄せを頼む者のほとんどが、早逝した子供と会いたいと願う母親で、我が子を思い出して啜り泣く声が一日中絶えることはなかった。

イタコたちは口寄せを頼まれると「ああいや、ああいや」とホトケオロシの祭文を詠みあげていくのだが、それぞれが自分の霊力の高さを誇示したいものだから、冷たい汗を首筋に流して大声を張り上げていた。

親に連れられて川倉賽の河原に行くと、イタコたちのこの「ああいや、ああいや」という叫び声と森で鳴くセミの大合唱が溶け合いながら響きわたり、異様な雰囲気が醸されていた。しばらく耳を澄ませていると、人が虫の声で鳴き、虫が人の声で叫んでいるように聞こえてきて、そうか別の世界に紛れ込んでしまったんだなと思ったりした。とにかくあの頃は結核やなんかの流行病(はやりやまい)が多くて、子供でも大人でもころりと死んでしまう時代だった。自分の隣には死んだ自分がいつもそばにいるような感じだったから、地蔵様の命日では、誰もがイクグアナの底から叫んでいる気持ちだったと思う。

 

老婆はここまでを謳うように語りあげると真っ直ぐに僕の顔を見た。深い皺が刻まれた額と頬の間に居座っている瞳は意外なほど澄んでいて、少し潤んでいるようだったが表情は硬く、感情を読み取ることはできなかった。

「こっただ、たげ昔(大昔)の話だはんで、今のおめえにゃ、はんかくせえくねが?」老婆は出会ったときと同じ質問を僕に投げかけた。僕はかぶりを振り、お婆さんが今日、ここに来た理由を知りたいと伝えた。老婆は息を吐いてうなずくと、「わっきゃ死んだ母親ど同ず年齢になった(わたしは死んだ母親と同じ年齢になった)。なもかも母っちゃから聞いだ話だはんで、今では、わさ起ごったことみんた(すべて母親に聞いた話だが、今では自分の身に起こったことのようだ)。同ず女だはんて」と話して小さく笑ってみせた。視線を僕の顔から逸らせた老婆は、新しい衣に着替えたばかりの地蔵をしばらく見つめていたが、ひとつ、息を吸うと再び語り始めた。

 

地蔵様の命日には昼と夜の世界があった。年頃になったとき、親に呼ばれてもう独りで賽の河原に行ってこいと言われた。それが夜の命日に行ってもよいという許可だった。その頃にはお爺さんは亡くなっていたけれど、やっぱり地蔵様の命日が近くなると、誰かがイクグアナの中に放り込まれた人たちの供養だけはしなくちゃいけないと、話をしていた。

わたしは夜の賽の河原に行くようになった。命日を迎えると相変わらず人がぞろぞろと死者の供養をするためにやってきた。イタコもやっぱり何十人もやって来て、ホトケオロシでは「ああいや、ああいや」という祭文が叫ばれていた。懐かしい我が子の声を聞いて、啜り泣く人もいれば土の上に突っ伏して大声で泣く人もいた。昨日そして今日と、どこそこの子供が死んでしまったという話は常で、哀しみだけはいつも新しく生まれ続けていた。

太陽が西に傾いて、芦野湖がぎらぎらと光るようになると、境内の雰囲気は昼間のものとは変わっていった。ぞくぞくと、近在に暮らす若者たちが集まってきたからだ。浴衣を着ている者もいたが多くは土まみれの野良着姿で、手拭いでほっかむりをして顔を隠していた。若者たちが待っていたのは闇だった。夏の夕暮れは長く、若者たちは()れるような思いで空を睨んでいた。やがて空が音もなく夜を呼び込み、闇がすべてを包み込むと集まっていた若者たちは蠢く黒い影になった。

そして、始まるのが盆踊りだった。三味線と太鼓、笛の音が闇に漂い出ると、若者たちは輪になって踊り始めた。恥ずかしがり屋の娘たちはすぐに輪に入ることはなく、しばらく様子を見ていた。しかし、次第に踊りが熱を帯びてくると娘たちは一人、また一人と輪に加わった。そうなるとあとはもう、若者たちの熱情が盛りを迎え、ほとばしるばかりだ。

若者たちは激しく身体を揺らし、流行病の高熱にうなされているかのような惚けた表情で踊りに没入していった。踊りはいつ終わるとも知れなかった。誰も咎めるものはいない。誰もが貧しく満足に空腹を満たすことができない日々だったが、この夜は男も女もキツネ憑きか何かにでも遭ったかのように髪を振り乱して跳んだり跳ねたりした。堂の後ろに陣取ったイタコたちも囃子に合わせて「ああいや、ああいや」と闇に向かって叫び続けていた。盲目のイタコたちにとって昼と夜の境はなかったが、若者たちの汗の匂いで地蔵様の命日の夜を感じ取っていた。

境内を取り囲むように焚かれていた松明の煙に燻されてか、あるいはイタコの声に触発されてか、夜は鳴かないはずの蟬が震えて鳴いていた。若者たちの歌声とイタコの叫び声、蟬の震え、そして燃え盛る松脂の匂いとすべてを包む闇の濃さ。やっぱり、ここは死者の世界だった。でも、死者と背中合わせであるからこそ若者たちは、その身体から荒々しいまでの生の息吹を吐き出していた。

わたしはもう誰から見ても年頃の娘だった。若い男は頃合いを見計らい、目を付けていた娘の手を握ると力一杯、自分の熱い身体に引き寄せた。男も女も汗びっしょりで全身の毛を逆立てて動物のような匂いを漂わせていた。男と女が束の間、ふたつの身を滑り込ませる闇はいくらでもあった。男たちは次々と娘の手を引いて闇のなかに消え、しばらくしてから帰ってきた。闇から戻った男と女は死人のように真っ青な顔をして、汗でもなく涙でもない滴をぽろぽろこぼしていたが、再び踊りの輪に加わって踊った。それを夜が明けるまで何度も繰り返した。このような夜はこの地蔵様の命日にしか存在しなかった。誰もが自らにいつか訪れる死を前にして怒りの声を上げ、生を燃やし尽くそうとしていた。わたしもそうだった。わたしも名も知らぬ男と踊り、着物を脱ぎ捨てて闇に溶けて、再び輪に飛び込んで踊った。きっと真っ青な顔になっていたのだろうが、あの闇のなかでは生きてるか死んでるかなんてどうでもよくて、やっぱりこの土地に暮らす者は全員がイクグアナの中にいるのだと思った。

わたしは(みごも)った。お地蔵様の命日が(はら)ませた子は十月十日ではなく十三月を待って生まれるとの言い伝え通りだった。命日から数えてちょうど十三月目の丑三つ時にあの子は生まれた。わたしは孕った日から赤ん坊を産み落とした日までずっと夢うつつだった。母親になったと感じられるようになったのは子を産んで7日目のことで、ちょうどナヌカビ(旧暦7月7日)を迎えてのことだった。でも、ナヌカビの朝、赤ん坊はぽっくり死んでしまった。親は哀れんだけれど、ナヌカビからお盆がはじまるのだから良い日に逝ってしまったんだ、目が開く前だったから余計に良かったってわたしを諭した。わたしは悲しいのかどうかわからなかった。ただ、自分の腹から出て来た赤ん坊がカナシイホトケになったんだなと思った。この土地では、成人することなく逝ってしまった子供のことをカナシイホトケと呼んできた。

わたしは親と一緒に川倉賽の河原の地蔵尊堂に地蔵を納めることにした。道すがら、母親が、賽の河原ならカナシイホトケの仲間がたくさんいるから寂しくないだろうって言ってくれた。わたしはただの重い石ぐらいにしか思えない地蔵を抱きながら、この子が生まれた場所は賽の河原なのだから生まれた場所に帰っていくだけだと思っていた。薄暗いお堂のなかにはずらりと地蔵が並んでいて、その一角に家から抱えてきた地蔵を立たせた。地蔵は涼しげな顔をしていて、すぐに周りの地蔵たちと打ち解けたように見えた。

以来、わたしのカナシイホトケの供養をずっと続けてきた。あとになって知ったことは、川倉賽の河原ではカナシイホトケにも村の人と同様に人生があるということだった。命を持っている人と同じ世界にはいられないが、カナシイホトケも賽の河原で成長することができるということだった。最初、わたしはそんなことを信じることはできなかったけれど、いつしかこのお堂の中でならそういうこともあるかもしれないと思うようになった。ほら、みてごらんなさい。壁のあちこちに洋服やランドセルや靴なんかがぶら下がっているでしょう。あれはすべて、カナシイホトケが生前使っていたものじゃないの。カナシイホトケを持つ親が成長に合わせて持ってくるの。幼稚園に入る時、学校に上がる時、運動もやるだろうし、成人して仕事を始めるだろうね。その都度、必要なものがあるからそれをひとつひとつここに届けてね。親だから我が子の成長をずっと見守っていきたいでしょう。

時の流れは早いものでわたしも数えるのがおっくうになるぐらい年を重ねて、すっかり年老いた。でも、わたしのカナシイホトケは少し前に婿をもらってね、そろそろ孫の顔を見せてくれるって言ってきたから、今日はまた、こうやって賽の河原にやってきたの。いつもここに来るのは最後だって思ってきたけど、地蔵様の命日が近づくといても立ってもいられなくなるから。

 

少し惚けた表情で語っていたお婆さんの表情が、突然、目を覚ましたかのようにはっきりとしたものへと変わった。

「カナシイホトケのコッコ、わの娘のようだはんて、わにすればやっぱすめんごいべ。おめえにはわかんねべす(わからないだろうし)、すげね(寂しい)かもしんねども……」。お婆さんはそう言うと手にしていた地蔵の人形を石地蔵の足元に添えた。僕は改めて地蔵人形の表情を眺めた。黒い眉に瞳、赤い唇と頬。全体のバランスが少し崩れているからなのか無邪気に笑っているようで「カナシイホトケ」と呼んではいけないような気がした。

地蔵様の命日をめぐる長い長い物語は、何が真実かを問うような語り口からは遥か遠く離れた場所から、この土地で繰り返されてきた生と死の満ち欠けを語るものだった。この物語が何らかの真実を隠喩していたとしても僕にはもはやどうでもよく、僕自身も永遠の生き死にの繰り返しのなかを漂っているかのような気持ちを味わっていた。

お婆さんにお礼を述べた僕は振り返ることなく雛壇を降りていった。お婆さんは今日一日、地蔵のそばにいるということだった。

 

結局、今回の例大祭にあの日のお婆さんが姿を見せることはなかった。一方、雛壇に並ぶ地蔵たちは相変わらずの迫力で僕を迎えてくれた。回数を重ねるにつれて、慣れてきてはいたが無数の地蔵たちの眼差しはやはり僕の胸を射抜き、揺さぶった。お婆さんが何度も口にした「イクグアナ」という言葉が脳裏から離れることはなかった。ここは地蔵たちにとって間違いなく「イクグアナ(いっしょくた)」なのだろう。

お婆さんに会うことを諦めた僕は堂を出て、湖を見ようと思い、歩き始めた。境内から芦野湖の湖畔までは一本の道が延びている。踏み跡を少し広げた程度の道で、例大祭の日でもここを歩く人はほとんどおらず、静けさを保っていた。

道の両脇にはいくつもの祠が並んでいた。建てられた時代が違えば作った人も異なるのだろう。祠の様相はさまざまだが、いずれの祠のなかにも何体もの石地蔵が納められていた。地蔵の姿もさまざまだ。白い化粧をしている者がいれば、黒墨ではっきりと瞳が描かれている者、鮮やかな色使いの着物を着ている者もいた。また、地蔵が立っているのは祠の中だけではない。路傍には半ば草葉の陰に隠れるようにして何体もの地蔵が佇んでいた。この地蔵たちもやはりカナシイホトケとしてこの世に生まれてきたのだろうか。

地蔵を眺めながら道を降りていくと、あっけなく湖にたどり着いた。道はひたひたと小さな波が寄せる汀で途絶えていた。しかし、それは気のせいで、澄んだ水の向こうで白い砂が広がる湖を覗き込むと、仄暗い湖底へと続く道の様子が見てとれた。そうか、この汀こそが賽の河原で、芦野湖は三途の川ということなのだ。だとしたら地蔵たちに見守られながらこの汀に辿り着いた死者の魂は一時の逡巡を経て、湖底深くに続く道へと歩み出ていくのだろうか。

あの日、去ろうとする僕に向かってお婆さんが掛けてくれた言葉を口の中で反芻した。「おめえ、なも聞でね。なんもかも、わへでけろ」。異国の歌にも感じられる津軽言葉で、お婆さんが最後に言ったのは、「あなたは何も聞いてないんだからすべて忘れて欲しい」というものだった。時が経つにつれ、僕はお婆さんがなぜそんなことを言ったのか、再会してその意味を問うことを願うようになっていった。しかし、再会は今回も叶わず、もはや叶わない願いだという確信めいた思いが強まっていた。であればお婆さんの言葉通り、すべてを忘れてしまった方がいいのだろうか。

今日はお婆さんに会えなかっただけではなかった。雛壇のどこを探しても、お婆さんが世話を焼いていたカナシイホトケを見つけ出すことができなかった。あの愛らしい「カナシイホトケのコッコ」の姿も消えていた。僕は探し疲れ、お婆さんの記憶とともにあった地蔵との再会を諦めることにした。すると、お婆さんの歌うような津軽言葉も僕の胸の中から遠ざかっていった。

湖の水は青く澄んでいて、水の下で揺れる白砂の上に無数の小さな足跡を見つけたような気がした。