「どうしたら精神科医になれますか?」
その言葉は、講演会場を離れた後も、ずっと私の耳のなかで残響していた。
初夏の昼下がり、私は横浜の元町通り、JR石川町駅側の入り口付近にいた。さっきまで私は、名門として知られる私立女子高で薬物乱用防止講演を行っていて、それを終えたいま、時間貸しパーキングに車を取りに向かっているところだった。
薬物乱用防止講演――要するに、例の「ダメ。ゼッタイ。」講演だ。この種の講演を引き受けるのは、近年の私にはかなり異例、かれこれ10年ぶりの出来事だった。
長らく引き受けなかった理由ははっきりしている。私はあくまでも、薬物に苦しむ人の治療・回復を助け、希望を与えることを生業とする者だ。だから、薬物の害を大げさに誇張し、薬物を使用した当事者をゾンビやモンスターのように凶悪に描写して、子どもたちを震え上がらせる講演など、私の仕事ではない。実際、これまでそうした講演をするたびに、自分の患者を裏切っているような感覚に苛まれ、医師としての自分が穢れ、濁っていくような錯覚にとらわれてきたのだった。
しかし今回、権威ある年長者による仲立ちという、最も断りにくい包囲網を作られての講演依頼だった。私はその年長者を恨めしく思いつつも、泣く泣く引き受けるしかなかった。結局、私がした話といえば、「薬物に手を出さないにこしたことはないが、もしも手を出して依存症になったとしても解決策はある。なお、世の中には、いまこの瞬間を生き延びるために少量の害や痛みを必要とする人もいることは知っておいてほしい」という、薬物使用を勧めていると誤解されかねない主旨のものであった。でも、かまわない。この機会に、主催者には私に講演を依頼したのを存分に後悔していただきたい――そう居直っていたわけだ。
「どうしたら精神科医になれますか?」
この質問は、私が一通りしゃべり終えた後に、聴衆たる高校生からなされたものだった。静まりかえる体育館のなかで、一本、すっと宙空に伸びた白い腕は、まるで土から伸びたホワイトアスパラガスのように見えた。私が指名すると、それに呼応してその腕の持ち主はむっくりと立ち上がる。それは、縁なし眼鏡をかけた聡明そうな顔つきの少女だった。
正直なところ私は、薬物とは縁もゆかりもない質問に面食らっていた。だが、医学部志望の生徒なのかもしれないと思い直し、自分なりの回答を思案してみた。そのとき脳裏に浮かんだのは、昔から医学生のあいだで伝承されている言葉――「内科医は何でも知っているが何もしない。外科医は何も知らないが何でもする。精神科医は何も知らないし何もしない」――だった。だから、内心こう思った。「そう、精神科医は何も知らないし何もしない。そんなのになってどうするのだ?」と。とはいえ、さすがにそのまま言葉にするわけにもいかない。
少し考えてから私はこう答えた。
「精神科医になるには、医学部に進学して医師になることです。つまり、その……まず精神科以外の医師になることです」
話しながら、さすがにこれは馬鹿げた回答だと思った。まるで、米国の小説家ローリー・ムーアの短編『作家になる方法』(1)の冒頭そっくりだ。曰く、「作家になるには、まず作家以外のものになろうとしてみなさい」。
パーキングに向かって歩きながら、私は懐かしさと時代の変化とを感じていた。最後に元町界隈を歩いたのはいつだろう? 軽く20年は経過しているはずだ。
たしか元町通りを出て石川町駅側へと横断歩道を渡ったところにタワーレコード元町店があったはずだ……と目で探したが、見当たらない。その場所にはファミレスとカラオケボックスしかない。かつて何度となくレゲエやR&BのCDを買い漁った店だが、昨今のサブスクリプション・サービスの普及はここにも影響していたのか?
石川町駅が見えてきた。川の向こう側には、日本三大ドヤ街のひとつ、寿町がある。研修医時代、このエリアは危険区域と見なされていて、車で入らないよう、先輩医師から注意されたことがある。「なにしろ、故意にみずから車に飛び込むのを生業としている人がいるからね」。だが、意外にも、後になってその街は自分にとって縁深い場所となった。というのも、横浜で依存症臨床を始めた頃、少なくない担当患者が寿町に居住していたし、初めてAA(Alcoholics Anonymous)のミーティングに見学参加したのも、寿町内の公共施設だったからだ。
懐かしさがこみ上げてきて、車に乗り込むと、少しこの界隈をドライブしてみたくなった。私は本牧通りへとステアリングを切ると、薄暗い山手隧道をくぐって本牧方面へと車を走らせた。
運転しながら、さっき質問した女子高生のことを改めて考えてみる。高校生の頃から精神科医志望だなんて、あまり精神的に健康とはいいがたい気がする。だが待て、当の自分はどうなのだ? おまえだって高校時代から精神科医志望ではなかったか?
なるほど、高校時代の私はたしかにいつも憂鬱な気分を抱えていた。何がそこまで憂鬱だったのかは、いまとなっては説明できない。自分のなかで明確なのは、「もしも人生をもう一度やり直せるとしても、10代だけはパスしたい。特に中学・高校時代は勘弁してほしい。できれば20代以降、いや、20代後半以降がいい」ということだ。
これは私だけの現象ではないはずだ。人は自身の10代を簡単に忘れてしまう。
面白いデータがある。わが国の一般の人々を対象とした年代別の自殺念慮経験に関する調査によれば、過去1年以内における自殺念慮の経験率が10代で最も高いのだ(2)。このこと自体は驚くに当たらないが、奇妙なのは、自殺念慮の生涯経験率に関する結果だ。本来、生涯経験率は加齢とともに累積して高くなるはずなのに、10~30代まで高い水準でほぼ横ばいに推移するものの、なぜか40代以降になると、年代が上がるとともに経験率はむしろ低下している。
いろんな解釈がありえるのだろうが、私には、この結果が、人は成長するにつれて若き日の苦痛を忘れてしまう可能性を示唆しているように思えてならないのだ。
あるいは、こう考えることはできないだろうか? 大人になるとは、思春期時代の苦痛を忘れることである、と。忘れられない者は精神を病むか、そうでなければ、周囲の人間から「中二病(厨二病)」と呼ばれているのではないか、と。
自身の10代を思い返すとき、記憶のなかの私はいつも小田原の海岸にいる。高校の授業をサボって市立図書館で時間をやりすごし、本を読むのに飽きると、海岸に行ってテトラポッドの上に腰かけてタバコを吸う――そんなことばかりしていた。浜風を顔に受けながら目を閉じると、眼前の灰色がかった小田原の海が、脳裏のなかで、映画『太陽がいっぱい』で描かれたナポリの青い海、あるいは、映画『ベニスに死す』の舞台、リド島の群青の海へと変換される気がしていた。
当時、すでに精神科医になりたいと心に決めていたが、そのことについて誰かに相談したことはなかった。担任教師との進路指導面接の際にもいわなかった。なにしろ、希望に見合った努力もしておらず、学校をサボってばかりという自堕落ぶりだ。医学部志望なんてことを知られたら、それこそ嘲笑されるだけだろう。
案の定、受験に失敗し、浪人生活を余儀なくされた。浪人時代については思い出せることが少ないし、また、思い出したくもないのだが、それでも、ひとつ強烈な印象を伴って記憶している出来事がある。
当時のトップアイドル、岡田有希子の自殺だ。日付も正確に記憶している。1986年4月8日。それは、浪人生活が始まってまもない時期、まさに予備校開講日だった。私と彼女は同い年で、誕生日は私の方が彼女より1週間早い。
誓っていうが、私は断じて岡田有希子のファンではなかったし、それまで格別の関心を抱いたこともなかった。しかし、浪人という未来の見えない境遇にあった自分には、同い年の彼女の死を他人事と感じられなかったのかもしれない。実際、ニュースを聞いたとき、何か自分の身体の一部が引きちぎられて、路面に強く叩きつけられたような奇妙な感覚を体験した。さらに数日後、写真週刊誌に掲載された、路上にうつ伏した彼女の遺体、そして、頭部から飛び散った、路面を濡らす何か液状のものの画像を見て、今度は背後から鈍器で殴られたような衝撃を受けたのだ。
幸い浪人生活は1年で終わったが、私が大学受験をどう乗り切ったのか、「合格体験記」風に語るのは難しい。なにしろ、予備校は早々にやめてしまったし、喫煙を家族に知られないよう、あえて昼夜逆転の生活を送って、深夜、小説を読みふける合間に勉強する、という体たらくだったからだ。当然、成績もさほど伸びなかった。それでも、佐賀県の国立医大に滑り込むことができたのは、まあ僥倖というべきだろう。
医学部に入学して気づいたのは、精神科医になりたいという一念だけで医学部に潜り込むのはあまりに浅慮にすぎた、ということだった。同級生たちは毎日講義に出席し、どんな退屈な話でもひとまず教員の話に耳を傾ける素直さと習慣がしっかりと身についていた。それらはいずれも私が早々に失った資質だった。そのせいで、私にとって医学部は6年間の我慢大会であり、「自分が本来いるべきではない場所にいる」という異邦人感覚と向き合う毎日が続いた。
それでも、「すべては精神科医になるため」と考えれば、大抵の理不尽には耐えることができるものだ。それがたとえ、試験のたびに課される膨大な糞暗記や、病棟実習における長時間拘束、あるいは、指導医によるハラスメントすれすれの口頭試問と罵倒であっても、だ。いつかはこうした苦難から解放されて精神医学に没頭できる日が来る――その希望が自分の支えになっていた。
もちろん、最大の幸運は、私が学んだ医大の鷹揚さ、寛容さにあったことはまちがいない。少なくとも当時、私の出身大学は、講義への出席もとらなければ、留年制度もなかった。だからこそ、私のように講義に全然出席しないダメ医大生でも医師になれたし、おかげで精神科医にもなれたのだと思う。
車はスムーズに本牧通りを進んでいく。本牧通りには独特の異国感がある。元々、米軍接収地だったからだろうか? それとも、昔、市電が通っていた影響で通常より道幅が広く、両脇と中央分離帯に樹木が植えられているせいだろうか?
やがて車はかつて「マイカル本牧」と呼ばれていた場所にたどり着く。マイカル本牧とは、1989年に開業した大型複合商業施設だった。スペイン風の意匠を凝らしたビル群には飲食店やブランドショップ、映画館やイベントホールまで並び、バブル時代の横浜を象徴するような場所だった。私自身、若い頃に買い物や映画、ライブを楽しむために足繁く通った記憶がある。
しかし、その賑わいはとうに消えていた。本牧通りに面した一角を除けば人影は乏しく、空き店舗ばかりが目につく。そして、壮麗すぎる建物群は、皮肉にもかえって打ち捨てられた古代王朝の遺跡のように見えた。
その風景を見ながら思い出したのは、30年ほど前、この場所の居酒屋で交わした依存症医療をめぐる議論だった。当時、私が勤務していた依存症専門病院の歓送迎会だか忘年会だかが、ここに店舗を構える居酒屋で催されたのだ。
すでに当時の私は、依存症当事者の自助グループやダルクとの協働を通じて、依存症臨床に惹きつけられていた。当事者による相互扶助の力にはたびたび度肝を抜かれ、私たち医療関係者が手を焼くような、いわば「ならず者」の当事者だって、先行く仲間とのよき出会いがあれば回復できる、と信じられるようになっていた。こうした劇的な回復の物語は、大学病院での研修ではいっさい学ばなかったことだ。
しかしそれだけに、依存症専門病院の規則に理不尽さも感じていた。たとえば、入院中に飲酒してしまった場合、2泊3日のあいだ保護室で過ごさなければ入院の継続は許されなかった。奇妙なことだと思った。病棟の他患者に迷惑を及ぼすようなひどい酩酊状態ならいざ知らず、「うっかり一口飲んでしまった」程度のほろ酔いであれば、保護室ではなく、大部屋でよい気がしたからだ。もしも他の患者が酒臭を気にするならば、一般個室を使えばよく、少なくとも堅牢な保護室である必要はない。
ただし、これは入院中の飲酒が初回の場合に限った話だった。2回目以降の飲酒では、たとえ患者自身がどれほど強く入院継続を求めても、問答無用で強制退院だった。さらにいえば、この規則はあくまでアルコールの場合であって、入院中の薬物使用――その薬物が覚醒剤などの違法薬物ではなく、不正に持ち込んだ処方薬や市販薬であっても――の場合には、初回でいきなり強制退院となってしまうのだ。
当時、わが国の依存症専門病院の多くが、刑務所を模倣した「閉じ込め」式の強制治療を提供していたなかで、私が勤務する病院は、あくまでも本人の自発的な治療意欲を重視する、数少ない良心的な病院と目されていた。それだけに、いつまでもこうした理不尽な規則が残っていることに疑問を感じていたのだった。
酔いが回った私は、生意気にも先輩医師やベテラン看護師に、日頃から感じてきた疑問をぶつけてみた。曰く、再飲酒したら一律に保護室というのは、患者の権利擁護という観点からは逸脱的ではないか? 患者が治療を希望しているのに強制退院とするのは、医師の応召義務違反に相当しないか? アルコールの場合ならば「イエローカード」で、1回は入院継続のチャンスが与えられるのに、なぜ薬物だと「レッドカード」で一発退場なのか……。
私の発言で、宴席の空気が一気に冷え込んだのを覚えている。おそらく「駆け出しの若手が何を偉そうに」と反感を抱いた者もいたのだろう。
それでも、何人かは親切にそれぞれの考えを語ってくれた。
「いくら依存症が病気だっていっても、どこかで一線を引いて、「ダメなものはダメ」と伝えなきゃいけない」
「保護室を使うのは、単に酩酊のせいだけではない。これまでの自分の治療に対する態度を内省してもらうためでもある。それには静かな場所がいい」
「患者さんのなかには、少しでもアルコールが入ると、人が変わったみたいに粗暴になる人がいる。かつてそういう行為で病棟ではいろんな事故が起きた。だから、医療者の安全を確保するためにはやむを得ない措置だ」
私は食い下がるのをやめた。周囲の雰囲気から自分が少数派であるのを悟ったからだ。そして翌日以降、あくまでも、「あの発言はすべて酒席における酔っ払いの世迷い言であった」という風にふるまい、二度と蒸し返さなかった。
もちろん、先輩たちの説明に納得したわけではなかった。内省のための静かな場所ならば一般個室で十分だし、医療者の安全確保のためとはいえ、最初から一律保護室とする必要はない。危険を感じてから保護室使用を検討しても決して遅くはないはずだ。だが、何より疑問だったのは、再飲酒や再使用を理由とする強制退院だった。
実際、その規則によって人生を壊された患者もいた。
あるアルコール依存症の中年男性は、入院前、妻にこう啖呵を切った。
「今度こそしっかり治療に向き合って最後まで入院プログラムをやり遂げる。以前のように自分から中途退院なんか絶対にしない。もしも中途退院したら、おまえの希望通り離婚を受け入れる」
しかし実際には、入院中の飲酒がくりかえされた結果、彼は強制退院となってしまった。退院後、妻子が出て行ったわびしい自宅で彼は自暴自棄的な飲酒に陥り、最終的におそらくは心不全で命を落とした。遺体が発見されたのは、死亡から数日を経過した後だったという。
禁断破断効果という現象がある。必死に断酒や断薬を続けていた人が、ほんの小さな失敗をきっかけに、「一杯も百杯も同じだ」と自暴自棄になり、それまで以上に激しい自己破壊的な使用へとなだれ込んでしまう現象だ。後になって私は、あの患者もまさにそうした状態に陥ったのではないかと思うようになった。
その後、ある時期から私は、依存症患者に対する「ゼロ・トレランス」(zero tolerance: 軽微な違反や不具合であっても一切の例外や寛容を認めず、厳格な処分や排除を行う対応方針)的な治療目標の有害性を認識するようになった。
そもそも、「やめられない、止まらない」のが依存症の本質ならば、完全断酒・断薬を求めること自体が無理難題の要求だ。事実、不寛容な目標を掲げた治療では、再飲酒や薬物再使用をした患者の多くが、恥の意識から治療を中断しやすいが、治療を中断した依存症患者の予後は非常に悪いことがわかっている(3)(4)。それに比べれば、アルコールや薬物を使いながらも治療を継続した患者の方が、その後の物質使用の状況ははるかにましであり、死亡率や逮捕率が低いばかりか、就労などの社会的機能も高いのだ(5)。
いまにして思うと、マイカル本牧が閉館した2011年は、私自身の依存症臨床観が大きく変わった年でもあった。この符合はおそらく単なる偶然だが、いずれも一つの時代の終わりと新しい時代の幕開けを意味した。
変化のきっかけは、2011年に公表された薬物政策国際委員会(Global Commission on Drug Policy)の報告書(6)だった。そこでは、半世紀近く続けられてきた厳罰的薬物政策が期待された成果を上げていないばかりか、むしろ新たな健康被害や社会的損失を生んでいることが指摘されていた。そして最後に、「薬物戦争には勝ち目がない。即刻やめるべき」と結論されていたのだった。
それと期を同じくして、私はハームリダクションという公衆衛生政策理念を知った。ハームリダクションとは、人々の薬物使用そのものをゼロにするのではなく、薬物使用の結果生じる健康被害や社会的損失を減らそうとする公衆衛生上の考え方である(7)。清潔な注射器の無償提供や代替的薬物療法、非刑罰化政策などは、その代表例だ。
この公衆衛生政策の理念は、患者に対する個別的な治療・支援にも援用できる側面がある。すでに述べたように、不寛容に断酒・断薬を要求することによって生じる最大の弊害は、治療の中断だ。したがって、その弊害を低減するアプローチとして、あえてゼロ・トレランス的治療目標を掲げず、どうしても断酒・断薬が困難な患者に対しては、安全な飲酒や薬物使用を指導する、というやり方は十分にあり得るのだ。
この考え方と関連した興味深い実践がある。精神科病院には病的多飲水の患者がいるが、従来の厳しい飲水制限はしばしば「隠れ飲み」を誘発していた。重篤な場合には、患者を保護室に隔離しても問題は解決しなかった。保護室のトイレの水――ときには排泄物が混じった汚水――まで飲んでしまう猛者もいたからだ。そこで山梨県立北病院では、みずから申告すれば、患者が看護師の前でゆっくりと冷たい水を飲めるようにしたところ、飲水量の低減と水中毒の重症化予防が達成できたというのだ(8)。
禁止されるほど欲求が強まる。その逆説は依存症にも通じるように思えた。依存症をこじらせるのは、必ずしもアルコールや薬物そのものだけではない。ときに、「絶対に失敗してはいけない」という不寛容な治療目標が、人をより深い絶望へ追い込むことがあるのだ。
そう考えるようになったとき、30年前、マイカル本牧の居酒屋で口にした青臭い疑問は、ようやく私のなかでひとつの意味を持ち始めたのだった。
しばらくのあいだ私は、マイカル本牧跡地の廃墟となった建物群の周囲を徐行しながら、往時とは一変して寂れた風景を感慨深く眺めていた。そしてひとしきり巡回した後、Uターンして本牧通りへ戻った。今度は先ほどとは逆の元町方面へ向かう。山手警察署前の信号で停車した際、私は少し悩んだすえに右折することにした。しばらく進むと、小港町二丁目の交差点を左折し、薄暗い上り坂の山道へと入る。
ここがワシン坂だ。この坂道は、クレイジーケンバンドの『透明高速』という曲の歌詞に「病院坂」として登場する。同曲のなかで、「ここは因果なドライブコース」と歌われているように、細く蛇行した道となっていて、ブラインド・コーナーの連続だ。おそらく事故多発地帯なのだろう。実際、路面は摩擦係数の高い素材で赤くカラー舗装され、ドライバーに危険を警告している。
坂道の左側には、苔で覆われたブラフ積みの石垣があり、その石垣が途切れると、古ぼけた白い建物が忽然と現れる。病院だ。あの建物こそが、『透明高速』で「病院坂」と名づけられる根拠となった精神科病院なのだ。
実は私は、研修医を終えて精神科入局1年目の1年間、週1日の非常勤勤務と月2回土曜日の当直でその病院に通っていた。
いまでもその病院の暗く狭い当直室を鮮明に覚えている。細長い部屋に沿って細いベッドが置かれていて、布団や枕は埃っぽく、誰が読んだのか、ベッドサイドには『ゴルゴ13』の漫画本がうずたかく積み上げられていた。
当直室にはなぜか鍵がなかった。病院の1階、外来待合室付近という、人々が行き来する場所にあるのに、これはあまりに不用心だった。もしかすると、病棟から電話をしても起きてこない医師を、看護師が直接叩き起こせるようにするための工夫だったのかもしれない。だが、一度、深夜熟眠中に初老の女性患者が侵入してきたことがあり、驚きのあまり思わず絶叫するほど、怖い思いをしたことがある。
当時、精神科医として派遣されたものの、私に任されるのは精神科治療薬の副作用や肺炎への対応、転倒して頭部を打撲した患者の縫合処置といったものばかりだった。これは、駆け出しの精神科医としてはいささか自尊心を挫かれた。内心、「これじゃ、無医村で働く下手な総合診療医みたいじゃないか」と複雑な心境だった。
それでも、多少は精神科医らしい時間もあった。「総合診療医仕事」を終えると、私は閉鎖病棟の片隅にあった喫煙スペースでタバコを吸った。当時はまだ病棟内での喫煙が許されていた時代だった。すると時折、患者がふらりと近寄ってきては、妄想めいた話を一方的に語り、満足すると立ち去っていったのだ。
そんな患者たちのなかに、ひとりの若い男性がいた。30歳前後だったと思う。ある日彼は、子ども時代に年上の女性から性的な被害を受けた、という話をしたのだ。
しかし当時の私は、その話を十分に受け止められなかった。男性が性的虐待の被害者になるという発想そのものが、私にはなかったからだ。加害者が年長の女性というのも理解しがたかった。それが性の手ほどき、俗にいう「筆下ろし」とどう違うのかわからなかったのだ。それに、相手が早口で、しかも発語が不明瞭だったせいで、話の細部が聞きとれなかったのもある。私は曖昧にうなずきながら聞き流し、しかし、内心では妄想のたぐい、それも願望充足的な妄想なのかもしれないと考えていた。
ところが、後になって、もしかするとあの話は真実なのかもしれないと思い直す機会があった。まもなくして病棟の七夕レクリエーションとして、病棟内に設置した笹の葉に患者それぞれが願いを短冊に書いて飾りつける、という企画が催されたのだ。
そのとき例の若い男性患者が短冊をくくりつけている姿を見かけたので、近寄って短冊に書かれた願いをちらと盗み見てみた。すると、「早く死にたいです」とだけ書かれてあったのだ。私は声を失った。過去の心的外傷体験、誰にも相談できずに抱え込んでいた黒い秘密が、いまなお彼を苦しめているのかもしれない、と直感したのだ。
後で知ったのだが、翌日にはその短冊は病棟看護師長の目にとまって没収され、患者は「もっと前向きな願いを書くように」と注意されたらしい。30年前、精神科医療は、安心して「死にたい」という正直な表出が許される環境ではなかったのだ。
あの若い患者の短冊を見た日のことは、なぜか忘れられなかった。それは、私が彼を理解できたからではない。むしろ逆だった。私には彼の苦痛の正体がわからなかったし、そもそも彼が語った性的被害の話を、どこまで本気で受け止めていたのかさえ怪しい。ただ、その理解できなさだけが、心のどこかに棘のように残り続けていた。
その棘が再び疼き出したのは、30年近い歳月を経た2023年のことだった。ジャニー喜多川の事件が明るみに出たのだ。
あのおぞましい事件は、性的虐待の被害は何も女性に限ったものではなく、男性の被害者もいるという事実を、社会に広く知らしめた。それだけではない。被害の当事者に、これまでひとりで抱え込んできた秘密を告白する勇気を与えた可能性もある。
いまでも忘れられない患者がいる。ジャニーズ事件がメディアで騒がれていた頃、60代半ばの初老の男性患者が診察室で突然告白を始めたのだった。彼は、「これまで誰にも話さなかったのだが、ジャニーズのニュースを見て、いまなら話せるかもしれないと思って」と切り出した。彼は子ども時代、子役として芸能活動をしていたが、その当時、まだ小学生だった彼は年長の女性から性的加害をくりかえし受けた。そのせいで芸能界に嫌気がさして、思春期に入る頃には業界を離れたが、その後もずっと「自分は汚れている」という感覚を払拭できず、苦しんできたのだという。
彼は覚醒剤依存症に罹患していた。それも、札付きの「問題患者」だった。10代の終わりから覚醒剤乱用を始め、30歳以降、逮捕・服役と覚醒剤精神病による措置入院をくりかえしてきた、いわば「猛者患者」だ。さらに、医療スタッフへの暴力などの理由から複数の病院で「出入り禁止」となっていて、最終的に私の外来に漂着したのだった。さすがに年齢も年齢だけに、最近数年間はかつてのようなすさまじい覚醒剤使用はなくなっていたが、それでも年2、3回は再使用がみられ、そのたびに激しい覚醒剤誘発性精神病が出現して、周囲をハラハラさせていた。
彼によれば、覚醒剤の薬理作用に脳が圧倒されている瞬間だけ、つらい過去の記憶、自分を穢した女性への怒りや憎悪、さらには殺意から解放されるのだという。
「そんなことをくりかえしていたら、刑務所と病院を行ったり来たりして、気づいたらもうこの年です」
そうしゃくり上げながら話す彼の目には、大粒の涙が浮かんでいた。
告白から1年半ほどのあいだ、彼は一度も覚醒剤を使わなかった。日中は病院の依存症集団療法に熱心に通い、夜は自助グループのミーティングにも顔を出した。
ただ、告白から1年後、謎の体重減少を不審に感じて内科で精査してもらったところ、体内に悪性腫瘍が発見されてしまった。しかも、すでに他の臓器への遠隔転移まで生じた「ステージⅣ」の状態だった。発見から半年後、彼は静かに息を引き取った。せめてもの救いは、それまで誰にもいえなかった秘密を告白して以降、これまでになく安定した状態、覚醒剤の影響がいっさいない精神状態ですごせたことだった。
彼との出会いによって、私は初めて30年前に聞き逃した話の意味を理解した気がした。
私は小刻みにステアリングを動かし、せわしなくシフトチェンジをして2速と3速のギアを使い分けながら、ワシン坂を進む。すると、道の両脇に鬱蒼と茂る樹木や住宅が途切れ、不意に周囲が明るくなって、眺望が開ける場所に出た。
遠景にベイブリッジが見える。海と溶け合った空のなかに「H」型をした巨大な塔が2つ重なって浮かんでいて、その塔からは無数のケーブルがまるでハープの弦のように斜めに橋の側面へと伸びている。そして、橋の上には米粒のように小さい車がおびただしく並んでいるのが見えた。
そんな風景を横目に道を進むと、神奈川近代文学館や大佛次郎記念館の入り口を示す標識が見え、やがて港の見える丘公園の前を通りすぎる。横浜の観光名所カタログのような場所を進みながら、しかし、私はなおもまだ、悪性疾患で亡くなった初老の覚醒剤依存症患者のことを考えていた。
アディクション臨床から学んだのは、「依存症とは快楽に溺れた結果ではなく、苦痛を一時しのぎした結果である」ということだった。依存症の病態を説明する仮説として、「自己治療仮説」という理論がある(9)。これは、依存症当事者は、快感を得るためにではなく、自身の苦痛を緩和するためにアルコールや薬物の薬理効果を用いている、という考え方だ。あの初老患者こそがまさにそのようなケースだった。
それから、「痛みを駆逐するために別の痛みを必要とする人もいる」ということも学んだ。考えてみれば、アルコール依存症患者が呈する連続飲酒や、覚醒剤依存症患者のバウト(bout: 発作的な連続使用)は、どう考えても「快楽」にはほど遠い。精神作用物質に翻弄され、身体の苦痛によって心や脳を麻痺させて、何も感じないようにしているとしか思えないからだ。それでも、そうした自傷的、ないしは自己破壊的な物質使用は、「手に負えない巨大な痛み」から意識をそらす、「より安全な痛み」として一時的な苦痛緩和には役立った可能性がある。
実は、どんな重篤な依存症患者でも簡単に、それこそ何回、何十回となくアルコールや薬物をやめている――ただし、数日単位、あるいは数時間単位といった水準で。
難しいのは、やめることではなく、やめ続けることなのだ。そして、やめ続けるのが難しいのは、アルコールや薬物が一時的とはいえ「心の松葉杖」として機能してきた過去があるからだ。したがって、やめ続けるには、アルコールや薬物の代わりとなる、もっと安全かつ健康的な「代わりの松葉杖」を見いだす必要があるのだ。
港の見える丘公園をすぎるとまもなく、元町通りの入り口、巨大なアーチ型のゲートが見えてくる。結局、私は元町通りの石川町駅側の入り口からスタートして本牧でUターンし、最後は元町通りの反対側、元町・中華街駅側の入り口に戻ってきたわけだ。ちょっとした横浜観光ではあったが、期せずしてこれまでの自分の精神科医としての歩みを振り返る機会になった。
私は元町通りのパーキングエリアに車を止め、あたりを少し散歩することにした。そして、石畳の通りを歩きながら考えてみた――自分は本当の意味で精神科医になれたのだろうか、そして、これまで誰のために精神科医をやってきたのだろうか、と。
後者の質問を考えると、時々悩ましい気持ちになる。生活の糧という意味で自分のためなのはいうまでもないが、それを除けば、やはり患者のためであるはずだ。だが、自身が専門とする依存症分野では、本来は人々の健康を守るための厳しい治療目標や規制法、そして、それらが作り出す不寛容な社会のありようが、かえって患者を追い詰め、心の安寧ばかりか健康を害し、ときに生命を危険に曝すこともある。精神科医の仕事とは、そうした事態を静観し、ただ黙って目の前の患者を診ているだけでよいのか――ある時期からそんな疑問を抱くようになったのだ。
とはいえ、この問題を突き詰めると、向き合う対象が患者から社会そのものへと変化して、危うく医師という職業を超えそうになってしまう自分がいる。事実、私は、わが国の薬物政策の問題についてメディアで忌憚ない発言をするたびに、政府の意向を気遣う職場幹部から何度となく注意を受けてきた。
もう一度、今日の講演で出た質問を思い出す。
「どうしたら精神科医になれますか?」
あの女子高生への答えを、私はまだ持っていない。
ふと思う。あの縁なし眼鏡の少女はどんな精神科医になるのだろうか? おそらくそれは、彼女がこれから出会う患者次第なのだろう。
いうまでもなく、精神科医になるには医学部に入って医師になり、研修医を終えたら精神科を選べばいい。だが、問題はどんな精神科医になるのかだ。事実、私の場合、佐賀の医大への進学や依存症医療との出会いも、そしていまの職場へたどり着いたことも、どれひとつとして最初から周到に計画されたものはなかった。その意味で、どんな精神科医になるかは、努力より運命に翻弄される要素がはるかに大きい。
思えば、自分なりにそのような運命を甘受していこうと思うきっかけはあった。それは、精神科医1年目だった1995年の夏の終わり、ワシン坂の病院での当直明け、日曜日の昼前のことだ。私はワシン坂を下って元町通りに車を路上駐車し、山下公園方面に向けて歩いた。すると、バーニーズ・ニューヨーク横浜店に行き当たったのだ。
そのとき目撃した光景と高揚感はいまでも鮮やかに記憶している。バーニーズの入り口には、9月の陽光に照らされてまばゆく輝く、美しいイタリア車が2台展示されていたのだ。真紅のアルファロメオ・スパイダーとオレンジ色のフィアット・バルケッタ――いずれも当時発売されたばかりのニューモデルだった。それらは、未来のイメージを凝縮してそのまま造形した、原色の彫刻のように見えた。
顔を上げると、視野の中心にマリンタワーが屹立し、その先には山下公園、さらにその先には停泊する氷川丸が見えた。不意に海から風が吹き抜けた。風を顔に受けながら、私は思った。「高校時代、小田原の海で感じたのと同じだ」と。
そう、同じだった。「どうしたら精神科医になれるのだろう」と考え始めた、あの頃と。
参考文献
- ローリー・ムーア「作家になる方法」『セルフ・ヘルプ』所収、干刈あがた・斎藤英治訳、白水社、1994年。
- 日本財団子どもの生きていく力サポートプロジェクト『日本財団第4回自殺意識調査』報告書 https://www.nippon-foundation.or.jp/who/news/pr/2021/20210831-61046.html
- Simpson, D.D., Joe, G.W., Rowan-Szal, G.A.: Drug abuse treatment retention and process effects on follow-up outcomes. Drug Alcohol Depend, 47(3): 227-235, 1997 Sep 25. doi: 10.1016/s0376-8716(97)00099-9. PMID: 9306048.
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- 松本俊彦「ハーム・リダクションの理念とわが国における可能性と課題」精神神経学雑誌、121(12): 914-925、2019年。
- 川上宏人・松浦好徳編『多飲症・水中毒――ケアと治療の新機軸』医学書院、2010年。
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編集部注:本連載では、登場人物の匿名性を保つため、プロフィールの細部に変更を加えています。



