みすず書房

日本の思想とは何か──継承の可能性を巡って【対談】原武史 × 野口良平

司会 長瀬海

日本の思想とは何か──継承の可能性を巡って【対談】原武史 × 野口良平

今年3月31日に、『日本政治思想史』(新潮社)の著者の原武史さんと、『列島哲学史』(みすず書房)の野口良平さんのトークイベントが、週刊読書人の主催で行われました。日本の思想とは何か。戦後思想を継承する可能性はどこにあるのか。お二人の刺激的な語り合いをお伝えします。構成は長瀬海さんです。

響きあう二つの日本思想/哲学史


──先日、ぼくはWEBみすずに寄稿した野口良平さんの新刊『列島哲学史』の書評で、同書とほとんど同じ時期に出た原武史さんの『日本政治思想史』は互いに響きあう思想史だと論じました。今回の対談はその書評がきっかけとなり企画されたものです。今日はお二人の「知」が融和することで日本の思想を理解する新しい文脈が生まれることを期待しています。まずはお互いの本を読み、どのような感想を持ったのかからお話しください。

野口:私は原さんの『日本政治思想史』を自分の本が出たあとに拝読したのですが、非常に驚きました。もちろん長瀬さんが書評に書かれていたように問題関心が重なりあっているからでもあるのですが、私が書こうと思って書けなかったこと、あるいは思いつくことさえできなかったことを原さんが鋭利に論じられていたからです。私の見ていたものの背後にどれほど強力な「視覚の支配」があったのかと、蒙をひらかれた思いがしました。
 私の仕事と原さんの仕事は、どちらも言葉以前の領域からスタートしている点で共通しています。私の場合は、外から来た強く、正しい言葉に対して、列島に生きている人間が何も言い返せず、内にこもってしまうあり方にこそ日本列島で培われてきた言葉の伝統があるのではないかと考えました。圧倒的な弱者、劣位に立たされた人間が優者の側にいる人間との間で織りなすコミュニケーション、もしくはディスコミュニケーションが列島哲学の根底をなすものだと捉えたわけです。それゆえに私は、弱い人間のほうに軸足を置き、ぼそぼそとつぶやくようにして紡がれてきた言葉を拾うことに自分の仕事を限定しました。
 ところが原さんは、同じく言葉以前の領域に注目しながら、日本では言葉よりも視覚による支配のほうがはるかに強い力を持っていたことを論じられています。原さんのこれまでのお仕事でもキーワードとなっていた「視覚支配」という言葉を再び取り出しながら、支配者たちがいかに言葉以前の領域を巧みに、狡猾に利用してきたかを暴いているわけです。我々は言葉が生み出すイデオロギーは信用しない。しかし一方で、視覚的なフェティシズムには弱い。支配者の御威光のようなものに、いともたやすく降参してしまう。その支配のかたちはいま、まさにピークに達しつつある感じを受けますが、原さんはその起源と発展の歴史を鮮やかに捉えていらっしゃいます。さらにもう一つ、明治以前と以後でぶつっと切らずに、長期的な時間のパースペクティヴをお仕事の根底にすえられていたところにも、深い感銘を受けました。

原:嬉しいご感想、どうもありがとうございます。私はみすず書房が出している『読書アンケート 2025』で、昨年読んだなかで印象深かった本の筆頭に野口さんの『列島哲学史』をあげました。理由はいくつもありますが、一つはスケールの大きさです。古代から現代までの長大な時間をたどりながら哲学の通史を紡ぐ。しかもわずか300ページという薄さで。このテーマで本を書くと往々にして長くなります。たとえば加藤周一の『日本文学史序説』は上下巻本でした。しかし野口さんは同じような時間の長さを扱いながら、その分量を圧縮させることに成功していて、大変感心しました。
 ご承知のようにアカデミズムの世界は分業制になっています。それぞれの時代に専門家がいて、研究の領域が細かく区切られている。そのような狭い世界で論文を書き、発表している人たちには想像もできないような仕事を野口さんは一人でやられているわけですよ。その試みには最大の敬意を払わないわけにはいかないだろうと私は思いました。

野口:ありがとうございます。日本の哲学史というものを考える際には、一つ大きな困難が待ち構えています。それは明治以前から始めるのが難しいということです。それゆえに、この種の試みがなされる際には「日本には哲学と呼べるようなものはなかった」とし、明治期における西洋哲学の輸入からスタートするのが常とされます。私はそのような大学制度本位の発想に距離を置きたかった。とはいえ逆にどんぶり勘定で、あれも哲学、これも哲学と言ってみせるわけにもいかない。現代に生きる我々とも共有できる言葉を、自分でリスクを背負いつつ編み上げてきた人たちの努力に光をあてるのでなければ、意味がないと考えました。そこで、哲学の定義そのものを考えぬいて工夫し、他者との関係から生じる世界像のゆらぎへの対し方を軸にすえた、「列島哲学史」という構想でいこうと決めたんです。
 そのような「列島哲学史」を書く以上は、誰も歩いたことがない「けものみち」をゆく必要がある。だから、どうしても時間がかかってしまいます。前著『幕末的思考』から数えると7、8年です。しかもその間に考えたことを300ページに凝縮しなければならない。書けなかったこと、書かなかったこと、書きたくなかったことがいろいろあったわけですが、原さんにはそうしたことに光があたる素晴らしい評を書いていただき、大変ありがたく思っています。

哲学をはじめる場所


原:もう一つ、政治思想史の研究者がほとんど出てこないのも野口さんの本の特徴だと思います。私の本もそうですが、思想史について書かれた本では、丸山眞男やその弟子たちの著作に言及することが自然と多くなります。ところが野口さんは少し丸山に触れるだけで、思想史研究で権威とされているような人の著作を引用していない。では代わりに出てくるのは誰かというと、加藤典洋や竹田青嗣や阿満利麿、それから橋本治などです。みんないわゆる官学アカデミアの外で活躍していた人たちですが、『列島哲学史』からは彼らの学統を継いでいくんだという野口さんの強い思いを感じました。私自身が明治学院大学の国際学部──加藤さんや竹田さんや阿満さん、あるいは多田道太郎さんのいた学部です──に長く在籍していたこともあり、彼らの残した知の遺産を継承し、一つの鮮やかな歴史像を提示されたことに対して、深い尊敬の念を示したくなりました。

野口:日本の思想史や哲学史をうたった本はたくさんありますが、私はそれに入っていけないような感覚をずっと持っていました。どこか自分がのけ者にされているような感じがしていたんですね。原さんがいま名前をあげられた書き手はみな同様の、『列島哲学史』で私が用いている言葉でいえば「疎隔の感覚」を抱えつつ思索を展開していた人々です。だから私は哲学史を書くうえで、彼らの仕事から学びうる文脈を創り出そうと考えました。
 加えて、原さんからも大きな影響を受けています。原さんは1996年に『〈出雲〉という思想──近代日本の抹殺された神々』を出されていますが、私は以前、この本を読んでとても驚きました。原さんはそこで、スサノヲやオオクニヌシを主宰神とする出雲神道について論じられています。日本にはアマテラスとスサノヲという二つの神様の系統があるわけですが、前者は高天原を仕切る神であり、伊勢をトポスにしている。一方、高天原でのけ者にされたスサノヲは地上に降りると、オオクニヌシを継承者とし、出雲をトポスにした。日本書紀や古事記には高天原の神々がオオクニヌシたちを侵略し、彼らは滅ぼされたと書かれているのですが、原さんは日本書紀の注釈である「一書第二」に着目し、彼らはじつはただで引き下がったわけではないと指摘されました。お互いに縄張り協定をし、アマテラスのほうは見える世界を支配し、オオクニヌシは見えない世界を支配するという取り決めを行ったんだというわけです。
 誰も注目しなかったことに原さんは目をつけ、その取り決めが伊勢中心の秩序をひっくり返すだけの重要性を持つことを論じ、さらには出雲を一つの思想的な意味形成の場として捉えようとされていました。私は『〈出雲〉という思想』から、見えるものと見えないもののせめぎあいを通して思想を読み解くことの意味を教えてもらいましたが、そのことは自分の執筆だけでなく、人生上の支えにもなっています。

──原さんが『〈出雲〉という思想』で展開された議論が生きるうえでの支えになっているわけですか?

野口:ええ。たとえば履歴書を書かされるときに、私には何を書いても虚しいと感じることがあるんですね。そこには業績しか記載できないので、自分のやりたかったことは書けず、余白に追いやられてしまう。その余白は目には見えないので、「ないもの」として扱われるのですが、そこにあるせめぎあいのプロセス、つまり見えないものが見えるものに抗うダイナミズムが記紀神話のなかにすでに書き込まれていたことを、原さんは気づかせてくださった。そのことはいまでも大きな力になっています。

原:昔の私の仕事に言及してくださり、ありがとうございます。あの本の第一部「復古神道における〈出雲〉」はじつは修士論文を加筆修正したものでして、私にとっても思い出深い論文です。私は社会人を経て、26歳で東京大学の大学院に入り直したので、ストレートに上がった人よりも4年遅れで大学院に入りました。ある意味でハンディを抱えていたのですが、それを弾き返すために、少しカッコつけた言い方をすれば、賭けに出たわけです。幸いあの論文は高く評価され、東大の社会科学研究所で助手として採用してもらいました。ですから、あの論文は非常にのめり込みながら書いたものであり、いま読み返しても20代後半の若かった自分の情熱を感じさせるところがあると思います。

敗者の側について考える思想


原:私が「復古神道における〈出雲〉」を書くことができたのは、野口さんが言及してくださった記紀神話における出雲と伊勢の対立が、明治になって蘇ってくるという発見があったからでした。明治新政府は伊勢神宮を全国の神社の中心に据え、アマテラスを皇祖神として祭り上げた。ところが、それに抗うもう一つの流れがあった。それがオオクニヌシをまつる出雲大社の千家尊福を中心とした出雲派と呼ばれるグループで、彼らが伊勢神宮を中心とする伊勢派と呼ばれるグループとの間に「祭神論争」と呼ばれる大論争を繰り広げ、結果的に敗北すると、政府は神道を宗教とすることを断念します。その結果確立されたのが、「国家神道」と呼ばれる神道でした。
 千家尊福の思想では、オオクニヌシが見えない世界である幽冥界を治めているとされていました。幽冥界は死後の世界でもあるので、天皇といえども死ねばオオクニヌシの支配下に入ることになります。そうなると、天皇は絶対的な存在じゃなくなるわけですよ。オオクニヌシを重視する出雲とアマテラスを重視する伊勢の論争が明治の自由民権運動とほぼ同じ時期に起きていたことは、野口さんの『列島哲学史』においても意味を持つのではないかと思います。私は『列島哲学史』を読み、野口さんが提示された視座でもう一度、私の過去の仕事を読み直してみたくなりました。

──ぼくも今回の対談のためにお二人のこれまでのお仕事を改めて読み直し、『〈出雲〉という思想』で論じられていたアマテラスの伊勢とオオクニヌシの出雲の思想的な「せめぎあい」が、野口さんと原さんの議論を結びつける一点なのかなと感じました。二つの世界像が互いにぶつかりあった祭神論争は神道を日本の哲学として鍛え上げる可能性があったにも関わらず、出雲の思想が抹殺されて終わってしまった。それは日本の思想における大きな損失だったのではないかとぼくは思ったのですが、野口さんはその点をどう考えますか?

野口:原さんの祭神論争への着目は、ちょうど明治以前と以後をつなぐ蝶番になっているのではないかと思います。彼らは外来の言葉ではなく、自前の言葉で論争を繰り広げたわけですよね。決してヨーロッパの政治学から演繹するのではない原さんの独自の政治学的な構えは、この論争から掴み取られているような気がしました。日本においては、論争で負ける側にいるほうが新しいロゴスを作り上げうる、あるいは作り上げてきたと私は考えています。「負ける」という経験は日持ちがするというか、しぶとく生き続けるものなんです。

原:私が初期に書いている本はじつはどれも敗者の側や劣位に置かれた側から思想史をとらえようとしたものなんですよ。たとえば最初に出した『直訴と王権──朝鮮・日本の「一君万民」思想史』では朝鮮王朝と日本を比較しました。朝鮮は日本に併合されて植民地になってしまったわけだから、敗者の側に立たされたことになります。その結果、日本は朝鮮に対して蔑みのまなざしを注ぐようになるのですが、当時の日本政治思想史では西洋や中国との比較の視点はあっても、朝鮮との比較の視点はなかった。私はそれが不満だったので『直訴と王権』を書きました。
 『〈出雲〉という思想』を出したあと、三冊目として書いたのが『「民都」大阪対「帝都」東京──思想としての関西私鉄』でした。大阪もまた、中央集権体制の確立した明治期以後、国家の中心である東京に対して劣位に置かれるようになった都市です。しかし東京よりも私鉄や新聞が発達することで、逆に大阪のほうが市民社会を確立していった。阪急の創業者の小林一三は慶應義塾出身ですが、彼は官位を断り民間の人として生きた福沢諭吉の思想を引き継ぎ、空間を通してその思想を実践していったのではないかと考えました。
 その次に『大正天皇』を出しましたが、大正天皇は当時、完全に見捨てられた天皇でした。あの頃、明治天皇、昭和天皇に関する本は山ほどあったけど、大正天皇について書かれたものは一冊もなかったんですよ。そういう意味では、大正天皇もまた歴史における敗者だと言えるでしょう。だから私と野口さんは共に、抹殺された側、負けた側、見捨てられた側にもう一度光を当ててきたわけで、お互いの関心は非常に近いところにあると思っています。

「空間政治学」の射程と可能性


野口:原さんのお仕事を最近読み返していて気づいたことが一つあります。原さんは「空間政治学」を提唱し、空間の側から歴史や政治について考えていらっしゃいますよね。鉄道などの交通の発達が日本の人々や社会にどのような影響を与えているのかを論じてこられていますが、その議論はじつは転向論に通じているのではないかと思いました。かつて鶴見俊輔は、『戦時期日本の精神史──1931~1945年』と『戦後日本の大衆文化史──1945~1980年』という一続きの本を二冊出しました。日本では戦時中までは「国体」のような観念装置が人々に強制力をかけ、「一億一心」の戦争体制に彼らを導いていった。ところが戦後、特に高度成長期以降になると、今度は状況が変わり、観念装置ではなく高速道路や高層建築、新幹線、カラーテレビのような物質装置が滑らかに人々の精神を変容させていく。そのように鶴見は、戦時期から戦後への日本社会の動態を、転向論の構えでとらえ返しながら議論を展開していったのですが、原さんの「空間政治学」もそこに連なるものなのではないかと思いました。

原:確かにそう言えるかもしれません。私が空間と政治に関心があるのは、政治は抽象的なものではなくて具体的な空間のなかで行われてきたからです。しかしそのことを言う人はあまりいない。だから私がやろうと思って、放送大学では2022年度から「空間と政治」というテレビ授業を担当してきました。たとえば、京都から奈良へ近鉄に乗って行きますと、大和西大寺を過ぎたところで復元された第一次大極殿が見えます。奈良時代に中国の都の太極殿をモデルとして作られたものです。儒教が支配イデオロギーとして根付いている中国を参考にして、「天子南面す」という儒教の考え方に基づいた朝廷の正殿を建立したわけです。
 しかし、大極殿は平安末期に燃えてしまいました。野口さんの本にも出てくる鴨長明が『方丈記』のなかで燃える様子を描いていますよね。大極殿は全焼し、それっきり再建されませんでした。なぜかというと、そもそもあの建築物はまだ天皇制が根付いていない頃に、天皇の支配を正当化するために作られたものだったからです。革命が起こらず、天皇の支配が続くことが自明になってくると、あんな大掛かりな建物をわざわざ作る必要はなくなります。それが平安時代でして、摂関政治や院政が行われ、天皇の譲位が常態化するなど、皇帝の終身在位が原則だった中国ではありえない政治形態が確立された結果、どこに権力があるのかはっきりしない日本的な王権ができあがる。大極殿という空間から眺めるとそのような歴史が見えてくるんです。
 ほかにも、たとえば江戸城の本丸御殿は全く法則性のない迷宮のような空間でした。どこが北でどこが南なのかわからないし、どこに将軍がいるのかもはっきりしない。とにかくごちゃごちゃと部屋がある。明らかに中国や朝鮮の帝宮や王宮のようなイデオロギーに基づく空間ではなかった。私はそういうところから歴史を見直さなければならないのではないかと考えて、「空間政治学」を提唱しているわけです。

アーキテクチャーに宿る思想をどう読むか


野口:鉄道というアーキテクチャーがじつは思想や学問に大きな意味を持つんだという話を、私は鶴見俊輔さんから直接聞いたことがあります。私は埼玉の高校から京都大学へ進学したのですが、それは鶴見さんや桑原武夫さんや多田道太郎さんがいた京大の学風に憧れたからでした。しかし、入ってみると彼らがいたのとは違う、官僚的な雰囲気が漂う場所になっていることに気づきました。私は非常に落胆したのですが、まだラッキーだったのは鶴見さんたちが当時は生きておられ、仕事をされていたことです。あるきっかけで鶴見さんと知り合うこともでき、京都大学がすごく残念でしたという話をしてみると、鶴見さんは京都の学問は新幹線ができる前と後とで大きく変わったとおっしゃっていましたね。東海道新幹線が1964年に開通すると、8時間くらいかかっていた東京―京都間が3時間弱で結ばれるようになった。それが京都の自律性のあり方に変容をきたす契機となり、京都大学の学風も変わってしまった。こういう話は『京都大学百年史』には出てこない種類のものだと思います。

原:おっしゃるように鉄道のようなアーキテクチャーは思想とつながっているものなんですよ。戦前の大阪は、都市計画で東京よりも進んでいると思われていた。たとえば宮内大臣の一木喜徳郎は、1929年に昭和天皇の大阪行幸に同行した際、新聞記者から大阪の感想を求められて、「都市計画の完備してゐるのは全く気持よく、大阪の人が東京へ行つたらむしろ田舎へ行つた様な気がするであらう」と話しています。そもそも大阪の都市計画は関一という学者の市長を中心に行われました。たとえば御堂筋は関が作った通りです。大阪では東西に走る通りを「通」と呼び、南北に走る通りを「筋」と言いますが、関の都市計画によって大阪は碁盤の目のように整然とした街並みになったわけです。1933年には御堂筋の地下に現在の大阪メトロ御堂筋線も開業しています。同線の淀屋橋や心斎橋などに見られる天井の高いホームは、東京の地下鉄にはないものです。
 先ほど少し触れた阪急電鉄の創業者である小林一三は、大阪行幸があった1929年に阪急百貨店を梅田ターミナルに作りました。阪急百貨店はターミナルデパートの第一号でして、「私鉄王国」の象徴でもあります。その頃には宝塚線と神戸線ができていて、大阪―神戸間を10分おきに特急が走り、25分ほどで両都市を結んでいました。これほど速い電車を走らせる私鉄は、東京にはなかった。だから一木が言ったことは大袈裟ではなく、インフラを中心にみると大阪のほうが圧倒的に進んでいたと言えます。
 小林は阪急を開業させる際、梅田駅を大阪駅の南側につくり、国鉄の線路をオーバークロスするルートにこだわりました。わざわざそうしたのは、「官」の象徴である東海道本線の上をまたぐことに固執したからです。小林が開業したときに作詞した「箕面有馬電車唱歌」には、「往来ふ汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋」という一節があるんですよ。ここがやっぱり小林のすごいところで、大阪では「民」のほうが「官」より上だということを視覚的に示すわけです。このようにして小林は、福沢の思想を受け継ぎ、空間を通して実践しようとしたばかりか、「官」出身の人間を阪急に入れず、国鉄との乗換駅も作らなかった。ここが東急の創業者である五島慶太との大きな違いでした。1930年代に入ると鉄道省から横槍が入り、大阪駅の改築に伴い東海道本線と阪急の上下関係を逆転させるよう求める通達に対し、小林は敢然と抵抗するものの、結局屈服します。大阪の東京に対する政治的従属を印象付ける出来事でした。

「下からの民主主義」と「下からの普遍性」


──原さんの『日本政治思想史』には「下からの民主主義」という言葉が、一方で野口さんの『列島哲学史』には「下からの普遍性」というキーワードが出てきます。日本の人々がみずからの切実さに基づいて、いかにして民主主義や思想を掴むことができたのか。あるいはできなかったのか。お二人の本はそれについて考えている点でも共通していますが、その問題が顕著に表れるのが憲法でしょう。戦後憲法についてお二人が現在、考えていることをお話しください。

原:日本が戦争に負けたことは、ある意味でチャンスだったと言えると思います。負けたことによって、欧米よりも深いところで民主主義を練り直すことができたはずですから。しかし、残念ながらそうはならなかった。私は現在、GHQ草案にもとづく憲法1条が戦後の日本でどう受けとめられたのかを考えるために、当時の地方で出ていた新聞や雑誌などを調べていますけれども、日本のあちこちで私擬憲法が作られた明治時代の初期とは違い、市井の人たちがみずから憲法を考えようとした動きはほとんど見当たりません。
 もちろん新憲法に対する不満の声はありました。天皇の権力をあまりにも制限し過ぎているのではないかとか、11月3日という明治節に新憲法の公布をぶつけてくるとは一体どういうつもりだとか。しかし議論は深まらず、1946年2月から昭和天皇が全国各地を行幸し始めると日本列島は熱狂に包まれていきます。憲法の問題なんてみんなすっかり忘れ、天皇との一体感が次々と醸成されていった。共産党員ですらその熱狂に巻き込まれていきました。敗戦は日本の思想を作り直す絶好の機会だったのに、天皇が生み出す熱狂がそれを奪ってしまった。戦前同様の「君民一体」の光景を再現できただけで満足してしまったのです。そのことの意味をもう少し突き詰めて考えるべきではないかと考えています。

野口:原さんに、温泉と政治の関係をめぐる仕事がありますが(『戦後政治と温泉──箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間』)、それを受ける形で私の考えをお話しします。戦後すぐの段階では、吉田茂らが会議をする際には箱根や伊豆の温泉を使い、温泉地がそのまま政治空間となっていたのが、60年代になると会議の場所が軽井沢に変わっていく。その実態を原さんは克明に掘り下げておられましたが、温泉に着目されたのは慧眼だと思いました。温泉地で政治家が会議をするのは、敗戦後に日本が身ぐるみ剥がれた状態で話し合うことでもあり、もう一度裸からやり直す感覚がトップの人たちにさえあったことを物語るものでしょう。そうした感覚がいつ、なぜ失われたのかは考える値打ちのある問題だろうと、原さんのご本を拝読していて思ったのですね。
 そのことに関連して、一つ興味深い事例があります。石川三四郎というアナーキストがいますね。幸徳秋水らの平民社に加わったのち、大逆事件のあとヨーロッパに亡命し、大杉栄の死後は日本のアナキズムの中心人物の一人となった人です。その石川が1946年に「五十年後の日本」という近未来小説を書いているんですが、1996年に世界中の人類学者が、まさしく箱根の小涌谷の温泉で裸になって国際会議をするという内容なんですよ。

原:ええっ、そうなんですか? それは知らなかった。

野口:筑摩書房の近代日本思想大系第16巻『石川三四郎集』に入っています。つまり、吉田茂のような宰相と無政府主義の社会運動家である石川三四郎という、いわば両極に立つ人間が、敗戦後の日本社会をどう作るか、裸一貫の状態で考えようとしていたことになる。この感覚が終戦直後の日本にはあったはずですが、原さんが示唆されたように次第に失われていく。初めに憲法ありきで考えるようになってしまいました。それだと、教育勅語を重んじていた戦前と変わりません。その姿勢は現在にまで続いていますが、もう一度起点としての「ゆるさ」を取り戻さないと、私たちはいつまで経っても深く考える力を身につけられないと思います。
 私に『列島哲学史』を書く力を与えてくれた一人に、折口信夫がいます。折口は国家総動員体制が敷かれた1938年に、日本の芸能および文学がどこから始まったのかという問いを立てて、「日本文学における一つの象徴」という論考を書きました。日本中が前のめりになり、あと戻りできなくなっているときに、彼は顔を背けて、スタート地点に立ち戻ろうとするしぐさを見せたわけですね。折口が示していたこのしぐさ、考える態度こそが大切なのだと思います。憲法であれ、民主主義であれ、世の中に流通している既成の考えを無批判的に受け入れるのではなく、もう一度ゼロから自分で考える。そうした思考の分の厚さ、柔軟さは、現在のような世界だからこそ、私たちに必要とされているのではないでしょうか。

──ありがとうございます。お二人の議論を重ね合わせることで、日本の思想について考える新しい鉱脈が見えた気がします。今回の対談を機に、日本とは何かを考えるコンテクストが切り拓かれたのなら、書評家として本望です。