20年前のある朝のことだった。テレビニュースに耳を傾けながら洗面所で髭を剃っていると、アナウンサーが読み上げるニュースに、「え?」と思って手がとまった。
「緊急ニュースが入りました。本日早朝、若い男が両親と見られる男女二人を包丁で刺しているのを近所の人が目撃し、110番通報しました。その後、二人は病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました。男も自宅近くの踏切から電車に飛び込み、即死したとのことです」
シェービングクリームのついた顔のまま、慌ててリビングルームに駆け込み、テレビに食い入った。画面には、上空からの事故現場映像が映し出されていて、「両親刺殺し、息子も自殺」とテロップが流れている。
どうやら部屋を移動するコンマ何秒かのあいだに、私は加害者の実名を聴き逃してしまったらしい。再度報じられることを願ってテレビの前で待ち構えたが、無情にもニュースは地方の町おこしイベントという牧歌的話題に切り替わってしまった。
その日の日中、私は不吉な胸騒ぎを抱えたまますごし、仕事帰り、矢も盾もたまらず何紙か夕刊を買い込んだ。一紙だけ事件を報じた記事があった。
「……目撃者によると、言い争う声が聞こえ、母親が家の外に飛び出した後、容疑者が包丁を持って逃げ回る母親を追いかけて刺したという。続いて、それを止めようとした父親の上に馬乗りになって腹部を刺した。容疑者は、大量の出血をして路上で倒れる両親を横にしたまま、しばし呆然と立ち尽くしていたが、まもなく自宅近くの踏切から、走ってくる電車に向かって飛び込んだ」
記事には、容疑者の名前が記されてあった。まちがいない。前年私が精神鑑定をした、強盗傷害事件の元被告人だ。そう、コンビニエンスストアで焼酎のボトル1本を盗み、その後、追いかけてきた店員の顔面を殴打して、全治10日間の傷害を負わせた、という事件だった。
鑑定書提出からすでに半年あまりが経過していた。実は、私たち精神科医は精神鑑定をしても、最終的な判決を知らされない。もちろん、弁護士や検察官が好意から個人的に教えてくれることはあるし、こちらから裁判所に働きかけて何らかの手続きを踏めば、知ること自体は可能なのだろう。だが、結審後、裁判所がわざわざ鑑定人に報告してくれるなんてことはまずない。
それでも、ある程度の推測はつく。判決が出てからまだ半年も経過していないはずだ。それなのに、もう地域に戻っていたという事実を踏まえると、刑務所収監でもなければ、医療観察法――2005年に施行された、重大な他害行為を起こし、心神喪失・耗弱とされた精神障害者の治療制度――による入院処遇でもあるまい。だとすれば、可能性は次のいずれかだろうか? つまり、刑事責任能力を認められたものの執行猶予判決となって釈放されたか、あるいは、刑事責任能力なしとして無罪判決後、検察官通報で措置入院となったものの、すぐに退院となったか……。
ここからはじめよう。今回は精神鑑定の話だ。
その頃、私は多くの精神鑑定を引き受けていた。当時の私は、研究所の司法精神医学研究部門に在籍しており、そのせいで鑑定依頼が多かった。そして、私自身も精神鑑定の修業を切望していたから、裁判所から依頼されれば、極力断らないようにしていたのだ。
幸い師にも恵まれた。私の同僚には、早くからわが国における司法精神医学の泰斗に師事し、同年代ながらすでに少壮の司法精神医学者としてその名を知られる男がいた。実際、彼の鑑定書の緻密な論理と明晰な文章を読むにつけ、「本物とはこういうものなのか」と心底唸らされた。
私は、彼を自身の「師匠」と勝手に思い定め、しばしば連れだって小菅の東京拘置所に出向いたものだった。当時、二人はいつも何らかの精神鑑定依頼を抱えていて、お互いに協力して相手の鑑定助手を務めるようにしていた。たとえば、午前と午後にそれぞれの鑑定案件の面接予定を入れ、手が空いている方が鑑定の助手として面接記録をとる、といった具合だ。
それだけではない。昼休みには、日比谷線で一駅移動して北千住駅周辺で昼食をとり、そして午後の鑑定を終えると、再び北千住でビールを飲む。そうした食事や飲酒の際には、反省会と称して、互いの鑑定内容をめぐって議論するわけだが、これが私にとって最高の修業になった。
師匠は物静かで、一つ一つの所作は優雅ですらあったが、ひとたび鑑定面接に入ると、スイッチが切り替わったように別人になった。エゴン・シーレの自画像を思わせる不遜な目つきで被告人をギョロリと見据え、その表情には殺気さえ漂った。そして被告人に対して、「え? いきなりそれ聞く?」と、精神科臨床医ならば躊躇するようなあまりに直球的質問を、表情一つ変えずにぶつけるのだ。そのさまは、躊躇なく人を刺す殺し屋に似ていなくもなかった。
当然、忌憚のなさすぎる彼の質問に対して、被告人が怒り出すこともあった。あるときなどは、被告人が不意に立ち上がり、スリッパを投げつけてきた。その際の彼の身のこなしはいまでも記憶のなかで鮮明だ。彼はまったく慌てずに、ただ首を少し傾げてスリッパをかわしたかと思うや、同時に背後の壁にあるブザーボタンを押していたのだ。まるで相手のパンチをかわしてカウンターを決める、俊敏なボクサーのような動きだった。すると、ブザーを聞きつけた刑務官数名がすぐさま面接室になだれ込み、被告人はあっという間に取り押さえられ、制圧されてしまった。
その日の反省会で知ったのだが、ときに忌憚なく、ときに執拗になされる一連の質問は、どうやら意図的にやっているらしいのだ。
「被告人の易興奮性を評価する必要があるからね」
彼は事もなげにそうつぶやくと、ビールのグラスを口に運んだ。
私は改めて、鑑定面接は、自分がこれまでやってきた精神科診療とはまったく次元の異なるものであることを思い知らされたのだった。
ところで、なぜ当時の私は司法精神医学に関心を持ったのか? 薬物依存症を専門としていれば、精神科医療と司法機関とを行き来する患者と多数遭遇するから、精神医学と刑事司法の境界領域に関心を抱くのは必然――公式にはそう説明してきた。
もちろん、まちがいではないが、それだけではなかった。実は、自分にとっての最初の精神鑑定体験――より正確にいえば、鑑定書提出後に法廷で体験した悔しさが、心の底で燠火のように赤黒く疼いていたからだった。
私が初めて精神鑑定を経験したのは、鑑定修業時代のさらに2年前、まだ大学病院に勤務していた頃に遡る。それまでも検察庁から依頼を受けて起訴前簡易鑑定をした経験はあったが、裁判所から命じられる本格的な精神鑑定――2009年の裁判員制度導入以前は、著書一冊分に匹敵する膨大な鑑定書を作成するのが常だった――についてはまったく経験がなかった。だから、裁判所から打診があった際、自身の経験値を高めたいという前向きな気持ちで引き受けたのだ。
もっとも、担当した事件そのものは、ドヤ街の同じ簡易宿泊所の居住者から現金20万円ほどを盗んだ、というショボいものであった。まあ、初心者にはむしろそのくらいの方がありがたい。当初、検察庁が「刑事責任能力あり」として起訴したわけだが、裁判が始まると、被告人側の弁護士がそれに異を唱えて精神鑑定を要求し、裁判官がそれを受け容れたのだ。
被告人は痩せ細った初老男性だった。初回の鑑定面接の際、訪れた私を歓待して迎え入れ、その様子はいかにも「田舎によくいる、気さくな爺さん」という感じだった。そのせいか、当初は、「こんなにもふつうの爺さんを、なぜいまさら精神鑑定などするのか」と訝しんだほどだ。
しかし、まもなく私は違和感を覚えることとなる。身柄を拘束され、現在、刑事裁判中の身であるというのに、なぜか上機嫌で、いささか饒舌すぎた。軽佻というか、とにかく深刻味がなさすぎるのだ。しかも、ところどころ、真偽不明の「武勇伝」的昔話が混じっていて、いかにもあやしい。
彼が抱える問題に気がつくのに、さして時間はかからなかった。なにしろ、生年月日は正確に答えられるのに、肝心の自分の年齢については曖昧にはぐらかし、面接時の日付や曜日に関しては明らかに当てずっぽうに答えているのだ。また、面接中、何度伝えても私の名前を覚えないばかりか、いくら説明しても私のことを弁護士と勘違いし続け、しかも、彼自身が語る人生の来歴が、少なくとも中年期以降、いかにも作り話めいた荒唐無稽な冒険譚になってしまっている。何より深刻なのは、彼は逮捕直後から一貫して「人の金なんて盗んでねえ」と犯行を否認していることだった。決してとぼけているのではなかった。単に犯行自体の記憶がないせいだったのだ。
記銘力障害、見当識障害、作話――まちがいない、コルサコフ症候群だ。
裏づけはあった。裁判所に要請して取り寄せた医療機関の診療録には、40歳以降、アルコール性の肝炎や膵炎で何度か内科入院をした記録があり、一度などは、入院中に幻覚を訴えて暴れ出し、身体拘束まで受けている。おそらくアルコール離脱による振戦せん妄だったのだろう。
さらに50歳時、彼は酒浸りの生活のはてに、ある日、単身生活のアパートで昏睡状態に陥った。幸い偶然知人に発見され、総合病院へと緊急入院した。そして一両日の後、意識を取り戻したまではよかったが、その瞬間から彼は別人になってしまった。というのも、その日朝食をとったことも午前中のうちに忘れ、何度説明しても自分が病院にいることを理解できなくなったからだ。おそらく彼は、アルコール依存症に起因するビタミンB1欠乏によってウェルニッケ脳症を発症し、意識回復後はその後遺症、コルサコフ症候群へと移行してしまったのだろう。
頭部磁気共鳴画像検査は重要な傍証を提供してくれた。大脳皮質の容積こそ保たれてはいたものの、第三脳室と側脳室下角が拡大していて、それは海馬領域の脳組織に限局した萎縮を推測させた。つまり、アルツハイマー型認知症のように大脳皮質がまんべんなく萎縮するのではなく、記憶中枢の海馬だけがピンポイントに障害されているのだ。そのせいで、内的な時間は止まったままなのに、表面的な受け答えはふつうにできるし、食事や買い物といった最低限の生活スキルは保たれていたのだ。コルサコフ症候群の画像所見として矛盾はない。
私は次のような鑑定結果を提出した。
「被告人は、50歳頃にコルサコフ症候群に罹患し、その症状である記銘力障害と見当識障害は現在も続いている。したがって、本件犯行当時、被告人は自らが置かれている状況を理解し、計画的な見通しをもった生活ができない精神状態にあり、真の意味で是非善悪を弁識し、その弁識に従って行動を統御する能力が失われていた」
これは、心神喪失相当を示唆する表現だ。
鑑定書提出からおよそ1カ月後、私は法廷に証人として召喚された。そう、証人尋問だ。
証人尋問を1週間後に控えたある日、突然、検察官から職場に電話がかかってきた。
「いまお時間いいですか? 鑑定書、拝読させていただきました。実はですね、尋問当日、こちらの想定質問を事前にお伝えしておいた方が、尋問が円滑に進むかと思いまして」
私は検察官の親切に感謝し、快く応じることにした。検察官の質問に従って、私は素直に自分の考えを述べ、コルサコフ症候群について滔々と語った。検察官は、「なるほど、これでは責任能力は問えないですね」と納得した様子だった。
いま思えば、私はあまりにもうぶすぎた。私は無邪気にも、「法廷は戦場ではなかった。むしろ、さまざまな専門家がチームを作り、被告人と原告のためにもっともよい決定を真摯に考える場所なのだ」などと、「お花畑」な美談に酔いしれていた。
もちろん、法廷はそのような場所ではない。そもそも今回、裁判過程で精神鑑定が要請されたのは、起訴を決めた検察官の判断に疑義が生じている、という意味でもある。検察官にとってこれほど不名誉な話はなく、出世にだって影響しかねない。必死になるのは当然だろう。
結局、私は検察官に手のうちをすべて見せてしまったのだ。尋問当日、検察官は想定質問として私に提示したものを何ひとつ質問せず、まったく予想外の観点から質問攻めにしてきた。「やられた」と気づいたときにはもう遅かった。考えてみれば、裁判官や検察官、そして弁護士といった法曹界の人々はみな「口喧嘩のプロ」なのだ。しがない臨床医がかなう相手ではない。
法廷で、検察官はとぼけた顔で証言台の私を見下ろしながら、こう突っ込んできた。
「たとえ記憶が蓄積しなくとも、その瞬間における是非善悪の弁識は可能ではないでしょうか?」
ここでもったいぶってわざと間を置き、やがておもむろにこういった。
「同じ宿泊所で暮らす住人の証言によれば、なんでも被告人は、事件前、東北地方にある自身の故郷に帰りたいのに電車代がない、とこぼしていたそうです。この電車賃を入手する、というのは、かなり明確な犯行動機になると思いますが、その点はいかが思われますか?」
了解可能な動機の存在は、被告人の有責性を判断するうえで重要なポイントだ。どうやらこの検察官、意地でもこの被告人の有責性を証明し、刑務所にぶち込みたいらしい。だが、犯行の記憶すらないこの老人を刑務所に収容して、一体何を反省させるのだろうか?
私は、腹の底からどす黒い怒りがこみ上げるのを感じながら口を開いた。
――了解可能な動機があるからといって、物事の善悪を判断する能力があるとはいえないと思います。「いまこの瞬間」の記憶が蓄積せず、一瞬ごとに現在が白紙にリセットされてしまう人にとって、何らかの動機にもとづく瞬間の判断というものは、本能的、動物的な反射にすぎません。もしも、それもまた弁識能力というのであれば、犬猫にも弁識能力があるということになります。
どうやら私の発言が検察官の何かに火をつけてしまったらしい。
「犬猫と同じとは、穏やかではない表現ですね。さまざまな証言から彼は金銭の勘定が得意であったことがわかっています。お金の計算は、犬猫にはできない知的作業ですよ」
そういうと検察官は、矢継ぎ早に不愉快な質問を浴びせかけてきたのだ。まず、精神鑑定はこれまで何例経験したことがあるか、精神鑑定の指導は誰から受けたか、精神科医はふつうに臨床をやっていれば司法精神医学のことがわかるのか……云々。
続いて今度は、私が提出した鑑定書の誤字脱字を執拗に指摘しはじめた。なかでも、「記銘力」を「貴名力」と、「作話」を「割くわ」と誤記したタイポについては、それぞれ3回にわたって取り上げ、その都度、わざとらしく「一体どういう意味でしょうか?」と質問してきたのだ。
背後の傍聴席から失笑する声が聞こえた。要するに、検察官は、私が鑑定人としてふさわしくないことを印象づけ、鑑定結果の信憑性を損なおうとしていた。その目論見がある程度成功したことは、傍聴席の失笑からも明らかだった。
証人尋問が終わり、裁判所を出たときには午後5時だった。私は疲労困憊し、視界に映るすべてのものが霞んで見えた。尋問は午後1時から始まり、途中30分休廷したものの、正味3時間半、ずっと私は証言台の前で苛烈な「言葉責め」に晒され続けていたわけだ。
これが私にとって最初の精神鑑定体験だった。確かに誰からも指導を受けておらず、不備も多々あったろう。それでも、その時点における自分のベストだった。
このままでは終われない。それが、私が司法精神医学に関心を持った最大の理由だった。
コンビニ強盗傷害事件被告人との初対面は、地方にある拘置所の狭く暗い接見室で行われた。そのとき私たちは、声を通すための穴があいたアクリル板越しに相対していた。霜降りグレーのスウェット上下を着た彼の姿は、本当にどこにでもいる、これといった特徴のない青年に見えた。
面接開始時、鑑定人として最初の挨拶をすると、彼は「あ、そうですか。どうも」と、実に愛想のない、ぶっきらぼうな返答をした。
――ここでは毎日、何をして時間を過ごしているの?
私がそう尋ねると、
「ぼぉーっとしてますね。たまに本とかも読みます」
すでに私は、裁判所から送られてきたダンボール箱いっぱいの事件調書に一通り目を通していた。そこには、警察や検察での取り調べ、あるいは裁判での供述、戸籍謄本や小・中学校時代の通知表、在籍する大学の教員やカウンセラーの証言などがあり、一応、彼のこれまでのおおよその来歴は把握できていた。
最初のうち、愛想のなさを別にすれば、彼はふつうの青年だと思った。しかし、長く質疑のやりとりを続けていくうちに彼は警戒心を弛め、次第に奇妙な信念の存在が明らかになっていった。
私は、コンビニ強盗事件の1カ月前くらいから彼があちこちで万引きをくりかえしていた、という事実を取り上げてみた――なぜそんなことをしていたのか、と。
すると、彼はこう答えた。
「捕まえて欲しかったんですよ」
――捕まえて? なぜ?
「集団ストーカーを受けていたんです。苦しくて親に相談したけれど、親が信じてくれなかった」
――集団ストーカー?
「「音声送信」をしてくるんです。俺の頭に直接入ってきます。「キモイ」「クサイ」「死ね」という声です。一方的に送られてきます。男の声と女の声が混じってて。だから、この音声送信から逃げるために、捕まえて欲しいと思ったんです。警察に捕まって留置所に閉じ込められれば、さすがにそこまでは音声送信も来ないと思ったんです」
「親や大学の学生課にも相談しました。でも、「そんなの聞いたことがない。対処のしようがない」と呆れられて。誰も助けてくれないなら、警察に逮捕されるしかないと思って」
――でも、だからといって盗みっていうのは、さすがにまずいと思わなかった?
「悪いとはわかっていますが、それでも、状況によっては許されると思います。たとえば、モラル・ハザードが起こったときとか」
――いまこうして、かつて望んだ通りに逮捕され、閉じ込められているわけだけど、音声送信は止んでいる?
「結局、留置所でも拘置所でも音声送信はひどいです。完全に当てが外れました」
彼はそういってうなだれた。
幼少時、彼は将来を嘱望される子どもであった。きっかけは、小学校時代、知能検査で同学年者の上位1パーセントに入る得点を挙げたことだった。担任教師からそれを知らされた両親は狂喜し、息子の将来に期待を寄せた。そのせいで、彼に厳しく勉強を強いた時期は確かにあったという。
しかし、彼の勉強意欲は気まぐれで、関心が持てないことの勉強は頑なに拒み、しかも、そうした傾向は年齢とともに強まった。結果として、小学校時代こそ何とか上位の学業成績を保っていたものの、中学入学以降、年々成績は下降し、最終的にはかろうじて中位という感じだった。その頃になると、両親はもはや彼の学業成績に過大な期待はしなくなっていた。
生活が大きく変化したのは高校時代だった。高校2年生より不登校となって、学校はおろか、外出さえしなくなった。そして、両親と顔を合わせるたびに、過去の勉強強要に関して恨みごとを訴え、執拗に責め立てるのだ。親からしてみれば、それはあたかも、「借りた覚えのない借金の返済を迫られる」ような感覚だったが、うっかり抗弁しようものなら、壁を殴る、蹴るといった粗暴行為に発展する。事実、新築まもない自宅は、内装だけが早くもぼろ屋敷のようになってしまっていた。
両親は腫れ物に触るようにして彼と接するしかなかった。もちろん、さまざまな精神科医療機関を訪れて助けを求めたが、精神科医は「本人が受診してくれないことには……」とにべもなかった。直接、彼に精神科受診を提案したこともあったが、「俺を精神病院に入れようとしているのか」と激昂し、家の壁に新たな穴が増えただけだった。
ところが、ひきこもり生活が3年目に入った頃、彼は突然変化した。大学に進学したいといい出したのだ。「どういう風の吹き回しか」と訝しみつつも、両親は協力を惜しまなかった。すでに高校は中退していたので、まずは高卒認定の資格を取得するところからはじめねばならなかったが、彼もそれなりに頑張って、せっせと予備校に通ったり、模擬試験を受けたりしていたという。
受験はほぼ惨敗といってよい結果だったが、唯一、合格した大学があった。通学に2時間半あまりを要する遠方の大学だ。もしも入学するとなれば、一人暮らしをするしかない。
両親は、彼の一人暮らしに不安を覚えたが、一方で安堵する気持ちもあったという。というのも、彼の不機嫌や暴力、暴言――突然激昂し、「殺すぞ」などと穏やかならざる言葉を吐く――に圧倒され、脅え、すっかり疲弊していたからだ。
いまにして思えば、長いひきこもり生活からいきなりキャンパスライフというのは、いささか急すぎる展開だったのかもしれない。事実、入学して最初の1カ月をすぎた頃、早くも彼の精神は軋みはじめた。きっかけは、彼が一念発起して参加したあるサークルの飲み会だった。
鑑定面接の際、彼はその飲み会についてこう述懐した。
「予定された時間より早く会場に着いたつもりだったんですが、実際にはもう飲み会は始まっていて、なんだか自分ひとりだけが遅刻したみたいに扱われたんです。それで、「あ、俺はハブられてるな」と思いました。飲み会の最中だって、こっちから話しかけても無視するくせに、あいつらは気まぐれに話しかけてくるんです。コソコソ悪口いってるのも聞こえました。「臭う」とか「臭い」とか。そのくせ、急に近寄ってきて、「よっ! がんばれ」とか声をかけてくる。絶対に嫌がらせです」
父親は、これ以降、彼の様子が大きく変化したと証言している。彼が大学に入学してからというもの、父親は、隔週ごとの週末には、車を飛ばして彼のアパートを訪れるようにしていた。すると、5月中旬以降、部屋の様子が異様になったというのだ。特に驚いたのは、家電製品のコードがすべて切断されている状況――飯も炊けなければ、テレビも観ることができない。部屋の照明もつかず、夜間は懐中電灯ですごしている――だった。
父親が彼に問い質すと、「電気コードを使って「音声送信」してくるから、すべて遮断する必要があるんだよ」と不機嫌にいい放ったという。
その頃から、彼は実家に電話をかけてきては、しきりとこう訴えるようになった。
「風呂場が臭う。その臭いが身体にも染みついて、学校で「臭い」といわれる。どうにかしてくれ」
心配になって、次の週末、父親は予定を前倒しして彼のアパートを訪れた。ところが、風呂場は異臭などまったくせず、それなのに、部屋のあちこちに消臭剤が置かれた光景に面食らったという。彼には幻聴だけでなく、幻嗅――嗅覚領域の幻覚体験――もあったのかもしれない。
やがて被告人の異常な言動は大学内で顕在化する。5月下旬のある午後、彼は全裸で大学構内を走り抜けるという事件を起こしたのだ。
このことについて、彼は後に鑑定面接でこう述べている。
「決して好きでやったわけではないです。大学で同級生とすれ違ったとき、何かいわれた気がしたんです。「マッパ」って聞こえました。「そうか、これは真っ裸という意味か」と合点がいき、「きっと自分の未来を先取りする予言、決して逆らってはいけない」と思ったんです。それで、意を決して、裸で大学の構内を走りました。走るしかなかったんです」
この事件を機に、大学側は彼に、学生相談室でカウンセリングを受けるように指示した。
「俺は完全に陥れられました。敵はサークルの仲間や同級生だけじゃない。大学全体、いや、世界全体が俺を憎んでいるのがわかったんです」
この日、彼は復讐を決意したという。コンビニ強盗傷害事件の1週間前のことだった。
事件の前日、彼は両親に宛てて「死ね」と短いメールを送った。メールを受けとった両親は、まさに心臓が凍りつく思いがしたという。父親は母親に一緒に彼のアパートに行こうと誘ったが、母親は怖がって強く拒んだ。やむなく父親は単身で彼のアパートを訪れることにした。
部屋は、海底に沈んだ難破船のように荒廃していた。拳で殴ったのか、壁のあちこちにクレーターができていて、部屋の中央には大きなポリのゴミ袋が置かれ、そのなかには、電化製品や時計、さらには教科書や漫画本、衣類といった一切合切が詰め込まれていた。
彼の様子も尋常ではなかった。不気味な空笑を浮かべ、まるで誰かと会話しているかのようなひとり言に没頭し、目の前で父親が話しかけても反応しないのだ。父親は、直感的に「息子に殺されるかもしれない」という恐怖感を覚え、逃げるようにして彼のアパートを後にしたという。
そして翌日の午後、彼はコンビニで強盗傷害事件を起こしたのだった。
鑑定面接の際、私は事件の動機に関して何度か質問をしている。
――なぜその日、コンビニに行ったの?
「お酒を飲みたかったんです」
――なぜお酒を飲みたいと思ったの? 飲酒習慣はなかったはずだよね?
「急性アルコール中毒で死ねたらいいと思った。なんかもう自暴自棄で。人生、もうどうでもいいやという感じです。とにかく酒に溺れたかった」
――お酒を買うためにコンビニに行ったの?
「最初から盗むつもりでした」
――そのときには例の「音声送信」はあったの?
「ありました」
――あなたが焼酎を盗むとき、「音声送信」は何かいってきた?
「「おい待て」といってきました。見知らぬ男の音声ではっきりと」
――その声を無視して、盗むことを決断したわけ?
「そう、音声に抵抗しました。いつも音声を無視しよう、抵抗しようと気合いを入れてきたから、そのときも、「音声に逆らうのが正解」と思ったんです」
――でも、逆らうと盗みをすることになるんだよね?
「たぶん。でも、「社会人としての死」こそが正しいと思いました」
――社会人としての死?
「ええ、人々の記憶から葬り去られるという……」
――その際、逮捕されて警察の留置所みたいなところに逃げ込めば、「音声送信」を遠ざけることができるという考えはなかったの?
「もちろん、それも考えてました」
――それなのに、店員が追いかけてきたら、最初、あなたは逃げたよね?
「ええ、すごい勢いで追いかけてきて、それを見たら、「やっぱり捕まりたくない」と思いました」
――追いかけてきた店員を殴ったときの心境は?
「なんで俺ばかりこんな目に遭うのかと思いました。前の晩、父親が帰らないでいてくれたら、こんなことしなくてもよかったのに。それで、「あ、そうか」って確信したんです。前から薄々感じていたんですけど、やっぱり親もあの「音声送信」してくる集団ストーカーの一味だって」
――ところで、こんなふうに自分ばかりひどい目に遭うのは、周囲の悪意ではなく、あなた自身の病気のせいかもしれない、と考えたことはある?
「それはないです。俺は病気ではないです」
一般に精神鑑定では、次の三つの事項に関して裁判所への回答が求められる。第一に、現在および犯行当時に罹患していた精神疾患の診断名、第二に、その精神疾患と犯行との関係だ。そして最後に、「その他の参考事項」として、今後の処遇に関して意見を言い添えることができる。
まず、精神疾患の診断名についてだ。精神科医ならば、彼に「統合失調症」なる診断名を与えるのに異を唱える人はいないだろう。
問題は精神疾患と犯行との関係だ。重要な着眼点の一つは、違法性の認識――つまり、本人が自身の行った犯行を「違法なこと」「悪いこと」と自覚していたかどうか――だ。たとえば、ある殺人犯が、「宇宙人の侵略から地球を守るために、やむをえず宇宙人を殺した」と確信している場合、その人は違法性の認識を欠いている可能性がある。
彼の場合はどうか? 盗みは自身の社会的死を求めて行われ、また、店員から逃げようとするあたり、「悪いこと」との自覚がうかがわれる。違法性の認識はあったといわざるを得ないだろう。
では、もう一つの着眼点、動機の了解可能性はどうか? これについては了解可能とはいいがたかった。かねてより彼は、幻聴から逃れるために「逮捕」を求めて万引きをくりかえしてきたが、これは通常の心理では理解しがたい動機だ。ちなみに、犯行は決して「幻聴の命令に従う」という直接的な影響下でなされたわけではないものの、必死に命令に抗ったという意味では間接的な影響下にあり、他の行為を選択する余裕を失っていたといえる。
以上を総合的に考えて、私は、三つの質問のうち二つについて以下のように回答した。
「被告人は、本件犯行時および現在も統合失調症に罹患している。また、犯行当時、被告人は罹患する統合失調症の影響で、是非善悪を弁識する能力を障害されており、しかも、その弁識に従って行動を統御する能力が著しく障害されていた」
これは、暗に心神耗弱水準を示唆する表現のつもりだった。
だが、精神科臨床医としてもっとも気になるのは、残る最後の質問、「その他の参考事項」の方だ。当時、私は師匠に相談したのを覚えている。例の反省会でこう質問してみたのだ。
――医療観察法は無理ですかね? だって、被告人には病識がないし、ご両親はいろいろと手を尽くしつつも、いまや本人に脅え、恐怖に圧倒されている状況です。もはや両親には彼を治療につなげ、治療を継続させる力はないと思うんですよ。
「それはそうだけど、医療観察法は難しいんじゃないかな」
師匠は悩ましげに眉を寄せた。
師匠によれば、医療観察法が想定する他害行為とは、殺人や殺人未遂、強姦といった重大犯罪であり、傷害に関しては微妙だった。明確な基準はないものの、一般的には全治数週間以上、あるいは日常生活に支障が出るような程度の傷害が想定されている、というのだ。
「顔面殴打で全治10日間といった程度では、制度の運用上難しいと思うよ」
私は諦めがつかなかった。
――そうすると、ふつうに無罪とか起訴猶予とかで釈放されて、そのまま検察官通報による措置入院? でも、それだとすぐに退院してきて、また同じことのくりかえしですよね?
「措置入院中の治療で、どこまで被告人の病状が改善するか、そして心理教育を通じて多少とも病識を持てるかにかかってるんじゃないかな」
――いっそ有罪判決で刑務所に入った方がいいんですかね?
「いや、刑務所といっても、精神疾患を抱えている人の場合、医療刑務所か、一般刑務所の独居房だよね。そうなると、仮釈放というかたちで保護観察所が地域生活を見守る機会がないまま、刑期満了でいきなり地域に放り出される。何も変わらない。だったら、最初から措置入院させて、入院中に退院後の地域支援体制を考えてもらった方がいいんじゃないかな?」
結局、既存の選択肢に正解はなかった。こうなったら、両親の孤軍奮闘に頼らない地域支援体制をいかにして構築できるか、証人尋問の際に法廷で議論してもらうしかない。
実は、あの苦々しい初証人尋問以降、私は、法廷召喚前には必ず師匠と予行練習をするようになっていた。そのおかげで私は、検察官から悪意ある突っ込みをされても、しどろもどろになって黙り込んだり、ブチ切れて感情的に反論したりしなくなった。それどころか、「質問の趣旨がわかりません」「誘導的な質問と感じられますが?」と冷静な憎々しさで切り返すこともあった。だから、まさしく「バッチこい」という気分だったのだ。
そこで、裁判に一石を投じるべく、異例を承知で、「その他の参考事項」欄に不吉な予言めいた文章を書くことにした。
「なお、本件犯行が社会的死を意図して実行された点に注意する必要がある。このように犯行が自殺の等価行為としてなされている場合、被告人の主観的苦痛が解決されなければ、今後、再犯もしくは自殺が生じる可能性は高い。特に、被告人が家族に理不尽な恨みを抱いている現状を考慮すると、最悪のシナリオとして、家族を殺害して自らも命を絶つといった拡大自殺が、将来起こらないともかぎらない」
しかし、世の中は思い通りにならないものだ。かくも人騒がせなことを書いたにもかかわらず、なぜか今回にかぎって証人尋問の要請がなかった。はたして裁判所は、被告人や家族の未来について真摯に考えてくれるのだろうか?
落胆する私を見かねた師匠はこういった。
「そこまで悩んだり責任を感じたりする必要はないよ。鑑定人は主治医じゃない。あくまでも専門家として、裁判官の公正な判断に資する情報を提供するのが仕事。そこはわきまえないと」
その後、私は慌ただしい日常に忙殺され、次第に事件のことを忘れていった。そんな矢先に、あの朝、惨劇のニュースという不意打ちに遭ったのだった。
あのニュースを知ってから数日間、衝撃のあまり私は夢遊病者のように生活していた。あまりにも多くの感情が飛来し、しかも、それぞれが相殺し合った結果、頭のなかは真っ白になった。
後からならば何とでもいえるが、いま思えば、あのときの最適解はやはり医療観察法による入院処遇だったと思う。ただ、当時施行されたばかりの医療観察法は、精神障害者に対する過剰な人権侵害として一部から強い批判に晒されていた。その批判にはもっともな面があった。なにしろ、心神喪失・耗弱として刑事司法制度から除外されるにもかかわらず、裁判所と保護観察所の監督下で、長期にわたる地域支援体制が緊密に作られてしまうからだ。しかし、稀ではあるが、そうでもしなければ守ることができない命もある――そう、彼とその両親のように。
以来、私は精神鑑定を引き受けていない。あの惨劇のせいで精神鑑定に懲りた、という意識はないつもりだ。単純に割に合わない仕事だからだ――少なくとも自分ではそう認識している。なにしろ、精神鑑定には多くの時間と労力を要するが、それでいて、その経験は精神科医としてのキャリアアップにもつながらなければ、研究業績にもならない。
確実なのは、私のなかで精神鑑定への熱が急速に冷え込み、萎んでしまった、ということだ。それには、私が司法精神医学部門から他部門に異動したこと、それから、まもなくして師匠もまた研究所から大学の教員へと転出したことで、彼と顔を合わせる機会がなくなったことも関係していると思う。いずれにしても、わが修業の季節は終わったのだ。
それでも、となおも私は思うのだ――ある時期、精神鑑定に従事する経験を持つことは、一人前の精神科医になるうえで欠かせない修業である、と。
なぜか? 何よりもまず、すべての人間は膨大な物語のなかで生きている、というあたりまえの事実を思い知る機会になるからだ。実際、精神鑑定をするたびに、私はいつも鑑定対象者とその周囲の人たちが抱える物語に圧倒され、めまいを覚えた。加害者の親とそのまた親の来歴、両親の出会いと結婚、親が子の名前に込めた思い、同胞、友人、元恋人、はては恩師や上司の証言、さらには、被害者の生い立ちやその家族に関する情報……などなど。
さまざまな人々、さまざまな視点から収集された情報には、おびただしい数の夢や欲望が渦巻いていて、同時に、それが叶ったり叶わなかったりする容赦ない現実がある。時の流れのなかでそれらは合流し、絡み合い、事件へと向けて伏線を回収しながら大きな濁流となって、宿命のように一人の人間を呑み込んでいく――鑑定のたびに、そんなイメージが脳裏に浮かんできたものだ。
たとえば、わが初鑑定の相手、あのコルサコフ症候群の男性もそうだ。かつて故郷で秀才の誉れ高かった彼は、とりわけ計算が得意で、そろばん全国大会で賞をとったこともあった。それだけに、経済的事情から進学を断念した彼には、上京にあたって一発逆転的な野心があった。
だが、夢は破れた。彼は職を転々としたものの、自分の能力を発揮できる場所を見出すことができなかった。加えて、30代後半、妻が身ごもっていた胎児を妊娠9カ月で死産して以降、夫婦関係がギクシャクしはじめ、ついには離婚となった。彼の痛飲が始まったのはその頃からだ。要するに、人が何かに耽溺するのには相応の同情すべき理由がある、ということだ。
最終的に彼は日付と場所の感覚を失い、酒への嗜好さえ忘れ、時間がとまった内的世界――暗闇で同じ場所を延々徘徊し続け、一周し終えるたびに、まるで砂時計がひっくり返されるように一周した記憶が消去されてしまう世界――へと投げ込まれた。それでも不思議と子ども時代に培ったスキルだけは失われず、だから周囲は、「あの人は金銭の勘定だけはいつも正確だった」と証言したのだ――もっとも、そのことが、検察官にとっては彼を起訴する際の根拠となったわけだが。
けれども、精神鑑定から学ぶべきもっとも大切なことは、案外、精神医学の無力さなのかもしれない。つまり、どれだけ修業を積もうとも、私たち精神科医は予言者には到底なれない、ということだ。なるほど、私は鑑定書において最悪なシナリオに言及した。しかし、そんな私でさえ心のどこかで、「まさかさすがにそれはあるまい、そんなことが起きるのはそれこそ小説の世界だけだ」と高を括っていたのだ。だが、いうまでもなく、「事実は小説よりも奇なり」だった。
編集部注:本連載では、登場人物の匿名性を保つため、プロフィールの細部に変更を加えています。