みすず書房

「石が仕合せな女となる事を私達は望んでいる」

――志賀直哉「流行感冒」(1919年)

「石が仕合せな女となる事を私達は望んでいる」

私の友人知人のあいだで最初に新型コロナウイルスに感染したのは、俳優の石田純一さんだった。仕事で沖縄に出張し、東京にもどってすぐに体調を崩して入院、PCR検査で感染が判明したのだという。さっそくニュースにもなった。2020年4月中旬のことである。

この時期、年初からの中国・武漢市のパニックと世界各地への感染拡大、WHO(世界保健機関)の緊急事態宣言を経て、日本でも大型クルーズ船からはじまって、高齢者施設、病院、屋形船などの遊興場所等々、あちこちで集団感染が起きていた。そのたびに〝失われた30年〟下、日本じゅうで人員も施設も予算も削られた公衆衛生部門の機能不全も露呈した。

それを埋め合わせるように、〝ステイホーム〟〝3密回避〟、飲食店・劇場・映画館などの〝営業自粛〟のかけ声が大きくなった。やがて、コメディアンの志村けんがコロナ感染による肺炎で死去したことが報じられた。安倍晋三政権(当時)は東京オリンピック・パラリンピック2020の1年延期、全国一斉休校に加えて、のちに笑いものにも政権の命取りにもなった〝アベノマスク〟の全世帯2枚ずつの配布を打ちだす一方、首都圏など7都府県に緊急事態を宣言し、その後、対象を全国に拡大した。

エッセイ集などの著書もある石田さんは日本ペンクラブの会員である。安倍政権が集団的自衛権行使容認や日米軍事同盟強化に踏み込んだころから私たちが開催したシンポジウムなどにも参加し、これらの政策を批判する発言を積極的に行なっていた。私が彼と知り合ったのもそんな折だった。

石田さんのコロナ感染を知ったとき、煙草も吸わず、ジョギングに精をだし、元気に活動していた彼のこと、必ず恢復するだろうと私は疑わなかった。そのあとで、石田さんには悪いが、しめた、と指を鳴らした。

じつはその1週間前、ペンクラブは「緊急事態だからこそ、自由を」の声明を発した。ステイホームや自粛を求められているからといって歴史的に築かれてきた民主主義の諸原理を手放すことがないようにしよう、という趣旨だったが、文案を書きながら私自身がもどかしかった。

何しろコロナを知らないのだ。身近に感染者はいなかったし、いたとしても、ピリピリした世の中にあって、なかなか言いだせる雰囲気ではなかった。感染するとどんな感じなのか、どこが、どう苦しくなるのか、治療はどう行なわれるのだろうか……わからないことだらけだった。

普段の率直な物言いからすれば、石田さんほど感染体験を語るにふさわしい人はいない。退院したら、ぜひ話を聞いてみたい、と私は考えた。

ところが、である。石田さん感染のニュースが伝わったとたん、SNS上でもうれつなバッシングがはじまった。曰く、死ね、バカ、消えろ、世間を騒がす迷惑なやつはテレビやラジオに出すな、云々。事務所や放送局や番組スポンサー企業には同様の内容の匿名電話が何十本もあったという。

もちろん私とて、彼の「不倫は文化」発言、ノーソックス、都知事選への出馬表明と取りやめ等々のにぎやかな話題を知らないわけではない。たしかに目立つ。カチンッとくる人もいるかもしれない。

だが、どれもそれは石田さんのキャラや生き方であって、別段彼はわれわれの暮らしや信条に強制的に介入してくる政治家や公務員でもなく、たいていの人にとって、しょせん他人ではないか。まして相手は病気だというのに、どうしてこんなにムキになるのだろう。ムキになったことを、なぜ不特定多数に向かって言いつのりたがるのか。しかも匿名で、あるいは匿名だからこそなのか。

相前後して、各地に「自粛警察」が出没しはじめた。開いている店に押しかけ、または匿名のSNSや貼り紙で、店を閉めろと強要する。街頭でマスクをしていない人をつかまえ、マスクをしろと迫る「マスク警察」、公園でお弁当を食べている親子に、家に帰れと怒鳴る「公園警察」、その他「帰省警察」「他県ナンバー警察」も横行した。

世の中の空気がピリピリからギスギスに変わり、おかしな方向へ曲がっていくとき、事実や現実に語らせ、少しは頭を冷やすというのがジャーナリズムやノンフィクションの効果のひとつである。私はますます石田さんの話を聞きたくなった。

石田さんは沖縄に飲食店を持っていた。コロナ禍で客足の遠のいた店を譲渡する話があって、3泊4日の旅程で那覇に行った。不動産業者とゴルフ場で会い、誘われるままに1ラウンドまわったあと、少し疲れたので、あとはホテルで休んでいた。体温や体調の異変はなかったという。

しかし、帰宅した翌日の4月14日朝、体温が38度8分まで上がった。ひどい寒気がし、頭がボーッとなって、頭痛もした。顔色も悪い。心配した妻が近所の保健所や病院などに電話したが、全然つながらない。何十回に1度、やっとつながっても、2、3日様子を見てください、うちでは検査も診察もできません、と言われてしまう。石田さん本人も知り合いの大学病院関係者に電話してみたが、事情は同じだった。

ところが夕方になって、その関係者から、いまベッドがひとつあいた、すぐに来られますか、と連絡があった。即座に車で駆けつけた。咳も呼吸困難もなかったが、高熱と寒気は相変わらずだった。胸部のCTスキャンを撮ると、肺の部分が真っ白。コロナであろうとなかろうと、肺炎である。即入院となった。

翌日、PCR検査の結果が出て、新型コロナウイルスの感染が判明した。妻と幼い3人の子供たちは濃厚接触者、当然ながらPCR検査が必要だが、このころの検査態勢は日本じゅうどこも不備と目詰まりだらけで、必要な人が100人いれば3人しか受けられないありさま。石田さんの家族も、しばらく面会できませんよ、と告げられただけだった。

ただちにコロナ病棟に移されたが、まるでそこは古い戦争映画で見た野戦病院。講堂のような広い場所にカーテンで仕切っただけのベッドがずらーっと並んでいた。医師も看護師もひとつのベッドを訪れるたび、完全防備の着衣を交換していた。

鼻のチューブから酸素吸入をし、血液凝固を防ぐ点滴もした。コロナではとくに起きやすい心臓や脳の梗塞を起こさないためである。承諾書に署名したうえで朝晩2回、アビガン錠200㎎を18錠ずつ飲んだ(次の日は半分、それ以降は3分の1になった)。アビガンは抗インフルエンザウイルス薬として開発されたが、胎児奇形を引き起こすことが知られる未承認薬である。しかし、新型コロナウイルスの治療薬はまだなく、当面の特例として使用が認められていた。

3度の食事は魚中心のおかずと野菜と米飯。どれもちょっとずつしか食べられなかったが、味覚異常はさほど感じなかったという。その後3日くらいで熱が下がりはじめ、1週間後には37度になった。ベッドに起き上がり、本も読めるようになったが、恐怖感もあった。当時、コロナは治ったと思っても急に重症化することがあると言われていた。とくに65歳以上は危ない、と。石田さんはこのとき66歳。

その深夜、恐れていたことが起きた。脈拍が160、170と激しくなり、その反対に血圧が危険レベルまで急落した。心臓がバクバクする。呼吸も薄かったが、咳はない。ばたばたと出入りする医師たちは、かえって症状がないことに頭を抱えた。とにかく集中治療室にベッドを移します、と言われたとき、石田さんは断わった。

集中治療室に入れば、3人に2人は生きてもどれない、という話を何かで読んだことがあった。そこでは究極的には、意識のない重症患者の喉もとを切開し、人工呼吸装置を取りつけるような延命治療も行なわれるだろう。

「それはやめたい、と前から考えていました。そういう状態で死にたくない。どこまでできるかわからないけど、ぎりぎりまで尊厳をもって、自覚しながら死んでいきたい。妻や子供にもひと言、ありがとうと言って死ねる、その余力を残しておきたいと、そう思ったんですよ」

一人になったとき、石田さんは子供たち宛てに遺書のようなメールを書いた。地位が高くなったり、お金をたくさん稼ぐことが偉いんじゃない。努力して、新しい自分を獲得することがいちばん大事なんだよ。これを読むころには、ぼくはいないかもしれないけれど……と。

幸い危機は2時間ほどで去り、明け方には脈拍も血圧も落ち着いた。

石田さんの入院はさらに3週間におよんだ。途中、あらためてPCR検査をしたときも陽性が出た。何より、肺炎の症状がなかなか消えなかった。結局、退院したのはゴールデンウィークもとうに過ぎた5月12日。病院を出るとき、医師からは、真っ白な肺の画像を見たとき、もうだめかもしれないと思った、と打ち明けられたという。自宅隔離はそれから2週間つづいた。

私はペンクラブの広報チームに頼んで、1時間以上におよんだ石田さんのインタビュー映像を3パートにわけ、公式YouTubeチャンネルに載せてもらった[1]

6月になっていたが、コロナ感染の当事者が語る、これはかなり早い段階での肉声だったのではないかと思う。

その後半は、やはりバッシングの話題になった。退院したあと、彼はSNS上の誹謗中傷を見て、苦しくなった、と何度も口にした。とりわけ一部のマスコミが取材も確認もなく、デマのような情報を垂れ流していたことが苦しかった。結局、それがもととなってSNSの罵詈雑言も増幅されるからだ。病み上がりということもあっただろうが、打たれ強いはずのこの人もこのときばかりはさすがに参った様子だった。

「感情化する社会」と、石田さんは言った。不均衡、不公正な資本主義的格差社会に生きることの鬱屈が溜まっていたところにコロナ禍が襲い、ますますストレスが昂じる。イライラしたその感情が特定の人物に向かって噴出したり、攻撃的な〝××警察〟となって暴走しているのではないか、というような意味である。

もちろんそういうこともあるだろう、と私も思った。だが、同時に、これは何度も見たことのある光景のような気もした。歴史的には〝村八分〟〝非国民〟〝国賊〟と騒がれた時代があった。それがまた近年は、〝イジメ〟〝ヘイトスピーチ〟〝バッシング〟〝××警察〟等々、あらぬ方向にバージョンアップし、時と場所に応じて間歇泉のように噴きだしているのではないか。そんな思いにとらわれたのだ。

さて、前回、14世紀以降のヨーロッパをたびたび襲ったペストが時代をどう画したか、イタリアのボッカッチョ、イギリスのデフォー、フランスのカミュの文学作品を手がかりに概観した。〝暗黒〟と呼ばれた中世、全能のはずだった神も、聖職者や国王や領主ら神の代理人たちも、この災禍に手も足も出なかった。人々は、一人ひとりは不完全な人間が、なけなしの財貨や知恵や力を出し合って立ち向かうしかないことを学んだ。

そこから人間がつくるものとしての「社会」が芽を吹いた。社会というもののこの人為性、人工性がポイントである。その後に幕を開けた近代の資本主義や民主主義、社会主義や共産主義の底流をなしたものも、人間が社会をつくる、だから人間がつくった社会は人間がつくり変えられる、というこのとき生まれた確信だったからだ。もちろん、よくも悪くも、とつけ加えておかなければならないが。

中世から近代への転換には、さらに複雑な力学が働いたことはいうまでもない。周辺諸地域との軍事・経済・文化の交渉、科学・技術の進展と通商・産業の勃興、資本の蓄積と階級構造の変化等々が幾重にもかさなって、時代は動いた。しかし、もっぱら個々の人間の思惟や感情や行為に目を凝らす文学の側から眺めれば、おおむね歴史は上述のように変遷したと言っても、大きくは逸脱したことにならないだろう。

では、日本はどうだったか、という疑問が当然湧いてくる。感染症は日本の歴史にどんな刻印を残しただろうか。

中世ヨーロッパのペスト流行に匹敵する大厄災は、日本では古代、8世紀前半の奈良・平城京で起きた。『日本書紀』の続編、『続日本紀』が記録する大和朝廷第45代聖武(しょうむ)天皇の治世である。

当時、そのおよそ90年前の大化改新(645年)からはじまった公地公民・戸籍・班田収授・()(よう)調(ちょう)、等々の制度を敷いた強力な中央集権体制が完成に近づいていた。この間、これらの改革に功あった藤原一族は、聖武天皇の生母も妻・光明子も一族出身、皇族の長屋王(ながやおう)を首班とする政権の要職を光明子の(母親はちがうが)4人の兄たちが占めるなど、朝廷内部に深く食い込んでいた。

ところが、ここで事件が起きた。聖武天皇と光明子のあいだに生まれた世継ぎ子が生後まもなく病死してしまう。藤原4兄弟はこれを、上司だった長屋王が呪い殺したと言い立て、自害に追い込んだ(長屋王の変/729年)。こうしてもはや向かうところ政敵なし、藤原一族の権勢はきわまることになった、かに思われた。

ちなみにこのころ、朝廷中枢のこうした権力闘争をよそに、農地・人民の国有化政策のもと、重税を課され、労役に駆りだされた百姓たちは塗炭の苦しみにあえいでいた。『万葉集』に残る山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」がその嘆きを伝えている。

(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず (こしき)には 蜘蛛(くも)の巣()きて飯炊(いひかし)く 事も忘れて〉すなわち、かまどには火の気がなく、米を蒸す器にはクモの巣がかかり、(めし)を炊くことも忘れてしまった。そうして口を突くのは〈世間(よのなか)()しと(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば〉つまり、世の中は心配ごとや、つらく肩身の狭いことばかりとわかっているけれど、わが身は鳥ではないので飛び立つこともできません、と。

数年後の735年、そこへ北九州・太宰府あたりから疫病が流行りだした。正体は、新羅や唐に派遣した使節が持ち帰った「天然痘」ウイルスである。これが気道などから入ると、高熱、発疹、膿疱等の症状を呈して死に至り、またかさぶたが剝れて舞い散ると、そこに付着したウイルスが次々感染を広げるというやっかいな発疹性伝染病だった。

東漸(とうぜん)した厄災は平城京にも侵入し、3年におよんで当時の総人口の3割、100~150万人の命を奪った。737年、藤原4兄弟も相次いで感染し、4人ともが死んだ。下々では、これぞ〝長屋王の祟り〟という噂が飛び交ったという。

藤原4兄弟の支えを失い、疫病と貧窮の世の中を前にした聖武天皇は動揺した。悪鬼や怨霊から逃れようと、畿内あちこちに都を移した。全国数十ヵ所に国分寺・国分尼寺建立を命じ、国家安泰を祈願する鎮護仏教を広めようともした。だが、混乱は収まらない。

あげく、再び平城京にもどった聖武天皇が思い立ったのが、各地国分寺の総本山たる巨大な盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)の造立と東大寺の建立だった。あの奈良の大仏(高さ15メートル、横幅12メートル、台座を含めた総重量380トン)である。

747年、国じゅうの銅と技術と人力を投入してはじまった一大国家プロジェクトは2年で本体の鋳造を終え、さらに3年後の752年、(『日本書紀』記述による)仏教渡来から200年を期しての開眼供養にこぎつけた。

いま奈良の大仏に行ってみると、たしかにでかい。建物なら4、5階建ての高さか。重機もない時代に、よくぞつくったと感嘆する。だが、図体は真っ黒、重々しくはあるが、慈愛や慈悲の神々しさには少しばかり欠ける。

もちろんこれは、その後の千何百年という歳月のせいだ。もともと大仏はぴっかぴかの金色に輝いていた。仏教伝来時、百済王から金銅仏を贈られたときから、仏像は表面を鍍金(ときん)(金メッキ)した金ぴかが主流だった。しかし、金自体は腐食に強くても、下地の銅や青銅は錆びる。小さな穴からはじまった酸化が広がって、ついには全体が黒ずんでしまい、いまの姿になった。

では、鍍金に使われたその(きん)はどこからきたか? 数世紀後に〝黄金の島〟と呼ばれるジパングだが、このころはまだ日本では金は採れず、中国や朝鮮から輸入するしかないと考えられていた。災厄に打ちのめされ、大仏造立で国庫もからっぽ。朝廷や造仏関係者にとって、これは頭の痛い問題だった。

ならば、どうしたか。

私は東北、宮城県に向かった。仙台駅前で借りたレンタカーのナビの目的地に入力したのは同県北部、北上山地の一部をなす遠田郡涌谷町(わくやちょう)の「箟岳山(ののだけやま)」だ。

北東に向かい、大半は三陸自動車道を利用して走ること1時間余、標高わずか二百数十メートル、田んぼの景色越しに眺めると、ちょっとした台地程度の山の裾に到着した。頂上近くまで車で行くことができる。

大仏鋳造が一段落した749年、この箟岳山の渓流で砂金が見つかったのだ。発見したのは、100年近く前、新羅・唐の連合軍に滅ぼされた百済国から亡命してきた王族や武将、職人や芸人などの末裔たちだった。当時、彼らの頭領、百済敬福(くだらのけいふく)は陸奥守に任じられていた。その配下にいた山師の一人が、白く丸い〝モチ石〟(石英のこと)のあるところは金が採れる、という朝鮮の故事を思い出し、川底をさらってみたのだという。

このとき、この山で採れ、朝廷に献上された砂金は13キログラム。私も半日、川に入り、昔は〝揺り板〟と呼ばれたお盆のような薄皿で川底をさらってみたが、採れたのは形も大きさも耳垢のような砂金がひとつふたつ。大仏の巨体全体の鍍金に必要な金は約60キログラムだったというから、いかに大変だったか。

しかし、以後、この山と、次々にモチ石の見つかった北上山地はときならぬゴールドラッシュに沸くことになる。

万葉の代表的歌人、武門の出ゆえか、機を見るに敏、高級役人でもあった大伴家持(おおとものやかもち)はいささかヨイショ気味に歌った。〈天皇(すめろぎ)御代(みよ)栄えむと(あづま)なる陸奥(みちのく)山に(くがね)花咲く〉

それからというもの、大和朝廷にとっての東北は蝦夷(えみし)の住む未開の地ではなく、経済的野心を満たす沃野となった。朝廷は、それまで太平洋側と日本海側に1ヵ所ずつしか置いてなかった城柵を、幾多の蝦夷反乱を押さえ込みながら内陸部奥深くに次々建設した。行政・軍事的施設をつくったほか、千人単位の移民も連れていったから、それは一種の植民地経営だった。

これが次の京都・平安時代の第50代桓武天皇治世下、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)による大規模な蝦夷征討、10万人規模とも伝えられる軍事行動へと引き継がれていった。箟岳山山頂にはその田村麻呂創建と伝えられるお寺があって、のぞいてみると、観音堂正面の柱に、もはや逆らう者なしと誇るかのように「無夷山」とあり、内陣には「奥州鎮護」の額がかかっていた。

かくして奈良時代の天然痘による大厄災は、東大寺大仏造立と仏教の各地への伝播、そして、大和朝廷による東北の植民地化、その先の国家統一に向けて、この国を押しやっていった。やはり東アジア版パンデミックは日本でも時代を大きく画した、と言うべきであろう。

それから中世、近世の千百有余年、世界のもっとも東の端っこ(極東)にあって、海に囲まれ、おまけに江戸時代は200年以上も鎖国していた島国は〝大〟のつくような感染症流行とは無縁に過ごしてきた。

ところが、ペリー来航(1853年)、開港、通商開始とつづいた幕末の開国事業がはじまってまもなくの58年、早くもコレラが侵入した。口からコレラ菌が入るとひどい下痢と嘔吐に襲われ、2、3日で死ぬという急性腸管感染症である。最初の開港場のひとつ、長崎に入港した米軍艦船が感染源だった。感染は全国に広がり、江戸では10万から20余万人が死んだという。コレラはその後も数年おきに流行をくり返し、明治年間を通した死者は37万人余と、日清・日露の戦争の死者数をはるかに上まわった(この節の統計数値は世界大百科事典、日本大百科全書/ジャパンナレッジによる)。

世界でもコレラの正体はまだ解明されていない時代、人々は〝コロリ〟とはやし立てて逃げまわるか、強制的な消毒や隔離を嫌って〝コレラ一揆〟を起こすかして騒ぐことくらいしかできなかった。医学的にも、公衆衛生上も、感染症にどう対応するかはまだほとんど手つかずの大問題だった。

そういういわば無防備なところに、コレラにつづけて襲ったのが、大正時代の「スペイン風邪」である。これはインフルエンザウイルスが引き起こす呼吸器系の急性感染症だったが、1918(大正7)年夏から21(大正10)年夏までの3年間にわたって猛威を振るった。

折しも第一次世界大戦のさなか、最初はアメリカ本国の兵営ではじまったインフルエンザがヨーロッパ戦線に持ち込まれ、ヨーロッパからたちまち世界じゅうに広がったとされる。兵士がばたばた倒れたが、戦争遂行に差し支える、としてほとんど公表も報道もされなかった。しかし、中立国だったスペインの感染状況ばかりが国際的に報道されたことから、この俗称がついたのだという。

これには、当時の世界人口20億人のおよそ30%にあたる6億人が罹患し、このときの世界大戦の戦死者の2倍に相当する2000万人以上が死んだ。日本でも5500万人口のうちの2400万人に感染し、38万人以上が亡くなった。

ところが、これほど大規模な厄災だったにもかかわらず、スペイン風邪については世界でも日本でも長いあいだ、まとまった概説書もなく、「忘れられたパンデミック」という評言すらついてまわった。

欧米においては、何よりも戦争中だったことが理由としてあげられる。人々は日々、戦争の帰趨に強い関心を寄せ、その分インフルエンザへの関心は薄かった。また、応召中に罹患し、死亡した兵士も〝戦死〟として扱われたせいで、戦争の記憶のなかに紛れ込んでしまったという事情もあったようである[2]

日本もまた第一次世界大戦の参戦国ではあった。だが、主戦場のヨーロッパから遠く隔たっていたせいか、各地の新聞はこの新種のインフルエンザについては、それなりに多くの報道をしている[3]。また、内務省衛生局(当時)は調査スタッフを米英に派遣するなどして、国内外の感染状況をまとめた詳細な報告書『流行性感冒』を残した[4]

だが、これが出版された1年半後の1923(大正12)年9月、関東大震災が起きた。首都圏を崩壊させたそのすさまじい惨状と混乱に吹き飛ばされ、スペイン風邪の記憶は雲散していった。

それでもこのとき、スペイン風邪に関する小説を書いた作家が2人いた。旺盛な執筆活動のピークにあって、〝小説の神様〟と呼ばれはじめた時期の白樺派の私小説作家・志賀直哉(1883~1971)と、不遇の年月をようやく脱し、小説家としても、劇作家としてもにわかに売れっ子になった社会派通俗作家の菊池寛(1888~1948)である。

志賀は感染拡大期、自分の家族と女中とのあいだに起きた騒動をもとに「流行感冒」(1919/大正8年)を書いた。一方、菊池が「マスク」(1920/大正9年)に書いたのは感染の収束期、外出時にマスクをつけるかどうかで迷う自身の気持ちだった。どちらも小品、身辺エッセイのようにも読める内容である。

まずは発表時期に注目してほしい。両方ともスペイン風邪が流行しているさなかに書かれ、雑誌に掲載された。

これをたとえば、ボッカッチョの場合とくらべてみよう。彼が『デカメロン』を発表したのは、ペスト流行の5年後だ。そこに収録した100の小話は若いころから書き溜めていたというから、執筆は10年にもおよんだかもしれない。デフォーの『ペストの記憶』は、60年近く前に起きた災禍を掘り起こしたものだった。また、カミュは第二次世界大戦中に『ペスト』を書きはじめ、書き終えたときは戦争終結から2年が過ぎていた。

これらの作品にくらべると、志賀や菊池の仕事はすばやい。パンデミックと同時進行で書き、発表している。右から左、ジャーナリズムの現場報告のようだ。

もちろんこれは、いい悪いの問題ではない。西であれ、東であれ、作家はまず、書こうとする出来事や人物やテーマを自分の頭のなかの時代や社会のイメージ、そこでの人間関係その他の環境に置いてみて作品を構想する。そこから敷衍・変形・飛躍しながら書き進めるのだが、一般的にいえるのは、長編になり、執筆に時間をかけた作品ほどストーリーも構成も技巧も複雑になる一方、作家の〝素〟の姿が作品のひだのあいだにかき消えていく、ということくらいだろう。

そう考えると、「流行感冒」や「マスク」の同時進行、現場報告的な書きぶりには、作家たち自身の姿――時代観や社会観はもとより、ひいては当時の大方の日本人が大厄災をどう受け止めたかまで、その様子が案外ストレートに表わされているのではないか。

そんな興味が、私にはあった。

志賀直哉「流行感冒」の語り手「私」は妻と赤ん坊の3人で、千葉県は我孫子の田舎で暮らしている。地元で雇った住み込み女中2人もいる。私たちは最初の子を病気で亡くしているので、赤ん坊の健康には臆病なくらい神経質だ。そこへスペイン風邪が流行り、だんだん我孫子にも近づいてきた。

そんなとき、少し離れた町のほうで旅役者一行の夜興行があった。もちろん私は家の者たちに、行ってはいけないと厳命した。2人の女中も感冒を怖がっているようだった。しかし、その晩、女中の「石」の姿が見当たらない。私は、もしや、と疑った。

翌日、石を問い詰めるが、頑として認めない。私は詰問し、疑うこと自体に不快になって、どちらにしてもこの娘をクビにしようと考える。そう考えることがまた暴君のふるまいのように思われて、ますます不愉快だ。

そこへ不穏な気配を察したのか、石とその母親が、ながながお世話になりました、と暇乞(いとまご)いにやってきた。嘘をついた石のほうがいたたまれなくなったのだろう。

だが、そのとき妻が耳もとで、ここで追いだしたら、嫁入り前の石に傷がつく、近隣方々にも角が立つ、そのうちそっと辞めてもらえばいいでしょう、と言う。私は不機嫌ながら、幾分かはほっとした気持ちでうなずいた。

3週間ばかりが経ち、町の製糸工場で4人が死んだという噂を聞いたころ、流行感冒は下火になった。私は庭の手入れに植木業者を入れた。そして、あろうことか私自身が職人の一人から感冒に感染してしまった。おまけに私から妻や赤ん坊やもう一人の女中、あわてて雇った看護婦にも感染し、家のなかで健康なのは石だけになってしまった。

家じゅうが寝込むなか、石は一人で家の仕事をこなした。昼はふだんの倍以上働き、夜は夜で赤ん坊をおぶい、眠い目をこすりながらあやしている。その姿には、当てつけがましいところがひとつもない。芝居を見たかったから行った、みんなが困っているから自分が働く、石にとってはどちらもそれだけのことらしい、と私は気づく。

年が明け、私は東京の知人の留守宅でしばらく暮らすことにし、女中たちともども引っ越すことになった。石には結婚話があったが、その日が近くなるまでということでいっしょに連れていった。2人の女中は芝居見物に行くなど、東京暮らしを楽しんだらしい。やがて嫁入りの段取りが決まった石を、私たちは上野駅まで送っていったが、涙ながらにホームに向かう彼女は振り向きもしなかった。石のいない家は静まり返り、寂しくなった。

ある夜、私が家に帰ると、戸を開けたのは石だった。妻が、時候の挨拶がてら、遊びにいらっしゃい、と書いた葉書を学校の先生に読んでもらい、うれしくなって飛んできたのだという。私は笑った。あと1週間したら石は田舎に帰り、また1週間後には結婚するが、相手がいい人物で、「石が仕合せな女となる事を私達は望んでいる」……。

文庫本で30ページほどの短編である。

一読、いい話だな、と私は思った。石という田舎娘の、ちょっと(どん)(ちょく)な性格がしっかり伝わってくる。表現が的確、ストーリーのめりはりも明瞭だ。志賀の小説は一貫して、不快/不愉快→対立/葛藤→和解/調和と、段階を踏んで流れていくのが特徴だが、本作もそのパターンどおりに展開していて、破綻がない。

だが、何かが足りない、とも私は思った。

これを読んでも、当時のスペイン風邪のことはさっぱりわからない。感染はどう広がったのか、政府や自治体や地域の対策はどうだったか、そもそもこのパンデミックによって何がどう変わったか、変わらなかったのか、等々は何も言及されていない。

ひと言でいえば、「社会」がいっさい出てこないのだ。言葉を尽くして書かれるのは家のなかの事情と語り手の快不快、村うちのつきあいや噂などである。それだけで、この小説は成り立っている。みごとに成り立っている、といってもよい。

志賀文学には社会がない、とは取り立てて私の発見ではない。「美術工芸的心境小説」だと断じた織田作之助(「可能性の文学」1946年)、「妻子が可愛いだけじゃねえか」と啖呵を切った太宰治(「如是我聞(にょぜがもん)」1948年)等々、戦前戦後にまたがって数多くの作家、批評家が同様のことを指摘している。

おもしろいことに、その批評・批判の口ぶりはみな、どこか苛立っている。こんな小説作法を引き継いだら、とてもじゃないが複雑な現代社会と人間は描けない、と突き放したようなニュアンスが漂っている。志賀より少し前の世代の森鷗外や夏目漱石に関する批評が、彼らの切り開いた文学的課題をどう引き継ぎ、発展させるべきかを説いているとすれば、志賀に対するそれは、いかに反発・批判し、乗り越えるかを語っている、といえばわかりやすいだろうか[5]

社会がない――では、それに代わるものとして何があったのか?

主人公や登場人物たちを取り巻いて、ときにはその思惟と感情と行為の発展をうながし、場合によっては抑圧・規制し、人間を動かす動因となるもの。人が一人で生きていない以上、必ずそういうものがあるはずである。それが社会でないとすれば、何なのか?

大雑把に単純に、しかし、もっともふさわしい言葉でいえば、それは「世間」というものだった、と私は思う。

「流行感冒」に「世間」という単語は出てこないが、紙背からはいくつもの世間が立ち現われてくる。俗世間、世間体、世間の目、世間をはばかる、世間のしがらみ、世間知らず、世間話、世間の噂、世間並み、等々と語られる世間である。語り手も登場人物たちもその場その場で世間に応じて動いている。女中の石が幸せになってほしい、という最後の一文はまさに世間並みにということであり、そう願う作者の心にも、世間体をはじめとする世間の常識が息づいている。

思い起こしてほしい。最初に紹介した石田純一さん非難のSNSや匿名電話のなかにも「世間を騒がす迷惑なやつ」というような言いまわしがあった。8世紀『万葉集』の山上憶良も「世間を憂しと(やさ)しと思へども」と歌っていた。世間は千何百年も昔からあり、大正時代にもあり、いまも生きた言葉、生きた現実としてわれわれの身近にある。

スペイン風邪流行のさなかに書かれた菊池寛の「マスク」は、世間について考える際のひとつの手がかりを与えてくれる。

語り手は作家自身を思わせる「自分」である。自分は(ふと)っていて丈夫そうに見えるが、じつは内臓が弱く、息切れもする。昨年暮れにも医者から、心臓が弱っているから、流行性感冒にかかって高熱でも出したら、助かりっこありません、と脅かされたばかり。

新聞が伝える日々の死者数は増減するが、3337人をピークに少し減った。自分はほっとはしたが、1月、2月はなるたけ外出せず、家人にも出ないように言いつけた。朝晩、消毒水のうがいを欠かさず、やむを得ず外出するときはガーゼを何枚も詰めたマスクをし、帰宅したらもちろんうがいをする。友人も妻も自分の恐怖症(ヒコポンテリア)じみた臆病を笑った。

春3月、流行は衰え、マスク姿の人をほとんど見なくなったが、自分は、そんなのは野蛮人の勇気、マスクをすることこそ文明人の勇気だ、と強弁し、周囲にもそう言った。たまに停留所でマスクをしている人に出会うと、同志のようで心強かった。

4月が過ぎ、5月になった。初夏のような太陽が照りだすと、マスクは暑い。さすがに自分もマスクをはずした。

そのころシカゴの野球チームが来日し、早稲田のグラウンドで帝大チームとの試合が行なわれるという。もとより自分は野球好き、さっそく見物に出かけた。

よく晴れ上がった日だった。もちろんもうマスクはしていない。電車を降り、グラウンドに向かっていたとき、若い男が追い越していった。ふと見ると、男は黒いマスクをつけている。その瞬間、自分は不快に思い、男に対して憎悪を感じた。

第1に、男は感冒の脅威を思い出させた。だが、それ以上に、自分や大多数の人たちが時候や世間の手前、マスクをつけることが気恥ずかしくなっているときに、この男は傲然(ごうぜん)とマスクをし、数千の人々が集まっているところへ押しだしていこうとしている。自分は、その強さと勇気に圧迫されるような気がした。それはまた強者に対する弱者の反感だったかもしれない……。

これまた文庫本で10ページ足らずの短編である。

これを書いたときの菊池寛は30代前半、のちに本人が「旭日昇天(きょくじつしょうてん)の形で、世の中に出ていった」(『半自叙伝』1929年)とふり返ったくらい、突然の売れっ子になっていた。古い時代に題材をとりながら、権力におもねる連中にちやほやされて生きる権力者自身のむなしさを描いた『忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき)』、封建的な身分や仇討ちを超えて人はいかに罪を償いうるかと問いかけた『恩讐(おんしゅう)の彼方に』などが次々ヒットし、学生時代に書いた芝居までが上演され、喝采を浴びた。

第一次世界大戦期、日本は大きな変わり目にあった。

戦場となったヨーロッパでも、ヨーロッパの植民地アジアでも、船舶から鍋釜、生糸・繊維までさまざまな物資が不足した。そこに乗じて日本は国内産業をおこし、輸出を急増させた。農業国は工業国へ、債務国は債権国へといっきに様変わりした。カフェーや劇場や活動写真館(映画館)がにぎわう都会では工場労働者やサラリーマンがごった返し、新しいライフスタイル、新しい生き方を手探りしていた。

文学の仕事は正しい答えを出してみせることではなく、時代の奥にひそんでいる大きな問いを探り当て、それを人間の生き方の問題として形にすることだろう。この問いが読者一人ひとりに共有され、互いに考えることで時代は少しずつ進んでいく。菊池の文学はそうした世の中のストライクゾーンに投げ込まれた直球のようだった。

「マスク」に描かれた流行感冒への怯え、野蛮人と文明人の対比、周囲に対する強がりと同調、昂然と一歩先を行く人物への羨望と反感と劣等感。菊池はあるときはみずから世間に波風を立て、あるときは世間の側に身を寄せ、どっぷり浸かりながら、世間で生きるとはどういうことか、その折々に揺れ動く気持ちをまっすぐに描いていた。

世間とは何か。

英語辞書を引くと、どれにも「society」という訳語が載っている。「社会」である。しかし、われわれは世間が社会や世界と似ているようでいて、確実にちがうことを知っている。社会と世間とでは、思い浮かべる中身がまるでちがうことを頭で、というより体でわかっている。

前に述べたことをくり返せば、中世以降のヨーロッパで生まれた社会は人為的、人工的に人間がつくるもの、したがって都合が悪くなれば人間がつくり変えられるもの、つくり変えてもよいものだった。

だが、世間はちがう。世間はだれがつくったかわからないほど昔からあり、多少の融通はきくとしても変えられないもの、大きく逸脱してはいけない、逆らえないものと考えられている。運命や宿命に近い生きる場のことである。

しかし、われわれが生きている場にこれだけ幅をきかせる世間が、文学や思想の問題として対象化されるようになったのはずっと後年、20世紀も終わりに近づいてからだった。ドイツ中世史学者・阿部謹也(当時は一橋大学長。1935~2006)の『「世間」とは何か』(1995年、講談社現代新書)がその嚆矢となった。

阿部は高度成長とバブルの端境期、女子学生から「中年の男性ってどうしてあんなに汚らしいのですか」と質問されて以来、日本の男たちが群れる光景/男社会にひそむ「世間」の存在が気になってきたという。世間は先輩・後輩、上司・部下などの長幼の序、中元や歳暮を通じた贈与・互恵関係からはじまって、重大事件犯人の家族を謝罪や自殺に追い込むプレッシャーまで、いたるところに根を張っている。

世間には、一人ひとりが身心をすり減らす競争社会より、没個性でもいいから、心安く暮らしたい、という大多数の人々の心情が投影されている。そのことを認めた上で、阿部は世間のルーツを探索していく。

もともと世間は、生きとし生けるものの現世の意で、仏教用語だった。仏教は世間の衆生が、むさぼり求める「(とん)、やたら怒る「(しん)」、俗念ばかりの「()」の「三毒」にまみれ、殺生、盗み、邪淫、嘘いつわり、飲酒等々、日々、5つや10の「悪」に染まっているばかりか、108もの「煩悩」にわずらわされている、と見る。

言い換えればこれは、世の中は混沌、汚れたカオスということである。つまり、穢土。そんな世間などさっさと捨てて、釈迦の教えに従って彼方の「浄土」におもむくべし、と仏教は説いた。

その用語・用法が一般化して、世の無常を漂わせる和歌に流れ込み、世間を離れて閑居することのひそかな愉悦をつづった鴨長明『方丈記』(1212年)、無常観から世相を観じた吉田兼好『徒然草』(1330年頃か)などの〝隠棲文学〟を生んだ。その精神は屈折しながら井原西鶴『世間胸算用』(1692年)へ、さらに近代文学へと引き継がれていった。

ここから阿部が取り上げるのは森鷗外、夏目漱石、島崎藤村、永井荷風、金子光晴などだが、いずれもヨーロッパやアメリカ暮らしを経験した作家や詩人である。本書によれば、「society」という英語が「社会」という日本語に翻訳・紹介されたのは1877(明治10)年。社会の単位をなす「individual」の「個人」はその7年後だったというから、鷗外がドイツに向けて旅立ったころか。彼らは頭では社会も個人も知っていた。

しかし、「社会」は、何と「世間」とは別物であることか。一方は人為的、人工的。もう一方は運命的、宿命的。彼らは現地で暮らすなかで痛いほどそのちがいを感じ、どう考えるべきかを思い悩んだ。この相違は文学の基本要素たる人間の思惟・感情・行為の〝根拠〟すべてにかかわっている。である以上、彼ら一人ひとりのそれからの仕事は、社会と世間に引き裂かれた者の苦悩、その記録となった。

では、現代のわれわれはどうすべきか。だが、どういうわけか阿部は結論や提言らしいことを何も書いていない。「おわりに」で、「私達の一人一人が自分の属している世間を明確に自覚」すること、感性的に語られるこの世間を「社会の内的構造」として醒めた目で分析することの大切さに言及しているくらいなのだ。ここはちょっと拍子抜けする。

けれども、その主張が、世間をうとましいものとしてネガティブにとらえ、なるたけ足を取られないようにすべきだ、という点にあることは間違いない。その先は、しっかり個人を確立し、一人ひとりが責任を自覚して社会をつくっていきましょう、というような話になっていくのかもしれない。

そういう話だろうか、と私は思う。阿部の、苦心の跡がそこここに見られる世間探索に刺激を受けながら、結局は世間を離れた隠棲や孤立や寂しさの側に傾斜していく論調に、それでいいのだろうか、と思わないわけにはいかなかった。

私はコロナ禍のなか、恐るおそるだったが、パンデミックは社会に何をもたらすだろうかと考え、ヨーロッパのペスト大流行ではどうだったか、と14世紀以降の文学作品を手がかりに勉強しはじめた。同じその関心から、『続日本紀』や『万葉集』を引っぱりだして奈良や東北の金山にまで足をのばし、つづけてスペイン風邪をめぐる日本の小説も読んでみたのだった。

当時のルネサンス(文芸復興)の気運を背景にしたパンデミック文学の前提にあったのは、1000年もつづいた〝暗黒時代〟中世という歴史の重みだった。身体的にも精神的にも、神や聖職者や領主らに拘束され、支配された人々は、頭上にある者たちの無力に気づき、みずから疫病から逃げだし、立ち向かう過程で人間の可能性と限界に気づき、共働して社会をつくりはじめた。猖獗をきわめたペストの描写には、当事者として感じた病気に対する恐怖だけでなく、執拗に追いかけてくる暗黒の中世に対する激しい嫌悪も込められているような気配さえあった。

現代の歴史学であれば、封建制度の確立、農業技術の発展、都市の形成、大学の設立等々に目配りした発展期としてヨーロッパ中世を多角的に描くだろうが、その時代の人々の実感を呼吸する作家たちの筆ははるかに直截だ。20世紀のカミュにも、背後から迫ってくる戦争や革命という時代の暗雲を払いのけようとする強い意志があった。その激しさ、強さが小説を書く動機となり、ストーリーを駆動していた。

しかし、日本のパンデミック小説にそのような激しさはなかった。

なぜないのか、論理的にはその答えはひとつしかない。すなわち、日本にはそれに先立つ暗黒の歴史がなかったからだ。少なくともその暗黒の度合いがヨーロッパのそれとくらべて希薄だったということである。そういうものがなければ、目の前の世の中をまるごととらえ、それを否定し、格闘し、解体して別のものをつくろうという力づくの気合いは生まれない。その分、作家たちの身ぶりも構想も小さくなり、作品はこぢんまりとまとまったものとなった。

とはいえもちろん、古代日本にもさまざま内輪もめを起こしつつも強大な支配権力があり、山上憶良が書き残したように、下々は貧窮にあえぎ、苦しんでいた。中世の鎌倉、室町、戦国、つづく安土桃山、江戸の各時代は武士の天下。しだいに厳格化していった身分制封建時代では、人口構成でいえば10パーセント足らずのサムライ階層がのさばり、その下のヒエラルキーに組み込まれた百姓、職人、商人その他の民草は汗水流して働いても、暮らし向きはいっこうに楽にならなかった。

身体的には、たしかにそうだ。われわれは封建時代の民百姓の悲惨を小説、映画、芝居、テレビドラマでさんざん見てきた。もちろん学校でも歴史書でも習った。しかし、精神的にはどうだったか。ヨーロッパの人々がその身体だけでなく、神と神の代理人たちの言葉を内面化し、精神的にも服従したような全面的な暗黒が、日本の歴史にあっただろうか。

歴史家たちの反発や嘲笑を覚悟の上で私の妄言をいえば、日本の下々、民百姓や民草の内面は自由だった。自由とまでは言えないとしても、少なくともそこは空白、白紙のままに放っておかれたのではないか。

理由ははっきりしていて、人々の内面をわしづかみにし、揺さぶるような強力な宗教がなかったせいである。古代、仏教は百済王家から朝廷に公伝され、受け入れるかどうかをめぐってひと悶着あったものの、結局、朝廷と朝廷を取り巻く貴族・豪族のための鎮護国家宗教に祭り上げられて終わった。

中世鎌倉時代、仏教の宗教改革が起き、新宗派が次々生まれたが、それらを主に受容したのはあらたな支配階層として台頭した武士たちとその周辺であって、下々ではなかった。

江戸時代、幕府がキリスト教を締めだすと、津々浦々の寺々は、いま悪評ふんぷんのマイナンバーカードの原簿さながら「宗門人別帳」を作成し、役所の出先機関のようなものに姿を変えた。

とうていこれでは下々の内面管理などおぼつかない。もちろんそれは、悪いことではなかった。民百姓や民草が、上を見、横をうかがい、自分の領分を見定め、才覚を磨くチャンスともなっただろうからだ。膨大に放置されたこうした下々の内面――そこに、世間が成り立つ土壌があった、というのが私の見立てである。

妄言をつづける。


昔々、聖徳太子という人がいた
 父は天皇、天皇になった叔母の右腕、次の天皇と目された人
 国を采配したその人が「世間は虚仮(こけ)」だとのたまった
 虚妄、軽薄、絵空事
 世の中の上から下まで虚仮だとは
 国の(かしら)が公言する、日出ずる国はそんな国
 
以来、この世は二重底だと、だれもが承知
 権力はあり、支配も統治もあった
 強い者には従うが
 面従腹背、本音と建て前、表と裏に虚実のかけひき

古来、虚仮の世間はにぎやかだった
 三毒、十悪、百八煩悩、上等上等何でもござれ
 (わる)を出し抜き、知恵で生き抜く小気味よさ
 水呑百姓の分際で、交易や商売に手を広げるしたたかさ
 手に職をつけ、歌って踊り暮らすおもしろさ
 渡来外国人の手柄も言祝(ことほ)鷹揚(おうよう)

古今、統治とは混沌を整序し、秩序の上前はねる虚仮おどし
 お上も虚仮の片割れだから
 穢土を締めつけ、お調子者を手なずけて
 世間を引き込むことにも抜け目がない

世間、上と下とが陣取り合って
 上と上でも腹探る
 横と横とが目配せし合い
 下と下でも意地を張る
 この国の世間に年季は入ってる
 これもまた、人間がつくった社会そのもの

社会、かたちにするとつまらない
 世間をのけ者にしたら、社会もしぼむ
 融通無碍、使い勝手のよさが世間の取り柄
 混沌からしか生まれない閃きと、蛮勇にこそ命は躍る

2023年5月、WHOは3年3ヵ月におよんだ新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言を終了した。この間、日本の政府・都道府県も感染者数の増減に応じた同種宣言の発出・解除をくり返してきたが、政府はこれを機に、コロナの危険性の程度を「2類」から一般インフルエンザ並みの「5類」に引き下げた。このころには、外出時などのマスク着用も任意となっていた。

やっと一段落である。どこからともなく、ふっと緩んだ気配が湧き上がってくる。

私も電車に乗り、タクシーをつかまえ、出歩くようになった。仕事で某テレビ局の会議に参加した。某映像コンクールのリアル審査会に行き、表彰式にもパーティーにも出席した。これとは別に会食もしたし、繁華街も歩いた。マスクはしていたが、人混みをはずれると、顎の下までずらすのが当たり前になった。

夏本番、猛暑となった7月下旬のある日、背中に詰まったような重さを感じた。鈍痛もあった。

翌日昼、体温が38度5分に上がったり、平熱に下がったりを2、3時間ごとにくり返した。ひょっとしてコロナか、と頭をかすめたが、これまで何度もワクチンを打っている。それでも、と思い、駅前通りの無料PCR検査所に出かけたら、3ヵ月も前に閉鎖されたという。その晩は解熱剤を飲んで寝たが、日中、頻繁に水を飲んだせいか、トイレに4回も起きた。

3日目、朝から39度の熱。そういえば、と緊急事態が宣言されてすぐ、簡易抗原検査キットを買ったことを思い出した。まったくこのコロナ禍、だいじなことを忘れさせるほど長かった。説明書どおりに唾液を取り、セットして待つこと10分。ジャーンッ、隙間のような小さな窓に赤い線が1本だけ。コロナじゃありませーん、のマークだ。

ちょっと安心したところでかかりつけの診療所に電話し、事情を話すと、いつでもどうぞ、ただし、近くにきたら電話してください、と。異なことを言う、と思いつつも、正面口から電話したら、裏口にまわるよう指示された。ぽつんと一人で待っていると、完全防備姿の医者が現われ、さっそく検査。いや、もう自宅で調べました、と言ったら、「ああ、あれはままごとです」と、ばっさり。

いきなり鼻の奥に綿棒の親玉みたいな長い棒を突っ込まれ、ングッ。これだって同じ抗原検査のはずだが、唾液と鼻孔粘膜、シロートと医者では精度がちがうのか。涙目になって見ているうちに結果は出た。赤い線がしっかり2本、みごと陽性の印である。

かんかんに照りつける夏日だった。薬局に寄り、処方箋どおりに、熱を下げ、痛みをやわらげるという「カロナール錠300」と、筋肉の張りを取り、血行をよくし、炎症をおさえますという「葛根湯エキス顆粒(医薬用)」、2種類の薬をもらって帰宅したが、猛暑と高熱が相まって、歩いていても地に足が着いたような気がしない。

いつ、どこで感染したかはまったくわからない。とりあえず、直近数日間に会った面々に電話やメールで、私、感染しました、どうぞお気をつけください、と伝えることくらいしかできなかった。妻にうつさないために部屋でもマスクをし、なるたけしゃべらず、ドアノブ、食器にもできるだけ触らないよう気をつけるしかない。

しかし、コロナと診断され、気持ちも高ぶったのか、この日はまだ食欲はあった。体温が平熱になるのを見計らって仕事部屋にこもり、短い書評を書いてメール送信したのが午前2時。冷却シートを額に貼って寝たが、翌朝までにトイレに3回起きた。

4日目、いきなりつらい日がきた。体温が大きく上下をくり返し、とにかくだるい。体の節々が腫れたように詰まっている。何より喉がおかしい。むせるような咳が出はじめ、黄色味がかった痰がたくさん出る。食事も、妻が用意してくれたおかゆや冷やし中華を口に入れる程度だが、味覚異常はなさそうだ。

仕事部屋に移ってパソコンの原稿画面を開いたが、文章の切り替えも、場面の転換も、頭のなかで渋滞が起きているような感じでまったく思いつかない。もっとも、これがコロナのせいか、地頭のゆえかの判断はむずかしい。2、3の語句の修正をしただけで、すぐにベッドにもどる。

5日目、エアコンをつけた部屋で寝ていても、朝昼晩ともじっとり汗をかく。しかし、測ると37度前後。だいたい、病状が体温の変化でしかわからないことがもどかしい。血圧・脈拍も測ってみたが、大きな変化はない。とにかく食欲がない。お寿司2貫を口にしたが、痛い喉を通り過ぎるのが精いっぱいで、胃も腸も全然働く気がなさそうだ。

6日目、平熱にもどるが、喉の痛みがますますひどくなる。唾液を飲み込むと感じていた圧迫感のようなものが、胸腔全体に響く痛みに変わった。1時間に1、2度、咳にむせ、黄色い痰が出る。食欲は6割方、もどった感じ。

そして、7日目以降、水やコーヒーを飲むたびに喉に刺し込んでくるような痛みが残ったけれど、それも2、3日で引いていき、ふだんの体調がもどってきた。寝込んだのは1週間足らず、友人知人、妻にも感染しなかったところを見ると、軽症だったのだろう。

いっときは石田純一さんから聞いていた〝病状急変〟を思い浮かべなかったわけではない。しょっちゅう体温や血圧を測ったりもした。WHOが宣言した緊急事態下、国内の感染者約3400万人のうち、およそ7万5000人が命を落としたという事実を思い出し、そのとき自分だったらどれだけ無念に思うだろうかとも考えた。だが、恢復するにつれ、案外落ち着いていた診療所の様子や、それなりに効果を発揮してきたらしいコロナワクチンや治療法のニュースを思い起こし、そんなにあわてることもないと思ったりもした。我ながら、現金なものである。

そして、気がつけば、私はにやにやしていた。

これでやっと私も人並み、世間並みになったのだ。やったー。世間知らずとは、もう言われなくてすみそうだ。

参考

[1]


日本ペンクラブ シリーズ企画「コロナと文化~危機のなかで思い、考える」
第10回 石田純一×吉岡忍
https://www.youtube.com/watch?v=7tI9D35pG4A&ab_channel=[公式チャンネル]日本ペンクラブ

[2]


アルフレッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ~忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、みすず書房、2004年、原著は1989年刊)は結語の部分で、「第一次世界大戦そのものは、人々がパンデミックに対して比較的無関心であった、おそらくは最たる理由だろう」と述べ、ある基地の最高司令官がスパニッシュ・インフルエンザで亡くなった兵士一人ひとりの名前を読み上げ、追悼の鐘が鳴らされるたび、儀礼兵が「貴君は名誉ある戦場で亡くなられました」と応唱するシーンを紹介している。

[3]


速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ~人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006年)は、日刊紙「新愛知」が1918(大正7)年9月に大垣市の紡績工場で〝奇病発生〟と最初に報じた記事をはじめ、当時の全国紙・地方紙、樺太や朝鮮など〝外地〟の資料を広範囲に調べ上げた記録である。これらをもとに著者が独自に計算した結果では、スペイン・インフルエンザによる死者は通例言われる38万数千人よりはるかに多く、内地では45・3万人、外地28・7万人で、合計74万人にのぼる。しかし、これだけ多数の死者が出たにもかかわらず、人口は減少しなかった。当時の出生率が高かったことや、第一次世界大戦後のベビーブームが影響したのだろう、という。

[4]


内務省衛生局編『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』(東洋文庫、平凡社、2008年。底本は1922年刊)

[5]


そのなかで、戦後の私小説作家であることを自認していた安岡章太郎(1920~2013)の『志賀直哉私論』(文藝春秋、1968年)はユニークな位置を占めている。志賀直哉と白樺派文学には近代的な意味での「社会」がない、という批判に対して、安岡は「『社会化した〝私〟』という言葉は、じつに吞みこみにくく、捉えにくい。要するに、それは〝私〟を社会の中の一個人として客観的につかまえろ、ということなのだろうが、ともすればそういう〝私〟は所謂『滅私奉公』の〝私〟につながってきそうで、私は社会のなかで埋没せられてしまいそうな気さえする……」と書く。また別のところでの発言では、安直な気持ちで社会に出ていったら、「世界は又もや八紘一宇になっちゃうよな」とも語っている。
こうした主張からは、2つのことが読み取れる。1は、戦争を含む外部からの強引な私の社会化に対する、抵抗としての私小説の可能性であり、2つ目には、そもそも社会なるものに生きた人間を生みだすことができるか、社会化された文学は生きた人間を描けるか、という問いである。
ちなみに、安岡のものも含めて数ある志賀直哉論は、志賀作品を通じて個人や家意識や社会の関係を詳細に検証しているが、そこから日本人の生きる場としての「世間」という問題を抽出して論じたものは見当たらない。世間はさながら空気、彼らも気づかないかたちで遍在・内在していたという、これは証左かもしれない。

■本連載について
『墜落の夏』をはじめとするノンフィクションで知られ、2017年から21年まで日本ペンクラブ会長を務めた作家・吉岡忍氏が、フィクション、ノンフィクションを問わず記憶に残る文学作品とその書き手を取り上げ、〈虚構〉と〈現実〉のあわいに生まれるさまざまな文学の磁場について、自身の取材や作家活動を振り返りつつ考察を繰り広げる随想録です。(編集部)