みすず書房

「ペストと生命の勝負で、人間が勝ちえたものは、認識と記憶だった」

――カミュ『ペスト』(1947年)

「ペストと生命の勝負で、人間が勝ちえたものは、認識と記憶だった」

パンデミック(感染症の世界的な大流行)についての百科事典の解説や歴史書を開くと〝パンデミックは社会を変え、時代を画した〟ということが必ず書かれている。その例として、これまた必ずあげられるのが14世紀のヨーロッパを襲った「黒死病」、すなわちペストである。

このときヨーロッパの死者は3500万人、つまり3人に1人が死んだという。いわゆる文明世界全体では6000万人から7000万人が死亡した(「ペスト」『世界大百科事典』平凡社/ジャパンナレッジ)。どちらもとんでもない数字だが、これだけの人命が失われるさまを目の当たりにすれば、いやでも人々の気持ちは変わり、厄災から立ち直る過程で世の中の仕組みも変わらざるを得ない、また変わらなければやっていけなかったにちがいない。

だから、「人口激減によりヨーロッパ荘園経済は衰微し、宗教と学問の権威は失墜し、中世的な秩序が崩壊し、近代社会誕生をうながす要因の一つとなった」(同)という説明にも納得がいく。

だとすれば、今回の新型コロナウイルスの世界的大流行はどうなのだろう。

コロナ禍による死者は全世界で約700万人、14世紀のペストのときのおよそ10分の1である。この間、世界人口が3億数千万人から70数億人へと20数倍になったことを加味すれば、衝撃度はさらに下がるとはいえ、けっして少ない人数ではない。

とりわけ気になるのは日本のことだ。〝失われた30年〟と言われ、政治も経済も停滞し、少子高齢化もいよいよ深刻化してきたことはだれでも知っている。コロナ禍は保健・医療システムの脆弱さだけでなく、教育や町場の産業、貧困・失業対策等々、身近な社会基盤のもろさも露呈させた。これを奇貨として日本も少しは変わるだろう、変わってほしいと期待するのは、もちろん私だけではないだろう。

しかし、何かが変わり、何かを変えていくためには、昔の人たちがパンデミックをどう受け止め、その渦中で何を考えたかを見ておく必要がある。必ずやそこに、時代を画す手がかりがあるにちがいないからである。

 

 

3年3ヵ月におよんだコロナ禍のあいだ、世界でも日本でも、過去のヨーロッパで起きたペスト禍を題材にした小説がいくつも話題になり、〝パンデミック文学〟という文学のサブジャンルが言挙げされたりもした。私も何冊も読み、あるいは再読したが、やはりいろいろ考えさせられたのは以下の3冊だった。

 

  1. 上記の14世紀、黒死病と怖れられたペストを描いたジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』(原著1348~53年/河島英昭訳、講談社文芸文庫、1999年刊)
  2. 17世紀のロンドンでのペスト禍についてはダニエル・デフォーの『ペストの記憶』(原著1722年刊/武田将明訳、研究社、2017年刊)
  3. 20世紀、フランスの植民地アルジェリアの港町を舞台にしたアルベール・カミュ『ペスト』(原著1947年刊/中条省平訳、光文社古典新訳文庫、2021年刊)

カミュの作品が書かれたとき、ペストはすでに病因も感染経路も解明され、抗生物質による治療法もほぼ確立していた。むしろ彼はヨーロッパ社会にしみついたその恐怖の記憶(メメント・モリ/死を想え)を巧みに使いながら、戦争や革命などに揺れ動く現代世界そのものにひそむ非情さと人間の生き方を問うた、というべきかもしれない。

いずれにしてもこれらを読むと、ペスト大流行がどれほど人々を恐怖と不安に陥れ、ヨーロッパ社会を変えていったかが手に取るようにわかる。普通、小説は社会の変化をストレートに描いたりはしないものだが、上記3作品はまるで示し合わせたかのように中世、近代、現代へと時代を画した人々の姿を順繰りに、くっきりと浮かび上がらせている。

 

 

4、5世紀から1000年間もつづいたヨーロッパ中世は、土地所有者の領主層とキリスト教の宗教的権威が一体となって専横をきわめたことから、別名「暗黒時代(the Dark Age)」とも言われる。暗黒とは、人口の大多数を占めた農民たちが、身体的には、領主所有の荘園に農奴として拘束され、精神的には、各地の教会を通じて浸透した教えによって神の言葉と意志を内面化し、大半は抗うことも知らないまま、悲惨な暮らしと人生に束縛されてきた事態を指す。

しかし、中世後半、さしもの暗黒にも風穴が開くときがきた。きっかけのひとつは、イスラム教徒から聖地エルサレムを奪還すべくくり返された十字軍の失敗にあった。教皇や貴族の信用がガタ落ちする一方で、人々は大いなる異文化を発見し、イスラム圏との文物交換がはじまった。

もうひとつ刺激になったのは、モンゴル帝国を建てたチンギス・ハンの子孫らがユーラシアの東西にまたがって広げた版図だった。のちに『東方見聞録』で知られるマルコ・ポーロなどのヨーロッパ商人たちは果敢に中央アジアや中国(元)に出入りし、東西の交易に乗りだした。

こうしてたくさんの人と荷物が行き交う要路となったのが地中海だった。地中海沿岸のあちこちに港が建設され、取引き市場も織物などの手工業も活況を呈し、各地の町々はにわかにふくれ上がり、ごった返した。しかし、それはつまり、ペストが侵入し、感染を広げる絶好の条件が整ったということでもあった。

ネズミ由来のペストはノミを介して人に感染し、また唾液や分泌物の飛沫などを通じて人から人へと感染を広げていく。ネズミもノミも、船舶や荷物や人といっしょに移動するから、経済活動であれ、戦争や遠征であれ、世の中の動きがダイナミックになるにつれて感染は各地で爆発する。

1348年、イタリア中部の花の都フィレンツェにペストが侵入した。その10年ほど前、中国浙江省ではじまった〝悪疫〟が、陸路か海路かに沿って地中海沿岸に持ち込まれたものらしい。毛皮に取りついたノミがペストの運び屋だったという(加藤茂孝『人類と感染症の歴史』丸善出版、2013年刊)。

 

 

ジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313~1375)はこのとき35歳、人口10万を数えるフィレンツェに住んでいた。ペストはたちまち6万人の命をなぎ倒した(人口、死者数には諸説ある。ボッカッチョ自身は死者「10万」と書いている)。彼がその「目を覆うばかりの惨状」を目撃して書いたのが『デカメロン』だった。

その不気味な報告によれば、ペストに感染すると、鼠径部(そけいぶ)と脇の下に腫瘍が生じ、卵やリンゴの大きさにふくれ上がる。この「ペストの(こぶ)」がつぶれると、やがて全身に黒や鉛色の斑点が現われる。これこそ黒死病の印、患者は3日以内に死んだ。

病は燎原の火のごとく広がった。いかに健康に自信のある者でも患者と口をきき、衣服にさわっただけで感染した。家のなかでも街頭でも、昼夜をわかたず人は死んでいき、死臭が漂い出てはじめて一家全滅が判明した家も少なくなかった。ひとつの(ひつぎ)に夫婦や親子、ときには他人同士の遺体をまとめて埋葬したが、それでも墓地が足りなくなって、ついには大きな穴を掘り、何百もの死体をいっぺんに埋めた。聖職者も死に、祈りを捧げる人もいなくなった。

死臭や病人の発する異臭と、病魔を遠ざけるという薬や花の濃厚な匂いが町じゅうにみなぎるなか、まだ生きている者たちの心もすさんだ。若い親たちは、感染を疑って他人はもちろんわが子も遠ざけ、養育を放棄した。発病した女たちはあられもない格好をさらし、召使いも死体運搬人も金目当てでしか働かない。自暴自棄になって大酒を食らい、欲望に走った勢いで悪疫を追い払うのだとばかりに他人の家に押しかけ、大騒ぎする者たちもいた。

だが、ボッカッチョが書いたペストの惨状は、以上の「序」の一節に限られる。彼はこのあと、フィレンツェの混乱を避けて郊外の館に避難した7人の貴婦人と3人の貴公子を登場させ、1日に各人1話ずつ10人10話、2日の休みをはさんで10日間にわたって延々語らせたちょうど100話、いずれも奇想天外な物語をつづっていくのである。

もちろんそこには身近なイタリアやヨーロッパ各地の話題もあるが、往来がさかんになった時代を反映してイスラム圏やアフリカ、アジアの話もあり、登場人物の身分、職業、性格もさまざま。この多種多様、雑多なさまからは、彼自身が若いころから、行く先々で珍しい人や出来事や文物に出会って目を丸くし、首を突っ込み、話題に興じてきた姿が浮かんでくる。

なかにはこんな艶笑譚もある。

 ――ちょっとそそっかしい男に、ちょっとした遺産が転がり込んだ。聞き及んだ悪友どもと医者が悪戯心を起こし、おまえ、顔色が悪い、妊娠してンじゃないかとさんざん脅かした。男は、そんなバカな、と思いつつ、思い当たるフシがないでもない。夜、女房はいつも上になりたがる。きっとあれだ、おかげでオレが妊娠してしまったんだ、と。人前で秘密をバラされ、女房は真っ赤。医者が、お腹の赤ん坊を溶かして流す、と称して高価な薬を処方してやるが、じつはただの砂糖水。男が寝込んでいるあいだ、悪友連中と医者は手にした金でおいしいものをたらふく食って楽しんだ、とさ――(第九日第三話)。

かと思うと、こんな話。

 ――とあるフランスの男が、友人の織物商のユダヤ人にキリスト教への改宗を勧めた。その気になった織物商が、じゃ、ローマに行って、カトリック総本山の教皇や枢機卿のありがたい姿を拝んでこよう、と言うと、友人はあわてて止めた。現実を見たら、言行不一致にあきれて改宗などしっこないと考えたからだ。ところが、ローマからもどった織物商はあっさりキリスト教徒になった。曰く、エラいさんたちがあれだけ乱脈な淫蕩にふけり、貪欲で酒乱で金の亡者、7つの大罪すべてを犯しているというのにキリスト教は隆盛をきわめている、たいしたものじゃないか、というわけで、めでたし、めでたし――(第一日第二話)。

ここには、中世秩序のゆるみを揶揄する辛辣なまなざしがある。神の言葉と意志に従い、すべてを神にゆだねて生きよ、と説いてきた神の代理人たちのふるまいが、宗教そのものへの疑念を生じさせている。その疑いを表出するきっかけになったのがペスト禍だったことは言うまでもない。どんなに信心しても、神はこの壮絶な悲劇に救いの手を差し伸べてくれなかったのだから。

そして、ボッカッチョはその一方で、俗世に生きる人間たちを大胆に肯定することをはばからなかった。100話のなかに次々に登場する好色で、賢く、ちょっと狡猾で、愚かでもある俗人たちはじつに生きいきと、屈託なく描かれている。ヨーロッパが神に采配された中世の暗黒時代を抜けだし、ルネサンス(文芸復興)と大航海時代と宗教改革をくぐり抜け、近代へと向かうのはここからだった。

 

 

ダニエル・デフォー(1660頃~1731)が『ペストの記憶』を書いたのは、それから三百数十年が過ぎた18世紀の序盤。中世の重圧は過ぎ去り、産業革命までは半世紀ほど手前だったが、人間が主人公の近代がはじまっていた。

しかし、人間が主人公とはどういうことか。そもそも人間とは何なのだ?

デカルト(1596~1650)は「我思う、故に我あり」と言い、パスカル(1623~1662)は人間は「考える葦」である、と言った。ホッブズ(1588~1679)は人間同士、「万人が万人に対する闘い」状態に陥らないよう、互いに結んだ契約を集約する形で国をつくったらどうかと言い、ロック(1632~1704)は、国や政府は人民の合意によって成り立つものだから、気に食わないところがあったらいつでも追放し、作り直せばよいのだと言った。もう少しあとのことだが、これらの思弁と主張がルソー(1712~1778)の「社会契約論」へと収斂していくことになる。

彼ら思索家たちはみな、神にたよれない、またたよらない人間界の種々相を観察し、世の中をどうつくっていくべきかに思い悩んだ。そこから雑多で多種多様な人間が生きていく場として人工的、人為的な「社会」というものを想定し、そのありようや運営の仕方を考え、ああだ、こうだ、と議論し合っていた。

政治好きのジャーナリストであり、産業動向に詳しく、商売っ気もたっぷりあったデフォーが『ペストの記憶』を書いたのは、こうしてほぼ出揃っていた近代思潮を背景にしてであった。いや、彼自身が『ロビンソン・クルーソー』(1719)を書き、さまざまに創意工夫をしながら無人島での生活を切り開いていく男に、近代的人間像をかさね合わせて描いて大当たりしたばかり、いわばその思潮の後継者だった。

人気が絶頂に達した1720年ころ、フランスの港町でペストが発生したと聞くや、60代になっていた彼はさっそく子供のころにロンドンを襲ったペストのことを思い起こした。1665年、自分は親に連れられて避難したから目撃こそしていないが、あれは人口50万の都会で7万人の命を奪っていった大厄災、あれこそ記録に残しておくべき大事件だった、とジャーナリスティックなカンが働いた。

といっても、当時の彼はロビンソン・クルーソーの続編を仕上げる一方、都市最下層に生まれた女の波瀾万丈の人生を回想する小説を書くなど超多忙。合間を縫って古い資料をあさり、まだ生き残っていた体験者の話を聞き――かなりせっかちに、いささか書き飛ばした感のあるのがこの小説である。

 

 

語り手は「H・F」なる独身の馬具商人。ペストは怖いが、店や在庫のことを考えれば、おいそれと逃げだすわけにはいかない。不安はあるもののロンドンにとどまり、「この身の一切を全能の神の善意と庇護のもとに」ゆだねよう、と覚悟した。

もとより語り手が現場にいてくれなければ、酸鼻(さんび)をきわめたペストの物語は成り立たない。デフォーはH・Fをロンドンに残し、いろいろ口実を設けて危ない各所をさかんに歩きまわらせる。そこで見聞きした事実、光景、エピソード、公報の告示や死亡週報の数字、噂話……これらが、一貫したストーリーのないこの小説をつなぎ合わせていく。

犠牲者の断末魔の場面は同じ病だから当然のこと、ボッカッチョが描いたそれと変わらない。町は死と恐怖の匂いで満たされた。気絶する者、発狂する者、みずから墓に飛び込む者など、数知れない。死者たちはここでも、大きな穴に何十人、何百人といっしょくたにされて埋められた。

だが、14世紀と17世紀とでは明らかなちがいがある。

例えば、17世紀のロンドン・ペストの当初、庶民のあいだで、雲間から燃え上がる剣が飛びだしたとか、墓石の上を亡霊が歩いている、星が飛んだといった類いの妄言がさかんに飛び交った。占い師や予言者たちは大繁盛。ペストの予防・治療に絶対の効果アリ、とする怪しげな薬が次々に売りだされ、絶対の自信アリ、とのたまう自称医者や詐欺師たちもあちこちに出没した。

このこと自体が、近代だった。人々が神の言葉と意志を内面化していた中世なら、これほど人間の言葉が大手を振るって跋扈(ばっこ)することはなかっただろうし、人々がそれに引きつけられ、すがったり、あれこれ迷ったりすることもなかった。神が後退し、人間が優越する時代がきていたのだ。

むろんこの場合の人間とは、デカルトやパスカル以来、思索家たちがさまざまにもてあまし、手を焼いたように、放っておいたら何をし、あるいはしでかし、何を思考し、あるいは妄想するかわからない生き物の(いい)である。今日のわれわれは、近代をただちに〝合理性〟や〝合理主義〟に関連づけたがるが、これはむしろ現代人の偏向、ないしは浅知恵というべきかもしれない。

しかし、このときの近代という時代の何よりの証左は、人間がつくった社会の仕組みや制度が機能しだしたところにあった(ちなみに、イギリス国教会の最高首長たる当時のイングランド国王一族や貴族は早々に地方に避難していたから、本書にはまったくと言ってよいほど登場しない)。

ロンドンには市長以下、区ごとの区長がいて、区はさらに地域の教会を単位とした教区にわかれ、各教区ごとに感染状況を調べる「調査員」、感染者の出た家の出入りを禁止し、見張る「監視人」、その他死体を検死し、運びだし、埋葬する係などが任命された。監視人や埋葬人にはペスト禍で失業し、ますます困窮した多くの貧民が雇われた。

デフォーはH・Fにそれぞれの現場のドタバタぶりを報告させている。まず、毎週公表される死亡週報が当てにならなかった(人々が死者数が減ってきたというので安心して出歩いたら、たちまち感染した)。調査員の不手際も多く(調査される側は罹患を認めたがらず、しばしば逃げまわった。調査員が自身の感染に気づかず、感染を広げてしまったこともあったようだ)、監視人を置いたのは逆効果だった(病人を抱えたまま家を封鎖された家族が次々感染し、死者をふやした。また、裏口からこっそり抜けだす家族、賄賂や暴力沙汰で監視人を黙らせ、出歩く家族もいた)、等々。

一方、市当局には裕福な階層からかなりの義援金が寄せられた。純粋な善意もあったし、寄付によって神の歓心を買おうという打算もあっただろうが、おかげで市は財政破綻せず、監視人たちの賃金にあてることができた。市長らも頻繁に市内を見まわった。食糧調達と公平な配布の仕組みができると、餓死する者はなく、暴動も起きなかった(とはいえ商店主が不在の店や倉庫に入り込み、商品を勝手に持ちだす者たちはたくさんいた。普段なら〝泥棒〟だが、その種の常識は通用しなくなっていた)。路上で死んだり、家族が玄関口に横たえた遺体は夜中のうちに「死の車(デッド・カート)」に積んで墓地に運ばれたから、少なくとも日中の街路は意外なほど清潔だった。

 

 

そんな渦中、ロンドンを逃げだした「さすらい三人衆」がいた。乾パン焼き職人、船の帆をつくる製帆工、指物師の男3人が途中で出会った13人の難民と合流し、田舎の町や村を転々とするのである。

といってももちろん、行く先々でペストを運んできたと危険視され、行く手をはばまれた。すると3人、公道を通ってはならぬ理由は何か、ロンドンに帰って、この村の野菜や肉を買うなと言いふらすぞ、と知恵比べのような議論をふっかけて相手を困らせる。らちが明かなくなれば、指物師は木枝を削ってニセ鉄砲をつくり、軍の一隊のような顔をして、立ち去るから食糧をよこせと交渉する。製帆工はテントや藁ベッドや食糧貯蔵と運搬の袋をつくり、乾パン焼き職人は恵んでもらった小麦を水車で挽いてパンを焼いた。

そのうち、三人衆はじめ一行が讃美歌を歌い、おとなしく暮らしているのを遠目に見た村人たちが豚や山羊、ミルクやチーズを差し入れしてくれるようになった。お互い感染を怖れ、お金とモノは離ればなれでやりとりしたが、買い物もできるようになり、やがて空き家まで提供してくれた。かくして一行は、地方にも広がったペストから逃げまわり、各地を移り住みながら惨禍を生き延びたのであった。

デフォーはこの三人衆のストーリーを「これはとても正しい物語なのだ」と紹介している。たしかにあのペスト大流行を乗り越え、サバイブしようとしたら、どこまでもどこまでも逃げまわるしかなかった。3人の男たちを描く彼の筆致は、この前後の行きつもどりつのとりとめなさとはちがって軽やかである。

だが、見逃してはならないことが、ここには2つある、と私は読んだ。

第1に、ここでは社会が描かれている、ということ。

それぞれ得意技を持ち寄った三人衆の関係が社会というものの原型なら、途中から合流した13人との関係も小さな社会だった。そればかりではない。一行に買い物をさせてくれ、食べ物を持ってきてくれ、空き家を提供してくれた村人たちもまた、しだいに広がっていく社会を構成している。あるいは一行を怖がり、追い払おうとした人々も、窮地をどう切り抜ければよいかを教えてくれたという点で、その一員に加えるべきかもしれない。さすらう一行は、これら社会をつくり、それぞれとギブ・アンド・テイクの関係を結ぶことによって生き延びることが可能になった。

これは、無人島に漂着し、途中から従者がいたとはいえ、身ひとつ、知恵や工夫ひとつで28年間、衣食住をまかなって生き延びたロビンソン・クルーソーとはまったくちがう。ひょっとしてデフォーはこのくだりを書きながら、彼を近代社会に漂流させたらどういうことが起きるかを思い描いていたのではないか、とそんな空想も湧いてくる。

第2に、とはいえ社会をつくる際、神の助けが必要だった、ということ。

もちろんこのころ、かの暗黒時代のような神の重圧はなくなり、宗教改革も経て、イギリスは国王を首長とするプロテスタント系のイギリス国教会が主流となっていたが、宗教は政治党派の動向とも絡んで重要な精神的、文化的イシューでありつづけていた。語り手H・Fがロンドンに残ると決めたときも、神の善意と庇護をたよりにした。

そして、三人衆一行と村人を近づけたのもキリスト教だった。ある日、村人たちは森に野営した連中が讃美歌を歌っているのを耳にした。連中は薄汚く、ペストを持っていそうで物騒だが、ものを買えばちゃんと金を払う。そのうえ神を信じ、大事にしているとすりゃ、そんな悪党じゃないのかもしれない、というわけだった。

これは、見ず知らずの他人同士が近づき、社会をつくるとき、キリスト教がその接着剤になっている、ということである。宗教の説く愛や善や救済の教えが相互了解のベースとなって、互いを結びつけていく。思えばヨーロッパ近代とは、一方で、キリスト教に世の中を任せたらろくなことにならないが、他方で、キリスト教なしでは社会が成り立たないことを確認する、その長い認識過程のことであった。

 

 

今回のコロナ禍がはじまり、日本でも政府が緊急事態を宣言したとき、私は幾分か肩入れしてきた日本ペンクラブの面々と何日も議論し、ひとつの声明を出した[1]。政府であれ、世論においてであれ、ある種の悪疫に見舞われたときの社会の混乱、暴走、惨劇は歴史上、枚挙に暇がない。まだウイルスの正体も対処法もわからないまま死者が急増し、医療危機が叫ばれ、マスク着用、消毒、ソーシャルディスタンス、ステイホーム等々がさかんに喧伝されていたとき、声明は警鐘であるばかりでなく、みずからを戒める内容ともなった。

その後、ペンクラブの広報チームがYouTube公式チャンネルを通じ、コロナ禍に関する発信をはじめた。私はその企画のひとつにカミュの『ペスト』を提案した。だが、高校生のころに買った本はページが日焼けし、翻訳文体もいまの日本語感覚からはずいぶんずれている。ヘタをすると、コロナも大変だが、昔のペストも大変だったね、という程度の話で終わってしまいかねない。

さて、どうしたものか、と考えあぐねていたとき、友人から、フランス文学者の中条省平さんが新訳に取り組んでいる、という話を聞き及んだ。面識はなかったが、思いきって私は中条さんに手紙を書いた。そして、カミュに独特の(と私には思われた)登場人物たちの造形の仕方についてなど、5つの質問を一方的に投げかけたのである。

1週間ばかりが過ぎたころ、そのぶしつけな質問に対し、中条さんがひとつひとつ懇切に語った自撮り映像が送られてきた。大学の講義さながらの解説が40分超である。その手際のよさにも明快な内容にも驚かされたが、私はすっかり恐縮してしまった。その日は徹夜、パソコンの慣れない映像編集ソフトにつまずきながら小さな見出しをつけただけで、そのまま広報チームに渡すことにした[2]

というようないきさつを経て、私は中条さんの解説をたよりに、もう一度カミュを読み直すことにしたのだった。

 

 

アルベール・カミュが『ペスト』を書きはじめたのはデフォーから二百数十年後、第二次世界大戦中のことだった。発表されたのは戦後の1947年、カミュ33歳のとき。当時はヨーロッパでもアジアでも、まだそこらじゅうに戦争の爪痕がむきだしのまま、硝煙や血の匂いも消えやらない混乱と虚脱状態のさなかだった。

舞台は北アフリカ、フランス植民地下のアルジェリアのありふれた港町。1匹のネズミの死骸からはじまったペストはたちまち人間に感染した。町は封鎖され、ペストはいよいよ猖獗(しょうけつ)をきわめ、人々はパニックに陥った。一部の登場人物たちは「保健隊」をつくり、患者の世話や遺体の運搬などのボランティア活動をはじめるが、物語は病魔がそれ自体のなりゆきで衰退するまでの10ヵ月間、生き延び、死んでいった人間たちの群像劇のように進んでいく。

一般的に作家は、登場人物たちを年齢や職業ばかりでなく、容貌や着衣、口調や仕草などによって性格づけ、造形する。それらを人物たちの考えや行為、ひいてはストーリーのリアリティーにつなげるためだが、この作品のカミュは、その種の描写には素っ気ないほど深入りしない。かわりに彼は、まったくちがう要素を一人ひとりに背負わせている。

たとえば、主要登場人物の一人、タルーである。ホテル暮らしの暇人ふうだが、各人の自発性で活動する保健隊を組織したのは彼だった。父親は検事で、10代のころ、家ではよき父親が、被告に平然と死刑を求める法廷を見てショックを受ける。家を飛びだし、だれも抑圧されず、だれも殺されることのない世界をめざす各地の政治活動に関わった。だが、同志たちが政敵を銃殺刑に処す現場に居合わせて衝撃を受け、その活動からも離れてきた。

タルーにとっては町を侵食するペストも、多くの人間の安寧や幸福のためと称し、つねに一定の人間に死を強いることで成り立つ社会も同じこと。たくさん殺した者が勝者になる世界に生きることの欺瞞に苦しみ、忘れようと享楽し、そのこと自体に疲れ果てた人物として描かれている。

たまたまパリから取材にきて、ペスト禍に巻き込まれた新聞記者ランベール。妻に会いたい一心で町から逃げだそうと画策するが、うまくいかない。しかし、この彼もじつは数年前、スペインで起きた人民戦線政府と反乱軍のファシズム勢力との内戦の際、敗れた人民戦線の側に立って戦ったことがある。そこで見たのは、双方が高邁な理念を掲げながら相手を殺し、それぞれがヒロイズムに酔っている現実だった。以来、ランベールは身近にある親密な愛しか信じられなくなっていた。

イエズス会のパヌルー神父が背負うのは、もちろん神である。彼にとって神への愛とは、自己を全面的に放棄し、神に従うこと。激烈な説教のなかで、彼はペストを神が人間に下した懲罰だと言い、それに感染することも神の意志なのだから、人間はその試練を黙って受けるべきなのだ、と自分の考えを押し進めていく。まもなく感染した彼自身、その通りに医者や医療にたよることなく死んでいった。彼が救済されたかどうかはだれにもわからない。

初老のグランはうだつの上がらない下っ端公務員である。別れた妻の面影を追いかけるような小説を手がけているが、いつも冒頭から先に進まない。だが、グランこそ保健隊の事務の要だ。彼が地道につけている感染状況の記録や統計なしにはボランティアも動きがとれない。ペストと闘う最前線にいながら、どんな仕事もいやな顔ひとつせず、ほかの人たちがやっていることに比べたらたいしたことないですよ、と黙々と働く人物として登場する。

そして、最重要人物の医師リューがいる。物語の多くの場面が彼の目を通して描かれるが、かといって彼はペストと英雄的に闘ったわけではない。医者として町にいて、ペストに苦しむ患者を診察し、なすすべもなくそばにいてやることしかできなかった。血清注射が治療に使われるようになっても、別段、劇的な変化は起こらない。それでも彼は休むことなく、夜遅くまで患者一人ひとりを診てまわった。

タルーに、あなたにとってペストとは何なのか、と問われたリューは「果てしなく続く敗北だ」と言い、それでもあきらめずに闘うことを教えたのはだれなのか、と畳みかけられて、即座に「貧乏だよ」と答える。彼は貧しい労働者の家の出だった。

その後、タルーはそんなリューの姿を間近に見、ともに働くうちに、みずからの苦い生いたちと体験を語りだすのである。二人のあいだには理解と友情が芽生えていく。町が寝静まった夜、ペスト騒動からつかのま離れた彼らが海水浴に興じる場面からは、そのしみじみとした温かさが伝わってくる。

予審判事の子供がペストに感染した。リューは最初の血清を注射するが、かえって苦しみを長引かせただけだった。少年は全身でもがき苦しみ、絶叫しながら死んでいく。このときばかりはリューも、子供たちが苦しめられるように創造されたこの世界を愛することを拒否する、と怒りをぶちまけた。

子供たちに、この残酷な世界をつくった責任はない。何より子供は未来に属している。その未来の人間の可能性を閉ざすペスト、その未来を制約し、ねじ曲げる、いま、ここという現代のさまざまな非情さがのしかかってくる。

やがて保健隊を差配し、リューと同伴するように動いていたタルーも感染した。彼はホテルが隔離検疫所に転用されて以来、リューと母親が暮らす家に居候していた。母親は黙って編物をし、影に埋もれるように控えめに暮らしているが、すべてに善良さがあふれ、どんな光にも匹敵するような人だった。ベッドに伏したタルーは彼女にほつれた髪を直してもらいながらその光景を眺め渡し、「ありがとう、いまこそすべてはよい」とつぶやくと、体のなかの最後の糸が切れたように静かに息を引き取った。

 

 

20世紀なかば、人間がつくるものとしての社会は、国家を頂点に集約されるさまざまな制度として実体化していた。デフォーの時代のあと、市民/ブルジョア革命や産業革命を経て続々と成立した国家同士、あるいはそれぞれの内部の批判・反対派は、各々に理念や理想とする資本主義、全体主義、国粋主義、民主主義、民族主義、共産主義、国際主義等々の〝主義(イズム)〟を掲げ、張り合っていた。

カミュが登場人物たちに担わせるのは、こうしてせめぎ合う現代の制度や主義主張と、そこから必然のように派生する社会的現実――戦争、革命、階級、官僚制、死刑、宗教、貧困、犯罪などなどである。そこでの体験や見聞が、一人ひとりの性格や信条や態度に色濃く反映している。ここに、この小説における人物造形のユニークさがある。

そうした仕掛けのうえで、このペストの物語はそれぞれの経験や信条を背負った人物たちが、対話し、議論し、理解し、友情を見つけ、すれちがい、背を向け合っていくさまを描く(中条さんが別の著書[3]で使った言葉を借りれば)「ディスカッション小説」となり、緊迫したディスカッションドラマになっていく。

浮かび上がってくるのは、現代という社会の〝現在地〟である。町は、厄災がもたらす死と恐怖と不安の渦中にある。知事や市長やそこに連なる諸制度は、つじつま合わせや責任逃れに忙しくて何の役にも立たず、もろもろのイズムは出番すらない。

カミュはときどき事態が深刻化していくさまの描写を止めて、この惨禍をじっと耐えるように暮らしている市井の人々の姿を書き留めている。役所の上司に粗末に扱われながらも、保健隊の仕事を黙々とこなす末端公務員もそうなら、リューの母親もそうである。家事を終え、食堂の片隅に寡黙に座り込む老いた影。黙って編物をする様子。疲れて帰ってくる息子を気づかう栗色の目。そこに漂うのは〝愛情〟だが、そう呼んだとたんに消えてしまうような何かだ。

どれも短いが、一瞬、時間が静止するような光景である。動揺する町の大勢には何の影響も与えないが、ここには、本来、人間の暮らしとは、いや、人間とは本来、こういうものだったろう、と登場人物たちと読者の両方の目を引きつけ、気づかせる静けさがある。

リューもまた、医者としてペストに負けつづけであることをわかっていながら、仕事を投げださない。いつも通りに患者を診てみわり、励まし、その場を離れない。

 

「今回の天災では、ヒロイズムは問題じゃないんだ。これは誠実さの問題なんだよ」

彼はそう語り、誠実さとは「私の場合は、自分の仕事を果たすことだ」とつけ加えている。いかに無力であれ、彼もまた淡々と人間であろうとする人々の一人だった。

 

 

ここでもう一度、人間とは何か、という問題が立ち返ってくる。

中世の終わり、ペストのすさまじい惨禍を目の当たりにしたボッカッチョは、暗黒時代の一翼を担った宗教に疑念を呈し、俗世に生きる人間たちを大胆に肯定した。

近代のはじめ、子供時代のペスト禍を思い起こしたデフォーは、人間が何をし、何をしでかすか、何を思考し、何を妄想するかわからない危なっかしい存在でありながら、多少は神の助けを借りてではあったが、少しずつつながり、社会というものをつくることで生き延びていく様子を描いた。

では、20世紀のカミュはペストを通じ、人間と人間がつくった社会をどうとらえたのか?

もはや神はいない。いても、医学を拒否し、疫病を神の試練として受け止め、死んでいく神父の姿に現われる程度にしか存在しない。それは思考というより、熱狂的な妄想と言うべきだろう。

かわりに社会はある。むろんそれは神のいない社会である。だが、大厄災に見舞われた町や社会では、諸制度は硬直し、諸イズムは役に立たない。(たが)がはずれた社会で、危なっかしい人間たちがさまざまに羽目をはずすのを踏みとどまらせるものがあるとすれば、それは何なのか。

カミュの主人公は、それは誠実さだと言い、自分の仕事を果たすことだと語った。

少し広げて言えば、それは生き方の〝倫理〟ということだろう。一人ひとりのひそやかな倫理性。

現代の社会には煩雑な制度、にぎやかなイズムがひっきりなしに出たり入ったりしているが、その底のほうにあって、社会をゆるやかに律しているものは、個々一人ひとりの誠実さ、倫理や倫理性としか言いようのない何かなのだ。

それは、いかにもたよりない。

たよりないけれど、そういうものがなかったら、この社会はもたないのだ。ばらばらに壊れてしまう。人間がつくったいまの社会は、そんなたよりないものの上に成り立っている。

 

 

ようやくペストは去った。カミュはリューの心境に託し、この10ヵ月をふり返っている。彼が得たのは「ペストを知ったこと、そしてそれを忘れないこと、友情を知ったこと、そしてそれを忘れないこと、愛情を知ったこと、そしていつまでもそれを忘れないにちがいないということ」であり、結局、

 

「ペストと生命の勝負で、人間が勝ちえたものは、認識と記憶だった」

そう結んでいる。

小説もエンディングに近い。私も目の前のコロナ禍にかさねながら、そうだよな、と思い、この数行を読み、ページをめくりそうになって――指が止まった。

認識と記憶か……では、何を認識し、何を記憶すればよいのか?

パンデミックであれ、戦争や自然災害であれ、〝記憶〟はこのところちょっとした流行り言葉である。何が起きたか、なぜ起きたのかを認識し、よく覚えておかなければ、また同じ失敗・失態をくり返してしまう、そうならないための戒めとして記憶の大事さが強調される。その事情は、もちろん私にもわかる。

だが、リューは、リューに託してカミュは、ここでペストに加えて「友情」と「愛情」を同列に並べている。どちらも人間的な感情であり、人と人を親密につなぐ情愛のことだ。一人ひとりの生にとってそれらが大事であることは言うまでもないが、パンデミックのような社会的な出来事においてはどうなのか。そんなプライベートな事柄を認識し、記憶しておくとはどういうことか。

そう考えているうち、はたと私は思い当たった。

リューはその前に「誠実さ」について語っていた。大厄災に見舞われ、周囲が動転し、浮き足立つなかにあって、いかに敗北つづきであっても、医師として黙々と自分の仕事を果たすこと、その誠実さ。だが、それはあくまで彼一人の、個人の内面に関わる倫理だった。

しかし、どんなに私的な関係であれ、友情や愛情には相手がある。ペストのさなか、リューは寡黙で年老いた母親との愛情を再確認し、ともに活動しながらも死んでいったタルーとの友情を得た。その周辺には数は多くないけれど、この一連の騒動のなかで知り合い、協力し合い、信頼し合った人々もいた。

町が平常にもどれば、一人ひとりはまたばらばらに暮らし、それぞれに生きていくだろう。だが、ともに何ごとかをなそうとし、知恵や力を出し合い、いっしょに働いた経験の記憶は残る。互いにそこで感じた愛情や友情の記憶は残る。もしまた異常事態が持ち上がれば、人は同じように集まってくるだろう。同じ人物たちかどうかはわからないが、そういう人たちが必ずいる。その認識は記憶となり、確信になる。

いまや現代の社会はグローバルに広がって途方もなく巨大で、一国にかぎってみても、だれも全体像を見通せず、輪郭さえ曖昧なものだが、その片隅に、その身近なところに、ひとたびことが起きたら、ともに何かをしようという人たちが必ずいる、という確信こそ社会というものの最初の手ごたえになり、社会に対する信頼のはじまりになる。そして、それがまた個々の人間の社会に対する態度を形成する。

カミュが言っている認識と記憶とはそういうことではないか、と私は読んだ。パンデミックに対する恐怖や不安、それにまつわる諸制度の不手際やイズムのあれこれももちろん社会の現状として忘れることはできないが、より大切なことは、この間の一人ひとりが何を倫理とし、身近な他者とどんなことをしたか、その経験は何を残したか、それをこそ認識し、記憶しておくということなのだろう。

 

 

こうして私はヨーロッパのペスト禍をめぐるボッカッチョ、デフォー、カミュの小説を歴史をたどりながら読んだあとで、日本の小説を読みはじめた。日本の場合、幸いヨーロッパのようなペストの大流行は経験しなかったが、世界的なパンデミックに巻き込まれた歴史としては大正時代の「スペイン風邪」がある。

当時の日本の人口は約5500万人。スペイン風邪には2400万人がかかり、39万人が亡くなったという。約2倍になった人口増を勘案すれば、今回のコロナ禍における日本の感染者数3380万人、死者7万5000人を大きく上まわる大厄災だった。

 このとき日本の作家たちは何を見、どう考え、どんな小説を書いたのか。

私は彼我の作品が浮き彫りにする大災害のとらえ方の相違、それを生みだした世の中の成り立ちのちがいに、目のくらむような思いをすることになった。

(この項、7月号につづく)

参考

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日本ペンクラブ声明 「緊急事態だからこそ、自由を」
 感染拡大する新型コロナウイルスと政府による緊急事態宣言。日本社会はいま、厳しい現実に直面している。
 私たちは、命のかけがえのなさを改めて噛みしめたい。各分野の医療関係者が蓄積してきた技術と知見を信頼し、それらが十二分に発揮されるよう期待する。また、私たち自身が感染しない冷静さと、他者に感染させない配慮とを併せ持つ人間でありたいと思う。
 そして、私たちは、こうした信頼・期待・冷静・配慮が、人と人が自由に発言し、議論し、合意を築いてきた民主主義社会の営為そのものであり、成果でもあることを何度でも確認しておきたい。
 緊急事態宣言の下では、移動の自由や職業の自由はもとより、教育機関・図書館・書店等の閉鎖によって学問の自由や知る権利も、公共的施設の使用制限や公共放送の動員等によって集会や言論・表現の自由も一定の制約を受けることが懸念される。
 これらの自由や権利はどれも、非常時に置かれた国内外の先人たちの犠牲の上に、戦後の日本社会が獲得してきた民主主義の基盤である。今日、私たちはこうした歴史から、どんな危機にあっても、結局は、自由な言論や表現こそが社会を健全にしてきたことを知っている。
 私たちの目の前にあるのは、命か自由かの選択ではない。命を守るために他者から自由に学び、みずから自由に表現し、互いに協力し合う道筋をつくっていくこと。それこそが、この緊急事態を乗り越えていくために必要なのだ、と私たちは考える。
 いつの日か、ウイルス禍は克服したが、民主主義も壊れていたというのでは、危機を乗り越えたことにはならない。いま試されているのは、私たちの社会と民主主義の強靱さである。
  2020年4月7日
  日本ペンクラブ会長 吉岡忍

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YouTube 日本ペンクラブ公式チャンネル
シリーズ企画「コロナと文化~危機のなかで思い、考える」
中条省平編 https://www.youtube.com/watch?si=N9Tnwt6_ayTN_NKg&v=xoglnwDX_xw&feature=youtu.be

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中条省平『カミュ伝』集英社インターナショナル新書、2021年刊

■本連載について
『墜落の夏』をはじめとするノンフィクションで知られ、2017年から21年まで日本ペンクラブ会長を務めた作家・吉岡忍氏が、フィクション、ノンフィクションを問わず記憶に残る文学作品とその書き手を取り上げ、〈虚構〉と〈現実〉のあわいに生まれるさまざまな文学の磁場について、自身の取材や作家活動を振り返りつつ考察を繰り広げる随想録です。(編集部)