みすず書房

「みんな。外へ出ましょう。先生が面白い遊びを教えてあげます」

――阿久悠『瀬戸内少年野球団』(1979年)

「みんな。外へ出ましょう。先生が面白い遊びを教えてあげます」


 はい、見ました。この春の第5回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)2023、「侍ジャパン」の活躍ですね。テレビでですが、東京ドームの予選4試合と準々決勝、フロリダ州に飛んでの対メキシコ戦準決勝とアメリカ相手の決勝まで、12日間の7試合、私も全部見ました。

見ながら、とんでもないものを見ているんじゃないか、と思いましたね。

日本チームが世界一になったというだけじゃありません。それなら2006年の第1回、09年の第2回でも優勝しています。しかし、今回の14年ぶりの優勝までのあいだに東日本大震災と原発事故があった。直近3年半はコロナ禍です。足もとが揺さぶられるような出来事を経たあとでは、われわれの受け止め方もちがうような気がするんです。

頭に浮かんだのは、作詞家・阿久悠(1937-2007)の自伝小説『瀬戸内少年野球団』(1979年)でした。敗戦直後、瀬戸内海の島の子供たちが草野球に夢中になる物語ですが、大人は戦争に負けて大変なんだけど、子供たちは瀬戸内のきらきらした海がはじけるように走りまわっている。侍ジャパンの選手たちを見ていて、まずあれを思い出しました。

じつは私も信州の小学生だったころ、野球少年だったんですよ。いまは軟弱そのものですが(笑)、ピッチャーだった。といっても昭和30年代ですから、もう私の周辺には小説の背景となった戦争の悲惨や敗戦直後の混乱は見当たらなかったですけど。

阿久やそのちょっと上の世代が野球を語るとき、敗戦直後の体験と結びついた独特のものがあるでしょう。大江健三郎『ピンチランナー調書』、井上ひさし『下駄の上の卵』、寺山修司のエッセイ「野球の時代は終わった」……。どれも野球を手がかりにしつつ、語っているのは社会についてです。この独特さはなぜ生じたのだろう。

もうひとつ、何十年も前に聞いたシベリア抑留者の話まで芋づる式に浮かんできて……そういういろいろが積み重なって、とんでもないものを見た、という印象になった。

ちょっと大袈裟ですが、われわれは明治時代からずーっと引きずってきた呪縛をやっと解けるのかもしれない。戦前・戦中・戦後と現代、ついに身につけられなかった〝ある種の感覚〟を獲得できるんじゃないか。そうなってほしいという期待を込めてですが、あの12日間、そんな歴史の転換点に立ち会っているような気がしていました。

 

 

野球が日本に入ってきたのは明治はじめの1872年、東京の第一番中学、いまの東京大学で英語を教えていた〝お雇い外国人〟が、近代日本のエリートの卵たちの貧相な体格を見て、遊びながら体を鍛えるスポーツとして教えたのが最初といわれています。150年前ですね。

いろんな遊びをヒントにベースボールが考案されたアメリカでも、実際に流行らせたのは南北戦争(1861~65年)に従軍した兵士たちだったそうですから、時差は10年ばかり。日本の野球のスタートも案外早かった。

学生たちは夢中になりましたが、例えば当時の体育会系応援歌です。「花は桜木、人は武士。武士の魂そなへたる一千人の青年が、国に報ゆるその誉れ」ときて、「富士の高峰に比ぶべき、節操義烈勇ましく、なほその上に研ぎ磨き、月日に励む腕力は、撃剣柔術銃創や、ベースボールにボート会」……ちょっと〝引く〟内容ですよね。

彼らは野球を武士道や報国精神、忠義・忠誠を尽くす舞台のように考えている。当時の指導層モデルが「侍」しかなかったといえばそれまでですが……横浜あたりに居住していたアメリカ人の同好会と他流試合をやって、勝った勝った、アメリカを制圧した、なんて大騒ぎまでしています。

しかし、もう少し冷静に、このアメリカ由来のスポーツの本質は何かと考えた人もいます。俳人の正岡子規はいっとき帝大生だったころに捕手として活躍し、後年の俳句や随筆でその面白さを紹介しています。

若人の すなる遊びは さはにあれど ベースボールに ()く者はあらじ
 今やかの 三つのベースに人満ちて そヾろに胸の 打ち騒ぐかな
 九つの 人九つの あらそひに ベースボールの 今日も暮れけり

彼が着目したのは野球が「九つの、人九つの争い」、つまり〝チーム〟で行なわれるということです。しかも試合の局面はめまぐるしく変わる。攻守どちらにあっても「胸の、打ち騒ぐ」ですね。これは柔道や剣道、弓道などとはまったく異質の面白さだ、と気がついていた。

野球は「新しい文化」だった、と回顧したのは物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦でした(寺田「野球時代」1929年/昭和4年)。彼が野球を知ったのは熊本五高で夏目漱石に英語を習っていたころですから、明治20年代末でしょうか。

寺田の趣旨を少し意訳すれば――それまでの文化や武術は〝射的〟のようなもの。つまり対象物は静止していて、それを狙う主体のありよう、例えば自分の素養や平常心をどうつくるかさえ考えればよかった。ところが野球となると、飛んでくる球を打ち、転がる球を追いかける〝ハエ叩き〟である。われわれは野球をやりながら、主体も客体も揺らいで不安定、先の見えない時代の「不確定性」を感じ取っていたのではあるまいか、と。

子規や寅彦は野球に新時代の到来を見ていた、と言ってもいいと思います。どういう世の中になるかわからないにしても、そこに臨むわれわれの構えや考え方や文化も変わらなければならない。そのことに気持ちを高ぶらせる様子が伝わってきます。

 

 

日米でさほど時を置かずに始まったベースボール/野球が爆発的なブームになったのは第一次世界大戦(1914~18年)あたりからです。この戦争はヨーロッパを戦場に、産業革命以来の工業国同士の総力戦として戦われ、勝者にも敗者にも壊滅的な被害をもたらした。アメリカも日本も参戦しますが、戦場から遠い両国が得たのは漁夫の利。戦争中からいっきに自国の工業化と貿易立国化を推し進めて好景気に沸き返ります。

アメリカでは大量生産の自動車産業が勃興し、家庭電化が進み、ニューヨークの摩天楼も建ち始めた。ラジオからはジャズが流れ、映画館ではディズニーアニメが大はやりだった。「永遠の繁栄」「黄金の1920年代」です。

〝野球の神様〟ベーブ・ルースが活躍したのがこの時代でした。彼は投打の二刀流でファンを湧かせ、やがてホームランを量産して、ベースボールを豪快な〝打撃戦〟へと一新し、〝国技〟にまで昇格させる立役者になりました。

一方、日本でもそこらじゅうに「成金」が生まれ、繁華街には芝居小屋や活動写真館、一杯飲み屋やカフェーが軒を連ね、サラリーマンや労働者が群がり、モボやモガが闊歩した。欧米からデモクラシーとは何ぞや、革命成ったソ連からも共産主義とは何か、という思想がどっと入ってくる。「大正デモクラシー」「民本主義」の時代です。

この時期に、朝日新聞は「全国中等学校野球大会」、いまの高校球児の「夏の甲子園」開催に乗りだします(1915/大正4年。甲子園球場での開催は1924/大正13年から)。おくれて毎日新聞も春の「選抜甲子園」を始めた。大学の対抗試合も大賑わいです。京都の文房具屋のおやじさんが軟式ボールを発明し(1918/大正7年)、各地の中小零細ゴム会社がいっせいに売りだすと、野球はたちまち日本じゅうの子供たちの遊びになっていきました。

けれども、時代は暗転します。

関東大震災(1923/大正12年)で首都は瓦解・炎上し、10万余人が犠牲となった。
 普通選挙法と抱き合わせで公布された治安維持法(1925/大正14年)が、天皇制の国体観念や軍国主義イデオロギーを世の中の中心に押しだし、言論表現・思想・結社の自由を奪っていった。

永遠の繁栄に浮かれていたアメリカでバブル経済がはじけ飛び、世界恐慌(1929/昭和4年)が始まった。日本では米国向け生糸の輸出がストップし、以後数年間、現金収入を養蚕に頼っていた農家・農村が貧窮のどん底に突き落とされた。

その窮状を打開すべく、陸軍過激派は満州事変(1931/昭和6年)と満州国建国を画策し、国際的非難を浴びた日本は国際連盟を脱退してしまう。その後は日中戦争の勃発(1937/昭和12年)と泥沼化、さらに対米関係の悪化から真珠湾奇襲と太平洋戦争開戦(1941/昭和16年)へと坂道を転がり落ちていく……。

 

 

この間、野球はどうだったかというと、けっこうぎりぎりまで「野球狂時代」がつづくんです。寺田寅彦が先のエッセイを書いたのも、じつはこの野球ブームが始まったばかりのころ。ラジオが普及して、行く先々で早慶戦の中継が聞こえてくる。バスやタクシーに乗っても、どっちが勝ちましたか、と聞かれる。さすがに彼もあきれています。

あげくに、各大学は〝袖の下〟を使って有望選手を獲得する。選手らは出場のたびに高額の小遣いをもらえるので留年・転校をくり返し、勉学なんかそっちのけ。ゴムボール製造会社は小学生野球大会まで乱立させた。おまけに、かなりの額の大会入場料が使途不明で消えていく……。そんなこんなで、とうとう文部省が「野球統制令」(1932/昭和7年)を発する騒ぎにまで発展していきます。

在郷軍人会や一部の新聞は「思想善導」を叫びました。アカやデモクラシー、自由主義や個人主義はもちろんけしからんが、この国家危急のとき、野球狂いも放っておけない、これら「悪思想」を排除し、若者たちを正しい国体観念と日本精神へと導かねばならない、というわけです。

それでもこの時期、野球ブームで朝日、毎日の後塵を拝していた読売新聞はベーブ・ルースなどメジャーリーガーを招聘し、神宮球場、甲子園など全国で「日米野球大会」を開催しています(1934/昭和9年)。日本チームには統制令のおよばない学生選手OBを集めた。全敗でしたけどね。プロ野球が生まれたのはこれがきっかけです。

とはいえ敵性スポーツ=野球への風当たりは強くなる一方。〝神域〟の神宮球場にアメリカ人なんぞを入れて穢したといって、読売社長が右翼暴漢に襲われたりもした。野球をやる側には危機感がありました。
 〝学生野球の父〟と呼ばれる飛田穂洲(すいしゅう)もその一人だった。早稲田大学の選手からコーチ、監督になり、その後は新聞記者になって「千本ノック」「一球入魂」など、心身の鍛練を重視する〝野球道〟を説いた人です。彼が書いています。

曰く――学生選手の野球部愛、母校愛は「とりもなおさず国家愛を教うるもの」「一致団結の団体精神は、一丸となって敵に当たるの心意気を示唆し、犠牲的精神は、喜んで国難に殉ずべき暗示を与えるものに外ならぬ」(1940/昭和15年。飛田穂洲選集 第3巻『野球記者時代』所収)。

この人は軍国主義には批判的だったらしいですが、せめてこの野球、少し大目に見てもらえまいか、と言いたかったのでしょう……しかし、もう完全に追い込まれていますね。太平洋戦争が始まると、甲子園大会も学生野球もプロ野球もすべて禁止です。

 

 

シベリアに抑留された元日本兵が言っていたことを思い出しました。

敗戦後、満州などにいてソ連に抑留された元兵士や民間人は58万人。捕虜たちは極東シベリアからウラル山脈あたりまで、1200ヵ所の収容所に送り込まれ、森林伐採、鉄道敷設、土木工事などの重労働に動員され、酷寒と劣悪な食事や衛生状態のせいで7万人が死亡した……。私は学生のころ、実際に抑留された人の話を聞きたいと思い、都内八王子市あたりに住んでいた人を訪ねたことがあります。

彼が数百人の日本人といっしょに連れていかれたのは、中央アジアの捕虜収容所だったそうです。ほかに旧ナチスドイツ軍や対独協力派だったポーランド軍の捕虜もいて、連日、道路工事やビル建設に従事させられた。泥のように疲れても、わずかばかりの冷たいスープと固い黒パンしか与えられなかった、と顔をしかめながら、ふと何か思いついたように笑った。

サッカーの話でした。たまの休みの日、空き地に出て、ドイツ人やポーランド人と国別対抗のサッカー試合をやった。日本人はサッカーを知らなかったから、身ぶり手ぶり、ボールの蹴り方やルールから教わった。

「しかし、いくら慣れても、われわれは弱いんだ。相撲とかレスリングとか、一対一の勝負なら負けないのに、サッカーは全然歯が立たなかった。あれは前後左右、敵と味方の選手の動きを見ながらボールを蹴り、走りまわるスポーツでしょう。肝心なのはチームワークやチームプレーだ。ああいうの、日本人は苦手なんだよな」

辛い体験を聞いたあとで、これだけは楽しそうな話でした。つられて私は質問した。でも、戦争全体も個々の戦闘も、集団と集団のぶつかり合い、チームワークそのものじゃないですか?

そのときの彼の答も、私は覚えています。

「ちがうちがう。上の連中がどう考えていたか知らんが、われわれ下っ端は命令一下突撃する、がむしゃらに突っ込むことしか叩き込まれていないんだもの。頭数は集団だが、だからってチームワークとは言わんでしょうが。あれじゃ戦争に勝てなかったのも無理ないな、と思いましたよ」

 

 

戦争が終わった。

ここは瀬戸内海に浮かぶ淡路島。島はずれの漁師町では、敗戦におたおたする大人に混じって子供たちも途方に暮れている。昨日までの教科書には墨を塗った。これから何を勉強すればよいのか? 阿久悠の小説『瀬戸内少年野球団』は子供たちの戸惑いから始まります。

進駐軍の巡視にびくつくおまわりさんや職業軍人、闇市で稼いできては派手ななりで歩きまわる復員兵、飲み屋の女や旅芸人のはぐれ者が悶着を起こすたび、子供たちもそわそわと落ち着かない。この子たちも親を失い、将来の夢もくじけて傷ついている。

クラスの担任は、網元の長男と結婚した女先生です。元甲子園球児の夫は復員してきたが、片脚を失っていた。彼女は夫から野球のイロハを教わります。そして、ある日、勉強など上の空の子供たちにこう言うのです。「みんな。外へ出ましょう。先生が面白い遊びを教えてあげます」

それが野球でした。子供たちは夢中になった。親に言って、木のかけらに糸を巻き、布でくるんでボールをつくってもらう。丸太を削ると、一升瓶のようなバットもできた。女先生がノックする球を、子供たちは汗だくになって追いかけます。いつしか片足の先生の夫も出てきて、大声でコーチしている。

といっても、めきめき腕が上がったわけではありません。町内あげて応援に駆けつけた隣町チームとの試合では、四球とエラーの連発。1回に14点も取られ、あげくに双方入り乱れての乱闘騒ぎとなってコールド負け。それでも子供たちはあきらめない。たとえ大負けしても、力を出しきって戦うところに生まれる達成感。そこに、これから自分たちが生きていく世の中の、最初のかたちを発見していたからです。

作者は書いた。敗戦直後の一時期、「お仕着せの価値観ではなく、庶民や子供が価値観を見つけ得る時代があった」「国家の地軸のズレがユートピアを現出させ」たのだ(文春文庫版あとがき)。

 

 

阿久の言う「ユートピア」は「民主主義」のことです。小説の登場人物たちもところどころで、民主主義って何だ、これがそうか、あれがそうか、と言い合っている。しかし、大人たちがとんちんかんな軽口を叩いているわきで、子供たちは実践している。野球がその原型だからです。

野球はチームワークです。打順やポジションに応じて役割があり、それぞれ必要な技量もあって、試合は局面ごとにうまくいくこと(相手にとっては、うまくいかなかったことです)、うまくいかないこと(相手には、うまくいったこと)が次々出来して、どちらがチーム全員でうまくいったことを畳みかけ、うまくいかなかったことを補い合えるかを競い合うスポーツです。

思えばこれは、民主主義の、あるいは民主主義を成り立たせる「社会」の原理そのものではないでしょうか。野球とちがって社会全体を見渡すことはむずかしいとしても、誰もが多くの他者やルールや制度との関係のなかで暮らしている。そこで助けたり、助けられたりしながら生きている。

――そうか、社会というものがある。

子供たちが野球をしながら発見していたのはこの〝社会の感覚〟ではなかったか、と私は思うんですね。

これは野球の試合を武士と武士との真剣勝負、投手と打者を宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の決闘」さながらに見立てる見方とはまったく別物です。報国精神や忠義・忠誠とももちろんちがう。命令一下、がむしゃらに突っ込むことでもない。個人と国家の中間にある何かですね。では、何か、と問われたら、それが社会です、としか答えようがないものです。

近代日本が世界という舞台で頭角を現わしたころ、野球に熱中した正岡子規や寺田寅彦が、新しい文化の可能性として感じ取っていたものもこれでしょう。これはまた、少年期に敗戦を迎えた大江健三郎、井上ひさし、寺山修司、そして阿久悠などにも新生日本の気配として感じられていたものだったんじゃないか。

 

 

さて、戦後……ここからは駆け足でふり返りますが、日本も野球も復活しました。

日本が半世紀をかけて高度成長期、世界第二の経済大国、バブルの時代へと駆け上がったとき、昭和が終わった。折しも世界では東西冷戦が終わり、グローバリズムと新自由主義が台頭すると、日本のバブルもはじけ飛んだ。以後は「失われた10年」「20年」を引きずって東日本大震災と原発事故に遭遇し、少子高齢と人口減少、経済不振と国際的存在感の低下、世界でも突出した政府借金の増大という「失われた30年」の現在です。

野球もほぼこれと同じ軌跡を歩んできました。戦後は学生野球にかわってプロ野球中心ですが、圧倒的に読売ジャイアンツが強かった。往年の〝赤バット〟川上哲治監督のもと、400勝投手の金田正一を引き入れ、長嶋茂雄と王貞治の〝ON砲〟が火を噴いた。1965年から73年の9年連続日本一はぴったり高度成長期と重なっている。テレビのナイター中継全盛期でもありました。

野球を通じて高度成長期から〝ジャパン・アズ・ナンバーワン〟と言われるころまでの日本社会を分析したロバート・ホワイティングは、ベースボールとのちがいに驚いています。日本の選手たちはいっしょの寮で寝起きし、重しを背負って何百段もの石段を走る。投手は何百球も投げ、野手は千本ノックに耐え、バッターは何百回も素振りをくり返す。アメリカの選手なら、疲れて試合にならない、肩も体も壊してしまう、と文句を言うところだが、日本では監督や先輩に絶対服従。これは、結束の固い家族のような集団主義と武士道のような精神主義が一体となった、あくまで〝日本の野球〟だ、と(ホワイティング『菊とバット』1977年)。

じつは同様のことをそれから30年後、甲子園で2度優勝し、読売ジャイアンツのエースとなり、メジャーリーグでも活躍した桑田真澄も指摘しています。引退後、早稲田の大学院で「野球道」の由来を研究した彼は、とくに日本のアマチュア野球に顕著な過剰で過酷な練習量、絶対服従、体罰などを問題点としてあげ、もっと野球を楽しくやろう、と呼びかけた(桑田『野球の神様がくれたもの』2011年)。

なぜこんなことになってしまったのか。「エンジョイ・ベースボール」をモットーに、戦後の慶応大学野球部の全盛期を築いた前田祐吉監督(当時)によれば、戦後のアマチュア野球の指導が「多くの復員した軍人の手によって行われ、その時に旧日本軍の様々な不条理が、すんなりと野球界に持ち込まれてしまった」からだというのです。「旧日本軍の極端な上下格差、陰湿な新人いびり、前時代的な連帯責任制、本音と建前の使い分け、虚礼の押しつけなどが、教育やしつけの名目で戦後の野球界に持ちこまれた」(前田「野球はもっともっと楽しいもの」Baseball Clinic、1990年4月号)。

とはいえ、それからもう何十年も過ぎている。元復員兵指導者たちはとっくに現役を去り、おそらくもうこの世にもいないでしょう。なのに、この旧態依然は何なのか。

私はそれが、日本の〝いま〟だからだと思います。いまの価値観が指導層にも選手にも保護者にも反映しているからです。つまり、頼りになる隣人もセーフティーネットもない現実に適応し、生き抜こうとしたら「失敗するな」「失敗したら自己責任」と自分にも他人にも言い聞かせ、上の者・強い者にはさからわず、がむしゃらに頑張るしかない……テレビCMや広告看板などでいまもよく見る「自分に勝つ!」、あのイメージですね。

この背景には言うまでもなく、冷戦がなくなって以降、グローバリズムとともに世界じゅうに立ちこめた新自由主義の風潮がある。その言い出しっぺと目されるイギリスの元首相・マーガレット・サッチャーの〝名言〟があります――「社会なんてものはない。一人ひとりの男と女がいて、家族があるだけだ(There's no such thing as society. There are individual men and women and there are families.)」。

 

 

結局、この国は社会をつくることに失敗してきたんじゃないか、と私は思います。

明治前半の一時期と戦後直後のあるときまで(阿久悠は「たった三年だけ」だった、と文庫版のあとがきで書いています)、それまで日本人が知らなかった社会の感覚、その手ごたえを感じられるときがあった。当時の青年や子供たちは野球を通じて、社会というものがあることを知った。

けれども、その後、野球がいくら隆盛しても、個人と国家のあいだに膨大な集団/国民は生まれても、社会が入り込む隙はできませんでした。戦前は治安維持法や思想善導と、何より戦争それ自体が社会の形成を許さなかった。戦後は戦後で、精神主義や集団主義や経済至上主義等々が最優先だった。サッチャーの先の言葉は、本国イギリスや他の国々より日本でこそ正鵠を射ていたというべきかもしれません。

だからこそ、なんです。

WBC2023、準決勝の対メキシコ戦。先発・佐々木朗希の調子は悪くなかったけど、4回表のランナー2人を置いた場面、得意のフォークボールが浮いて、スタンドに持っていかれた。ところが、重苦しい雰囲気になった7回裏、4番・吉田正尚が内角低めの球をすくい上げ、ライトポール際に同点3ラン。また2点、追い越されますが、最終回、大谷翔平が二塁打、吉田がフォアボールで、代走は周東佑京。バッターは予選から〝絶不調〟、この日も三振つづきの村上宗隆。しかし、そのひと振りがセンターフェンス直撃のライナーとなり、大谷と周東がホームに駆け込んで、大逆転のサヨナラ勝ち。

決勝の対アメリカ戦もすごかった。アメリカに先行された1点を、2回裏、前の日に目覚めたばかりの村上の1発で返し、ヌートバーの一塁ゴロでさらに1点。4回には岡本和真がホームランでしょ。その後、栗山監督は若手投手を小刻みにつないで、メジャーリーガーばかりの強烈打線を寄せつけない。しかし、8回表、ダルビッシュ有が1発を浴びて1点差に詰め寄られた。9回表、大谷がマウンドに上がり、いきなりフォアボールを出してピンチに陥るも、次が4・6・3のダブルプレー。そして、最後はご存知の大谷対マイク・トラウト。右バッターのど真ん中から外角真横へ40センチもずれていくあの〝スイーパー〟は、テレビで見ていてもびっくりしましたよ。

まったく野球は敵味方双方のミスと失敗のスポーツです。失敗がなければ、試合は一歩も進まないし、野球自体が成り立たないでしょう。その失敗を誰かがカバーする。そして、つながる。どんな豪腕投手でも、打線が振るわなければ、試合は負けです。ホームランを打っても、単発ではなかなか勝てない。

この春の侍ジャパンの7試合、われわれは何を見ていたか? とんでもないものを見たような気がする、と言いましたが、社会を見ていたんです。社会とはこういうものだ、というモデルを見ていたんです。〝侍〟というチームのニックネームはちょっとどうかな、と首をかしげましたけど、私はそう思いながら見ていたんです。

「みんな。外へ出ましょう」女先生の呼びかける声が聞こえたような気がしました。