みすず書房

人が大切だという概念がなく、庶民の立場を考えて行動しないのが、現在の官僚の大きな問題点である

――方方『武漢日記』(2020年)

人が大切だという概念がなく、庶民の立場を考えて行動しないのが、現在の官僚の大きな問題点である


 3年3ヵ月――WHO(世界保健機関)が新型コロナウイルスの世界的感染拡大を懸念して緊急事態を宣言したのが2020年1月30日。ようやく宣言が解除されたのが3年3ヵ月後の2023年5月5日だった。

過ぎてしまえばあっというま、と感じないこともないが、やっぱり長かった。ずっと気を張り詰めたような日々がつづいた。中学生、高校生なら、入学してから卒業するまで、人生の季節がひとつめぐる長さだ。あと何ヵ月か足せば、サッカーのワールドカップもオリンピックもめぐってくる。ちなみに、第一次世界大戦は4年半つづき、日本の真珠湾奇襲から敗戦までが3年9ヵ月だった(満州事変から数えると、日中戦争、太平洋戦争と足かけ15年におよんだのだが)。

3年、4年は世の中ががらっと変わるのに十分な時間である。いったい何が起き、何が変わったのか。われわれはこの間、何を失い、何を得たのだろう。忘れないうちにきちんと記録しておかなければ、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と、だれかさんに叱られそうだ。

まずはざっとコロナ禍の経緯を振り返っておこう。
 


2019年12月初旬 中国湖北省の省都・武漢市中心部にある海鮮卸売市場周辺で原因不明の肺炎が多発。
同12月30日 同市の病院医師がSNSグループチャットを通じ、同業医師らに「重症急性呼吸器症候群(SARS)かもしれない。気をつけろ」と投稿。しかし、市の公安当局は「人から人への感染は起きない」と強弁し、年が明けた1月3日、同医師に対し、「虚偽の噂を流した」として訓戒処分。
2020年1月9日 中国の専門家チームが「新型コロナウイルスを検出」と公表。中国政府はWHOに報告するとともに、緊急事態を宣言。
同1月23日 武漢市が全市域をロックダウン(都市封鎖)。その後、東南アジア、インド、ヨーロッパ、北米などでの感染が確認される。
同1月30日 WHOが「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言。
同2月初旬 横浜港に帰港した大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号(乗客約2700名、乗員約1000名)で感染者確認、日本政府は2週間の船内待機を指示。この間の感染者700余名、下船後に14名死亡(国立感染症研究所調べ)。派遣された検疫官や医師ら9名も感染。
同2月7日 武漢市で「気をつけろ」と警告を発した前記医師が同ウイルスに感染、重篤化して死亡。
同2月11日 WHOが新型コロナウイルスを「COVID-19」と命名。
同3月11日 WHOは世界的流行を警戒すべき「パンデミック」に認定。
同春~冬 感染は全世界に急拡大し、深刻化。各国政府・自治体が相次いで緊急事態を宣言。感染検査体制の急造、医療体制の逼迫、外出自粛と制限・一斉休校とリモート授業・出勤停止とオンライン会議・飲食店やショップの時短操業と休業の要請等々によって社会的混乱と動揺が拡大。街頭から人影が消え、経済活動も停滞。零細な企業や飲食店の倒産、非正規労働者の失業や生活困窮が問題化。
同12月 アメリカ・ドイツ・イギリスの製薬会社やバイオ企業がワクチンを開発、緊急使用を開始。翌2021年春~夏に各国で正式承認を受け、大々的な接種がはじまる。
2021~2022年 世界中で感染の拡大と減少が周期的にくり返される一方、ワクチン接種がつづけられる。ウイルス自体の変異に応じたワクチンも開発され、事態は徐々に沈静化に向かう。
2023年5月5日 WHOが3年3ヵ月におよんだ緊急事態の終了を宣言。日本政府も5月8日、感染力や重症化リスクのレベルを引き下げ。WHO緊急事態宣言中、世界全体で7億6500万人がCOVID-19に感染、692万人が死亡。日本の感染者は3380万人、死者は7万5000人。最悪だった米国の感染者は1億人を突破、死者は110万人。

 

 

私は緊急事態宣言下の2020年春、渋谷駅前のがらんとした交差点に立って、いったい何が起きているのか、と呆然としたときの感覚をいまもはっきり覚えている。午後の早い時刻だった。ビル壁面の広告看板は相変わらず騒々しく、巨大モニターではアイドルたちが元気に跳びはねていたが、その下の交差点からも通りからも人通りが消えていた。車の往来もまばらで、街はからっぽ。明るい真夜中のようだった。

とっさにエドガー・アラン・ポーが〝赤死病〟を描いた短編――『赤き死の仮面』(1842年)が思い浮かんだ。赤死病は黒死病(ペスト)にヒントを得た架空の病気だが、これに罹患するとめまいと激痛に襲われ、たちまち全身の毛穴から血を噴きだして死に至るのだという。その恐怖の病が猖獗をきわめるなか、血気さかんな若い領主が人里離れた館に1000人の貴族男女を集め、大仮装舞踏会を開くという話だった。

極彩色の部屋、楽団が奏でるワルツ、豪華な食事とワイン。みなが浮かれ騒いでいると、ふいに赤い斑点のついた死相の仮面をかぶった男が現われる。領主は、こんな悪趣味な仮装をするやつはだれだ、と短剣を振りかざし、正体を暴こうとするが、彼自身がその場に倒れ、息絶えてしまう。それでも参会者たちが勇気を奮い起こして男を取り押さえ、仮面を剝ぎ取ってみると、その下は空洞、何の実体もなかった。だが、やがて館のなかで一人、また一人と赤死病に感染し、全員が死んでいく……。

いかにもポーらしいどぎつい舞台装置とホラーなストーリー展開だったが、コロナ禍がはじまった当初の日本も似たようなものだった。どこで、どう感染するか。感染したらどうなるのか。何もかもわからないまま、気味の悪さだけがじわじわと押し寄せていた。

 

 

そのころ新聞やネットの記事が、武漢市在住の女性作家が日記風のブログ上でコロナ禍に襲われた街の様子を克明に記している、と伝えていた。マスクを買おうにも店が閉まっている、たまたま見つけても、普段の何倍もの値段になっていたとか、幼い女の子がコロナで亡くなった母親の棺を乗せた車を泣きながら追いかけていったとか……感染拡大がはじまった武漢市の緊迫した光景が紹介されていた。

ブログの筆者の名前を見て、私は、あっ、と思った。「方方(ファンファン)」とある。あの彼女のことか。ひかえめで、ちょっとはにかみ屋で、芯の強そうな女性だった。彼女なら知っている。

2008年11月だったから、もう10年以上前になる。私も少しお手伝いしている日本ペンクラブが中国から6人の作家を招き、千葉県市川市の文学プラザ(現在は文学ミュージアムに改組)で日中合同のシンポジウムを開催したことがある。その招待パネリストの一人に方方がいた。

配布された資料には――1955年生まれで、文化大革命のときは工事現場などの運搬工として働いた。武漢大学を卒業した82年、地元テレビ局に就職してドラマ制作などをやり、他方で85年ころから文革時代の体験をもとに中短編の小説を書きはじめた、とある。89年に作家専業に転じて幾多の文学賞を受賞、94年からは文芸誌の編集長も務めた。そして、来日1年前の2007年、湖北省作家協会の主席に就いたばかりだった(在職は2018年まで)。

シンポジウムは「旅と文学」がテーマだったのだが(日本側パネリストには浅田次郎、下重暁子と、この1年半後に亡くなった立松和平がいた)、司会進行役を務めながら私の印象に強く残ったのは、方方がテレビ局で働いていた最後のころ、休暇で出かけた湖南省江永という町のはずれで出会った2人のおばあさんの話だった。2人とも80歳を超えていたが、遠来のお客がきたというので、わざわざ晴れ着に着替えて薄暗く粗末な家から出てきたという。

おばあさんたちは「女書(にょしょ)」の使い手だった。女書とは数百年、あるいは数千年前から地元の女たちのあいだで伝承されてきた独特な文字で、漢字(は、男文字と呼ばれる)を45度傾け、菱形に押しつぶしたような――たとえば「人」が「イ」に、「女」が「(けものへん)」に見えるような字形をしている。この変形文字を使い、しかも標準語使いにはけっして理解できないその地の田舎言葉だけで、彼女たちは日記をつけてきたのだという。

言い伝えによれば、その昔、江永の田舎に皇帝に見初められ、宮中に召し上げられた若い美女がいた。都で幸せに暮らしているだろう、と田舎の人が訪ねると、彼女はそっと一通の書状を手渡した。わかりにくい文字と方言だけで記されたそこには、皇帝や宦官らに冷遇される日々の苦しみと悲しみが切々とつづられていた……。

これが女書のはじまりだという。やがてこの地の女たちは女書の筆法を伝え合い、それぞれの暮らしの困苦や愛のない日々の辛さを記し、そこに黒い絹の表紙と飾りをつけ、ひそかな宝物とするようになった。そして、この世を去るときは、あの世でさらに書きつづけられるよう、必ず亡骸といっしょに燃やすようにと子供たちに言いつける。だから、古い女書の原本はめったに見つからない。

方方は発言の最後で、「彼女たちは日々の暮らしのなかで何の希望も持たないが、落ち着いて冷静に人生を最後までまっとうしようとしています。その存在はほぼ忘れ去られていますが、本人たちは少しも気にしていません。私はたんに別の文字を見ただけでなく、苦難に直面した女性たちがいかに自己を救ったか、そんな別の人生も見たような気がします」と言い、「この旅はたちどころに私の書くものに変化をもたらしました」と締めくくった。

 

 

この旅からもどった3、4年後、方方が発表した短編小説がある。タイトルは『一唱三嘆』(1992年。邦題は「やがて哀しき」渡辺新一訳、『季刊中国現代小説』31号所収、1994年)で、昔の女たちの姿を現代中国の都会によみがえらせたらどんな女書を書くだろうか、と思考をめぐらせたような物語だった。

語り手は若い新聞記者の「わたし」だが、わたしが見つめるのは年老いた2人の女の人生である。一人はわたしが結婚した夫の義母・インユエ(盈月)。もう一人は彼女と師範学校の同級生で、近所に住むハンマァ(琀媽)。彼女たちは新中国成立と社会主義建設の時代を生きてきた。

ハンマァには地質調査技術者だった夫とのあいだに息子3人と娘2人の子供がいた。一方、小学校の先生だったインユエにも3人の息子がいる。わたしは子供のころにインユエ先生に国語を教わったが、琵琶を習いたいと言ったとき、先生が琵琶を上手に弾く元同級生の家に連れていってくれたのだ。以来、わたしはどちらとも家族のようなつきあいをつづけ、のちにインユエ先生の三男と結婚するまでになっていた。

物語は、わたしが大人になっていく過程に重ね、2人の人生、2つの家族を対比するように進んでいく。ハンマァは新中国の前途に希望を持ち、その一助になろう、と都会の一角でボランティアのような活動に飛びまわっている。音楽にも書画にも通じたどこか高尚で、信念の人である。数学の天才といわれた長男を大学にやらず、地方の集団農場小学校の教員に送りだし、長女を辺鄙な新疆地区を支援する仕事に就かせ、大学を優秀な成績で卒業した次男、三男がそれぞれ地質学と植物学の専門家として遠方で働くことを受け入れたのも、すべてはこの国を立派につくってほしいと願ってのことだった。

そのたびにハンマァは〝先進人物〟〝模範的母親〟などと表彰されたりもした。社会主義の国づくりで世の中が揺れ動き、先行きの不安も強い時代だった。だれもが家族だけは守りたいと思っていたとき、子供たちを手放すなどなかなかできることではなかったからだ。しかし、だからといってハンマァは出世したわけでもない。相変わらず古くて狭い家に住みつづけ、地区の人たちのためにけなげに働いていた。

じつはわたしが中学生だったころ、ハンマァの長女とインユエの次男は恋人同士だった。ある雨の日、わたしは鍵穴の向こうに、裸になった彼女がその胸に彼の頭をかき抱く姿を見てしまう。2人はいっしょに辺境支援に行く計画を立てていた。

しかし、これに猛反対したのはインユエだった。インユエは「おまえが行ってしまうなら、母さんは死ぬよ」と殺鼠剤を持ちだして息子を脅かした。次男は辺境行きをあきらめ、ハンマァの長女だけが旅立っていった。

それから何年も経って、いま次男は政府機関のエラいさんに出世し、にぎやかな家族と大きな家に住み、母親が病気にでもなると、特権を当然のように使い、たちまち最高の病院と一流の医者と高価な薬を手配し、自分の車で送り迎えするような暮らしをしている。着飾ったインユエも、いまや熟年の貴婦人のようだ。

一方、たった一人で新疆地区の支援活動に向かったハンマァの長女は数年後、失踪してしまった。何の手がかりも思い当たることもなかったが、ハンマァは「生きているなら、志を大きく持って生きなさい」と、気丈に言うばかりだった。

その後、わたしはインユエの三男と結婚した。幼なじみで、もちろん仲もよかったからだが、彼が大学を卒業する寸前にばたばたと式を挙げたのは、家族がいるとなれば、どこか遠くの地で働くように、と政府から割り当てられる心配がないからだった。そのことは自分も承知していたが、しかし、あとになって、簡素な結婚式ならお金がかからなくて助かる、というインユエの企みだったと知って、わたしはいささか気分を害した。

記者になったわたしは、たまたま取材でハンマァの長男が住む僻地の農場を訪ねたことがある。ついでに立ち寄ってみると、長男は打ちひしがれていた。妻が、こんな何もない村の寂しい暮らしにはもう我慢できない、と子供を連れて出ていってしまったからだ。彼はかつての才気をすっかりすり減らし、おろおろするだけの凡人になっていた。

同じころ、ハンマァの末の娘は唐突に労働者の親方との結婚に走った。彼女は訪ねたわたしにうれしそうな顔を見せて、「わたしはずっとあの家から離れたいと思っていたの」と明かした。

それからまた何年も過ぎて、その間、わたしも都会を離れ、単身赴任で2年間の地方支局勤務もした。たくさんの経験を積み、自分でも大人になったと思いながらもどってきたが、義母のインユエは面白くなさそうに、「孫はまだかい」という顔をするだけだった。久しぶりに訪ねたハンマァもずいぶん老け込み、心はどこか遠くをさまよっているよう。

ハンマァの昔の家は取り壊され、彼女は仮小屋のような粗末な部屋に住んでいた。これでは年末年始、息子や娘家族がわざわざ遠方から里帰りしても、座るところもない。だが、住宅管理事務所にかけ合ってもらちが明かないどころか、「模範的母親として何度も表彰されてきたあなたなら、多くの若い夫婦たちが新居を必要としていることを知っているでしょう。もう少し我慢してください」と、追い返される始末。

ハンマァはもう何もしゃべらない。生活の苦労も病気の辛さも一人で耐えている。そんな彼女のことを、いまはだれも見向きもしない。夜、ハンマァは廊下の隅に身を寄せ、月の明かりを見つめている。周囲が寝静まったころ、彼女はゆっくり立ち上がり、足を引きずりながら自分の小さな部屋に帰っていく……。

 

 

方方はこの『一唱三嘆』で、1949年の新中国建国から文化大革命を経て、改革開放路線が本格化した時代を生きた女たちの「女書」を書いたのだ、と私は読んだ。多くの人々が新しい国づくりに尽力し、耐え、何も得られないまま老いていった。その時代の陰影はハンマァの人生に色濃く刻まれているが、もう一人のインユエの姿もまた、国家と政治的スローガンが過剰だった時代の庶民が、どのようにわが身と家族を守って生きてきたかの見本のようでもある。結局、生き延びたのはインユエとその家族であり、その処世の術がその後の中国社会の主流になったことは現実が示している。

だが、「わたし」には迷いがある。果たしてどちらの人生に、より価値があるのか。人生の価値とは何だろうか、と。

夫に言わせれば、ハンマァは人生を偉大なものと考え、インユエは人生をちっぽけなものと考えてきたのではないか、そして、「ハンマァの生き方は虚しいし、おふくろの生き方は味気ないね」。それを聞いてわたしはむっとし、「あなたは、典型的な中庸の道ね。上手に立ちまわってるわ」と言ってしまう。典型的な中庸の道とは、現実がよく見えているが、シニカルに傍観しているだけ、というくらいの意味だろうか。

しかし、だからといって、わたしに別の見方や考えがあるわけではない。答えがないまま黙り込むところで小説は終わっている。

 

 

方方がコロナ禍に見舞われた武漢市の様子をブログに書きはじめたのは2020年1月25日、旧暦の元旦だった。すでに海鮮市場界隈からはじまった不気味な感染症が市中に広がり、外国にも飛び火していた。日記をはじめた2日前、1000万都市はロックダウンされた。それから60日間、封鎖解除の直前まで、彼女は毎晩、その日に見聞きし、考え、理解したことを発信しつづけた。

結局この間、武漢市の感染者は5万人あまり、死者は3800人にのぼった。100人が感染すれば7人が亡くなった計算になる。世界平均の致死率が0.9%、日本はさらにその4分の1以下だったことと比較すると、武漢市の状態がいかに深刻だったかがわかる。彼女の日記にも友人知人、その家族、同級生、医師や医療スタッフ、患者を運んだ警察官などが次々に亡くなった、という記述が頻出する。ネット上には、火葬場の外一面に捨てられた持ち主のいなくなったスマホの写真も出まわったという。

どうしてこんな悲惨なことになったのか。正体不明のウイルス感染がはじまったごく初期、北京から視察にやってきた専門家らは「予防も制御もできる」「ヒト-ヒト感染はない」と断言し、何の対策もとられなかった。同僚に警告を発した医師は訓戒処分を受けた。だが、実際はこの前後の20日間、まさに感染拡大を抑え込むべき期間にウイルスは爆発的に広がっていたのだ。医療体制は大混乱に陥って、たちまち崩壊した。重症患者たちは家に留め置かれ、治療も受けられないまま次々に亡くなっていった。感染は家族や隣近所にも広がり、同じ運命が見舞った。こうした連鎖が武漢市の被害をますます大きなものにした。

あとで判明するのだが、何人もの医師が当局に危機感を伝え、対策を要請していた。だが、それは握りつぶされ、無視された。では、いったいこのとき、中央政府や湖北省・武漢市当局は何をしていたのか?

方方の筆鋒はしだいに国家や地方行政、病院を含めた公的機関、テレビや新聞を統制する官僚組織へと向かっていく。「人が大切だという概念がなく、庶民の立場を考えて行動しないのが、現在の官僚の大きな問題点である」「彼らは、ある種の機械の中に組み込まれている。その機械は動きが速く、彼らの目は上司に釘付けになり、一般大衆のことは目に入らない。まさに、組織の中に身を置くと自由がきかなくなるということだ」

加えてこの時期、湖北省人民代表大会と武漢市政治協商会議が開催されていた。本来は中央政府の政治方針と省や市の政策をすりあわせ、確定するための重要催事だが、もう何年も恒例の〝お祭り〟行事となっていて、この期間の行政はストップし、メディアも「喜ばしいニュース」しか報じなくなる。方方自身、これらの催事には何回も参加したことがあった。こんな大騒ぎはやめるべきだ、とまでは彼女も言わないが、ウイルスが活発化し、感染拡大の危険もある冬期の開催はいかがなものか、とたしなめている。

 

 

「ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ」

方方のブログは中国国内だけでなく、各国で翻訳出版され(日本語版は『武漢日記』飯塚容・渡辺新一訳、河出書房新社、2020年刊)、新型コロナウイルスをめぐるリアルなレポートとして話題になった。書評にもさまざまに取り上げられたが(私もある新聞に書いた)、そこで必ず引用されたのが、この文章である(私も引用した)。

彼女がこれを記したのは2020年2月24日、ブログを書きはじめてちょうど1ヵ月が過ぎたころだ。これだけを読むと、ストレートな政府批判のようだが、その前段に書かれていたのは、福祉施設や養老院に入っている老人たちがコロナウイルスに感染し、相次いで亡くなっていることへの心痛や悲しみだった。

方方の記述の前提にはいつも具体的な事実がある。そのあとで、この日の日記にも「私は、政府がこの件を引き継いだからには思いやりを発揮して、こうした老人の抱える問題を軽視することはないと思う」と書き添えている。そして、その上で上記の「ある国の文明度を測る唯一の基準は……」と、念を押すようにつづいていく。

こうした一節の構造から浮かび上がってくるのは、巨大な国家を見ると同時に微細な社会も見るという方方の手法――というより、大きなまなざし自体である。生々しい社会の現実や人々の姿をとらえる一方で、国家の動きも見逃さない。彼女は両方を、ひとつのまなざしのなかでとらえようとする。その意志がはっきりと伝わってくる。

 

 

『武漢日記』を読みはじめてすぐに気がつくことだが、方方が点描する武漢市民の姿はじつに生きいきしている。たしかにコロナ禍にショックを受け、怖い病気にびくびくしてはいるものの、マスクがないとなれば、遠くの知り合いがどさっと送ってきてくれたり、隣近所で1枚2枚を分け合ったりする。食料品の融通し合いはどこでもやっている。アパートの管理職員や若者たちが何度も階段を上がり下がりし、老人夫婦の部屋に野菜や肉を運んでいる。高齢者のために薬を買いにいき、弁当を届ける若者もいる。警察官が患者を運び、宅配便の運転手が医療スタッフを送り届けたりもしている。これらはどれもボランティア活動である。人通りのない道路で黙々と働く清掃人にも、たんなる仕事で終わらない他者への配慮が感じられる。

ここには人と人との近さがある。家族や親戚、友人や同僚だからというのではなく、1000万人の大都会であっても見ず知らずの他人同士で声をかけ、励まし、互いが互いを助け合っている。この近さがあるからこそ、声もなく死んでいった死者たちの無念、苦しさや悲しみも他人事ではないと感じられるのだろう(ひるがえってあの3年3ヵ月、日本はどうだったろう、東京ではどうだったか、と私はつい考えてしまう)。

そして、だからこそ、方方には中国を覆う官僚主義――機械のように猛然と動く国家体制と、唯々諾々とそれに従う高級官僚たちの姿がいっそうよく見えていたのにちがいない。ここから彼女の――私なりに理解すれば、国家と社会とはちがうのだ、という見方が生まれてくる。一方に、官僚制度と高級官僚たちががっちり固める「国家」があり、もう一方に、一般市民や庶民が形づくる「社会」がある、という見方である。そして、彼女は社会の側に立ち、そこから社会を信頼し、社会の動きに寄り添い、みずからも社会の動きのひとつになろうという覚悟も生じてくる。

もちろん社会といっても一様ではなく、一筋縄ではいかない。実際、彼女の毎日のブログに偽名や匿名で罵詈雑言を浴びせ、難癖をつけてくる人物たちはたくさんいた。デマを飛ばし、またそのデマを信じきって誹謗中傷をくり返すネットユーザーも少なくなかった。何者かによって彼女のブログはたびたび削除された。その背後には特定の組織性もうかがわれた。

だが、それも含めての社会なのだ。そんなことは十分承知の上だ。方方は啖呵を切っている。「さあ、来るがいい。あなたたちは策略の限りを尽くし、背後の大物を総動員するがいい。私があなたたちを恐れると思うのか!」

このくだりにきて、私は笑った。私が知っている方方は芯は強そうだが、ひかえめで、けっこうはにかみ屋だった。口数も多いほうではない。きっとこう書いたあとで、くすっと苦笑し、舌を出しただろう、と。

 

 

それから私はもう一度、あっ、と思った。ひょっとしてこれは、『一唱三嘆』の続編ではないだろうか?

あの小説の最後では、「わたし」は夫の、明晰ではあるがシニカルな傍観者的態度に苛立っていた。それではいけない、と思いつつ、でも、自分はどう考えるのか、何ができるのか。その答えが見つからないまま小説は終わっていた。

しかし、方方はこのコロナ禍で答えを見つけたのではないだろうか。

少し図式的にいえば、新中国建設のために子供たちを遠くの仕事へと手放し、自分も地域のために忙しく働いてきたハンマァが見ていたのは〝国家〟だった。何かの見返りを期待したわけではなかったが、少しは人間らしい暮らし、人間らしい人生を送れる世の中になってほしい、そのためには新しい国家をつくるしっかりした人材が必要だろう、という気持ちがそうさせた。しかし、結果は寂しいものだった。出来上がったのは、およそ別物の官僚主義にがんじがらめになった国家だった。

対して、何があっても息子たちを近くに引き留め、こつこつと出世させた義母のインユエは〝社会〟を見ていた。もちろんその社会は、だれもが少しずつずる賢く、自分が得になることばかり考えているような社会だが、それでも融通のきかない官僚主義的機械とちがって、人間の顔をしている。何よりそれは一人ひとりが必死で生き、生き抜こうとしている人間の群れだった。

方方は、こうした前世代の女たちに成り代わるようにして2人の女書を書いたが、あくまでそれはハンマァとインユエの女書だった。

では、その後の「わたし」は何を書くべきなのか。いや、その前に、いまある現実を目の当たりにして、どうやってわたしは価値ある人生を生きるのか。

彼女は不気味な感染症に襲われた1000万都市で、互いに見ず知らずであっても支え合う人々の姿に心を動かされ、だからこそその甲斐なく次々に死んでいく人たちの無念さが我がことのように迫ってくるのを感じた。人と人とのこの近さこそが社会というものの手ざわり、社会のリアルなのだ。それが生みだすものには社会を動かす力がある。彼女はその可能性を確信したにちがいない。

彼女は拱手(きょうしゅ)傍観しなかった。シニカルに眺めているのではなく、一歩を踏みだした。そこで激しくバッシングされ、つらい目に遭わされても引き下がらない。落ち着いて冷静に、自分の人生を最後までまっとうしようと考え、そのつらさ、生きにくさを書き残すことが自分の役割なのだ、と覚悟した。

ああ、そうだったのか、と私はいま気がついた。コロナ禍に見舞われた武漢市を舞台にして書かれた『武漢日記』は、方方自身の女書だったのだ、と。

(この項、4月号につづく)

■本連載について
『墜落の夏』をはじめとするノンフィクションで知られ、2017年から21年まで日本ペンクラブ会長を務めた作家・吉岡忍氏が、フィクション、ノンフィクションを問わず記憶に残る文学作品とその書き手を取り上げ、〈虚構〉と〈現実〉のあわいに生まれるさまざまな文学の磁場について、自身の取材や作家活動を振り返りつつ考察を繰り広げる随想録です。(編集部)