みすず書房

林檎が背中にめりこむ

林檎が背中にめりこむ

●前回まで

この連載では、フランツ・カフカの小説『変身』を新訳しながら、超スローリーディングしていく(ものすごくゆっくり読む)。
 前回までの内容を、まず簡単に紹介しておこう。
 虫になったグレーゴルは、壁や天井も()い回りはじめる。そのことに気づいた妹のグレーテは、邪魔になるだろう家具を部屋の外に出してあげることを思いつく。しかし、母親はもとのままにしておいたほうがいいのではないかと忠告をする。これまで世話をしてこなかった母親から、もっともな忠告をされて、グレーテはかえって意固地になる。グレーゴルをより悲惨な境遇に追い込んで、自分以外は手出しできないようにしようとする。
 グレーゴルは当初、家具をどけてもらえることを喜んでいたが、母親の言葉にはっとし、虫としての快適さを求めるより、不便でも人間らしさを残しておきたいと思う。そこで、隠れていたソファーの下から出て、壁の絵を身体で守る。
 壁にへばりついたグレーゴルの姿を見た母親は、気絶してしまう。グレーテは兄を叱り、倒れた母親をグレーゴルの部屋で介抱し、グレーゴルを部屋の外に閉め出す。居間に取り残されたグレーゴルは、母親が心配でいたたまれず、居間の壁や天井をぐるぐる這い回り、ついに天井からテーブルの上にどさりと落ちてしまう。
 今回は、その続きから。
 

しばらくは何事も起こらなかった。グレーゴルはぐったりして、その場に横たわっていた。あたりは静まりかえっていた。静かなのは、ほっとしていいことかもしれなかった。そこに、玄関のベルが鳴った。女中はあいかわらず台所に閉じこもっているので、グレーテが開けに行かなければならなかった。父親が帰ってきたのだ。「何があったんだ?」と彼はまず最初に言った。グレーテの様子ですべて(さっ)しがついたようだ。グレーテの声はくぐもっていた。どうやら父親の胸に顔をうずめているようだ。「お母さんが気を失ったの。でも、もうだいぶよくなってる。グレーゴル兄さんが、急に姿を現したもんだから」「やっぱり、こんなことになったじゃないか」と父親は言った。「だから父さんがいつも言っていただろう。なのに、おまえたちは聞く耳を持とうとしないから」グレーゴルにははっきりわかった。グレーテのあまりにも短い報告を聞いて、父親はそれを悪く解釈したのだ。そして、グレーゴルが何か暴力的なことをしたと受けとったのだ。だとしたら、なんとか父さんをなだめるよう、できることをやってみるしかない。説明する時間をとってもらえるはずはないし、そもそも説明できないのだから。そこでグレーゴルは自分の部屋のドアのところまで逃げていき、ドアに身体を押しつけて、こう考えた。こうしていれば、父さんが居間に入ってきたとき、ぼくの姿を見てすぐにわかるはずだ。おとなしく部屋に戻ろうとしているのだから、追い戻す必要はなく、ただドアさえ開けてやればすぐに姿を消すのだと。

●グレーテの未必の故意

前回の騒ぎのあと、ぽっかりと静かな時間がある。静かということは、母親の容体も落ち着いているということで、「静かなのは、ほっとしていいことかもしれなかった」というのは、そういう意味だろう。
 しかし、この静かな時間は台風の目のようなもので、騒ぎはこれで終わらない。それどころか、ここからが本当に大変なことになる。父親が帰ってくるのだ。
 グレーテは、グレーゴルのために部屋を片づけようとしたときには、力仕事であるにもかかわらず、喘息の持病がある母親に手伝いを頼み、父親に頼まなかった。それどころか、父親の留守をねらった。
 ところが、グレーゴルと対立した今は、グレーゴルのやったことを父親に隠さない。報告する。
 草稿を見ると、カフカは「グレーテの報告を聞いて、父親はそれを悪く解釈したのだ」と書いたあと、「あまりにも短い(allzu kurze)」を足して、「グレーテのあまりにも短い報告を聞いて、父親はそれを悪く解釈したのだ」としている。これは、父親が勝手に悪く解釈したのではなく、グレーテの報告のしかたにもそれを誘うものがあったと、よりはっきりさせたのではないだろうか。
 いわゆる「未必(みひつ)の故意」だ。悪く解釈させようとはっきり意図してまではいなかったかもしれないが、悪く解釈してもかまわないという気持ちがあったのではないか。
「何があったんだ?」と父親がすぐに言うような様子をしていたのは、無理もないこともかもしれないが、もしかすると、何かが起きた気配もあえて隠そうとしなかったかもしれない。

『変身』草稿より。「あまりにも短い(allzu kurze)」を書き足している。

父親の胸に顔をうずめるという甘えたしぐさも、父親にさらに燃料をそそぐことにならないだろうか。娘が自分の胸に顔をうずめている、ここは父親の自分が、何かそれなりのことをしなければ、と父親の気持ちは高ぶったのではないだろうか。
 これまでの描写からも、グレーゴルを部屋の奥まで吹っ飛ばして意識を失わせたり、父親に暴力的なところがあるのはあきらかだ。娘がそれを知らないはずはない。グレーテには、自分の献身的な介護に逆らったグレーゴルに対して、制裁を加えたいという気持ちがどこかにあったのだろう。しかも、自分では手をくださない。あくまで父親が、父親自身の自由意志で、勝手にやることなのだ。

●やっぱり

父親は「やっぱり、こんなことになったじゃないか」「だから父さんがいつも言っていただろう。なのに、おまえたちは聞く耳を持とうとしないから」と言う。
 何か問題が起きると、「やっぱり」と言い、自分は以前からそれを指摘していたと言い出す人が必ずいる。
 もちろん、本当にそういう場合もある。たとえば、事故の危険性をずっと指摘してきたのに、無視されつづけ、ついにその事故が起きてしまった場合などには、そう言い出しても、まったくおかしくないだろう。
 しかし、日常の多くの場合には、日頃から口うるさくて、いろんなことを言っていたから、たまたまそのうちのひとつがあてはまったにすぎない場合が多い。あるいは、心の中で思っていただけで、口には出していないのに、それでも「やっぱり、思ったとおりだ」と後から言い出す人も少なくない。
 人はいろんな場合を考えるから、結果が定まったとき、自分はもともとその場合を考えていたと思う。それと同時に、他の場合も考えていたことは忘れてしまう。その結果、自分の予想していたとおりのことが起きたではないかと、自分自身でも思いこんでしまう。
 そして、自分の予想に耳を貸さなかった者たちを非難する。このとき、より非難できるように、事態をより深刻にとらえようとする。軽い失敗でも、大失敗ということにしようとする。
 こういうデフォルメが、本当に事態を深刻にしてしまうこともある。グレーゴルの父親の場合もそうだ。彼がグレーテの様子だけで「すべて察しがついた」のも、グレーテの報告を「悪く解釈した」のも、グレーテのせいばかりではなく、彼自身がそうであってほしいと願ったからだろう。軽い出来事ではなく、もっとひどいことなのだと。おれが言っていたようなことが、いや、それ以上のことが起きたのだと。

●身体の声

すぐにすべてを察する父親と、短すぎる報告をするグレーテの共同作業によって、グレーゴルは危険な立場に立たされる。弱い者の敏感さで、グレーゴルはすぐにそれを感じとる。
「だとしたら、なんとか父さんをなだめるよう、できることをやってみるしかない。説明する時間をとってもらえるはずはないし、そもそも説明できないのだから」の原文は、体験話法かどうか意見の分かれる箇所だが、グレーゴルの精神的な緊張はかなり高まったはずなので、私は体験話法ではないかと思う。
 グレーゴルのしゃべる言葉は、もう他の人には通じない。だから、しゃべって説明することはできない。しかも、父親は何かしらの行動をすぐに起こしそうだ。
 だからグレーゴルは、ひと目で自分の善良な意図がわかるようなポーズをとる。自分の部屋の前に行き、ドアに身体を押しつける。身体でしゃべろうとするのだ。
 身体というのは雄弁だ。対人コミュニケーションでは、見た目などの視覚情報が55%という「メラビアンの法則」は信頼できないが、表情、態度、しぐさ、身だしなみなどの見た目から、相手が多くのことを読みとるのはたしかだ。
 虫になってしまったグレーゴルは、人間である父親に対して、共有できる言葉を失い、せめて共有できているはずの動作で、意図を伝えようとするのだ。
 グレーゴルとしては、できるだけのことをやったと言えるだろう。

●見えない人間になる

ここでグレーゴルは、自分が自室に戻って、姿を消すことが、父親の気持ちをなだめることになると考えている。
 自分の姿を見せることが罪であり、自分の姿を見えなくすることが贖罪(しょくざい)となるのだ。
 こんな残酷なことがあるだろうか。
 昔、こんなことがあった。あるお金持ちのマンションに招かれて、10階の窓から外を見ていたら、隣りに老人介護施設があった。車椅子のお年寄りたちが屋上に出て、日向ぼっこしている姿が下に見えた。屋上は気持ちよさそうだった。
 すると、そのお金持ちの夫婦がやってきて、私の視線に気づき、こう言った。「ああ、とんだものがお目に入りましたね。あれは、施設に抗議して、今後はもう屋上に出させないようにするつもりですよ」
 そのお金持ちの夫婦も、もうけっこう高齢だった。それなのに、そんなことを言うのに驚いた。もちろん、高齢者だからこそ、見たくなかったのかもしれないが。
 そのとき、こう聞いてみたくて、聞けなかった。「もしそんなことをして、施設のお年寄りたちが屋上に出られなくなったとして、誰もいない屋上をこの窓からながめながら、耐えられますか?」
 他人を見えない存在にして、それで平気でいられる人たちがいるというのは、恐ろしいことだ。
 通院のためにバスに乗っているとき、道行く人たちを見て、ああ、みんな元気でいいなあと、通院を始めたばかりの頃にはよく思った。しかし、考えてみれば、出歩いている人たちは、どうしたってある程度、元気なのだ。ここにいない人たち、バスの窓から決して目にとまらない人たちがたくさんいる。それが見えていなかっただけだった。
 貧困と孤独に耐えている人たちも、変死しない限り、社会の目にとまらないし、変死してさえ、とまらないことも多いだろう。
 社会には、見えない人たちがたくさんいる。そして、そういう者どうしでつながることさえ難しい。少しでも主張をすれば、すぐに叩かれ、見えない存在となることで、かろうじて許してもらえる。
 グレーゴルも、虫になってから初めて、自分の気持ちをわかってもらおうと行動を起こしたのだが、けっきょく、見えない存在になりますから許してくださいと、身体で示すことになってしまったのだ。
 

しかし父親は、そういう細かなことに気づけるような気分ではなかった。「うわっ!」と父親は、部屋に入ってくるなり叫んだ。激怒していると同時に喜んでもいるような声だった。グレーゴルはドアから頭を離し、父親のほうを見上げた。想像したこともない姿で、父親が立っていた。そういえば、以前は部屋の外の様子をずっと気にかけていたのに、ここのところ新しい這い回り方に気をとられて、注意を(おこた)っていた。だから、自分が知らないうちに状況が変化していても当然で、本当は落ち着いて受けとめるべきだった。だけど、だけど、これがあの父さんなのか? 以前、ぼくが仕事で出張に出かけるというのに、疲れているからとベッドにもぐりこんで出てきもしなかった父さん。夜になって家に帰ると、寝間着姿のまま安楽椅子にすわって出迎えて、ちゃんと立ちあがることもできず、おかえりと手をあげてみせるだけだった父さん。年に数回、日曜や祝日にたまにいっしょに散歩に出かけたときには、ぼくと母さんが両側につきそって、ゆっくり歩いたのに、それでも少しずつ遅れてしまい、古いコートにくるまって、つねに用心深く杖をつき、何か言うときにはいちいち立ち止まるので、そのたびにぼくたちがそばに集まらなければならなかった父さん。今、目の前にいるのは、あの父さんと同一人物なのか? しゃんと立って、金ボタンのついた(こん)の制服をぴしっと着ていた。銀行の用務員が着ているようなやつだ。上着の襟カラーが高くて硬く、ぶ厚い二重あごがその上にのっていた。もじゃもじゃの眉毛の下からにらんでいる黒い目は、活力に満ちていて鋭かった。いつもぼさぼさだった白髪は、きちんと分けられ、なでつけられて光っていた。

ここから先は改行なしに、第2部の最後まで一気に書いてある。
 ただ、以下では、途中で何度か区切りながら読んでいく。

●身体の声は届かない

身体がいくら雄弁でも、相手に読み取る気持ちがなければ伝わらない。父親のモードは、相手の気持ちを読み取ろうとするようなものではまったくなかった。
 しかも、コミュニケーションの多くを視覚情報が占めるとしても、そこには表情、外見なども入る。グレーゴルの今の外見は虫だ。そして、表情を読み取ることもきっと難しいだろう。気持ちの高ぶっている父親にとって、視覚情報は「虫である」ということが圧倒的であって、自分から部屋に入ろうという殊勝な態度を示しているという情報は、闇夜の烏ではないが、目にとまりにくかっただろう。

●喜んでしまう父

「激怒していると同時に喜んでもいるような声だった」というところは、絶妙だと思う。
 激怒している理由はあきらかだ。グレーゴルがひどいことをしたと思っているのだから。そして実際、自室から出て、居間にいたわけだから。父親がグレーゴルの姿を見るのは、虫になった日以来で、かなり久しぶりだ。「うわっ!」と声が出るのも無理はない。「激怒すると同時に驚いてもいる声だった」と、普通なら書きそうなところだ。
 なぜ父は喜んでいるのか?
 自分の出番だからだ。これでもし、もうグレーゴルの姿が見えなかったら、がっかりもしていただろう。
 部屋に入ってきたとき、すでに気分は盛りあがってしまっているのだ。やってやるぞというモードに入っている。そして、ちゃんとグレーゴルはそこにいたのだ。
 嬉しい声も出ようというものだ。
 ここからは、自分の劇場だ、舞台だ。自分の好きなように、なんでもできる。なんでも許された。
 ある外科医が、手術台に横たわる患者の前に立ったとき、「さあ、これが自分の舞台だ」と感じると言っていた。それに近いかもしれない。
 また、これまでの期間、父親はじりじりしていただろう。グレーゴルの面倒は娘がみていて、自分は何もできない。もちろん、自分が世話をしたいわけではない。だが、何か手出ししたいという欲求があったはずだ。
 犯人なのはわかっているのに、決め手がなくてずっと手出しができなかった相手が、目の前で新たな犯罪をおかしたとき、刑事がつい「しめた!」と喜んでしまうのにも近いかもしれない。

●父親の変身

父親は思いがけない姿をしている。制服をぴしっと着ている。服装だけでなく、中身の肉体もしゃんとしている。
 以前はいかにだらしなく弱々しかったかが強調される。そして、今は別人のようであることが。
 父親もまた変身したのだ。
「だけど、だけど、これがあの父さんなのか?」から「今、目の前にいるのは、あの父さんと同一人物なのか?」まで体験話法が続く。グレーゴルの驚きが感じられる。
 父親は、いいほうに変身している。こんなふうにしゃんとして働けるのだったら、前から働けばよかったわけだが、そうはいかない。息子ほどは稼げないだろうから、一家で2番手の稼ぎ手ということになる。事業に失敗して、息子に食べさせてもらって、自分も少しは稼ぐというのでは、男らしい父親としては、自尊心が削られていくばかりだ。もうとても働けない人間として何もしないほうが、まだしも自分に言い訳できる。今、息子が挫折して、自分がいちばんの稼ぎ手になれるからこそ、またやる気が出たのだ。
 

父親の帽子には金色のマークがついていて、それはどうやら銀行のロゴらしかった。父親はその帽子を投げた。帽子は部屋の端から端まで弧を描いて、ソファの上にのった。それから父親は、長い上着のすそを後ろに払い、両手をズボンのポケットに突っ込んで、けわしい顔つきでグレーゴルのほうに近づいてきた。何をするつもりなのか、きっと自分でもわかっていないのだ。ともかく、足をことさら高く上げながら歩いてきた。そのブーツの靴底がひどく大きく感じられて、グレーゴルは驚いた。だが、驚いてばかりはいられなかった。この新しい生活が始まった最初の日から、グレーゴルにはわかっていた。父親はグレーゴルに対して、まるで容赦(ようしゃ)しないはずで、それでかまわないと思いこんでいるのだ。だから、グレーゴルは逃げた。父親が立ち止まると、自分も止まり、父親が少しでも動けば、自分もまた急いで逃げた。そうやって部屋を何周かしたが、決定的なことは何も起きなかった。しかも、基本的にゆっくりしたペースだったので、追いかけっこをしているようには見えなかった。それでグレーゴルは、とりあえず床の上にいることにした。壁や天上に逃げたら、わざと嫌がらせでそうしていると、悪くとられそうで怖かったのだ。とはいえ、こうやって(い回っていたら、長くはもたないぞと、グレーゴルは心の中でつぶやかずにはいられなかった。なにしろ、父親が一歩進むあいだに、こちらはたくさんの脚を動かさなければならないのだ。もうすでに息が苦しくなってきていた。もともとそんなに肺が丈夫なほうではないのだ。

●罪と罰

「何をするつもりなのか、きっと自分でもわかっていないのだ」という表現も、またじつに見事だと思う。
 悲惨なことが起きるとき、加害者が最初からそれを計画していたとは限らない。むしろ、最初には思っていなかったことを、流れの中でしてしまったということのほうが多いだろう。流れというのは恐ろしい。自分が何をするつもりなのかわかっていない者がすることは恐ろしい。
 父親は帽子を遠くに放り投げたり、ポケットに手を突っ込んだり、グレーゴルを威圧するような態度をとる。そして、足をことさら高く上げながら近づいてくる。踏みつぶすということなのか。
 息子にそんなひどいことはしないだろうとは、グレーゴルは思わない。むしろ、父親は容赦しないだろうと思う。なぜなら、「それでかまわないと思いこんでいる」からだ。
 なぜかまわないのか? それは罪のある者に対する罰だからだ。父親の態度は、罪ある者に罰を加える者の態度だ。だから、簡単にはやらない。まず脅かす。相手が怯えるほど、自分の存在は大きくなる。実際、グレーゴルは父親の靴底をとても大きく感じる。
 父親は、罪のある者の前に、罰する者として立つことができたのだ。表向きは、今回の騒ぎを起こしたのが罪だが、父親の心の中には、もともと罰したい気持ちがあっただろう。虫になったのが罪なのだ。自分の息子がそんなものになるなんて。そんなものは自分の息子ではない。
 そして、家族を不幸にしたのが罪なのだ。家族を守るのが父親の役目だ。だから、家族を不幸にする者には、自分が罰を加える。
 もちろん、グレーゴルのほうからすれば、自分に罪があるとは思えない。虫になったことも、この日の騒ぎのことも。罪がないのに罰せられるというのは、長編小説『審判』にも見られる、カフカの重要なテーマのひとつだ。

●復讐心

自分の息子なのに、残酷すぎると思うかもしれない。
 しかし、息子だからこそということもある。
 また、事業に失敗した自分を助け、これまで養ってくれたということも、父親にとっては負い目になって、息子への復讐心が心の奥底にたまっていたかもしれない。

大きな親切をおこなっても、感謝は受けとれない。どころか、相手に復讐心を芽生えさせる。

(ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』佐々木(あたる)訳 河出文庫)

歩いていて、何か落として、後から来た人が拾ってくれた。そういう小さな親切なら、復讐心が芽生える人などいない。
 でも、大きな親切となると、事情がちがってくる。これは「親切」を「お金」に置き換えてみると、わかりやすい。お金に困っているときに、お金を貸してくれる人がいたら、とても助かる、ありがたい。でも、さらに貸してくれて、さらに貸してくれて、というふうに、借りる一方で返すことができず、どんどん借金が増えていったら、どうだろう。だんだん、つらくなってくるのではないだろうか。そして、貸してくれた相手に対しても、気まずくなってくるのではないだろうか。借金のある相手を好きな人はあまりいないものだ。借金が増える苦しみが増すほど、むしろ相手が憎くなってくるのが人情だろう。
「親切」の場合も同じだ。あんまり一方的に、どんどん親切にしてもらって、まるで返すことができないと、それが心理的な負担となって、だんだん苦しくなってきてしまう。ついには、相手が憎くなってしまうことも。
 こんな話を聞いたことがある。その人は、中学校のときに、クラスでひどい目にあっている友達をずっとかばい続けたのだそうだ。そのおかげで、その友達はずいぶん助かっていた。もちろん恩にきせる気はなかったが、友達だと思っていたし、感謝してくれていると思っていた。
 ところがある日、そのかばっていた友達が、その人に向かって、下じきを投げつけた。あやうく片方の目を失明するところだったそうだ。そんなことをした理由はまったく不明で、投げつけてきたとき、その友達の目には憎しみがこもっていたそうだ。なぜ自分に対して、そんな憎しみの目を向けるのか、その人にはまったく理解できず、ものすごくショックだったそうだ。
 その話を私にしてくれたときには、その人はもう20代後半くらいだったが、話しているうちに、涙ぐんでいた。それほど深く傷つき、「いまだに理由がわからない」と苦しんでいた。親切にしてあげたほうからすれば、まったく理不尽で理解できないことだろう。
 しかし、親切にされたほうにはまた、されたほうの気持ちがあるわけだ。
 グレーゴルは、自分は家族のために犠牲になって、やりたくもない仕事をやっているという感じを、いつも漂わせていたのかもしれない。それが父親の心理的な負債感をいっそう増やすことになっていたかもしれない。
 もちろん、だからといって、父親の行為が少しでも正当化されるわけではない。ただ、まったく理解できなく思える行動にも、じつは理由があるかもしれないということだ。
 父親は、もはやないだろうと思っていた復讐の機会を、思いがけず手に入れたのだ。そして、復讐するとき、人は残酷になる。ただの加害ならそんなにひどいことはできない人でも、復讐となるとそうとうなことができてしまう。

●ためらい

とはいえ、父親のほうにもまだためらいがある。本気で踏み殺そうとはしていない。追いかけてはくるが、ゆっくりだ。
 だからグレーゴルのほうも、父親が追いかけてこれない壁や天井には逃げない。手出しのできないところに逃げれば、よけいに怒りを買いそうだからだ。怒りはまだ頂点には達していないと感じているのだ。
 決定的なことは何も起きず、ただグレーゴルはだんだん疲れていく。
 

それでも、よろめきながら進んだ。速く這うことに全力を傾けていたので、目も満足に開けていられなかった。頭がぼうっとしてきて、こうして走りつづける以外にも助かる道があることを思いつかなかった。壁を自由に這い回れることも、ほとんど忘れかけていたのだ。もっとも、家具に(さえぎ)られていたせいもあった。家具には、(とが)ったところや鋭いところのたくさんある彫刻が入念にほどこされていたのだ。──そのとき、身体のすぐ横を、何かぽいと放り投げられたものが通り過ぎ、目の前に落ちて、さらにごろごろと転がっていった。林檎(りんご)だった。すぐに2つ目が飛んできた。グレーゴルはぎょっとして、その場に固まった。もう走っても無駄だった。父親は砲撃する決心をしたのだ。食器棚の果物皿から林檎をとってポケットいっぱいに詰めこんで、投げはじめた。ろくにねらいも定めず、やみくもに次から次へと投げつけてきた。小さな赤い林檎たちが、まるで電気じかけのように床の上を転げ回り、互いにぶつかった。ひとつの林檎がグレーゴルの背中に軽くあたったが、いきおいが弱かったので、そのまますべり落ちて無傷だった。しかし、直後に飛んできた1個が、まっすぐグレーゴルの背中にめりこんだ。

●頭がぼうっとしてきて

子どもの頃、遠くまで歩いて行く途中で、雪が降り出して、どんどん降りが強くなって、あたり一面に積もりだし、自分の頭や肩や顔にまで積もりはじめ、だんだん意識がぼうっとしてきて、それでもとにかく足をとめないよう、前へ前へと歩いていったことがある。
 あとから考えると、危なかった。ところどころにあった民家に、ぜんぜん知らない家でもいいから、頼んで、少しのあいだ、休ませてもらうべきだった。でも、そういうことはまったく思いつけなかった。ただ、進むことしか。ぜんぜん見知らぬ土地だったということもあるが。
 グレーゴルがよろめきながら進み、「壁を自由に這い回れることも、ほとんど忘れかけていた」という描写でそれを思い出した。
 なお、彫刻が入念にほどこされた家具とは、ずいぶん立派そうだが、父親の事業がうまくいっていたときに買ったものかもしれない。だとすると、それが今のグレーゴルの逃げ道をふさいでいるわけだ。

●ついに決定的なことが

父親は林檎を投げ始める。これも追いかけっこと同じで、ためらいがある。最初は軽く投げられている。あたっても、問題はなかっただろう。ダメージを確実に与えようとはしていない。
 しかし、どんどん投げてくる。それでも基本的にはあまり力をこめていないようだ。背中に少しあたっても無傷ですむ程度だ。
 ところが、ときには力をこめて投げてみたのだろう。それがちょうどグレーゴルの背中にもろに命中する。そして、身体にめりこんでしまう。かなりのいきおいで投げられたということだ。
 そこに殺意はあったのだろうか? そこまでではなかったとしても、ケガをさせようとしていたのだろうか? それとも、ただの脅かしのつもりで強く投げたのに、うっかりあたってしまったのだろうか?
 それはわからない。しかし、これもまた未必の故意ということになるのかもしれない。どこかでグレーゴルの死を願っていて、でも、はっきり手をくだすことはためらわれる。そういうとき、ものを投げるというのは、じつにうまい方法だ。踏みつぶすのだったら、うっかりというわけにはいかない。しかし、林檎を投げるのだったら、あてるつもりではなかったのに、と思うこともできる。うっかり死なせてしまうことができるのだ。

●林檎

林檎が登場する。
 林檎が登場すると、すぐに聖書も登場しがちだ。有名な、蛇にそそのかされてイブが禁断の木の実を食べ、アダムにも食べさせたという話だ。
 カフカ作品の宗教的解釈というのは、キリスト教に限らず、昔からいろいろある。前にも書いたように、その具体例をあげることはしない(インパクトのある解釈は、それはちがうと思っても、つい思い出してしまって、作品を純粋に読めなくなってしまうことがあるからだ。カフカの作品の宗教的解釈について知りたい人はネット検索すれば簡単に出てくる)。
 作品をどのように解釈しても、もちろん自由である。ただ、次のカフカの言葉はあげておきたい。

ぼくは、すでに重くたれさがっているキリスト教の手によって、キルケゴールのように生に導かれはしなかったし、飛び去っていくユダヤの祈りのマントのすその端を、シオニストのようにつかんだりはしなかった。

(八つ折り判ノートH)

もちろん、カフカが聖書にまったく関心がないというわけではない。チューラウ・アフォリズムでは聖書の内容にかなりふれている。
 しかし、聖書について書くときには、カフカははっきり書く。林檎で象徴させるようなことはしない。もうひとつ言っておきたいのは、このことだ。つまり、そういう作風ではないということ。「虫は何を象徴しているのだろう」「林檎は何を象徴しているのだろう」と考えるのは、もちろん自由だが、カフカ自身が何かを象徴させていることはない。──というのも、カフカの作風に対する私の見解にすぎないので、もちろん異論があっていいわけだが。
 これはカフカではなく、別の作家の作品で、作家名も作品名も忘れてしまったのだが、こういうような一節があった。作中に出てくる小説家がインタビューにこたえて、こう言うのだ。とても印象的で心に残っている。

私がリンゴと書くと、みんな「それはじつはトマトだ」と言う。
 私がトマトを書くと、みんな「それはじつはリンゴだ」と言う。
 うんざりだ。

林檎と書いてあったら、素直に林檎だと読むことも大切だろう。

●六大林檎

なお、林檎が出てくるカフカの言葉にこういうのがある。

たとえば、テーブルの上のひとつのりんご。それを見るために、せいいっぱい背伸びしなければならない小さな子どもと、それを手でつかんで、食卓にいる人たちに自由にさしだせる主人とでは、同じりんごでも見え方がちがう。

(八つ折り判ノートG)

『変身』では、グレーゴルはテーブルの下の存在で、食器棚の果物皿から林檎をつかみとることはできないだろう。父親のほうは、いくらでもつかみとって、ポケットを林檎でいっぱいにすることができる。そして、その林檎をグレーゴルに投げつけるのだ。

ちなみに、三原弟平(おとひら)は、『変身』の林檎について、こういう面白いことを書いている。

この林檎は、大げさにいうなら、人類の歴史のなかでの忘れられない四大林檎のうちの一つになってゆくのではなかろうか。すなわち、蛇がイヴに与え、アダムも食べて人類の原罪の因となってしまった林檎、トロヤ戦争の因となった、あのパリスがアフロディテに渡した林檎、そして、老婆に化けたお妃にもらって白雪姫が死ぬことになった毒林檎に次いで第四番目の。

たしかに、『変身』のこの林檎はとても印象的で有名だ。
 さらに、ウィリアム・テルの林檎、ニュートンの林檎を入れて、六大林檎としてもいいかもしれない。いや、もっとありそうな気もする。
 

グレーゴルは身体をひきずって動こうとした。突然の信じられないほどの痛みが、場所を変えれば消えてなくなるかもしれないとでもいうように。しかし、釘づけされたように動けず、その場にのびてしまった。すべての感覚がすっかり混乱していった。最後に見えたのは、母親の姿だった。グレーゴルの部屋のドアがいきおいよく開いて、母親が飛び出してきた。後ろで妹が叫んでいた。母親は上半身が下着姿だった。妹が、気を失っている母親の呼吸を楽にするために上着を脱がせていたのだ。母親は父親に駆け寄っていった。その途中で、ゆるめてあったスカートが床にずり落ちた。重ねばきしていたので1枚また1枚と。それらに足をとられながらも、父親のところまで突き進み、抱きついて、ぴったりひとつになって──このときにはもう、グレーゴルは何も見えなくなっていたが──両手を父親の頭の後ろにまわし、グレーゴルの命を助けてくれるよう頼んだ。

●なぜ動こうとするのか?

大ケガをした人間は、なぜ這ってでも動こうとするのだろう。
 1メートルくらい動いても、なんの意味もないし、それどころか、ケガをした状態で動くのはいいことではない。それなのになぜ動こうとしてしまうのか。
 自分がまだ動けることを試したいのかもしれないし、ひどいことが起きた場所からなんとか逃れようとしてしまうのかもしれない。
 中学生のとき、自動車にひき逃げされて、被害者なのに、なぜかそこから早く立ち去りたいとすごく思ったのを思い出す。
 いずれにしても、「突然の信じられないほどの痛みが、場所を変えれば消えてなくなるかもしれないとでもいうように」という表現は、その不思議さを見事に突いている。

●悪しき男性性

グレーゴルが大ケガをしたことはたしかだ。動くこともできず、意識を失っていく。
 子どもにこれほどのケガを負わせる父親とは、なんなのか。
 グレーゴルの父親は、悪人というわけではない。しかし、いわゆる「悪しき男性性」をたっぷり持っている。それがこの加害につながっている。そこがしっかり描かれているという点も、『変身』の新しかったことのひとつだろう。カフカ自身がそういうものが苦手だったからだ。
 父親に渡すつもりで書いた長文の手紙(第10回でも引用した)に、カフカはこう書いている。

たとえば上手に敬礼したり行進したりするぼくを、あなたはとても()めて励ましてくれました。けれども、ぼくは未来の兵士ではなかったのです。
 また、よく食べて、さらにビールさえ飲めたようなとき、あるいは意味もわからぬ歌をマネたり、あなたの好きな言い回しを、あなたの後について片言でいえたとき、あなたはぼくを励ましてくれました。
 けれども、そんなことは、ぼくの未来とはなんのかかわりもなかったのです。

(父への手紙)

●勢子としての母親

母親がグレーゴルの部屋から飛び出してくる。飛び出してくるのは、グレーゴルに林檎がめりこんだ後だから、それは見ていないはずなのに。林檎があちこちにぶつかる音が、だんだん強くなっていくのが聞こえたのだろうか。あるいは、林檎を投げる手が止まったことで、何か異変を察知したのだろうか。
 ともかく、音と気配だけで、大変なことが起きたと感じて、下着姿のまま飛び出してくるのだ。妹が止めるのも聞かず。
 父親にかけよる途中で、スカートが床にずり落ちる。このスカートは原文では複数形(Röcke)になっていて、直訳すると「スカート(複数形)が1枚また1枚と床にすべり落ちた」と書いてある。これが、最初に読んだときには意味がわからなかった。なぜスカートが複数なのか。既訳を見てみると、たんに「スカート」として「1枚また1枚」は訳出してなかったり、「スカートや、下着」「スカートやペチコート」としてあったり、「スカートなど」とぼかしてあったり、「重ね着のスカート」としてあったりした。
 ファッションに詳しい人に聞いてみたところ、ヨーロッパではスカートの重ねばきはよくするらしい。寒いせいだったり、スカートをふっくらさせるためだったり。いちばん上のスカートが痛んできたら、それを下に回したりもするらしい。
 それが正しいかどうかは確実ではないが、「重ねばき」と訳文にも入れておいた。原文にない言葉を足すのには反対の人もいるだろうが、文化のちがいによってわかりにくいところには、日本人向けに言葉を足すべきだと私は思う。妙なところでひっかかってしまうと、それこそ原文の味わいを損ねることになるので。
 ともかく、スカートが何枚も脱げながらも、母親は父親のところまで突き進んで、抱きついて、頭に両手をまわして、グレーゴルの命乞いをする。
 また、悲劇と喜劇が同居している。必死な人の姿は、コミカルになってしまうから、悲しい。
 こんなにも必死にグレーゴルをかばおうとする母親は、父親とはちがって、ただただ善良な存在なのか?
 そうとも言えない。
 母親はグレーゴルに会いたがり、しかし実際に目のあたりにすると気を失い、それでこの騒ぎになってしまった。直接的に父親を焚きつけたのは妹だが、母親が原因とも言える。
 これはカフカ自身の家族のことだが、先にも引用した『父への手紙』で、カフカはこう書いている(「あなた」は父親のこと)。

母さんがぼくにとても優しかったことは事実です。
 しかし、母さんのすることは、すべてあなたに関係していたため、けっきょくは、ぼくと母さんも良好な関係にあるとは言えませんでした。
 母さんは、無意識のうちに、狩猟における勢子(せこ)の役割を果たしたのです。

(父への手紙)

父親が厳しい場合には、母親がやさしくて、子どもの味方をしてくれるという場合がある。しかし、父親が母親に対しても支配的な場合には、母親のやることは、けっきょく父親が許す範囲のことであり、つねに父親が満足する方向にことを進めてしまう場合も少なくない。
「勢子」というのは、狩猟のときに、獲物を草むらから追い出したり、他に逃げるのを防いだりする役目の人のことだ。狩人が獲物をしとめやすいようにだ。
 グレーゴルの母親も、もちろん意識的にではないが、けっきょくのところ、この勢子の役割を果たしてしまい、グレーゴルが父親にしとめられてしまったとも言える。
 父親、母親、妹が、それぞれにはっきり意識してではなく、しかし見事な連携で、グレーゴルを破滅のほうへ追い込んでいったのである。

●物語の視点

以前にも書いたことだが、『変身』は三人称で書かれているが、視点はほぼグレーゴルのそばにあって、実質的には一人称に近い。基本的に、グレーゴルが見聞きしたことしか描かれてない。
 たとえば今回も、玄関でグレーテが父親の胸に顔をうずめているところなどは、居間にいるグレーゴルには見えないので、妹のくぐもった声を聞いて、そう推測したことになっている。
 しかし、この第2部の最後のところでは「このときにはもう、グレーゴルは何も見えなくなっていたが」という但し書きつきで、両親の様子が描写されている。
 視点はつねにグレーゴルのそばにあるが、グレーゴルの目そのものではないのだ。主観カメラではない。グレーゴルが視力を失っても、意識を失っても、視点は残る。
 これは第3部において重要なことで、その予告がここで少しなされていると言えるだろう。

●「永遠に続いていきそうな彼の不幸のいよいよ最後の段階」

 これも以前に書いたことだが、カフカの『変身』の執筆の様子は、その時期に恋人のフェリーツェに出した手紙によって、かなり詳しくわかる。

小さな物語を書くつもりです。
 ベッドで嘆いているときに思い浮かんだ物語なんですが、
 それが心の奥からぼくをせき立てるんです。

(1912年11月17日 フェリーツェへの手紙)

から始まり、書き終えたのは同じ年の12月7日だ。約20日間くらいの非常に短期間で書かれている。なるべく一気に書いてしまうのがカフカのやり方だ。「一気に書き上げるほうが、統一感がでますし、夢中になれます」
「こういう物語であれば、せいぜい1回の中断で、10時間ずつかけて、2回で書かなければならないでしょう」と手紙の中でも書いている。しかし、「パンのための仕事(生活のための仕事をカフカはこう呼んでいた)」があるから、なかなかそうもいかない。
 その約20日間に、カフカはフェリーツェに40通以上の手紙を送っている。平均すると1日に2通だ。カフカは手紙魔なので。
 その中にこういう手紙がある(第6回でも一部を引用した)。

もうすっかり夜もふけました。
 ぼくの小さな物語をわきに片づけました。
 もっとも、この二晩、まったく手をつけていないのですが。
 いつの間にか、もっと大きな物語に成長し始めています。

 書いたものを送って読んでもらおうとは思いません。
 ぼくはあなたに読んで聞かせたいのです。
 そう、素晴らしいことでしょう、
 この物語を朗読しながら、
 あなたの手を握っていなければならないのは。
 というのも、この物語は少し怖いからです。
 タイトルは『変身』で、
 あなたをひどく不安にさせるでしょう。
 こんな物語はまっぴらだとおっしゃるかもしれません。

 ぼくは今、とても気分が暗くて、
 あなたにお便りすべきではなかったかもしれません。
 ぼくの小さな物語の主人公は、今日、
 とてもひどいことになってしまったのです。
 しかもそれは、今や永遠に続いていきそうな彼の不幸の
 いよいよ最後の段階にほかなりません。
 どうしてぼくが陽気でいられるでしょう!

(1912年11月22日〜23日 フェリーツェへの手紙)

この「今や永遠に続いていきそうな彼の不幸のいよいよ最後の段階にほかなりません」というのは、林檎が背中にめりこんだことなのかもしれない。
 翌日の手紙にはこう書いてある(第6回でも引用した)。

なんとまあ、
 とんでもなく嘔吐をもよおさせる物語でしょう。
 今またこの物語をわきに片づけて、
 あなたのことを考えて、気を取り直したいと思います。
 物語はすでに半分以上進んでいて、
 だいたいにおいて、不満ではありません。
 しかし、とめどなく嘔吐をもよおさせます。

(1912年11月24日 フェリーツェへの手紙)

「物語はすでに半分以上進んでいて」というのだから、第2部の終わりまで進んでいると考えるのは、ちがっているかもしれない。しかし、もしかするとこの先がもっと長くなるとカフカは考えていたのかもしれない。
 というのも、この3日後の11月27日のフェリーツェへの手紙には「新しい物語は終わりに近づいたけれど、2日前から誤った方向に進んでしまったようです」とあるからだ。
「誤った方向に進んでしまった」のは、出張のせいなのだが、そのことについてはまた先で紹介する。

●第2部の終わり

これで第2部は終わりだ。次回からは第3部に入る。
 第3部で『変身』も終わる。いよいよ最後のところだ。
 ここまでくるのに、連載開始から3年と4カ月かかった。ずいぶんゆっくり読んできたものだ。こんな贅沢な読書はなかなかできない。それをさせてくださるみすず書房と、読んでくださる読者の方々に、あらためて心より御礼申し上げたい。