私は中国を専門とする研究者である。などと自己紹介をすると、なんだか背筋がゾワゾワっとするような居心地の悪さを覚えてしまう。人に誇れるような論文を書いていないから、というのが、おそらくその最大の原因だろうが、その情けない理由をあえて棚に上げるならば、根本的に中国が私にとって「知的対象」とはやや性質を異にする存在であるというのが大きいのではないかと考えている。
例えば、多くの中国研究者が、「大学で受けた中国文学の講義が面白かったから」とか「もともと漢文が得意だったから」とか、なにかしら知的で文化的な出会いによって中国研究をスタートさせているのに対し、私の場合はまったくそうではなかったからである。
では、私は中国とどのような出会い方をしたというのか。端的に言うならばそれは、「肛門期的な出会い」だった。つまり、「うんこ」の一言で2時間も3時間も笑っていられるようなガキの頃に私は中国と出会い、脳みそとはまったく別の器官で中国を認識し、号泣したり爆笑したり呆然としたりしてきたのだった。その時の鮮烈な思い出の数々がいっこうに忘れられず、私は今の今まで中国との腐れ縁を断ち切れずにいるのである。
100人ストリートファイター
小1の頃、「ストリートファイターII」というスーパーファミコンの格闘技ゲームにハマっていた。特にリュウという柔道キャラがお気に入りで、ゲーム内で修行を重ねるうちに、実際に自分でも人を投げとばしてみたくなり、近所に柔道教室を探したりした(結局見つからず、仕方なく母が見つけてきた少林寺拳法の道場に入門)。
このように身も心もストリートファイターに支配されつつあった私は、いつからか日課としてコクヨの自由帳にオリジナルキャラを創作するようになっていた。時々、ライバルゲームの「バーチャファイター」からキャラを拝借しつつ、「もしこんなオールスターな格ゲーがあったらめっちゃ楽しいだろうなー」とひとり夢を膨らませていたのである。
コツコツ創作すること数ヶ月、塵も積もれば山となり、キャラが100人を超えたあたりで、ちょうど夏休みが始まった。毎年夏は北京にある母の実家に帰省するのが、我が家の恒例行事だった。
ところで、当時の中国にはスーファミはいまだ流通しておらず、「スーパー」の付かないプレーンなファミコンが流行っていた。私も北京に行くと、いとこの姉からファミコンを借りて、「アイスクライマー」や「サーカスチャーリー」などを遊んでいた。しかし、スーファミで目の肥えた私にそれらのゲームはどうも物足りず、ストリートファイターが恋しくてたまらなかった。
そんな欲求不満な北京滞在中のある日のこと、家族で近所のデパートへ出かけることになった。デパートに着くやいなや、私と弟は一目散におもちゃ売り場に駆け込み、ショーケースに陳列されたファミコンソフトをしげしげと眺めた。面白そうなゲームがあれば両親にねだって買ってもらおうという魂胆だ。しかし、やはりどれも一世代前のゲームばかりで、見れば見るほどにテンションは下がっていった。だが、そこで奇跡は起きたのである。
「あ、ストリートファイターだ……」。ボソッと弟が耳を疑う一言をつぶやいた。その指さす方に目をやると、そこには「街頭覇王」(注:ストリートファイターの中国語訳)と書かれたソフトがあって、リュウが波動拳をぶっ放しているイラストが描かれていた。
「ほんとだ、ストリートファイターだ!」。狂喜する私。その様子を見てニコニコする弟。しかし、驚くのはまだ早かった。なんと、リュウが波動拳をぶっ放したその先に描かれていたのは、舜帝というバーチャファイターの酔拳使いだったのだ。しかも、彼らの背後には、ストリートファイターやバーチャファイターをはじめ、あらゆる格ゲーキャラがメーカーの垣根を越えて一堂に集結しているではないか。
よく見ると、「街頭覇王」の真上に「100人」という不可解な数字が書かれてある。そう、それはただのストリートファイターではなかった。まさかの「100人ストリートファイター」だったのである!
「早くパパとママ呼んできて!」。慌てて弟に命令を下した私はショーケースに覆い被さり、「100人ストリートファイター」が他のガキに見つからないよう鉄壁の防御を固めた。まもなく、弟が両親を連れてくると、私はすかさずこう叫んだ。
「ぼ、ぼ、ぼくのノートが現実になった! 今年はクリスマスプレゼントもお年玉もいらないから、今すぐ『100人ストリートファイター』を買って欲しい!」
こうして私は、子供重要年中行事の2つと引き換えに「100人ストリートファイター」を手に入れ、ルンルン気分で帰路へとついたのだった。己が魔界に向かって爆走していることなどつゆも知らずに……。
帰宅後、高鳴る鼓動を感じながら、さっそく「100人ストリートファイター」をファミコンにセット。画面に浮かび上がってきたのは怖ろしいほどに荒いドット絵だった。パッケージとのあまりの落差に早くも嫌な予感を覚えたが、必死に気づかないふりをした。なんてったってこれは「100人ストリートファイター」なのだから。クリスマスプレゼントとお年玉と引き換えに買ってもらったのだから。しかし、そんな幼気な信心は無慈悲にも裏切られることとなった。キャラクター選択画面に進んだところで、私は膝から崩れ落ちた。
確かに、キャラは100人いた。しかし、それが「格ゲーオールスターズ」などではないことは一目瞭然だった。単に、ストリートファイターのキャラを、カラーヒヨコよろしく赤・青・黄……に染め上げ、人数を水増ししているだけなのだ(赤いリュウ・青いリュウ・黄色いリュウ……キモチワルイ!)。半泣きになりながら私はピンクのリュウを選び、弟に紫のザンギエフを選ばせた。そうだ、普通のストリートファイターだと思って遊べばいいんだ。それで十分面白いのが名作ストリートファイターじゃないか。経験したことのない限界状況に私の精神年齢は急上昇していた。
いざ勝負の時、「ROUND ONE FIGHT!」。試合開始のかけ声を合図に、リュウとザンギエフが天高く跳び上がった! とその途端、「ブィィィィー」という耳障りな音と共に画面が固まり、カラフルなストリートファイターたちは死後硬直したヒヨコのように体をのけぞらせたまま二度と動かなくなった。何度リセットしても結果は同じ。ジャンプしたとたんに「ブィィィィー」。100人もキャラを詰めこんだせいでシステムに破綻が生じたのだろう。失意のドン底に突き落とされた人間に涙は出ない。「ブィィィィーじゃねえよ!」。私と弟は画面に向かってそう罵りながら、いつまでもケラケラと笑っていた。
自宅で「100人ストリートファイター」を捜索したものの、残念ながら見つからず。この画像は、辛うじて中国のネットショップで購入できた「60人ストリートファイター」のキャラ選択画面。当時の中国には、正規のファミコンソフトというのはほとんど流通しておらず、人々が楽しんでいたのは、いずれもこうしたパチモノのソフトだった。
三蔵法師の肉
三蔵法師の肉を食べると不老長寿になれるらしい。だから、三蔵法師は常に妖怪どもにつけ狙われている。
実は私、三蔵法師を毎日のように食べていた時期がある。しかし、私の場合は不老長寿になるどころか、一度その肉によって酷い目に遭い、むしろ寿命を幾分か縮めたことさえあった。そう、あれは10歳の夏の出来事である。
当時、私は家の事情で北京の小学校に通っていた。向こうの小学校は、小遣いの持ち込みが許可されており、その金を狙った怪しげな行商が、駄菓子や玩具を校門の前に並べては、下校するガキどもを日々誘惑していた。その中に、「三蔵法師の肉」(正式名称は「唐僧肉」、「唐僧」は中国における三蔵法師の俗称である)はあった。乾し肉を麻辣エキスに漬け込んだ唐僧肉は、「焼肉さん太郎」や「酢だこさん太郎」など、おつまみ系駄菓子を好んで食べていたおっさん系少年の私をすぐに虜にした。
来る日も来る日も、私は行商を訪ね、口を真っ赤に染めながら唐僧肉を食べ続けた。『西遊記』の世界であれば800歳くらいまで寿命は延びていたはずだ。しかし、現実はそれどころか、むしろ食べる度に激しい腹痛に襲われた。まもなく母から「唐僧肉禁止令」が発令されたものの、すでにジャンキーと化していた私は母の目を盗み、行商から唐僧肉を密輸入しては口を真っ赤にして腹痛にうなされるのだった。そして、ついに悲劇は起きた。
夏休みに入り、私は家族と長江下りに出かけた。まずは成都に向かい、そこから重慶に移動して客船に乗り込み、長江を川下りしながら武漢を目指す、約1ヶ月に及ぶ壮大な旅行である。
初めて乗る寝台車に胸をときめかせ、ナマズの火鍋に舌鼓を打ち、峨眉山の巨猿に震えおののく、それはそれは楽しい旅だった。しかし、四川料理の破壊力と子供にとってはあまりに長丁場の旅路に、私の体は知らぬ間にダメージを蓄積していた。暗雲が垂れこめ始めたのは、まさに重慶から客船に乗り込んだあたりである。
すでに夜も更け、薄暗い船内。客室にはベッドが2つとテレビが1つ備え付けられていた。ベッドに横たわった私は微かに小腹の空きを覚え、母が同室でないのをいいことに、リュックに忍ばせておいた唐僧肉を取り出して一気に3袋も頬張ると、そのまま気絶するように眠ってしまった。
ガサガサ、ガサガサ。2、3時間経った頃だろうか。部屋のあちこちで鳴る奇妙な音に目を覚ます私。「パパ……パパ……」。隣で寝ている父に声をかける。「なんか変な音がするね」。即座に返答がある。父も目を覚ましていたらしい。おもむろに起き上がり、電気を点ける父。パッと部屋が明るくなる。と、その瞬間、数匹のネズミが大慌てでブラウン管の中に逃げ込むのが見えた。ガサガサ、ガサガサ。真っ暗なテレビの中から薄気味悪い音が鳴り響く。衝撃の光景に氷のように固まる私。ふと視線を下にやると、布団の上には米粒大の糞が大量に散乱していた。
旅の疲れに、唐僧肉×3とネズミダメージが加わり、私のお腹は決壊した。トイレと部屋を何往復もしているうちに、高熱も加わる。途中停泊をしての観光タイムも、むろん全てキャンセル。ネズミ部屋で数日うなされているうちに、気づくと武漢に到着していた。
食欲が減退し、なにも喉を通らない私。レストランで家族がランチを楽しんでいるなか、ひとり椅子でうなだれていると、その姿を哀れに思ったのか、弟が耳寄り情報を持ちかけてきた。「兄ちゃん、あっちに無料のスイカジュースがあったよ。めっちゃ美味いから飲んでみて」。弟のグラスになみなみと注がれた薄紅色のジュースは、脱水症状気味だった私の目にとても魅力的に映った。よろめきながらジュースサーバーに向かい、一口飲む。干からびた五臓六腑にスイカのみずみずしい果汁が染み渡る。確かに、めっちゃ美味い。1杯、2杯、3杯……飲めば飲むほどに体力が回復していく、そんな気がした。
食事を済ませた我々一行は、黄鶴楼へ向かった。黄鶴楼とは、高さ50メートルを超えるいにしえの物見櫓であり、李白を始め歴代の詩人たちが好んで題材とした武漢随一の観光名所である。スイカジュースのおかげでにわかに元気を取りもどした私は、軽快なステップで黄鶴楼を駆け上がった。己が天国への階段を上っていることなどつゆも知らずに……。
ギュルルルル。最上階に辿りついた瞬間、猛烈な便意に襲われた。むろん物見櫓にトイレなどあるわけもない。私に残された選択肢は2つ。今すぐここから飛び降りるか、猛ダッシュで駆け下りるか。前者を選びそうになるも、ギリ思いとどまった私は、人波をかき分け、黄鶴楼を滑り落ちるように駆け下りた。そして、3階で盛大に漏らした。その勢い、さながら長江の濁流のよう。慌てて私から距離を取る観光客たち。「哎呀!」「卧槽!」「臭死了!」。数々の名詩を生んだ聖地に語彙力ゼロの阿鼻叫喚がこだました。
本エッセイの執筆に際して、中国のネットショップで「唐僧肉」と検索すると、数点ヒット。いまだに人気の駄菓子らしい。ただし、いずれも私が食べていた唐僧肉とはまったくの別物であり、本エッセイは現在販売されている商品の品質を揶揄するものではない。
水滸伝カード
北京の小学校では、勉強についていけない劣等生の私だったが、唯一「遊び」の面では、他を圧倒する大活躍を見せていた。というのも2000年当時、中国の小学生のあいだではハイパーヨーヨーがにわかに流行り始めていたのだが、日本から来た私にとってそれは2、3年ほどの流行遅れに他ならなかった。つまり、日本でハイパーヨーヨーを散々遊び尽くしていた私は、彼らが基本中の基本であるロングスリーパーに悪戦苦闘しているさなか、両手ループ・ザ・ループを涼しい顔で繰り出すといったイヤらしいまねができたのである。
一方で、北京のクラスメイトも、私に未知の遊びを色々と教えてくれた。なかでも私を虜にしたのが「水滸伝カード」の収集だった。水滸伝カードとは、「干脆面」というベビースターラーメンのような駄菓子(以下、水滸伝ラーメン)に付いてくるおまけのことで、当時おそらく中国全土のキッズがその収集に熱を上げていた(余談だが、クラスにいた鼻炎持ちの女子が、鼻をかんだティッシュをゴミ箱に捨てずに引き出しの中にため込んでいるのを教師に見つかり、「みんなが水滸伝カード集めてる時にアンタなにひとりで鼻水ティッシュ集めてるの!」とデリカシーゼロなお説教をされてエンエン泣いていたのを覚えている)。ご多分に漏れず私もすぐに水滸伝カードの収集にハマり、学校が終わると近所のスーパーに駆け込んでは水滸伝ラーメンを購入し、「よっしゃ、武松ゲット!」とか「また時遷かよ!もう10枚目なんだけど」とか言いながら一喜一憂していたのだった。
こうして水滸伝カードどっぷりの生活を謳歌していた私だったが、何かに熱中しすぎると思わぬ落とし穴が待っているのが中国という所(「100人ストリートファイター」を思い出そう)。またしても幼心にトラウマを残す、ある凄惨な事件が起きたのである。
あれはその年のクリスマスのこと。地道な収集活動のおかげで、水滸伝カードのコンプリートまであと数枚に迫っていた私は、この千載一遇のチャンスを逃すまいと、ある作戦を企んでいた。その名も、「水滸伝ラーメン箱買い作戦byサンタさんパワー」。読んで字の如く、日頃1日1袋の掟のもとちまちま購入していた水滸伝ラーメンを、サンタさんの力で箱買いしてもらい、一気にコンプリートを狙おうという魂胆である。
というわけで、さっそく母に添削してもらいながら「圣诞老爷,请给我一整箱干脆面。不是一包哦,是整整一箱(サンタのおじさん、水滸伝ラーメンを1箱ください。1袋ではありませんよ、まるごと1箱です)」となぜか中国語でサンタさんにメッセージを書いた私は、明日の歓喜を夢見て床についたのだった。
翌朝、目を覚ますとクリスマスツリーの傍らに巨大なプレゼントが届いていた。ダッシュで駆け寄り、瞳孔全開で包装紙をひっ剥がす私。すると出てきたのは、メーカーの公式ロゴ(可愛いアライグマのマーク)が付された段ボール箱だった。そう、欲しかったのはまさにこれ。にわかに期待が高まったところで、ふとロゴの横に「100袋入り」と書かれてあるのが目に入る。100……それは私にとって因縁の凶数。だが、同じ轍など踏むものか。不穏なイメージを必死に振り払いながら、開封の儀に進む。粘着テープにカッターでスーッと切り込みを入れる。段ボール箱がパカッと開く。現れたのは背徳感さえ覚える夢のような光景だった。思わず2人の弟たちも声を上げる。「わー! ぜいたくー!」。
だが、すでに私はある異変に気づき、こめかみをピクつかせていた。というのも、箱の中身がピンク一色だったからである。解説しよう。水滸伝ラーメンには、BBQ味やシーフード味など複数の味付けがあり、味ごとに袋の色が異なるのだが、ピンクというのは、我々が最も忌み嫌っていたトマト味の色なのである。それはトマト味を名乗りながら、あまりに異様な味がするので、我々から「赤ちゃんのゲロ味」という異名を与えられていたほどの代物であった。
というわけで、幾分テンションは下がらざるを得なかったものの、目当てはオマケの水滸伝カードである。気を取り直して、さっそく1袋目を開封してみる。出てきたのは王英だった。王英とは、「矮脚虎」の異名を持つ、短足でちんちくりんの『水滸伝』のなかでも最もダサいキャラクターの1人である。だが、まだ1袋目。焦る必要はまったくない。
「ぼくも1袋あけていい?」。真ん中の弟が私に尋ねる。「いいよ」と言って、1袋渡す。勢いよく開封する弟。「なんだった?」と尋ねる私。「王英!」という元気な返事が返ってきた。
「ぼくも1袋あけていい?」。一番下の弟が私に尋ねる。「いいよ」と言って、1袋渡す。勢いよく開封する弟。「なんだった?」と尋ねる私。「王英!」という元気な返事が返ってきた。
結論を言ってしまおう。100袋の中身は、すべて王英だった。年に一度のサンタさんパワーを使って100枚のカスカードとゲロ味の駄菓子(大量)を手に入れた私は、無言でベッドに戻り、夕方まで起きてくることはなかった。しかし、捨てる神あれば拾う神あり、私の運はまだ尽きていなかった──。
その数日後、蘇州へ家族でツアー旅行に出かけることになった。そこで私は上海からツアーに参加していた1人の少年と出会ったのである。
「ねえねえ、水滸伝カードやってる? ダブってるカードあるからトレードしない?」。100枚の王英のせいで広辞苑みたく分厚くなったコレクションをチラつかせながら、私は上海少年にカード交換を提案した。すると上海少年は、「まあ、一応持ってきてるけど……」と言ってリュックからカードの束を取り出すと、私に向かってポイッと投げた。見ると、私が血眼になって探し求めていた魯智深がある……3枚も!
さっそく私は交換条件を尋ねるべく、自身のコレクションを差し出した。すると上海少年は、それを一瞥もせず、「水滸伝カードはもういらないから欲しかったら全部あげるよ」と耳を疑う発言をしたのである。あっけにとられる私。上海少年は続けて、「今上海ではこれが流行ってるんだよね」と言い、ポケットから水滸伝カードよりも一回り小さい、プラスチック製の見慣れぬカードを取り出した。見るとそこには、関羽、劉備、曹操、諸葛孔明……といった名前があった。その数週間後、北京で三国志カードが流行り始めた。
王英と愉快な仲間たち。『水滸伝』にせよ『三国志演義』にせよ、中国の有名古典小説は、ドラマやマンガやカードやゲームを通じて楽しまれるのが一般的であり、原典を読んでいる現代中国人なんてむしろ少数派である。
ムーナンくん
『絵の中のぼくの村』という大好きな映画がある。双子の絵本作家・田島征彦と田島征三の少年時代を描いた、現実と幻想の混濁する自伝的ダークファンタジーの傑作なのだが、そのなかにセンジという印象的な少年が登場する。
舞台は高知のとある村里。センジは転校生として登場する。黒ずんだボロをまとい、体は垢だらけで、まるで野生児のような身なり。彼に親の影はなく、なぜか山でひとりひっそり暮らしている。そんな孤独なセンジと双子はしだいに仲良くなるも、幸福な時間はそう長くは続かなかった。ある日、双子がセンジを家に招いたときのこと。普段はどんな子供にも分け隔てなく接する優しい母が、「あの子だけはいかんぞね、帰ってもらい」とセンジの来訪を頑なに拒絶するのだった。そのやりとりを耳にし、肩を落としてトボトボとその場を離れるセンジ。以来、センジは学校に来なくなり、まもなくして村からも姿を消してしまう……。
私は、このセンジというキャラクターを目の当たりにしたとき、ある友人のことを思い出さずにはいられなかった。彼の名は「ムーナン」。北京の小学校で出会った1人の少年である。
転校初日、自己紹介を済ませた私は、廊下から2列目の一番後ろの席に案内された。中国語がほとんど理解できない私は、授業についていけるわけもなく、ただやれることといえば、目の玉をキョロキョロさせて、(みんな首に赤いスカーフを巻いているな……男子はスパイクシューズを履くのがトレンドなのか……中国では鉛筆ではなくボールペンを使うらしい……なるほどこの子が優等生で……あの子は眼鏡をかけているが劣等生……)と、周囲のクラスメイトを観察することだけだった。
そんなことをしているうちに、1時間目があっという間に終わり、2時間目が始まった。(さて、参与観察の続きでもしますか)と、はなから授業を放棄し、一丁前のフィールドワーカーになりきっていたそのときである。教室前方の扉がいきなりガラガラッと開き、1人の少年が入ってきた。泥だらけのジャージをまとい、頭はボサボサ、顔も手も赤黒く日に焼けたその姿は、まるで社会科の教科書で見た戦争孤児のようだった。
時刻はとっくに10時をまわっていたが、教師はそんな大遅刻をしてきた彼に目もくれず、たんたんと授業を進めた。少年も少年で悪びれもせず、廊下から1列目の最前列にドカッと腰を下ろした。次の日も、その次の日も、少年は決まって10時を過ぎたころに教室に入ってきては最前列にドカッと腰を下ろすのだった。
彼はいったい何者なのだろう。なぜ毎日遅刻してくるのだろう。いまだクラスに馴染めずにいた私は、もう1人のはぐれ者である彼のことが気になって仕方がなかった。そして、どうやらそれは彼のほうも同じだったようで、授業についていけない落ちこぼれの転校生に、なにやら自分と同じ臭いを敏感に嗅ぎ取っていたのである。
汚れたジャージの彼は、その日も10時を過ぎた頃にやってきた。ドカッと席に腰を下ろすと、教科書を開くこともなく、ただ虚空をぼんやり見つめている。私も私で、その姿を斜め後ろからぼんやり見つめていた。教室から取り残された2人。はぐれ者同士の魂が交差する。おもむろに後ろを振り返る彼。目と目が合う。彼はニヤリと笑い、指をピストルのように構え、私にめがけて「ビュン」と見えない光線を撃った。すかさず、わたしも指をピストルのように構えて「ビュン」と撃ち返す。腹を抱えて笑い出す彼。たまらず教師が注意する。「邪魔をするなら出ていけ! ムーナン!」。
この日を境に、私はムーナンとつるむようになった。ろくに中国語が話せない私に、ムーナンは金魚の糞のようについてきた。こちらが聞き取れているかどうかなんておかまいなしに四六時中話しかけてきた。ムーナンとつるめばつるむほど、他のクラスメイトとの距離は離れるばかりだったが、そんなことは最早気にならなかった。似たもの同士の我々は、スクールカーストの最下層に2人だけの楽園を見つけたのである。
そんなある日のこと。私はお昼休みにムーナンを家に誘った(注:中国の小学校は昼食を家でとる)。その誘いに目を輝かせたムーナンは、「え、いいの!? じゃあ、ちょっと用事を済ませてから遊びに行くね」と言ったままどこかに消えていった。
帰宅し、昼食を食べていると家のチャイムが鳴った。ムーナンが来たのだ。扉を開けると両手に一杯の「大白兎」(注:中国でポピュラーなミルクキャンディー)を抱えている。「これお土産、一緒に食べよ」と私に差し出した。
大白兎を頬張りながら、一緒にゲームボーイで遊んだり、日本から届いた『コロコロコミック』を見せてあげたりした。ニコニコしているムーナンだったが、初めて訪ねるガイジンの家に緊張しているのか、どことなくソワソワして居心地が悪そうにしているようにも見えた。「じゃあ、次は何して遊ぼうか」。私が尋ねるとムーナンはこう答えた。「うーん、そろそろ学校に戻ろうかな」。「え、まだ12時半じゃん。もうちょっと遊んでから一緒に学校に戻ろうよ」。私の提案にムーナンは首をふってこう言った。「ちょっと用事があるから先に行く……あと、お願いなんだけど、ぼくが君の家に来たことは誰にも言わないでね」。そう言い残すと、ムーナンは我が家から去って行った。
(用事、用事って子供のくせにどんな用事があるんだろ)。いまひとつ釈然としないムーナンの言動にモヤモヤしながら、遅れて私も学校に戻った。午後の授業が始まる。20分くらい経った頃だろうか。誰かが教室の扉をノックした。教師が授業を止めて、扉を開ける。すると、そこにはクラスの担任がいた。担任はそのまま教室に入るやいなや、私のほうを見て手招きした。「ちょっと来てくれるかな」。ザワザワする教室。言われるがままに席を立ち、担任の元へ向かう。確か教室にムーナンの姿はなかった。
無言の担任。その後ろをトボトボついていく私。連れて来られたのは教員用の小さな控え室だった。中には顔見知りの教員が3人いて、私の到来を待っていた。席に着くと、担任が口を開いた。「お昼休みは何をしていましたか?」。
私はその一言を聞いてすぐに理解した。彼らは全てを知っている。私がムーナンを家に招いたことを、ムーナンがどっさりお土産をもって我が家に来たことを。しかし、それがなんだというのだ。なぜムーナンを家に招くことが問題になるのか。私にやましいことなどなにもない。全てを正直に白状したってかまやしない。でも、ムーナンは言っていた。「ぼくが君の家に来たことは誰にも言わないでね」と言っていた。
「誰かあなたの家に遊びに来ませんでしたか?」。尋問はなおも続いた。私は頑なに首を横に振った。なぜ首を振らなきゃいけないのか、わけもわからず首を振り続けた。イライラし始める教員たち。彼らの声はどんどん大きくなっていった。「私たちの耳には全部伝わってるの、ムーナンが家に来たんでしょ? 正直に言ってちょうだい!」。
気づくと私は大泣きして、ムーナンとの約束を破っていた。裏切り者はすぐに解放され、泣きはらした目を必死に隠しながら教室へと戻っていった。
帰宅後、両親が学校に呼び出されたことを祖父の口から聞かされた。私は大白兎の散乱したベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。まもなくして、両親が戻ってくると私はとっさに駆け寄り、教師から何を言われたのか尋ねた。そこで、ムーナンが窃盗の常習犯であること、お土産の大白兎も万引きした商品であること、そして、ムーナンが我が家に来たことを学校に密告したのが彼の弟であることを、私は初めて知ることとなった。
しかし、だからなんだというのだ。そんなことがムーナンを家に招いてはならない理由になるとでも言うのか? ムーナンはただ、ゲームボーイで遊び、コロコロコミックを眺めていただけではないか。それなのに、ガイジンの家に行けば盗みを働くと端から決めてかかり、血の繋がった兄を密告し、無垢な生徒に誘導尋問を仕掛ける、それが「善人」のやることなのか? 私は義憤に駆られ不満を爆発させた。その叫びに両親も同調し、「ムーナンはいい子だ、我が家はいつでも歓迎する」と言ってくれた。
緊張の糸が切れた私は再びハラハラと涙を流した。まるで、自分が罪なき善人であることを確認できて安堵したかのように。しかし、そんな欺瞞はある人物の目にはとうに見透かされていた。部屋の片隅で一部始終を聞いていた祖父がおもむろに腰を上げると、私のほうを見てボソッと一言、こうつぶやいたのである。「友達との約束くらい守れやな」。
この一件のあと、ほどなくして私は語学力の問題で、同級生が5年生に進級するなか、ひとり3年生に降格することが決まった。ムーナンとは自然に疎遠となり、彼が我が家に遊びにくることは、その後二度となかった。
唐僧肉と同様に、今も根強い人気を誇る大白兎。このミルクキャンディーを見るたびにムーナンくんのことを思い出し、少し胸が苦しくなる。