みすず書房

沙湾道中不始末記

四川省楽山市

沙湾道中不始末記

ここに書くことが起きたのはもう15年以上も前になるが、これまで誰にも打ち明けたことがない。中国での留学生活の締めくくりにこのようなことをしでかしてしまったのは痛恨の極みであり、これまで思い出すたびに後ろめたい思いに駆られてきた。しかし今回、中国滞在記を書く機会をいただいたのをきっかけに、思い切ってこの体験を告白しようと考えた次第である。これから中国を旅しようという方には、くれぐれも私と同じ轍を踏むことのないようご注意いただければと思う。

 北京師範大学文学院博士課程を修了した2008年の夏、四川省に旅行した。私の専門は中華民国期の文学で、作品分析が中心であるから、基本的にフィールドワークが必要になることはない。2001年の修士課程入学以来、中国人学生と一緒の授業についていくために必死で勉強していたので、7年間の留学生活では、ほとんど北京以外の土地を旅することはなかった。もともと旅行関係の仕事をしていたために中国の主要な観光地には行ったことがあったし、中国で個人旅行をすることの大変さは身にしみてわかっており、行く気が起こらなかったこともある。だが卒業して帰国してしまえば長い旅行が難しくなるから、居留期限が切れる前に別の土地を訪れてみようと思った。調査研究ではなく、ただの物見遊山、思いつきによる卒業記念旅行である。

 行き先として四川省を選んだのは、成都の大学に就職した知り合いがいたからである。それ以外に大きな理由はない。外国の見知らぬ土地では、旅行につきものの移動手段や宿の手配の難易度が国内より格段に上がる。食事や観光も思うに任せないことが多い。それが旅の醍醐味と言ってしまえばそれまでだが、現地に知り合いがいれば、交通手段や観光に関する情報をあらかじめ得ることができ、こうした不便さをある程度回避することができるうえ、場合によっては宿泊場所と食事を共にする相手が一気に手に入り、旅が格段に楽になる。幸い、知人も歓迎すると言ってくれ、喜び勇んで出発した。

 成都では知人が勤める大学の寮の部屋を提供してもらい、各地を観光した。中西部の大都市だけあり、街のつくりはビルから道路から、何もかも広くて大きかった。公園の中に麻雀卓があり、平日の昼間から多くの人が麻雀に興じていたのが北京とは違って印象的だった。当地出身の文人、()(きん) の故居や、道教寺院である青羊宮などを見学して2日ほど過ごした後、成都を離れて周辺地域を回ってみることにした。

成都の公園で麻雀に興じる人々。 


 成都のバスターミナルからは、峨眉山・楽山方面への長距離バスが出ている。峨眉山は中国の四大仏教名山の一つで、楽山は弥勒菩薩をかたどった高さ約60メートルの巨大石仏が有名である。「峨眉山と楽山大仏」として、1996年にユネスコの世界遺産に登録されている。ここまで来ておいて、行かずに帰る法はない。宿は取っていないが、観光地だから泊まる場所には困らないだろう。知人は仕事があるため成都に残り、私はそれ以降、一人旅となった。

 楽山で長距離バスを降りた。楽山市は中華民国期から新中国にかけて活躍した文人、(かく)(まつ)(じゃく)を生んだ土地でもあり、そこかしこに名前や揮毫がみえる。私は博士論文で、民国期の文学団体、創造社の文学を扱った。郭沫若は創造社を設立した中心人物の一人である。故居は近いのだろうか。行けるなら立ち寄ってみたい。
 風景区の入口前で小さな食堂に入り、昼食をとっていると、店の従業員がチラシを手に峨眉山ツアーの勧誘に来た。峨眉山のふもとのホテルに前泊し、翌日に登るコースで、料金にはふもとから山腹まで往復のバス代とホテル代、入山料、翌日の昼食代が含まれている。郭沫若のふるさとについて訊いてみると、山を下りてから行けばいい、バスが出ているから、という。
 ツアーに申し込み、出発時間まで楽山大仏を観光してから、峨眉山へ向かった。

楽山大仏から見える岷江(びんこう)。


 峨眉山は標高3000メートルほどだが、山腹でバスを降りた後はロープウェーがあり、比較的楽に登れた。主要な部分しか見ないコースで、まさに「走馬看花」だが、ツアーによってはもっと時間をかけるコースもあるようだ。当日の天気は快晴で、ガイドによると峨眉山で青空が見られるのは珍しいとのことだった。実に順調で、幸先がいい。

峨眉山の峰の一つ、金頂にそびえ立つ巨大な仏像。


 午後早いうちに下山し、前泊したホテルで郭沫若のふるさとの場所を尋ねると、付近のバス停から路線バスに乗り、「((わん)」という町で降りるのだという。帰りの成都発北京行き列車の発車時刻は翌日夜である。沙湾で一泊し、故居を見てから成都へ戻れば十分間に合う。宿は取っていないが、なんとかなるだろう。中国個人旅行をおっくうだと感じていたのはどこ吹く風、この時、連日の移動によって私の中では完全に旅行スイッチが入っており、時間の許す限りどこまでも奥地へ行ってみようという気になっていた。

 田舎道を行く路線バスに延々と揺られ、目的地に到着した頃には夕暮れが近かった。北京を発つ時には沙湾を訪れるなど予想もしていなかったので、もちろん下調べはしておらず、どんな施設があるかもわからないし、町の規模もわからない。埃っぽいバス停の付近に停まっていた人力車をつかまえて、郭沫若の故居にできるだけ近い宿に泊まりたい、と告げた。車夫は快諾し、自転車をこぎ出した。

 沙湾は川沿いの小さな田舎町である。町を貫く通りの入口には風格ある楼門が立っていた。遠くに山が見え、すぐ近くに(だい)()()が流れる。清末のこの町で、郭沫若は薬屋を営む地主の家に八番目の子として生まれた。沫若は(あざな)で、大渡河の旧称である(まつ)(すい)から一字を取っている。進学のため故郷を離れて以来、ふるさとにはほとんど戻らなかったという。この町から成都に出発し、日本へ渡り、大正期の東京を見たのだ。

沙湾の目抜き通り入口に立つ楼門。


 目抜き通りを直進し、連れていかれたのは小さな宿だった。故居の場所を尋ねると、車夫はすぐ横の建物を指さした。なんと故居の隣の宿である。値段を訊いてみると、一番いい部屋でも1泊20元だという。1元が14円の時代である。当時、大学の近所の食堂で焼きビーフンを食べると6元、肉入りにすると8元だった。牛乳は1リットルパックが4.8元だった。学生の一人旅で一番いい部屋に泊まるのは気がとがめたが、破格の宿代に喜んで手続きをした。宿帳にパスポート番号、名前、北京の住所を書く。宿のおかみさんは南方人らしく小柄な人で、いい客が来たと嬉しそうだった。部屋にはベッドのほかにテレビ、ソファセット、シャワー、トイレがあり、カーテンを開けると故居が見えた。気分がいよいよ盛り上がる。明日は故居見学だ。

 宿の建物は比較的きれいだったが、よく見ると部屋の設備はどれも古びていた。ソファにかかった布は黄ばんで、腰を下ろすと長年しみついた埃の匂いがした。サイドテーブルはざらつき、ティーバッグのお茶があったが、いつのものかわからない。ウォーターサーバーのタンクはからっぽだった。高い部屋はあまり利用客がいないのかもしれない。トイレはシャワー室の床に和式(?)便器をはめこんだものである。洋式便器の真上にシャワーがついているタイプの宿は香港の(チョン)(キン)大厦(マンション)で泊まったことがあり、ふたを閉めれば問題ないが、和式となれば、使う時に物を落としたり、自分が落ちたりしないように気をつけなければならない。中国の建物は水回りが整っていないことが珍しくなく、ましてや20元の宿である。値段なりなのは仕方がない。

 部屋のカーテンを閉めようとすると、土壁に打ちつけてある金具が外れ、カーテンレールごと落ちかかってきた。慌てて戻そうとしたが、レールは斜めに傾いたままである。それ以上触ると完全に落ちてしまうかもしれない。すでに午後も遅く、これから修理騒ぎになるのは気が進まなかった。一泊ぐらいカーテンがなくても差し支えない。明朝、宿を発つ時に主人に話すことにして、夕食がてら街を散策に出た。

大渡河のほとり。


 夏の夕暮れ、川べりの公園はひとけが少なかった。夕食は小さな食堂で麵を食べた。地元料理というようなものもない、ただの飯屋である。通りには車が少なく、道端には三輪車の荷台にナッツやドライフルーツを乗せた露店が出ている。買い物帰りの人々がそぞろ歩く様子はいかにものどかだ。
 散歩をして戻ると、宿の前ではおかみさんと息子らしき若者が椅子を出して涼んでいた。郭沫若が詩に詠んだ美女峰はここから近いのかと尋ねた。おかみさんは地元の訛りが強く、よく聴き取れない。息子が、近いが、登って戻ると半日以上かかると教えてくれた。残念ながら、北京へ戻る列車の時刻には間に合いそうになかった。

川沿いの公園に立つ郭沫若像。


 中国人は大学の寮でも街のホテルでも、基本的に自室のドアを開けっ放しである。外からは丸見えだが、まったく気にしないようだ。知り合いの部屋の前を通る時には、中に向かって声をかける。室内の人も返事をする。開けっ放しにするのは、閉まっていると中に人がいるかどうかわからなくて不便だから、という理由らしい。
 沙湾の宿でも、人がいる部屋はドアが開いていた。通りすぎる時、もろ肌脱ぎになっている男性が目に入った。肉体労働者のような頑健な身体つきである。彼らの部屋は5元か10元か。連泊して、近隣で出稼ぎをしているのかもしれない。彼らからすれば、外国の人間が同じ空間にいるのは場違いなのかもしれないが、中国で一般市民と同じように生活したいと願っていた私にとっては、彼らと同じ宿に泊まれることが嬉しく、ひそかな喜びを感じた。

 部屋に戻り、便器に落ちないように気をつけながらシャワーを使った。こういう場面では、自分の感受性にある程度目をつぶらなければならない。ベッドに入った時にはすでに夜12時を回っていた。暑かったので天井のファンを回した。
 しばらく横になったが眠れない。ファンは音が大きい割に涼しくならない。窓を開けると蚊が飛び込んでくる。備え付けの蚊取りマットはまったく効果がないようだ。輾転反側し、ようやくうとうとしかけた頃である。突然、廊下から鍵束を鳴らすジャラジャラという音がしたかと思うと、外から鍵が差し込まれてドアが開き、人が飛び込んできた。

 強盗だ、ととっさに思った。だが鍵を持っているということは宿の人だ。ここはとんだ強盗宿だった。大変な場所に来てしまった。私の人生はこれで終わるのか。そんな考えが一瞬のうちに閃き、慌ててベッドを飛び出して大声を上げた。
 「ワアー!」
 鍵束を手にして飛び込んできたのは宿のおかみさんだった。そしておかみさんも大声を上げた。
 「漏oう吓i宇が竟遪れ罩泥di!」
 「ワアーー!!」
 「逆底i恺あーい辖qu坎凵呀!!」
 ひとしきり向かい合ってわめき合ううちに、ふと様子がおかしいことに気づいた。
 私より相手のほうが慌てており、何かをしきりに訴えているようだ。いったい何ごとが起こったのか。
 地元の言葉がよく聴き取れず、何度も聞き返してみると、どうやら宿の入口に警官が来ており、私を呼んでいる、と言っているらしい。よほどパニックになっていたのだろうが、今から考えると、いきなり合鍵で開けずとも、まず外からノックをするとか声をかけるとか、ほかに方法があったようなものだ。

 着替えようとすると、そんなのはいいから今すぐ行けと急き立てられ、仕方なくパジャマのまま降りていった。フロントの前には、果たして制服を着た二人の警官が立っていた。その周囲を宿じゅうの宿泊客が総出で取り巻いており、彼らの視線が一斉にこちらに向けられるのを感じた。いずれも無表情で、静かにじっとこちらを見守っている。日本留学中の魯迅が幻灯で見た首切りを見物する中国人も、このような麻痺した表情ではなかったか。いや、気持ちよく寝ていたところを起こされることになった元凶はこいつか、という恨みの視線だったかもしれない。
 パジャマ姿で髪の毛ぼさぼさ、すっぴんで目もろくに開けられず朦朧として出てきた私を見て、警官はやや(ひる)みつつ、「この宿は安全性の面から外国人は宿泊してはならない。これからあなたを別の宿に移動させる」と告げた。

 中国のホテルは、設備に応じて星なしから五つ星まで等級が分かれており、政府機関の認可を取った宿しか外国人を受け入れられないことは、以前から知っていた。老朽化した宿、設備が整っていない宿は「安全のため」という理由で認可が下りない。三つ星以上ならまず問題はないが、私が泊まろうとしたのは、星はおろか、外国人が宿泊してはならない宿だった。普通は宿泊手続きの際に名前やパスポートでわかるところが、恐らくこの宿に外国人など来たことはなく、規則を知らなかったのだろう。警官が施設を巡回し、泊まってはいけない人間がいないか宿帳をチェックするとは聞いたことがあった。本当にそのようなことがあったのだ。なにもよりによって真夜中に叩き起こして追い出すことはなかろうと思ったが、言っても仕方がない。仕方がないことが多すぎる。

 警官は私がごねたり、暴れたりすると思っていたのかもしれない。ふだんなら、私も暴れないまでも、ごねるくらいはしていたかもしれない。だがその時はもうどうでもよくなっていた。とにかく早くこれを終わらせて寝かせてくれ。半分目を閉じながら黙って頷くと、相手はほっとしたようだった。張りつめていた周囲の空気も少しゆるんだ。警官は宿の主人に向かって、「この人に宿泊代を返しなさい」と言った。主人は20元を返してくれた。人々の目が紙幣に集まり、「えっ、それ返すの」という空気が流れた。私もそう思った。だが主人は早く出てってというそぶりである。
 部屋に戻るとおかみさんもついてきた。「早く、早く」と傍らでしきりに急かすのをなだめつつ、着替えて荷物をまとめ、宿を出て、パトカーの後部座席に乗った。警官二人は前の座席に乗った。あたりは真っ暗闇である。どこへ行くのかわからない。外国人だからということで超高級ホテルに連れていかれたらどうしよう。せっかく故居の近くまで来たのに、遠くへ連れていかれたら。だいたい、沙湾にホテルがあるのだろうか。行き先を尋ねると、「むにゃむにゃ大酒店」とホテルらしき名前を言われたが、もちろんわからない。
 それから元の宿の人たちが気になった。せっかく一番いい部屋に客が来たのに、こんな騒ぎになってしまった。水道も電気も使ったのに、宿代は全額返してもらってしまった。その上、カーテンレールを壊したままである。なんという迷惑な客だろう。地元民と同じ宿だと高揚していた自分の愚かさがたまらなく恥ずかしかった。長年、中国と関わり、仕事で何度となく人を連れて往復し、家族や友人知人を案内したこともあるのに、こんな初歩的ミスで騒ぎを起こすとは。
 あの一家は外国人を泊めようとしたことでお咎めがあるのだろうか。警官に訊いてみると、「まさか」と言う。ほっとした。相手は少しリラックスしたのか、「どこから来たの」と尋ねてきた。日本からだと答えると、「そんな遠くから来たのか」と言う。中国大陸の奥深く、成都からバスで数時間のこの小さな町に暮らす人々からすれば、確かに日本ははるかかなたの国に違いない。だが、自分がそれほど遠い世界の人間だと思われたくなくて、「北京で勉強している」と言った。彼らの前で留学とか大学院といった言葉は出したくなかった。あとはみな無言であった。

 案内されたのは堂々とした構えの三つ星ホテルだった。広いロビーを通って正面のフロントに行く。警官もついてきて見守っている。そばに掲げられた宿泊料金一覧表が目に入った。一番高い部屋で2000元であった。その下に1000元、800元などと書いてある。私の奨学金は毎月2000元であった。それでは足りず、翻訳のアルバイトをしていた。毎月の奨学金支給日が待ち遠しく、肉を食べるのはその日と毎月29日の肉の日だけだった時期もある。
 「安い部屋にして」と言った。フロントの男性は「えっ」という表情で顔を上げた。そばで見ていた警官も、一瞬、身じろぎをした。むべなるかな。この時点で私はパジャマこそ着替えていたものの、まだすっぴんで髪の毛ぼさぼさ、眠気全開という顔をしていた。そんな外国人が真夜中にいきなり警官連れでやってきて、宿泊料金を値切ってきたのである。これが日本人の真実の姿と思われたらほかの日本人に大変申し訳ない。
 「380元の部屋でいいですか」と言われた。安心した。許容範囲である。警官たちは帰っていった。あとから考えれば、もしかすると私を連れてきたことで彼らはキックバックをもらえたのかもしれない。だがそんなことはどうでもよかった。部屋は清潔でエアコンが効いており、私はふかふかのダブルベッドで、ぐっすり眠った。

 翌朝カーテンを開けた。カーテンレールは落ちてこなかった。中庭が見え、すがすがしい空気の中、切り株を模した小さなテーブルの上で猫が丸まって眠っていた。なんと心和む風景ではないか。

ホテルの中庭で眠る猫。猫は時間と場所を超えて人の心を和ませる。


 あの宿で眠れず、追い出されて来たこのホテルで熟睡した自分。ああ、私は日本人なんだな、としみじみ思ったが、そんな感想で済んだのは幸いというべきである。だいたい、それまで聞いたこともなかった外国の土地をぶっつけで訪れ、行き当たりばったりで宿を決めるだけでも危ないことだ。中国人でも、少々稼ぎがあって危機意識のある人なら、もう少し条件のいいホテルを選ぶだろう。ましてやパジャマ一枚で衆人環視の中へ出ていき、深夜に見ず知らずの人についていくなど、言語道断である。仕方がなかったとはいえ、あれがニセ警官や悪徳警官だったら、見知らぬ土地で身ぐるみはがされたり、もっとひどい目に遭ったりする恐れもあったのだ。そうならなかったのは、ただ地元の人々が善良で、悪い思いつきなどする余地もないくらい外国人に不慣れであったこと、それだけのんびりとした土地柄だったからというほかはない。

 この旅は、留学生活最後の、そして人生でも恐らく最後の、冒険の旅となった。そしてたった一泊しただけの沙湾の町は、私にとって忘れられない思い出の土地になったのだった。

郭沫若故居。幸い、連れていかれたホテルからもさほど遠くなかった。

郭沫若故居(左手)の前から、目抜き通りの楼門を望む。