みすず書房

1冊の本、2年に3度の旅から

浙江省金華市

1冊の本、2年に3度の旅から

本を読んで旅をしたくなることはあるし、旅の途中に本を読みたくなることももちろんある。ただ、1冊の本を手に入れるために旅をすることは、いわゆる人文学の研究者以外にはあまりないかもしれない。
 私が中国に行くのは、けっきょくそこでしか手に入れられない本があるからにすぎないことも多い。
 中国の古い戯曲や芸能には、印刷された書籍の形で台本が残るもののほかに、上演のために作られた写本しか現存しないものもある。それを一つひとつ集めながら全体像を考えるのは、完成図の見えないジグソーパズルのピースをはめるようなもので、角や端から埋める定石も使えない。
 そのうえそうした調査に出かける機会も、時間と費用の上で制限されてしまう。ましてや世界的な疫病の流行があったりすればなおさらだ。そして空白をじゅうぶん埋められるだけの材料を揃えられなければ、手元には調査の断片としての「旅」の記録だけが残ることになる。
 自由がきかず、計画通りに欲しいものも得られなければ、行きたいところにも行けず、食べたいものも食べられず、しかも日程の最後だけは厳しく決まっている。それはいわゆる自由な旅行から楽しいことをほとんど抜いたような「旅」だけれど、そのおかげで目的を持っていなければ行けないところに行け、会えない人に会え、聞けない言葉を聞けたのも確かだ。だからそれらについて、すこし書きとめておきたい。

忘れられた物語のかけらを探して

金華市内の将軍廟。各地にある将軍廟にはさまざまな「将軍」が祀られ、張塢を祀るものはここしか知られていない。

2016年10月29日、私は浙江省の金華市内、旧市街からやや北に外れたあたりにいた。金華火腿といういわゆる生ハムの名産地として知られるこの内陸の街に来たのは、明代後期から浙江省や福建省を中心に伝わる『太平春』という芝居の台本を手に入れられないかと考えてのことだった。
 金華に将軍廟という小さな廟があることは、それほど知られていない。そしてこの地の将軍廟に祀られているのは張塢(ジャン・ウー)という架空の人物で、こちらは知られていないどころか、この地域の外では誰も知らない。
 ところがこの張塢は、その『太平春』という芝居の中ではなかなか大事な登場人物でもある。つまり今回の調査は、この張塢を祀った廟から『太平春』にうまくつながり、何なら当地で芝居として演じられた話まで聞ければよし、演じた劇団までつながれば万歳、その流れで台本まで手に入れば万々歳、というわけだ。あとは当地名物の火腿に舌鼓を打ってから、杭州に寄って東坡肉を食いながら紹興酒を飲み、龍井茶をみやげにゆうゆうと日本に帰ればいい。

「この将軍廟は張塢という人物を祀っている。明朝を開いた朱元璋の名臣であった彼は、この地で命を落としたのだ。朱元璋が凱旋し、川を渡ろうとしたところ橋が落ちて渡れなかった。ほらすぐそこにある川のことだ。そこで張塢は橋の代わりになり、身をささげて一行を渡らせ、やがてそこで力尽きてしまった。その彼を記念して作られたのがあの将軍廟だ」
 地元のことをよく知る人物として紹介されたのが、目の前で話をしてくれている痩身の老人だ。このあたりが村であったころ村長を務めたこともあり、子どもを3人とも博士に育て上げ、マンションの近くにあずまやを寄付したという地元の名士だ。私はそのあずまやの屋根の下で老人に話を聞いていた。
 「それは何か書物に出ている話でしょうか」
 「いや、張塢は名臣ではあるが歴史書に伝記はない。私は『明史』をすべて読み通したが1字も出てこなかった」
 芝居ならここが聞かせどころだ。私はきちんと驚き、『明史』は中華書局版だと20冊以上もあるのに、とあいづちを打ったところで、核心にあたる質問を切り出した。
 「『太平春』か『賀太平』という芝居はご存じありませんか。朱元璋と劉伯温に、張塢が登場するのですが」
 「いや、知らないな」
 「あるいは『白猴記』『銅橋渡』という題かもしれません」
 「いや、知らない」
 「張塢がもともと木こりだったという話はありますか」
 「いや」
 「張塢の横に祀られている妻が、なんという姓か伝わっていませんか」
 「いや、知らない」
 この将軍廟の周辺では、どうも『太平春』という芝居にある物語はすっかり忘れ去られてしまったらしい。しかしがっかりするいっぽうで、「知らない」と言われるたびに、わざわざここまで来て調べようとしていることに意味があると思えてきたのも確かだった。
 この旅じたいが、忘れられた物語のかけらを集めるためのものなのだから。

まかない係に誘われて舞台裏へ

3日後の11月1日の夕方、それまで何度かけても電話に出てくれなかった劇団の団長とようやく電話がつながった。電話に出た低い声の男性に、取り急ぎ名前を確認して日本の研究者だと名乗る。
 「『太平春』を上演したことがありますか」
 「ある」
 返事の調子はあまり聞いたことがないほどにそっけなかった。
 「いま武義に来ているのですがお会いできませんか」
 「いま武義にはいない」
 そしてその後の言葉はほとんど謎めいていた。
 「金華の体育館だ。体育館で上演する」
 それだけ言うと、電話は切られてしまった。その後は何度かけ直しても出てくれない。
 私は金華市の武義県にいた。中国の行政単位は「省」が大きな「市」に分かれ、その下にさらに「市」あるいは「県」がある。武義は金華の中心からは50kmほど南だ。『太平春』はじっさいの演目としてはほとんど絶えてしまっており、私が唯一上演した情報を持っているのは武義を本拠地にするという「壷山婺劇団」だった。そこで武義まで来てみたものの、この時点まではほとんど収穫がなかった。
 そうしてようやくつながった電話がこの通りだ。芝居の公演に出ているということは分かったが、その場所が「体育館」であることしか情報がない。ひとまずは翌日、武義を引き払って金華まで戻ってみた。そして手を尽くしておそらく市内南部の金華体育中心という施設のことだろうとあたりをつけてそこまで行き、あちこち聞いて回って近くの村で芝居の上演があることがわかり、何とか後徐という村までたどりつくことができた。
 農村の簡素な舞台を思い描いていたが、目の前に現れた仮設舞台はかなりの大きさだった。客席はざっと300人以上は座れる規模があり、劇団は俳優に楽隊、裏方も含めると30名以上はいるだろう。中国の伝統演劇の上演では、俳優の歌唱の部分は舞台の左右に字幕表示が出せるようにしてあるのはふつうだが、ここではさらに後ろに大きなLEDパネルを置いて背景を映し出せるようにしてあり、街のホールでの上演にも見劣りしないほどだ。
 劇団員たちは忙しく行きかい、あるいは歌をさらい、あるいは体操をしながら上演の準備をしている。その中で気後れしながら何とか1人の劇団員をつかまえて団長に会いたいむねを伝えてみるが、にべもなく団長は今ここにいない、と言われてしまう。そうこうしているうちに芝居が始まってしまった。上演の間はおとなしく見るしかない。
 1つの演目は1時間から1時間半というところだろうか。午後の演目が2つ終わったところで、また舞台裏に回ると、ちょうど劇団の花形役者である団長の息子が、取り巻きの役者たちを連れてさっそうと舞台を下りてきた。
 「あの、すみません私は日本から来た――」
 そう声をかけたときのしぐさが今でも忘れられない。開いた左手を目の高さまですっと挙げた彼は、こちらに一瞥もくれずに通り過ぎたのだ。まだ化粧も落としていない道化役の役者だけがこちらに振り返ったが、彼も一声も出さなかった。舌一つさえ、動かす必要のない相手だということか。
 その後、腹ごしらえにと何とか食べた屋台のネギ入りの焼餅(シャオビン)の味は、ちっとも覚えていない。

さいわい次の日も上演があるのは分かっていた。泊まっているホテルから再び劇場まで来る途中、大型スーパーで洋酒とクッキー缶を買い、それを手みやげに劇団員にしつこく話しかけてみた。むりやりクッキー缶を渡し、団長と話したいのだとアピールして、劇団の裏側にしつこく留まり続けてみる。
 仮設舞台の後ろ側では、団員たちがまかない飯を食べていた。調理担当の髪を短く揃えた小柄な年配の女性が、所在なさげな私を目にとめたのか、ご飯を食べていきなさいよ、と勧めてくれた。ありがたく豚肉と野菜のおかずを白飯にのせたまかない飯を少々もらって立ち食いし、団長に話したいのだと事情を伝える。女性はうなずいて言った。
 「あとで老板娘(ラオバンニャン)(女主人)に話してあげるから」
 芝居を2本見た後、ふたたび舞台裏に行くと、また先ほどの女性がご飯を食べていきなさい、と誘ってくれ、飯を食わせてもらう。鶏肉に豆腐、野菜などいくらかを白飯にのせてまた立ち食いだ。この間いちおう屋台は昨日の焼餅の他にもいくつか出ているものの、よそものが話しかけても注文さえろくに受けてもらえないありさまだったから、これはじっさいありがたかった。
 「ほら今ならいるからね、話してみるといいよ」こちらに照れたように笑うと、女性は「あたしの娘なのよ、似てないけど」と言った。驚きながら言われるままに舞台袖から上がってみた先には、肩に赤いストールをかけた女性が1人座っていた。
 「団長と話したいっていうのはどういうお話?」
 アーモンド型の眼にすっと通った鼻筋、薄い唇。まわりの温度が2、3度は下がりそうな美人、それが「老板娘(ラオバンニャン)」こと、団長の妻だった。
 私が『太平春』という演目の台本を確認したい、また上演についての話を聞きたい、ということを伝えると、すこしは事情の分かる人間だと思ってくれたらしい。
 「その台本は他の劇団では扱っていないはず。ある老芸人から譲られたものだから、他では難しいでしょうね。今は持っていないし、見せてあげることはできないけれど」
 この村での上演は始まったところで、まだ数日続く。しかもその間、団長は別の場所で次の上演の相談に出ていて、戻るかどうかも分からないという。何とか団長に会いたいが、帰国までの日程が迫っている。もう一度来る機会を探すしかない。

午前3時の舞台袖から山上へ

石上村の広場に仮設された舞台。このあと右手奥で仮眠を取った。

翌年2017年8月28日の午前3時。浙江省の金華市の南、麗水市の縉雲県にある石上村の広場に建てられた仮設の舞台の袖で、私はぴかぴかの銀色に光るアルミブランケットにくるまっていた。
 前の年にいちおうの約束こそしていたものの、出発前にかけた国際電話はもちろん、金華に着いてからも、私の電話には団長はちっとも出てくれなかった。会ってもらえるのか、話は通っているのかも半信半疑のまま、保険をかける気持ちで中国のWebポータルサイト百度(バイドゥ)の掲示板「百度貼吧」に壷山婺劇団の上演情報がないかと質問しておいたところ、縉雲県は石上村で上演があるという短い書きこみがあったのだ。
 その書きこみをたよりに金華から縉雲へ高速鉄道でやってきて、はじめてその上演が、旧暦7月7日、陳十四娘娘という女神の誕生日に山上の廟で行われる祭礼に合わせたものだったことが分かった。
 石上村は祭礼が行われる地域の中でもかなり山奥に位置していた。劇団の上演は村の広場に組まれた仮設の舞台で行われ、団員たちは陳氏祠堂という村の名家の先祖を祀る広い建物の中に、いくつもテントを張って泊まっていた。
 その中の1人の劇団員に団長の居場所を尋ね、ようやく会って話すことができた。じっさいに会った団長はある意味想像通りで、周星馳(チャウ・シンチー)の映画でおなじみの俳優呉孟達(ン・マンタ)から愛想をなくしたようなこわもてだった。
 「すみません、去年お会いできませんでしたが、ご連絡したものです。日本人です」
 団長はだまったままでうなずいた。
 ふしぎだったのは、いきなり現れた外国人に対して、ひとつも動じたところがないことだ。まるで私が今日ここに現れることを知っていたかのようだ。日本から持参したウイスキーと老板娘へと持ってきた化粧品を渡して、受け取ってもらう。
 「『太平春』はもともと誰かから習ったのですか」
 「自分で書いた。もとの台本はある老芸人から譲られたものだ」
 「台本は今持っていますか」
 「今はない。家だ」
 「以前の上演のときの歌詞の字幕のデータだけでもいいのですが」
 「今はない」
 がっかりしなかったといえば嘘になる。しかも今回私のいられる日程の中では団長が自宅に帰る日がないことも分かってしまった。わざわざ宿どころか、食事をとれるような店ひとつさえない村まで来ておいて、手ぶらで帰らなければならない。
 団長は来年もこの時期には周辺に上演に来ているはずだというので、その時に台本を見せてほしいと頼むと、「(ハオ)」と短く一言だけ返ってきた。これを了承の返事だと思うしかない。
 夕飯に誘われ、劇団の人々といっしょにまかない飯を食う。低い木の腰かけにしゃがむように座り、豚肉と厚揚げの煮こみやナスの炒め煮をばさばさした白飯のあてにする。
 今回のまかない係の年配の男性に話を聞くと、明日は早朝にも上演する、しかも祭祀にまつわる演目だという。朝何時に始まるのか尋ねると「3時」と返ってきた。一瞬聞き間違いかと思い聞き直してもやはり3時で、まだ夜明け前のうちから始め、夜明けごろから山上の廟まで行列をするのだという。
 ぜひ見たいと腹をくくったものの、夏とはいえ、ここは標高が高く涼しい風が吹いているから、夜のすごし方が不安になった。祠堂の中のテントにも誘われたが、ではありがたく、とすなおにもぐりこめないのが我ながら歯がゆい。そこでバックパックの中にアルミ製の非常用ブランケットが入れたままになっているのを思い出した。長いこと持ち歩いてきたが、これを使うのは初めてだ。
 けっきょく、舞台の袖でアルミブランケットにくるまって仮眠をとることにする。保温性は申し分ないがクッションはきかない。下は床板そのままで固いが、こんな時にありがたいのは、私がどこででも寝られることだ。まもなくすっと眠りに入る。
 あたりの気配に目が覚めると、すでに上演の準備が進んでいた。たしかに時刻はおよそ3時。若い女性の劇団員にきらきらのゴミ袋のようになっていたことを笑われながら起き出す。
 観客がほとんどいないまま始まったのは仮面劇だった。ふつう中国の演劇は仮面をかぶることは少ないが、祭祀にまつわる演目や演劇の種類によっては仮面をかぶるものがある。文運をつかさどる魁星、金運の財神らが仮面をかぶって登場し、チャルメラとシンバルが鳴る中を、無言で舞う。人に向けた芝居でない奉納の劇ならではだ。
 それが終わると地元の人々が小さな女神像を祭壇から神輿に乗せた。担ぎ棒は前後それぞれ2人が肩に担ぐ。旧時、身分の高い女性は(かご)に乗っていたから、それを模したものでもあるのだろう。その前に行列を仕立てて延々と円を描きながら踊りを見せ、やがて行列は神輿の前後に並んで出発し、山上の廟に向かっていく。行列の天蓋には一つひとつ刺繍された飾りがつけられ、ラッパ、シンバル、太鼓に銅鑼といった楽隊がつく。

天蓋と神輿をはさみ、村人の行列が続く。

途中で奉納の行列に参加する人々に向けて麻糍(マーツー)(ゴマもち)が配られ、おすそ分けにあずかった。ついて歩くだけのよそものの身分だが、朝から腹に何も入れていなかったのでありがたくいただく。
 行列はやがて山道にさしかかり、あたりが明るくなるにつれて山々を見はるかす景色が広がり始める。ふだん登山にはとことん縁がなく、ちょっとした見晴らし台まで登るのも渋るような私だけれど、山肌をおおう緑の濃淡の広がり、そう高くはないが幾重にも連なる峰々の美しさに、しばし見とれた。
 せまい山道をゆっくりと進むこと1時間半ほど、開始からは5時間、行列が始まってからでも3時間以上をかけた道のりは、山上の娘娘廟にたどりつくことで終わりになる。驚くほどたくさんの人々が廟前の石段に腰かけて行列を見物している。
 山道は苦手だが祭見物は好きだ。目的は今年も果たせなかったものの、もう一度この祭りを見られることが、正直とても楽しみになった。

子どもたちもゆるく扮装し父親の肩車で行列に参加する。

「你来了」とだけ団長は言った

「1泊120元ね。ごはんは別だけど簡単なものなら出せるから」
 さらに1年が経った2018年8月16日、私は陳十四娘娘を祀る献山廟のふもとの村々の中でもっとも人口の多い、胡源郷の胡村に来ていた。
 たまたま見つけた民宿の女主人は気のいい人で、いろいろ声をかけてくれる。
 「夜、廟の上まで行くの? じゃあ、友だちも行くから車に乗せてってもらうといいよ」
 胡村は昨年行った石上村とは廟のある山をはさんで反対側に当たる。今回は村に宿が見つかったので、周辺の村までタクシーで行けるところに拠点が確保できていたのは安心だった。団長に連絡がついていないのは相変わらずだったが。
 しかも出てきた食事は「簡単なもの」とはご謙遜で、豚ばら肉の醬油煮こみあり、炒った小さな川魚ありと、名もない地元の料理を6、7皿も並べてくれた。ナスの醬油煮やトマトの炒め、カボチャの葉の炒めなどの野菜は自分の畑でとれたものだという。いろいろおかずをつまんで、にこにこしながら白飯を食った。
 村で別の劇団が上演している芝居を1本見終わったところで、再び団長に電話をかけた。潜入捜査官が指令を聞くような緊張感は3年目も変わらない。そのうえ、前の年に連絡先を聞いていた劇団員にメッセージを送ってみたところ、彼はすでに劇団を離れており、劇団じたいももうないという返信を受けていたので、それも不安だった。
 今どこにいるのか、上演中なのか、上演中ならいつまで上演するのか――質問に返ってきた団長の答えは「七里郷、縉雲にいる」だけだった。しかしこちらも来るのは3回目だ、これで分からないと言っていては話にならない。
 七里郷は調べればすぐ分かった。さいわい自分のいる胡村からは車で1時間もかからないからじゅうぶん日帰りできる。けっきょく今いる献山廟の祭事とはかかわりはないようで、そう遠くないのはまったく運がよかった。劇団の上演の範囲はかなり広く、数百キロ離れたところにいることもありえたからだ。
 翌朝起きると、宿の女主人が地元の「土索麵(トゥースオミエン)」、いわゆるそうめんを煮て出してくれた。あたたかい汁麵じたてで、目玉焼きまでのっている。ありがたくいただいて、タクシーを呼んだ。
 朝まだ9時になる前に七里郷村に着き、劇の上演はあるか、「文化礼堂」があるならそこでやるはずだが、とタクシーの運転手を介して村人に尋ねてもらうと、すぐに場所が分かった。
 まだ本格的に上演の準備が始まっていない舞台裏に、Tシャツ姿の団長が座っていた。会うのは1年ぶりで、しかも私は外国人、そのうえ昨日のたった一言の電話だけを手がかりに、今日来るのかどうかさえ予定していない相手だ。私ははじめてのときと同様に緊張していたが、現れた私を見ても、団長は眉一つ動かさなかった。
 「你来了(ニーライラ)(来たな)」
 言ったのは一言、それだけだった。手みやげに酒と化粧品を渡しても、昨年と同様にほとんど反応はもらえなかった。
 簡単なインタビューのあと、あらためて目的の台本を翌々日の朝に金華市郊外にある彼の自宅で受け取ることを約束した。
 午前の上演を見て、昼飯は劇団の裏に呼ばれてまかない飯を食わせてもらう。おもちゃのような小さな木の腰かけに座り、豚の血の煮こみと豚ばら肉の炒めで白飯をかきこみ、もっちりした白っぽいトウモロコシをかじる。
 胡村の宿まで戻ったときにはもう夕方になっていた。すこし休んで夕食を取る。宿の女主人は夕飯にと米粉(ビーフン)を炒めてくれた。干しエビの風味もばっちり、軽さがかえってありがたい。
 これで元気をつけて、朝をそのまま迎えるつもりで山上の廟まで行くことにした。夜9時過ぎ、山のふもとの登山道まで車で運んでもらい、そこから1時間ほど登って山上に着き、12時を回ったところで他の人について廟に参拝を済ませた。まるで季節外れの初もうでだ。
 今回は万全を期して軽い寝袋も持ってきていたがそれは広げず、寝袋用マットをざぶとん代わりに敷き、そのうえにポンチョをかぶって座り、風と冷気を防ぐことにした。初もうでの次はご来光を待つ気分だ。そのままうとうとしながら明け方4時近くまですごした。

献山廟にほど近い山上からの眺め。海抜はさほど高くないが山は険しい。

夜明けとともに人が動き出し、あらためて見物のための場所取りが始まる。こちらも動いてなんとか廟の正面の石段あたりに場所をかまえた。そこからけっきょく2時間ほど経った6時くらいにようやくはじめの隊が登ってきた。ゆるく行列を組み、踊りながら登る隊の後ろから神輿が担がれてくる。前の年は下からいっしょに上がったのを、今回は山上で待ち受けるというかっこうだ。
 そのむかしは山上に4つもの舞台があり、村々がそれぞれに劇団を呼んで上演させ、どこが客を惹きつけられるか競うという「闘台」という上演も行われていたそうだ。さぞかし壮観だっただろう。しかし残念ながら今は山上での上演はなく、各地域の行列のパフォーマンスがあるだけだ。

見物の人たちで埋め尽くされた廟前の石段。観客たちは淡々と祭りを眺める。

上がってきた行列は廟前の広場でぐるりと回りながら踊りや音楽を披露し、石段を上がって神像を神輿から廟内に戻す。そして順にまた山を下りていく。それにつれて観客たちも順に下山し、クライマックスなしにゆったりと祭礼が終わっていく。私も山を下り、バスに乗ってもとの村まで帰り、仮眠をとった。夕方にはこの土地を離れ、団長と会うために金華に戻らなくては。
 翌朝7時半、夜のうちに移動しておいた金華市郊外のホテルから出て、朝食の屋台で焼餅を少々食べて腹をつなぎ、団長からの連絡を待つ。9時半ごろようやく電話がかかってきた。団長からの電話を受けるのははじめてだった。
 団長が私の顔を見て言ったのは、またあの一言だった。
 「你来了(ニーライラ)
 どうやって来たか、迷わなかったか、それくらいは尋ねそうなものだが、けっきょく何も聞かれることはなかった。マンションの一室にある団長の家に上がってすこし座らせてもらい、あらためて話を聞いた。
 「この『太平春』はここ数年は演じていないですよね」
 「いや、2年前、あんたと知り合った最初の年には上演していたよ」
 はじめて知った。上演していたこともそうだが、何より電話で一言「体育館」と言われたときから私と知り合った、と思ってもらっていたことを。けっきょくあの時は会って話すことはできないままだったのに。
 「他の劇団でもこの劇は演じられるのでしょうか」
 「いや、他の劇団は演じられない。一つは台本がないから、もう一つは自分で書き直せないからだ。おれはじぶんで歌詞が書ける」
 「老芸人から譲られた台本から書き直されたそうですが、その台本というのは」
 「今ここにはない」
 また宿題がひとつ。しかもこれは解決できないかもしれない宿題だ。
 私は『太平春』の台本を受け取り、謝礼を渡した。雑然とした字で書かれた上演用台本のコピーの束は、ぱっと見ではそのために旅する価値があるようには見えないだろう。
 マンションの前で団長と2人ならんで写真を撮ってもらい、再会を約して別れた。
 そこから金華の市内中心部まで直接戻るバスを見つけると、私は願ほどきのつもりで、将軍廟をまた訪れた。将軍廟の前の炉には、以前と変わらずきちんと香が捧げられていた。
 そういえば『太平春』の中の張塢は、山の中の洞窟で、人の言葉を話す白猿から『如意書』というふしぎな本を授かる。私も張塢のご加護のおかげか山の中まで分け入り、白猿ならぬ団長から『太平春』を授かることができたわけだ。

同じところを3回なぞるような、それでいて一筆も重ならないような「旅」を思い出す。2年かけて、3回金華にやって来て、ようやく台本が1冊、手元に増えた。大事な1ピースだが、やはりパズルの全体が見えたわけではない。
 毎回ちっとも先が見えず、ろくろく休めず、食べるものも自分で決められない。私よりもっといい調査者がいるはずだ、その人ならもっとうまく相手に話しかけられ、打ち解けて進められるだろうに。旅の最中はそんなことばかり考えている。
 そして終わった後に考えることもいつも同じだ。次は何を目的に、どこに行けばいい? それで何が手に入る? そして旅の成果と同じくらい、その過程で得られる断片に期待している。