石井剛
円光門
本書『天下の今日性──世界秩序の実践と想像』(原著『天下的当代性:世界秩序的実践与想像』中信出版社、2016年)は、中国の政治学者・趙汀陽による天下論の集大成と言うべき著作であると当時に、同著者の最初の日本語訳単著である。2016年の原著の出版から10年のあいだに、英語はもとより、ドイツ語、フランス語、韓国語に翻訳されている。だが、「集大成」と述べたとおり、天下をめぐる著者の議論は本書の出版よりもはるかに早く始まり、内外の論者と多くの批判的対話を重ねながら洗練の過程を歩んできた。
2025年に中国で再版された際に新たに収録された序文「天下理論の先験的論理──存在論、倫理学、知識論の三元一体」(以下、「新序文」という)によれば、趙汀陽の天下論の構想は1990年代後半に始まっている。多くの読者がすぐさま気づくように、それはサミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」を唱えたことに対する中国からの応答の試みだった1。また、初めて趙汀陽の天下論が論文になったのは2000年の「帝国」をテーマとする課題論文であった2。英語で書かれたこの論文は、2005年に『天下システム──世界制度哲学序論』(『天下体系:世界制度哲学導論』江蘇教育出版社)へと結実する。
中国は1990年代から社会主義市場経済の建設を本格的に加速させ、国有企業改革を進めるかたわらで国際自由貿易ネットワークへの参入を目指すようになった。2001年には、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)の後継として1995年に設立されたWTO(世界貿易機関)加盟の悲願を達成する。天下論の誕生は、中国の経済が飛躍的な成長を始めたのとちょうど同時期だったわけだ。趙汀陽(を始めとする多くの中国知識人)も、世界の知識界も、米ソ東西冷戦の後に来るべき21世紀の新しい世界秩序の中で、国民国家を中心とする従来の国際関係に問い直しを迫るような新しい事態が生起し、そこでは中国が重要なプレゼンスを示すであろうことを予感していた。趙汀陽の思索の背景には、世界史の転換点を迎え、中国がその中で大国化に向かいつつあったという現実が明らかに控えていたのである。
『天下システム』の序論「なぜ中国の世界観を論じなければならないのか」において、趙汀陽は、大国化する中国に対して投げかけられる中国脅威論や中国崛起論などが名指す客観的事実自体には何の意味もなく、大切なのは、新しい時代状況の中で、中国が世界に対してどのような新しい可能性を切りひらき、世界に対してどのように責任を果たすのかを考えることだと述べている3。そして、中国が世界に対して責任ある大国になるということは、思想的に何らかの創造性をもち、それを語り、実践しなければならないということであり、他に流されるだけではいけないと言う4。天下論の構想はここから始まる。したがってそれは勢いとして、中国からの新しい政治哲学の提出へと向かう。「天下システム」は第一義的には政治哲学の理論モデルであり、とりわけ国家の政治に根拠を与える理論であると趙汀陽は言う。言い換えれば、政治コミュニティの最大単位を、国家にではなく、それよりも広い概念として天下、つまり「天の下のすべて」に置く政治哲学の試みである5。
趙は、カントの永遠平和論が近代的国際関係を前提として成り立っている以上、世界の平和をそこから構築することは不可能であると考える。世界を単位とする政治哲学を考えるべきなのに、その構想を持たない人類にとって、世界はまだ「非−世界」にすぎない6。では、世界が政治的存在として「世界化」するなら、いったいどのような理想的な世界を想像しうるだろうか。趙汀陽の行論から導き出されるのは、この問いに応えて世界のあるべき理想像を提供するのが大国としての中国の責任、すなわち、中国の知識人の責任であるということになるだろう。もっとも、「理想」という表現は慎重に用いるべきかもしれない。なぜなら、趙汀陽は2025年版に附したまえがき(本書巻頭に「まえがき」として収録)のなかで、「理想主義」は実現不可能なイデアに基づいているものなので代わりに「可能」という言葉を用いて、現実を批判しつつ現実の先にありえる姿の想像を名指すのだと述べているからだ。この意味で、天下とは一つの「最善可能世界」であった。天下論とは、未来における可能な世界のあり方の中で、最も相応しいと考えられる政治を構想する哲学なのである。
天下論提出の後、趙汀陽は国内外で注目され、同時に批判を浴びることになる。上述の時代的雰囲気と相俟って、中国国内ではおのずと大きな反響を喚び起こし、中国にかつてあった「天下」的想像の世界史的位置づけや今日的意義がますます盛んに論じられるようになったが、このある種古色蒼然とした用語がせり上がってきたことに対する警戒感を表出する批判も存在する。なかでも、歴史上には存在しなかったにもかかわらず、このユートピア的な天下概念に頼り過ぎではないかという歴史学者の葛兆光による批判は有力なものだろう7。また、早くに日本語に訳出された許紀霖の「新天下主義」などは、同じく天下概念を主題化しているとはいえ、こうした警戒感を受けとめつつも、この概念を新たな普遍的価値として換骨奪胎させようとする試みである8。
管見の限り日本国内ではまだ本格的な批評は少ないが、その中で際立つのは、福嶋亮大の『ハロー、ユーラシア』(講談社、2021年)だろう。福嶋は趙汀陽の議論を中国が国家プロジェクトとして進める「一帯一路」のような国際開発政策のプロパガンダとして機能しうるものだと断じるなど、総じて厳しい評価を与えている9。一方、片岡大右はアジア的な雑種性や混淆性を出発点にした世界想像がかつての帝国意識に陥ることなく別の可能性を切りひらくことに一縷の望みをつなぐべく、加藤周一の雑種文化論を今日的に解釈する試みの中で趙汀陽の議論を参照している。福嶋亮大と疑念を共有しつつも、21世紀になって中国からこうした議論が出てきた歴史的現実のもつ両義性を捉えようとしていると言えるだろう10。中島隆博の『中国哲学史』(中公新書、2022年)は、この両義性の困難を21世紀における「普遍論争」という視点から解釈しようとしている11。いずれにせよ、これら日本における代表的な批評に共通しているのは、日本がかつてたどった悪しき帝国主義を支えた哲学が天下論の中でも反復されているのではないかという疑念であると言っておそらく間違いではない。
英語圏に目を転じてみると、とりわけアメリカの中国研究の専門家は天下論を往々にして中国政府のイデオロギー装置としてシニカルに見る傾向があり、そうした立場が対中外交政策論にもある程度の影響をもたらしているらしいことが想像されるが、それらはある意味、予想された反応の域を出ない12。一方、国際関係論の領域での反響には興味深いものがある。たとえば、非西洋国際関係論およびグローバル国際関係論の主唱者として知られるアミタフ・アチャリア(Amitav Acharya)は、趙汀陽の天下論は中国が政治体制の異なる他国とも友好関係を築くことができるというシグナルを西洋諸国に送ることを意図するものであると言う13。アチャリアは趙汀陽の議論を中国学派の国際関係論に位置づけつつ、とりわけ、中国の思想文化に深く依拠しながらも合理主義的な性質を強く持つ点で、「文化的理想主義」(cultural idealism)に当てはまるとする14。
世界的に権威のある国際関係論のトップジャーナル『ヨーロッパ国際関係論雑誌』(European Journal of International Relations)でも、趙汀陽の議論はしばしば参照されている。その中には、それが西洋の国際関係論の常識に挑戦するものであるのみならず、平和的な台頭を唱える中国政府の公式見解と軌を一にするものだとする批判もあるが15、自己と他者の境界線を連続的に解釈し「世界」という全体性を志向するという点に、一元論的あるいは全体論的なインド哲学の世界観との類似性を見出すシャーヒとアシオーネのようなユニークな研究もある16。
総じて、こうした反響においては、趙汀陽の天下論を契機としてこれまで西洋主体だった国際関係論を捉え返す作業が必要だという認識が示されているのは興味深い現象である。特にアチャリアにおいて顕著であるが、従来の国際関係論が依拠する西洋とは異なる歴史背景をもつ、その他の地域、特にアジアの歴史的現実に相応しい理論を希求する立場から趙汀陽の天下論に関心が寄せられている。非西洋国際関係論やグローバル国際関係論の立場からの研究は、日本においてはまだ萌芽的ではあるが取り組みは始まっており、今後の展開が注目される17。
ただし、最近の研究動向に即して言えば、ウェストファリア条約を起点とした近代国際システムを克服しようとする趙汀陽の目論見自体はさほど目新しいものではなくなってきている。たとえば、ジョーダン・ブランチ(Jordan Branch)やケリー・ゲットリッヒ(Kerry Goettlich)などは、近代国家に含まれる主権、排他的領域、国境の結びつきを自明のものとする従来の理解が必ずしもウェストファリア体制の法規範から必然的に導き出されるものではなく、さまざまな美学的、技術的要素が絡まり合った偶発的な結果であることを示している18。すなわち、現在わたしたちが身を置いている西洋近代的国際システムとは異なるあり方の世界システム──領域に排他性ではなく共有性を認め、国境が曖昧な世界システム──を想像することは十分可能であるし、そのような想像を可能とするために西洋近代的国際システムを脱構築する作業が、まさに趙が批判対象とする国際関係論という西洋のディシプリンから生まれているのだ。本書を読む際にも、わたしたちはこれらを踏まえた新しい読み方を探っていくのがよいだろう。
本書が中国で初めて出版されてから10年が過ぎた。本書の翻訳作業がほぼ完成しかかった2025年の夏に出版された三聯書店版は、2016年版をそのまま収録する一方で、新たに2025年版へのまえがきと序文を加えている。本書巻頭にも収めたこの「まえがき」は、『天下システム』出版後の20年のあいだに行われた批判の中から生まれてきた新たな思索のエッセンスがまとめられているだけでなく、10年前までには想像できなかった新たなチャレンジ(AI技術の飛躍的更新)がもたらすインパクトの大きさに対する焦慮が吐露されている。一方、新序文は、中国を含む世界の現実から切り離して、天下論を先験的な論理学の問題に位置づけようとする試みとなっている。著者の思索が21世紀を迎えようとする中国と世界の現状に対する関心に刺激されて始まったのは確かだとしても、天下論はその息の長い思索の中で抽象度を高め、「理論人類学」として人類の未来と文明の生死に関する思想へと発展してきた19。天下を「規模が最も大きい人類システムであり、実質的に、人類の関係性の最大集合」であると規定する趙汀陽にとって、天下論はもはや当初の動機から遠く離れた地点に到達している20。新序文は、とかく国際関係論や地域研究の文脈で政治的なメッセージとして読まれがちだった天下論を、人類がともに直面する今日的課題を見据えた新しい哲学的試みとして読むようにと読者を誘っている。
そのほか、新序文には「メタ図書館」なるアイディアも含まれている。無外の天下システムには、「政治的天下」、「道徳的天下」に加え「知的天下」の次元があるはずだと趙は言う。そしてそれは、あらゆる知識が対等な相互作用のもとで多様に変容しながら更新されていくメカニズム(これを趙は「新百科全書」と呼ぶ)となって、AIテクノロジーを通じて個人化しつつ同時に開放的な「メタ図書館」をもたらすのだという。
果たして、趙汀陽のかかる思想は本書の読者にどう映ずるであろうか。訳者としても、本書がきっかけとなって、世界の未来を構想しようとする豊かな批評と思想が日本で生まれてくることに大きな期待を寄せたい。趙汀陽が本書を通じて伝えようとしていること、つまり、わたしたちが「不同意の他者」とともに変容しながら存在していること、そして、そうした他者とともに戦争を避けながら生きていく以外にわたしたちの未来がないことは、どちらも今日の人類にとって、単なる倫理的要求であるだけでなく、紛れもない事実である。日本に生きるわたしたちは、100年近く前に一度は世界を構想したことによって世界を脅かした歴史をもつ。だからこそ、この事実に対して独自の責任を負っている。趙の天下論に日本がかつてたどった帝国主義の歴史とそれを支えた思想が反復されているかのように感じさせるものが含まれているのだとすれば、こうして日本語版が刊行されることによって、日本の読者から積極的に応答が行われることにはなおのこと大きな意義が含まれるはずだ。人類のよりよき未来を共に構想するという課題において、わたしたちは趙汀陽にとって最良の対話相手になりうる。
ここから日本と中国のあいだに哲学の友情が芽生えることを訳者として願わずにはいられない。
©ISHII Tsuyoshi & MADOMITSU Mon, 2026
(筆者のご許諾を得て転載しています)
