私たちは人に国籍があることを当然だと思いがちだが、歴史的に見れば、それほど所与のものではない。国籍は喪失するし、剝奪されるし、再取得することもある。このように国籍は決して固定的ではなく、自分も無国籍になり得ると考えると世界の安定感は失われ、社会の秩序は相当違って見えてくる。
実は国籍の喪失は身近なレベルで発生している。例えば国籍の保持に何らかの条件がついている場合――継続的な居住であるとか、何歳までに国籍選択をするとか――条件を満たさなければ国籍を失う。日本国籍は、自らの意思で他国籍を取得したとき失われる。
より大きなレベルでは、内戦などで国家が解体して消滅し、その継承国家の国籍を得られなかったり、取得を望まなかったりした場合は、無国籍になる。その無国籍状態は、子どもにも継承される。かつてのインドシナ難民がよい例だが、内戦を逃れて難民となり、無国籍となった親から血統主義を取る国で生まれた子は、生まれたときから国籍がない。だから日本にも無国籍者はいる。
それに加えて日本では国籍は戸籍制度の上に作られているため、余計に複雑だ。戸籍を持たない外国人には確実に日本国籍がないが、逆に戸籍がある外国人は日本人であり得たりする(よい例はペルーのフジモリ元大統領だ)。逆に何らかの理由で戸籍に登録されなかった日本人、例えば相当数いる「無戸籍者」だが、彼らの場合は国籍が否定されることはないだろう。各国に共通するルールはない。
要するに、誰に国籍を認めるかは各国の専権事項なのである。国籍の概念の成立自体が、国民国家の成立の歴史から切り離せないので、国籍の範囲とはいわば国の輪郭であり、国民の自画像でもある。したがって私たちの出発点は、領土・国民・主権という、国家を成り立たせる三つの要素が具現化されるものが国籍であるという点にある。居住などを通して領土と結びつく国民に対し保護を与え、権利と義務を定める主権を国家は有するのである。このため、国籍の付与と剝奪は主権国家の権利とされ、それ故に濫用されてきた。
ナチ・ドイツを追われたハンナ・アーレントが、『全体主義の起原』の中で国家から保護されない無権利者としての無国籍者について考察したことは知られているだろう(1)。現代においてもアクチュアルな論考だが、これはアーレント自身が1937年から1951年12月にアメリカ市民権を獲得するまでの15年ちかく、無国籍状態であった経験によるところが大きい。今回は、アーレントを含むドイツ・ユダヤ人を例に、国籍の剝奪と現在まで続くその余波について考えたい。
ドイツ・ユダヤ人の国籍の剝奪
国籍者である国民から国籍を剝奪することは、主権国家が行使しうる究極の暴力とも言える。国民国家の集まりによって成り立つ世界では、個人はかならずどこかの国に割り振られるという体裁を取るため、その隙間のような場所に落ち込んでしまうと、ドイツ語で言う「フォーゲルフライvogelfrei」の状態になる。法の保護外にあり、誰がその人間を傷つけようと、殺そうと、問題とならない状態を意味する。
20世紀前半には、国籍の任意の剝奪は認められないという認識は、国際社会により共有されていた。無国籍者が発生すれば、必然的に他国にその受け入れの負担が移行するため、彼らの存在は国際的な秩序をかく乱するとされた。このためヒトラーもいきなりユダヤ人の国籍を取り上げて追い出したわけではなく、個別の政策を打ち出して国際社会がどの程度反応するかを確認し、段階的に剝奪を可能とする法整備を行った。
最初に、ナチ政権の成立から半年ほどした1933年7月、特定の集団の国籍を剝奪する、またはドイツへの帰化を無効化する法を公布した。ターゲットとされたのは、主にナチ体制に反対し海外へ亡命した著名人と、第一次世界大戦後にドイツに帰化した東欧出身のユダヤ人であった。前者の集団の中には例えば、アインシュタインやハインリヒ・マンなどが含まれ、彼らは亡命先でドイツの利益を損なう活動を行っているとされた。国籍を剝奪された者の名前は、官報で公表された。その時点で彼らは無国籍となった。
これに対して後者の集団、ドイツ国籍を取得して年月の浅い人間の帰化の無効化は、現時点から見ると、国籍の一括剝奪の一歩手前であり、さらには物理的抹殺への入り口と位置づけられる。無効化の理由は、「帰化が望ましくないとみなされる」という後付けの理由であった。これは、帰化者とは出生時からの国籍者ではないという意味で、「見えない」二級市民であることを示すものであった。理由があれば帰化は後からなかったことにできるからである。無効化された時点で、人は自分の市民としての地位には実は留保がついていたことに気がつくことになる。
帰化の無効化は、家族にも影響を与えた。当時、妻の国籍は夫のそれに従ったため、夫が無国籍となれば妻や子も無国籍となった。つまり、家族全員が所属を失うのである。
次の段階として、ドイツ国籍のユダヤ人は1935年9月の帝国市民法により市民権を失った。この時点で「アーリア人」のドイツ人のみが市民とされ、ユダヤ人は単なる「国籍者」となった。公的にも二級の国民が創出されたのであり、差別的な待遇は合法化されてゆく。ユダヤ人から諸権利を取り上げ、もしくはユダヤ人に対してのみ禁止される事項が、ますます増えていった。
さらに1941年11月に帝国公民法第11命令を施行し、国外に滞留するユダヤ人の国籍を剝奪した。先述の1933年7月の法は基本的には個人を対象としており、これには当該人物が本当に国家の敵である根拠を示す必要があり、処理するには時間がかった。このジレンマを解消するために、国外滞在中のユダヤ人の国籍を「まとめて」剝奪するという解決法が見いだされたのである。
この法は同時に、該当者の財産の国庫帰属も定めていた。1935年の帝国市民法は、本来は特定集団の法的な地位について定めるものであったが、時間が経つにつれユダヤ人から財産を剝奪する手段として使われるようになった。これにより亡命者の財産が国のものとなったが、それだけではなく、第11命令にある「国外に滞留」という文言は、その人が物理的にドイツ国境外にいるという以上のことを意味していた。自発的な国外移住者はもちろんのこと、東方のドイツ占領地のゲットーや強制収容所に送られた者も「ドイツ国外」にいるとされたからである。国籍の剝奪とはその人の政治的な死であるが、死者の財産を奪ったところでたいした反発はない。殺害する意図で送り出した者を、国外滞留者として、法的にも事後に抹殺したのであった。
最終的に、1943年7月の帝国市民法第13命令が、死亡したユダヤ人の財産の国庫帰属を定めた。この時点で、すでに移住者や国境外の収容所などに送られた者たちは、ドイツ国籍を剝奪されて財産も国庫に帰属していたから、その人物が生きていようと死んでいようと大差ない状況が生まれていた。それでもこの法を出したのは、ナチ流の「法治主義」であっただろう。この後ユダヤ人に関する重要な法令は出されていない。もはやその必要もなかったためである。
無国籍者アーレント
アーレントは、1933年7月にベルリンで逮捕され、短期の勾留ののちに釈放されると、身分証明書も持たずに国外に逃れ、プラハを経由してパリに到着した。1933年秋のことである(2)。
1933年1月末のヒトラー政権誕生以降、国外脱出を図ったドイツのユダヤ人はまずフランスやオランダなど近隣諸国に逃げた。ナチ政権が長期化するとは考えていなかったため、ヒトラーが失脚すればドイツに戻ろうと考えていたのだ。このためパリなどには多くのドイツ・ユダヤ人が生活しており、彼女もその一人となった。
アーレントは、パリ亡命中の1937年にドイツ国籍を剝奪された。先述の1933年7月の法によるものであったと思われる。この法では主に国外から反ドイツ的な活動を行う者と、第一次世界大戦以降の帰化者が標的とされたが、この他にも国外に滞留して帰国の要請に従わない者に対しても、国籍を剝奪するとしていた。この場合、まず住民登録された住所に封書で帰国への要請がなされ、それに反応がない場合、国籍剝奪は実行される。アーレントは、フランスへ逃げてからドイツに戻らなかったため、後に官報で国籍を失っていたことを知ったのだと思われる。どちらにせよアーレントはパスポートなしでフランスに滞在していたため、国籍が剝奪される前と後で状況が大きく変わったとは思われないが、1937年の時点で彼女は正式に国家と国家の隙間の穴に落ち込んだことになる。
さて1940年にドイツとフランスの戦争が始まると、ドイツ軍の進軍を恐れて多くの難民が南に向かった。アーレントはドイツからの亡命者であるにもかかわらず「敵性外国人」とされ、スペインとの国境に近い収容所ギュルスに送られた。ギュルスは元々スペイン内戦でフランスに逃れてきた反フランコの共和主義者を収容するための施設で、そうした場所がフランスとスペイン国境沿いに複数あった。フランスがドイツに降伏してヴィシー政権が成立すると、これらはフランス人政府がユダヤ人らを勾留する施設となってゆく。
ギュルスは大西洋側の南仏、ピレネー山脈の裾野にある。ピレネーはフランスとスペインの自然国境で、大西洋側から地中海側へ両国を分かつ。当時、ナチ体制から逃れて南下してきたユダヤ人たちが、フランス側からピレネーを越えて中立国スペインに入るルートが複数あった。彼らはまさに無国籍の難民であるがゆえに、非合法に国境を越えるしかなかったのである。しかしピレネー越えは、大西洋側でも地中海側でも極めて厳しく、途中で捕まったり、スペイン側に入国を拒まれたりして、挫折した者は数知れない。アーレントも親交のあった哲学者ヴァルター・ベンヤミンがピレネー越えに失敗し、自殺したのは知られているだろう。
アーレントはフランス降伏の混乱に乗じて、偽の書類でギュルスを脱出した。1940年6月に独仏休戦協定が結ばれた後、ギュルスはヴィシー政府の管理する地域に入るが、そこでも実質的な支配者はドイツであった。同年秋には、ドイツのバーデンやプファルツ地方からユダヤ人が移送されてきた。
ナチが東欧の強制収容所ではなく、南仏にユダヤ人を移送したのは例外的だ。ただし、ここに収容されたユダヤ人も、1942年夏よりパリのドランシー中継収容所を経て、多くはアウシュヴィッツへ送られた。
アーレントはドイツからたくさんの同郷者が送られてくる前に、ギュルスを去ったのであった。その後、マルセイユでナチからの避難民をアメリカに入国させる活動をしていたジャーナリスト、ヴァリアン・フライらの援助でアメリカの「緊急ヴィザ」を入手し、1941年初頭に出国した。当時、中立国ポルトガルは、アメリカへ向かう難民が船を待つ場所となっていたが、アーレントも数ヶ月リスボンで上船を待ち、ニューヨークに着いたのは1941年5月下旬であった。
オデッサからギュルスヘの道
アーレントが数週間過ごしたギュルスとはどんな場所だったのか、またナチからの亡命者を阻んだピレネー山脈は、国籍のない者たちにはどのように映ったのか。この目で確かめてみようと思って現地に行ってみた。
その場所は、収容所名の由来であるギュルスという村から延びる一本道が行き着く先にある(写真1)。周辺は緑豊かな農地や牧草地が続き、平日だとほとんど人にも会わない。こんなところに強制収容所があったこと自体、不思議な感じだ。裏手には墓地があり、墓石の名前と出身地をみると、多くがドイツ出身のユダヤ人であることが分かる(写真2)。
ここに刻まれた名前と生年・死亡年、出身地を一つ一つ見ていくだけで、その人の歴史が語りかけてくることがある。前述のように、多くは1940年秋に移送されてきたドイツ出身者だが、中にはギュルスで生まれ、ギュルスで死んだと思われる子どもの墓もある(写真3)。ふと、19世紀後半にウクライナのオデッサで生まれたアーノルト・ザック(1863-1940)の墓が目にとまった(写真4)。
私がザックの墓石を写真に収めたのは、オデッサに生まれた人が、スペイン国境近くで人生を終えることになる不条理さを感じたためであった。オデッサは、19世紀後半に何度か反ユダヤ的なポグロム(虐殺)の波に襲われた。ザックはその目撃者で、それゆえに、多くの東欧のユダヤ人がそうしたように、ロシアを離れて西へと移動し、ドイツに定着したのだろうかと想像したのだ。
彼はどのような経緯でフランスに来ることになったのだろうか。アーレントのようにナチ時代にフランスに逃げて、戦争が始まったことで敵性外国人として拘束されたのか。しかし墓石の情報だけでは、アーノルト・ザックという人物がどのような人なのかは分からなかった。
最近、ザックについて公開されている情報があることを知った。バーデン・バーデンの市立文書館が、この町で生まれるか、もしくは居住したことのあるホロコースト犠牲者のメモリアル・ブックを2021年に公開したのだ。ここにザック家の歴史を知る手がかりがあった(3)。
アーノルト・ザックは、1863年6月4日オデッサに生まれ、サンクトペテルブルクで学んだ後、1882年に医学を勉強するためにドイツのハイデルベルクへと居を移した。ハイデルベルクやライプツィヒ、シュトラスブルク(ストラスブール)などで医学を修め、カールスルーエで皮膚科医として働き始めた。子どもも二人生まれ、その後再びハイデルベルクへ戻って医療に従事し、1895年に子どもとともにドイツに帰化した。息子ヴァルデマールはやはり皮膚科医となり、娘ゾフィーはピアニストとなった。典型的なインテリ、ブルジョワのドイツ・ユダヤ人家庭である。
ナチ時代、1935年に妻を亡くしている。その後、1938年にバーデン・バーデンに引っ越し、アメリカへの移住を用意していた。しかし、1940年10月22日――この日はユダヤ教の仮庵の祭りの最終日であったが――バーデン、プファルツ、ザールラント地方のユダヤ人に対して突然2時間以内に出発準備せよとの命令が出た。持ち物は50キロまでの荷物と、現金100ライヒスマルク、対象となったのは多くは老人であった。行き先はギュルスである。
収容所到着から約1ヶ月後、アーノルト・ザックは11月21日、ギュルスで亡くなった。77才ということもあり、過酷な収容所生活を耐えられなかったのだろう。
彼の二人の子どもも、異境の地で命を落とした。息子ヴァルデマールは1938年以降フランスに逃げ、ドイツへの帰国命令を無視したために逃亡生活を続けた。アーレントのように敵性外国人としてヴィシー政権の収容所に何度か送られた後、1943年にフランスで亡くなった。ヴァルデマールの妻と、二人の子どもたち、つまりアーノルトの孫たちは、フランスとイギリスで生き残った。
アーノルトの娘ゾフィーは、ジャーナリストで評論家のエミール・ファクターと結婚してベルリンに住み、息子リヒャルトと娘リリーを授かっている。1933年よりプラハに住んでいたが、夫婦ともに1941年晩秋にポーランドのウーチ・ゲットーに移送された。アメリカに逃げた娘リリーは、両親のためのヴィザを取得しようとしたが、かなわなかった。
ファクター夫妻は1942年4月にウーチで殺害された。息子リヒャルトも、1942年末に処刑されているが、経緯は明らかでない。リリーだけが一人生き残り、戦後もベルリンで生活した。
ギュルスは、アーレントが書いたように、「世界での足場を失った人」が落ち込んでしまった穴のような場所であった。時代が違えば、アーノルト・ザックの人生がピレネーの麓のこの場所と、交差することなどなかったに違いない。そしてまた、そこを訪れた日本人が、墓石の写真を取り、その人生について調査することもなかっただろう。
強制収容所とフランス人の農民が住む村の中心までの距離は1,2キロしかなく、背景にはピレネーが見える。収容所から一本道で着く村も、数十キロ先のピレネーも、無国籍者らには近いようで、とても遠かったのだと思われた。
写真1
写真2 実際に埋葬されているかは不明
写真3
写真4
戦後ドイツによる国籍の再付与
現在、国家による恣意的な国籍の剝奪が認められないことは言うまでもない。誰もが国籍を持つことは、基本権の一部とされている。国連も「無国籍者の地位に関する条約」(1954年)、「無国籍の削減に関する条約」(1961年)などを採択している。国籍は国家の専権事項であっても、その行為には一定の制約が課されるべきという点で国際社会は一致している。
ヒトラー敗北後のドイツは過去への反省から、憲法である基本法において国家による国籍の剝奪を禁止した。基本法第116条第1項は、「ドイツ国籍は、剝奪してはならない。国籍の喪失は、法律の根拠に基づいてのみ、かつ、当事者の意思に反するときは、その者が無国籍とならない場合に限って認められる」と定める。
さらに第116条第2項は、ナチ政権下で人種・宗教・政治信条を理由に国籍を剝奪された者もしくはその子孫が望む場合、ドイツ国籍を付与するとする。具体的には、1933年の帰化の無効化と国籍剝奪に関する法と、1941年の帝国市民法第11命令によりドイツ国籍を失った者とその子孫が対象となる。本人が望む場合に限るのは、自分を迫害し追放したドイツの国籍の取得を望まない者もいたからである。移住した者たちの大半は、もはやドイツのパスポートを持とうとはしなかった。
しかし、時代が変わればドイツ国籍への評価も変わる。現在ドイツ国籍とは、経済大国でのより良い生活を約束するものだ。特にEU内での自由な居住・就労を可能とする点に大きな価値が見出されている。大学進学や奨学金の取得にも役に立つ。こうした利点から第116条第2項に基づく国籍申請件数は2017/18年で1万件ほどあり、そのうち3900件ほどが認められている(4)。
では、この規程に基づきドイツ国籍を申請するのは、どのような国の人だろうか。当然、EU外からの申請が多く、まずイスラエル、ブラジルやアルゼンチンなどユダヤ人の亡命先となった南米諸国、そして近年ではイギリスからの申請も少なくないという。ブレグジットによってEUを離脱してからの現象である。
中でもイスラエルでは2000年代以降、ドイツ国籍の申請が急増した。2011年の申請件数はなんと7800件もある(5)。ドイツは基本的に複数国籍は望ましくないという立場だが、限定的な事例においては容認している。過去の不正を理由とする国籍取得の場合には、複数国籍は全く問題とされない。ドイツ国籍を取得したからといって現国籍を離脱する必要もない。そもそもイスラエルは複数国籍を認めている。このため、ドイツパスポートを取っても彼らは実際にドイツに住むわけではなく、むしろ政治経済的な保険と考えているようだ。若いイスラエル人にとっては、EU国籍は祖先から継承した「世代を超えた贈り物」、もしくは私有財産の一形態なのである(6)。
2021年8月、ドイツはナチ時代に国籍を失ったり、国籍法上の不利益を被ったりした者の子孫に対して国籍取得が容易になるよう、国籍法を改正している。基本法第116条第2項を理由とする国籍取得の条件に該当しないナチ犠牲者もいたため、彼らの子孫からの要請に配慮した形だ。実際、ドイツ政府はこの法改正を「補償としての国籍取得」と位置づけている。同様にオーストリアでも、2019年9月に、ナチ時代に迫害されたオーストリア市民の子孫による国籍取得を容易にする国籍法改正がなされている。
面白いのは、国籍を失った者から何世代も後の子孫が国籍を再取得できるのは、ひとえに国籍の血統主義によることだ。国籍者の子どもを国籍者とする血統主義では、原則として国籍は継承され続ける。ポーランド、ルーマニア、ハンガリーなど、ホロコーストの犠牲者を多く出した国もみな血統主義に立つ。したがって、ホロコースト難民の子孫は、ドイツやオーストリア国籍でなくても、東欧諸国の国籍が取れれば、EU市民としての利点は享受できる。
ちなみに、これらの国はたいてい複数国籍を容認しており、かつ父母両系で国籍を継承させる。イスラエルのユダヤ人の場合、少なくとも一人はナチ時代にヨーロッパから逃げてきた祖父母がいるという。そうすると、実に多くのイスラエル人が何らかのEU国籍の取得の権利を有することとなる。現に東欧諸国が相次いでEUに加盟した2000年代後半より、これらの国への国籍申請も増加している。
ナチ時代、ヨーロッパ社会からユダヤ人が排除された理由は、まさに彼らの「血統」にあった。ユダヤ人は同化不可能な異人種として、国民の母体から蹴り出された。現在、法律上の血統主義が、彼らの子孫のヨーロッパへの包摂を要請している。それは皮肉であるが、80年以上前の国籍剝奪の余波は、今でも時々ヨーロッパ社会の足元を濡らす。
注
- ハンナ・アーレント『全体主義の起原2 帝国主義』みすず書房、2009年。
- アーレントの亡命、移住については、以下を参照。矢野久美子『ハンナ・アーレント――「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書、2014年;エリザベス・ヤング=ブルーエル著、大島かおり他訳『ハンナ・アーレント――〈世界への愛〉の物語』みすず書房、2021年。
- Gedenkbuch der Stadt Baden-Baden-Startseite.
- Kampf um die deutsche Staatsbürgerschaft-DW, 12.02.2020.
- 武井彩佳『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』みすず書房、2017年、92頁。
- Yossi Harpaz, “Rooted Cosmopolitans: Israeli with a European Passport—History, Property, Identity,” in International Migration Review, vol. 47, No.1, Spring 2013, p.166.