みすず書房

国家の長い手

国家の長い手

イスラエルに住んでいた頃に、カナダ人の友人が遊びに来た時の話だ。飛行機は着いているのに、約束の時間になっても全く現れないので、どうしたのかと思っていたら、半日くらいたってから電話がかかってきた。まだ空港に留め置かれているという。カナダ国籍なのに、潜在的なイスラエル国籍者とみなされて、兵役のために入隊させられそうなのだという。

友人の母親はイスラエル人で、本人はほとんどイスラエルに住んだことはなかったが、エルサレムで生まれていた。彼のカナダ・パスポートを見て、入国審査官が出生地に「エルサレム」と書かれているのに気づき、「あなたはユダヤ人か」と質問してきた。

本人の父親はイエズス会の神学者で、本人もカトリックの洗礼を受けていたから、宗教的にはユダヤ人とは言えない。ところが、長い苦難の歴史を持つ民族であるゆえに、お前はユダヤ人かと聞かれると、これを否定するには気が引けて、思わず「はい」と言ってしまったというのだ。ユダヤ教を実践していないし、割礼もしていないし、豚肉も食べるというのに。

イスラエル国籍は、イスラエル国籍者である親から継承される。その上、本人がユダヤ人であると認めたので、やはりお前はイスラエル人だということになり、兵役は済ませたかと質問が続いた。自分はカナダ人でイスラエル国籍を持っていない、パスポートを申請したこともないと反論したが聞いてもらえず、兵役逃れの疑いでその場で入隊の手続きのために隔離されてしまったのである。

カナダ大使館の介入があってようやく解放されたのは、一日半たってからのことであった。これは本人には全く笑えない話であったが、そのとき私は、国家が国民だとみなした者を本人の意思に反して囲い込む国家の長い手とは、なんと恐ろしいのかと思ったものだ。

国家が恣意的に国籍を奪うことだけではなく、本人が望んでないのに国籍を付与するのも暴力なのである。

ネーション・ビルディングの手段としての国籍

自身の意思と関係なく特定の国籍が付与される状況は、例えば戦争で国境線が移動したり、多民族国家が崩壊して、複数の国民国家が成立したりするときなどに発生する。

第一次世界大戦でハプスブルク帝国が崩壊し、チェコスロヴァキア、ハンガリー、後のユーゴスラヴィアなどが成立した時が良い例だ。多民族が混在する地域に国境が引かれたことで、特定の民族が多数派を占める国民国家が生まれると、意図しない政治的帰属が発生する人が出る。民族・宗教・言語などが多数派のそれと異なる人たちである。こういった場合、彼らはマイノリティとして居住地の国籍を受け入れるか、もしくは国籍を自分の民族的な帰属と合致させようとすれば、この人は民族同胞が多数派を形成する国へ移住することが必要となるだろう。

後者が国家的な合意の下に進められると、住民交換(population transfer/exchange)と呼ばれる大規模な人の移動に発展することもある。例えば1920年代にギリシアに住んでいたイスラム教徒がトルコへ、トルコに住んでいたギリシア正教徒がギリシアへ、互いに送り出された例がある。彼らは移動後、それぞれトルコ国籍者、ギリシア国籍者となるのだが、似たような例はインドとパキスタンの独立の際のヒンズー教徒とイスラム教徒の移動など、20世紀前半では珍しいことではなかった。

地球の表面が民族や宗教によってきれいに棲み分けられていれば、こうした問題は起こらなかったかもしれない。しかし実際には、そのように均質な国家や地域は存在したことがない。このため、近代国家は努めて国籍を言語や宗教といった人びとの属性と合致させようとしてきた。したがって国籍の付与においては、異質な集団が帰化しにくいように、使用言語に関する条件をつけたりして国民の均質化を試みた。逆に他国の領内に「取り残された」同胞がいれば、これを国民の母体に取り戻そうとし、同胞らの「後見人」であると主張して、彼らが不利益を被らないよう権利保護を求めてきた。

このため大戦間期には、国際連盟を介したマイノリティ保護体制が創られた。たとえば、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアなど、国内に言語的・宗教的マイノリティを抱える国が、そうした集団に一定の権利を保障する「マイノリティ条約」に調印し、この履行を国際連盟が担保するという仕組みである。しかし、このマイノリティ保護システムは、国境外の民族同胞の保護を主張するドイツなどの大国による近隣諸国への介入を招き、結果としては失敗に終わった(1)

「民族ドイツ人」とナチ・ドイツ

実際にドイツは、長く国境外のドイツ系の人びとに関して多大な関心を持ってきた。中世以来、ドイツ人は東欧に植民し、また技術者や農民として呼び込まれたため、20世紀に入っても各地にドイツ語の言語島が散在した。例えば、ルーマニアのトランシルヴァニア地方、ルーマニアとウクライナ国境周辺の黒海沿岸地域、ロシア内陸のヴォルガ河畔などだ。彼らは東欧でドイツ語・ドイツ文化を維持してきたという意味では「ドイツ人」と言うことができたが、ドイツ国籍を持っていたわけではない。それぞれ、ハンガリーやルーマニア、もしくはソ連国籍などであった。彼らは「民族ドイツ人 Volksdeutsche」と呼ばれ、第二次世界大戦前夜、東欧全体に860万人ほどが暮らすとされた。また、フランスなどの西欧にも、それほど多くはないがドイツ系の人が住んでいた。

この巨大な民族ドイツ人の集団を潜在的な国民と見なすことができれば、ドイツの国力は格段に増大する。こうした意図もあって、ドイツ系の人びとを実際に国民に組み込もうとしたのが、ヒトラーであった。ヒトラーは東欧に何世代にもわたり定着していた彼らを帝国内に「呼び戻す」とし、実際に半ば強制的にドイツヘと移住させ、国籍を与えて国民化しようとしたのである。これが1939年秋より開始される、「帝国への帰還」事業である。

事業の建前上の目的は、民族の統合であった。帝国周辺にドイツ人を集め、アーリア人の「生存圏」を確保して、中東欧の民族構成を再編するという、ナチ人種イデオロギーに基づくグランドデザインが背景にある。

ただし直接の契機は、1939年の独ソ不可侵条約の秘密議定書で、ナチ・ドイツとスターリンのソ連の勢力範囲が合意されたことにある。このためソ連の支配地域に「取り残される」予定のドイツ系住民を、早急にドイツ支配下に移す必要が生じた。この際、彼らを国境周辺でスラヴ人を追い出した場所に入植させて、土地の領有を既成事実化することが画策された。さらには、こうした入植地域を軍事化し、「人間の盾」としてドイツの防衛に貢献させるという魂胆もあった。男性の場合、国籍を与えれば、兵士として使える。国籍の付与が軍事戦略に直結した。民族ドイツ人の帰還事業を管轄していたヒトラーの最側近、ハインリヒ・ヒムラーは、1941年3月、ブレスラウで5000人の民族ドイツ人の帰化を祝う式典に参加し、実際にそのうちの50人に対して国籍取得証書を自ら手渡して、次のように演説している。ヒムラーはその人種的、軍事的意図を隠そうとはしない。

帝国は君たち民族ドイツ人を歓迎する。帝国は君たちに土地を与え、仕事とパンを与え、君たちの子供には教育と未来を与える。帝国は君たちの身体と生命を守り、ドイツ人種とドイツの血を守る。(…)ドイツが君たちの傍らにあったように、そして今もそうであるように、大ドイツ、帝国は、君たちがドイツに寄り添うことを求める。(…)帝国とドイツ民族が、君たち婦人に新しい故郷で多くのドイツの子を産むことを求めている。そして君たち男性には、全身全霊で、必要とあらば命を懸けて、大ドイツのために戦うことを求める。(2)

事業の失敗とドイツ人の追放

しかし「帝国への帰還」事業の成果は、期待外れに終わった。どんな人も長く住み慣れた土地を急に離れるのは困難で、甘言・脅迫を用いた誘導がなされるが、戦争が拡大する中での人の移動は容易ではなかった。また、民族ドイツ人を国内に連れてきてから判明したのは、ナチが望んだほど彼らは「純粋なアーリア人」でもなかったということであった。長く東欧で暮らす中、異民族と混交するのは当然である。

ところが彼らは移住の際に居住国の国籍を離脱させられていた。当時、個人は一つの国家のみに所属すると考えられていたので、当然の手続きである。しかし、こうして「帰還」した民族ドイツ人の帰化が「人種的」な理由で却下された場合どうなるか。彼らを待ち受けたのは強制労働か、出身国への送り返しであった。無国籍となった彼らは、まさにアーレントが言ったように世界での足場を失って、国家と国家の間の隙間に落ち込んでいった。

この事業の枠内でドイツへ移住した人は、40万人ほどにすぎない。ドイツの敗北が近づくと、移住を強要するまでもなく、東欧全域でスラヴ人からの報復を恐れたドイツ人の脱出が始まった。逆にドイツ人の逃亡に均質な国民国家建設のチャンスを見たチェコやポーランドなどは、ドイツ人の追放を推し進めることになる(3)

ドイツが国境外の民族同胞を潜在的な国民と位置づけることは、ヒトラー亡き後も終わらなかった。皮肉なことに、第二次世界大戦後は彼らを政治的に利用するためではなく、むしろ現実の迫害から保護するために、彼らを国民予備群と見なすことが必要となった。逃げてくる者を受け入れ、すぐに国籍を与え、社会に統合するためである。

このため、ドイツの憲法である基本法第116条1項は、「ドイツ人」をドイツ国籍者のほかにも、前述の「民族ドイツ人」の子孫も含むものと定義している。この大前提ゆえに戦後ドイツは、450万人に上るドイツ系の移民を、ソ連やルーマニアなどの東欧諸国から優先的に受け入れ、国籍を与えてきたのである(4)

国籍のポリティクス

国籍付与は、今も昔も国家建設の具体的な手段だ。ここで民族同胞に属す、つまり「仲間」と見なす者たちに優先的に国籍を与えるケースは、ドイツの他にもいくつか例がある。典型的にはイスラエルである。

この国には1950年施行の「帰還法 Law of Return」という法があり、ユダヤ教を信じる者、もしくはユダヤ人の祖父母を1人以上持つ者がイスラエルに移住したいと思えば、明日にでも飛行機に乗って、到着次第、国民化のレールに乗ることができる。ホロコーストの後に、世界中からユダヤ人をイスラエルに呼び込むために制定された法である。

面白いのは、民族主義的な伝統の強いドイツと、ユダヤ人国家と自己規定するイスラエルという、互いに相いれないように見える両国家が、同じロジックに基づく国籍・移民政策をとってきたという点だ。民族ドイツ人の「帰還」も、ホロコースト難民の「帰還」も、世界中に離散した兄弟姉妹が、本来は共にあるべき人びとのもとに「帰る」という理解に立っている。その再統合を支援するという前提から、彼らへの優遇措置は正しいものとされる。

ここでは、優遇措置を正当化できることが大切である。戦後世界では、移民を人種や民族では差別しないというのがリベラル国家の前提である(5)。したがって特定集団の優遇には、この前提を超える強い理由が必要となる。それがドイツの場合は迫害からの保護にあり、イスラエルの場合は聖書にまでさかのぼる彼らの帰属の「原初性」に求められている。

しかしイスラエルの場合、こうした国籍政策はパレスチナ人などユダヤ人ではない人の不利益と紙一重であるため、問題性をはらむ。言うまでもなく、難民化してイスラエル国境外にいるパレスチナ人の子孫に対しては、故郷への帰還権も国籍も認めていない。イスラエル国内のパレスチナ人は、国籍者ではあるが、社会的には一種の二級市民として扱われていることは否めない。

近年も、国籍付与を政治外交の道具とする例はある。ハンガリーは2010年にスロヴァキア、ルーマニアなど周辺諸国に居住するハンガリー系の人びとに対し国籍を付与できる法を出して政治問題化している。確かに、こうした地域は元々民族が混在しており、戦争や条約で国境線が何度も動いているので、かつてハンガリー領であった地域に住んでいた人の子孫に対して国籍を与えるのは、全く根拠のないこととも言えない。またハンガリー国籍は血統主義に立つので、ハンガリー国籍者の子孫はやはりハンガリー国籍者であるという理解も成り立つ。しかしスロヴァキアなどの隣国からすれば、自国民であるハンガリー系市民に他国が公的な所属を与えるというのだから、反発は必至だ。実際にスロヴァキアは、ハンガリー国籍を取得する自国民の国籍を剝奪すると声明した。

最近では、ウクライナから連れ去られた人たちがロシア国籍を与えられているのも、意に反する国籍付与の例であろう。国籍は多くの場合、その子どもたちへと継承されてゆくから、いったんこうした事態が発生すると、その影響は何世代にもわたる。国籍の剝奪や強制的な付与は、長く禍根を残すのである。そして、それによって生じた状況が、またリアルポリティクスの駒として使われるという悪循環を生む。

日本の文脈では

島国の日本からすると、他国に何世代も住む「民族同胞」に国籍を与えるといった話は、縁遠いようにも聞こえる。戦後の日本は、むしろ国籍の範囲を絞ることで国民形成を図ってきたからだ。植民地支配で拡大した「日本人」の範囲は、敗戦後に台湾や朝鮮半島の人びとを切り離すことでせばめられてきた。このため、民族ドイツ人のケースと比較可能なのは、20世紀前半に中南米に移住して現地国籍者となった日系人だろう。

ブラジルやペルーに住む日系人に対し、日本はもちろん国籍を認めていない。1950年の国籍法は、自らの志望で他国の国籍を取得した者は、日本国籍を喪失すると定めているから、彼らは日本国籍者ではない。また彼らが日本に入国したら、すぐに日本人になれるという制度もない。このため、90年代以降に労働力として受け入れられてきた日系人は、制限のない労働許可を得るという点では他の外国人労働者に比して有利であったかもしれないが、彼らが日本人になろうと思えば帰化手続きが必要となる。

日本は世界でも有数の「血統主義」の国だと思われているが、法的な国籍の「血統主義」と、文化的・歴史的な「血統主義」は、似て非なるものである。後者はなんとなく人びとが抱いている仲間意識のようなもので、具体的でないがゆえに深く浸透している。このふたつの血統主義を混同している人が多いが、実は国籍の血統主義においては、日本は海外へ出て行って日本人であることを「やめた」人に対しては淡泊な国なのである。まさに「去る者は追わず」という諺通りだ。しかし理由があって他国籍を取得したが、日本国籍を失いたくない人もいるため、国籍を「離脱しない」権利については近年問題提起がなされている(6)

 

今回は国籍の付与が国民形成の手段となってきたことを確認した。イスラエルで入隊させられそうになった友人の例や、ナチ・ドイツによる民族ドイツ人の移住が示すように、国籍の付与は戦争や軍隊と密接に関わっている。次回はその歴史的な関係性について、考察したい。

  1. 以下を参照のこと。水野博子「マイノリティを『保護』するということ――国際連盟によるシステム化と支配の構図」高橋秀寿・西成彦編『東欧の20世紀』人文書院、2006年。
  2. 武井彩佳「強制移住と財産移転――民族ドイツ人の「帰還事業」を例に」『現代史研究』60号、2014年、5-6頁。
  3. 以下を参照のこと。川喜多敦子『東欧からのドイツ人の「追放」――二〇世紀の住民移動の歴史のなかで』白水社、2019年。
  4. (Spät-)Aussiedler | Die soziale Situation in Deutschland | bpb.de
  5. Christian Joppke, Selecting by Origin: Ethnic Migration in the Liberal State, Cambridge: Harvard University Press, 2005, chapter 4.
  6. 以下を参照のこと。国籍問題研究会編『二重国籍と日本』ちくま新書、2019年。