中学生に国語を教えることがある。詩の単元では、一応は知識として、詩の形式や修辞の説明をせねばならない。文語詩・口語詩、定型詩・自由詩、脚韻・頭韻、などなど、しかしこういったものをただ覚えるだけではおもしろくない。詩を読む前に詩が嫌いになりそうである。まがりなりにも俳句を作る身としては、若人たちを韻文から遠ざけることは何としても避けたい。そこで一計を案じて、詩の形式を説明するときには、次のような文句を黒板に記す。
たったひとつの
しんじつみぬく
みためはこども
ずのうはおとな
「その名は、名探偵コナン!」と続く、アニメの主人公の決めゼリフである。これを書くと、生徒たちの怪訝なまなざしが集まってくる。それには構わず、1行の音数を数えさせる。各行7音に揃えられていることに気づくと、彼らの目の色が少し変わってくる。すかさず「これすなわち口語定型詩である」と説明すると、とたんに熱心にノートを取り始める。彼らは語呂の良さが何となくわかっても、7音や5音といった音数律を意識するには至っておらず、耳で聞いただけでは音数がわからないようだ。短歌を音読させても、はじめのうちは5・7・5・7・7のリズムをうまくとれないことがある。
上のセリフに戻ると、「見た目」と「頭脳」、「子ども」と「大人」が対になっている。「これを対句という」と授業では説明するところである。7音×4行で後半に対句を配する、技ありのセリフになっているわけである。
それにしてもこのセリフは、聞いていると三味の音が聞こえてきそうだ。漫画『名探偵コナン』は設定からして、「江戸川コナン実は工藤新一」という、歌舞伎によくある「実は」の仕掛けが施されているが、上のセリフも、女装の盗賊・弁天小僧の「知らざぁ言って聞かせやしょう、浜の真砂と五右衛門が、歌に残した盗人の、種は尽きねぇ七里が浜、……名せぇゆかりの弁天小僧、菊之助たぁ俺がことだ!」に負けていない。
さて、その次に板書するのは、アニメの歌の一節である。
あたまテカテカ
さえてピカピカ
それがどうした
ぼくドラえもん
わたくしが聞き覚えたドラえもんの歌の歌詞はこのようなものだが、現在では別の曲になっているようで、教室で歌っても生徒たちの間に不穏な空気が流れるばかりなのは遺憾である。しかしこの一節も7音×4行となっているばかりか、各行が順に起・承・転・結になっている。作詞家が意図的にこうしたのかはさておき、詩歌に古来息づいてきた韻律・修辞をここに認めることができる。
だが、そもそもこの歌詞を詩として扱うことに疑問を抱く向きがあるかもしれない。中学生が教科書を通して触れる詩も、このようなものではないだろう。それならこれは散文といえるだろうか。この歌詞は自己紹介になっている。ドラえもんが大勢の前で自己紹介をするとして、歌詞そのままに話し始めたとしたら、とんだ騒ぎになるであろう。「ぼくは頭がテカテカです。頭は冴えていて、ピカピカです。まあ、それはどうでもいいことですが……」などと言わなければ、まっとうな文にはならない。いや、それでもまだおかしい。普通なら「ぼくはドラえもんといいます」と名乗ることから始めるであろう。
ここに、この歌詞を散文から分かつ要素をいくつか見て取ることができる。一つは、この歌詞がカタコトだということである。「ぼくはドラえもんです」に対して、「ぼくドラえもん」。後者のような言い方は、話し言葉にせよ書き言葉にせよ、一般には限られた場面(親しい者どうしの会話など)においてのみ許されるが、詩ではごく普通に許される。幼児の放つ言葉がまるで詩のように感じられることがある、とはよく言われるが、それをこの歌詞は思い出させる。
二つ目に、この歌詞が様式を備えていることである。韻律や起承転結は言うに及ばず、「ぼくドラえもん」と自分の名を最後に持ってくるのは、名探偵コナンしかり、弁天小僧しかり、さらにはかの寅さんもそうである。「わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です」とまず生国をいい、しかるのちに「帝釈天でうぶ湯を使い/姓は車 名は寅次郎/人呼んで フーテンの寅と発します」と、自分の名をあとに持ってくる。寅さんは渡世人であるから、自己紹介というより仁義切りを模したセリフだが、それだけに様式性が重要になる。通常の自己紹介ならば名前を伝えるのが先決だが、パフォーマンスとしての自己紹介であれば、名前はあえて後回しにすることで、「この人物はいったい何者なのか」と聞き手に思わせ、関心を自分に引きつけ続けることができる。
幼児性と様式性。これは散文と韻文とを分かつ鍵なのではないか。このような考えのもと、わたくしはドラえもんの歌を「口語定型詩」と称してはばからないのである。
「孔子賛」
ところで、名探偵コナンのセリフもドラえもんの歌詞も、内容面では、主人公を紹介するとともに、彼らの知性を褒め称える内容となっている。これを見て思い出すのは、中国古典詩文の文体の一つ、「賛」である。「賛」とは、4字を1句とする韻文で、作品全体の長さは原則として短く、人物を称賛する内容をもつ。例として、唐の睿宗皇帝の「孔子賛」を見てみよう(『全唐文』巻19)。
猗歟夫子、實有聖德。其道可尊、其儀不忒。刪『詩』定『禮』、百王取則。吾豈匏瓜、東西南北。
ああ夫子、実に聖徳有り。その道 尊ぶべく、その儀 忒はず。『詩』を刪り『礼』を定め、百王 則を取る。吾 豈に匏瓜ならんや、東西南北す。
と、たったこれだけである。韻は下線部で踏んでいる(徳・忒・則・北)。この「賛」の趣旨はこうである。
ああ、孔子は実に聖人たる徳をもっておいでであった。孔子の道は尊く、その言行にいささかの誤りもなかった。古来伝わる詩を取捨選択して『詩経』をまとめ、古来伝わる礼を整理され、後世の君主はみなそれらに行動規範を求めた。「私は人の口に入りもせずにぶらさがっているだけの瓜ではない」とのお言葉は、まことにその通り、さればこそ「東西南北の人」――漂泊の身となられたのだ。
孔子の成し遂げたこと、そしてその生涯を褒め称えている。
わずか32文字ながら、このなかには典故(古典の表現や故事に基づく表現)が用いられている。「その儀 忒はず」は『詩経』に見える言葉(曹風・鳲鳩)。『詩経』の詩は1句が4字であるのを基本としており、『詩経』の詩句をそのまま取り込むことで、この作品に一層荘重な響きを与えている。また、深読みかもしれないが、古人は『詩経』を孔子が編集したものと信じていたから、『詩経』の詩句を用いることで、孔子が自身の編著の言葉にたがわぬ人物であったことを賛えているとも考えられる。
注目したいのは最後の2句である。「吾 豈に匏瓜ならんや」「東西南北す」、これらはいずれも孔子自身の言葉である。前者は『論語』陽貨、後者は『礼記』檀弓上に見える。
孔子は自身の政治思想を実現できる場を求め、門人たちを引き連れて長く放浪の年月を送った。そのような身の上について、孔子みずから「いま丘や、東西南北の人なり」と語ったと、『礼記』にはある(「丘」は孔子の名)。
だが孔子は結局どの国の君主にも重用されることはなかった。『論語』にいう「匏瓜」は役立たずの喩え。「吾 豈に匏瓜ならんや」に続いて、孔子は「いづくんぞ繫がれて食らはれざらんや」――繫がれたままで食われないなんてことはない、と言う。瓜はつる性の植物であるから、「匏瓜」には「人様の軒を借りてからみついている穀潰し」という含みがあろう。一方、孔子は地位はなくとも名声ある人物であったから、当時の君主たちにしてみれば、孔子を「政策顧問」に祭り上げておけば、彼ら自身の威信を高めることが期待されたであろう。してみると「匏瓜」には「体よくお客様扱いされてはいるが、実は殿様にひもで繫がれているだけ」という含みもありそうである。
君主に取り立てられなかったがために諸国を放浪するはめになったというのが、実際のところである。しかしそう言っては元も子もない。「吾 豈に匏瓜ならんや、東西南北す」という表現には、「すぐれた人物であったにもかかわらず、「東西南北の人」となってしまった」という慨嘆に加えて、「すぐれた人物であったからこそ、「東西南北の人」とならざるを得なかった」という賛嘆が重ねられているようだ。後者は「すぐれた人物だったために引っ張りだこだった」ということである。「引っ張りだこ」は事実に反するが、『論語』を読むと、孔子は自身を無価値の人間とは決して思っていなかったことが言葉のはしばしからわかる。みずからの価値を信じながら、志を実現することはできず、そのかわり教えをこの世に残すことで後の人々を導いた人物。そんな孔子を称賛し、慰藉する言葉と思えば、この「孔子賛」の、かすかながらもたしかにある味わいが感じられるであろう。

「唐老子孔子顔子讃并奏勅墨拓本 軸」、國立故宮博物院蔵。「孔子賛」が刻まれている(右側4行)。この拓本では「刪詩定禮」を「刊詩定禮」とする。
自画自賛
「孔子賛」の鑑賞に深入りしたが、コナンのセリフやドラえもんの歌詞との関連で興味深いのは、「匏瓜」の句に1人称代名詞「吾」が使われていることである。コナンのセリフはコナンみずから語るもの、ドラえもんの歌詞にも「ぼくドラえもん」とある。「孔子賛」を含めた三者は、実際には作者が主人公に捧げた「賛」でありながら、作者が主人公になりかわって1人称で語る、あるいは主人公自身に語らせることで、言葉の上では主人公が自分自身を褒めた「自画自賛」になっている、という共通点がある。
どうであろうか。おもしろくはないだろうか。「それがどうした」と言われてしまえば、それまでである。しかしわたくしは、時代も地域も離れながら、言語表現にこのような暗合が生ずることに、無上の興味を感ずる。影響関係の有無はこの際問題ではない。影響関係なくして一致が生じているならば、なおのこと興味深い。なぜならば、そのような現象を手がかりとすることで、人類が共通して言語表現に求めているものや、言語によって表現する際の人類共通の習性が見えてくるように思われるからである。
もっとも、「賛」についていえば、他人を褒めない民族はいないだろうから、人を褒める文学が各地に存在するのは当然で、似た表現形態をとるのも驚くにはあたらない、という見方もあるかもしれない。それはもっともである。また、「賛」には「賛」の歴史があり、1人称が現れることには「賛」特有の事情があることも考慮せねばならない(1)。だがそれはそれとして、「賛」とそれに類するセリフや歌詞とを並べて読んでいると、おおげさに言えば「詩学」めいた想念が頭のなかで渦を巻きはじめ、自分でも止めることができなくなる。
作品のみならず、「賛」をめぐって古人が展開した文学論もまた、「言語表現上の人間の習性」を探る手助けをしてくれる。次にそれを紹介したい。
『文心雕龍』
『文心雕龍』という書物がある。著者は劉勰、中国の南北朝時代、南朝の斉から梁にかけて生きた人物である。『文心雕龍』は中国文学においては現存最古のまとまった文学理論書であり、文学ジャンルごとに各ジャンルの起源・特徴を述べるほか、文字・語句の運用法、さらには人間が文学作品を創作する際の心理的過程にまで説き及ぶ。文体論・修辞論・創作論・文学史を包括した文学原論であり、書物そのものが美文で記されているという、中国文学史上にひときわ光彩を放つ書物である。
この書物の「頌讃」という章で、劉勰は「賛」および類似する文体「頌」について論じている(2)。
劉勰によれば、「賛」の起源は「唱発の辞」であるという。舜や禹といった古代の帝王に対して、臣下が口頭で放った言葉、また儀式の際に唱えられる言葉、これらを「賛」の起源と考えているようである。ただし、古典籍が伝えるそれらの言葉は、君主に対する「賛辞」というより「賛助」の言葉であったり、儀式の進行を補助するための言葉であったりする。「賛」には複数の意味があり、漢和辞典『漢辞海』第四版では、「①補助する」「②案内する」「③述べる。紹介する」「④称賛する」と、4つの意味を載せている。劉勰の頭のなかではこれらの意味が重なり合っているようであり、思考を追うのはやや難しい。ともかく、劉勰が「唱発の辞」すなわち口頭表現に「賛」の起源を見ていることをまずおさえておきたい。
例えばこういうことである。中国の時代劇でよく見る場面だが、「皇上驾到!」(皇帝陛下のお成り!)の声のあと、皇帝が出御して玉座につくと、並み居る臣下が「万岁万岁万万岁!」(万歳万歳万々歳!)と声を揃えて唱える。これも「唱発の辞」であろう。「万歳万歳万々歳」であれば、皇帝を褒め称える言葉でもある。
劉勰はまた、時代が下ると文学者が「賛」を「書く」ようになり、内容面でも、人物を批評し、毀誉褒貶を込めるものになったとしている。つまり、もともと口頭表現であったものが、書記言語による表現へと変わっていった、ということである。これも注目に値する。
そして議論のまとめとして、こう述べている。――「賛」という言葉の本義に立ち返れば、この文体は「褒める」ことから生じたといえる。そのため、古来「賛」の形式は簡潔で、際限なく広がることはなく、必ず1句は4字に収め、ぽつりぽつりと何度か韻を踏むに留めるのである。「約挙して以て情を尽くし、昭灼にして以て文を送る」――言葉を約めて要点だけを挙げながら、言うべきことを言い切り、文意明晰に筆を運んでゆく、これがこの文体の特色である。
褒め言葉だから、短い。これはおもしろい発想である。ここでまた、わたくしの妄想が渦を巻いてゆく。
褒めかたいろいろ
歌舞伎『梶原平三誉石切』(通称「石切梶原」)の一場面。主人公の武将・梶原平三が神前の手水鉢めがけて刀を振り下ろすと、鉢が真二つに切れる。そこで六郎太夫(前の場面で梶原に命を救われた老人)が「切り手も切り手」と梶原を褒めると、「剣も剣」と梶原が返す。「切り手も切り手」とは、梶原がすぐれた剣士であるのを褒めたもの、それに対して梶原は「剣も剣」、「刀が天下の名刀だったから斬れたのだ」と刀を褒めて、謙遜したのである(3)。
「切り手も切り手」「剣も剣」はどちらも7音、一言で短くびしっと褒める言葉で、劉勰のいう「賛」の特徴を思わせる。
劉勰の議論をうけて、もう一つ思い浮かぶのは、孟子が孔子を褒め称えた言葉である。孟子は伯夷・伊尹・柳下恵といった、いにしえの聖賢と並べて孔子を称賛する(『孟子』万章下)。
孟子曰、
「伯夷、聖之清者也。
伊尹、聖之任者也。
柳下惠、聖之和者也。
孔子、聖之時者也。
孔子之謂集大成。」
孟子曰く、「伯夷は聖の清なる者なり。伊尹は聖の任なる者なり。柳下恵は聖の和なる者なり。孔子は聖の時なる者なり。孔子は、これを集大成と謂ふ。」
孟子は言った。「伯夷は清廉に生きた聖人であった。伊尹はみずからの任務を全うする聖人であった。柳下恵は人間どうしの和を重んじた聖人であった。孔子はその時々に応じて適切に身を処した聖人であった。孔子は、「諸々の徳を一身に集めて完成させた」といえる。」
同じ構造の文を4つ並べ、「孔子は、これを集大成と謂ふ」でしめくくる。韻こそ踏んでいないが、文構造や音節数が揃えられているために、詩的な印象を与える。この孟子の言葉には続きがあるが、そこでもやはり構造の揃った文が並ぶ。
孟子はこの言葉を、口頭で発したのだろうか。それとも初めから「著述」という形で、文字で書いたのだろうか。話し言葉にしては妙に整っている、しかし口頭の発言だとしてもそこまで無理はない。例えば、門人たちを前にした講話において、孟子がこのような言葉を口にしているところは、容易に想像できる。
もちろん真相はわからない。孟子の発言を記録した門人の手によってこのような形に整えられた可能性もあるだろう。いずれにせよ、孟子のこの言葉が興味深いのは、劉勰のいう口頭言語としての「賛」と書記言語としての「賛」の中間にあるように思われることである。
一口に褒め言葉といっても、さまざまなレベルがある。①ある出来事が起きたとき、衝動的にその場で放つもの。②あらかじめ修辞を整えてはおくが、口頭での発言として実現するもの。③もっぱら書かれた作品として作られるもの。これまでとりあげてきたものを分類するならば、名探偵コナンのセリフやドラえもんの歌詞は②に入るであろう。「孔子賛」は、典故を用いた荘重なもので、③といえるだろう。孟子の言葉は②か③となろうか。そして「石切梶原」のセリフは、作者が①を装って作った②であるといえよう。
わたくしが気になるのは、「石切梶原」のセリフのような発言が、現実に起きうるか、ということである。
衝動性と様式性
「切り手も切り手」「剣も剣」のような発言が現実に起きうるか。起きうる、とわたくしは思う。根拠は個人的な経験である。結婚報告のような吉報が舞い込んできたとき、または訃報に接したとき、瞬時に俳句が浮かんだことがある。5・7・5で季語が入り、かつ文語である。その場で口に出したわけではないものの、強い喜びや悲しみが引き金となって言葉が生まれた点、「石切梶原」で起きている現象に近い。
「石切梶原」のセリフが現実的かという問題になぜこだわるのかといえば、次のような問題意識があるからである。10年以上前であっただろうか、俳句の先輩がこのようなことを言われた。「現代の我々にとって、口を突いて出てくる言葉は文語ではなく口語なのではないか。従って、文語俳句ではなく口語俳句の方が、我々にとって自然なのではないか。」
文語俳句もごく自然であると、わたくしとしては主張したい。有季・定型・文語とは、一見日常的な言語から離れたものに見えるかもしれないが、衝動的に放たれた言葉が韻律・修辞を備える、つまり様式性を帯びることがありうる。これを言わんがために、ここまで延々と「賛」について考察してきたようなものである。「賛」に関する劉勰の議論は、この主張を助けてくれると思われる。劉勰によれば、「賛」もまた、賛嘆という衝動的な言語行動に起源をもち、かつ4字1句で押韻するという様式性を具備する。ある人間が「賛」を口にするメカニズムと俳句を思いつくメカニズムは、相等しいものなのではないか。
日常のなかの非日常
我田引水かもしれないが、もう一つ議論を紹介しよう。長屋晃一[著]『ミュージカルの解剖学』に、次のような記述がある(4)。
こんな経験はないだろうか、日常生活のなかに非日常的な状況が生じたとき、かえって芝居がかった身振りをしてしまう経験が。〈…〉あるいは、子供のころ、たった今まで大声でしかっていた母親が、電話に出たとたん、すました声になっているのを聞いて、きつねにつままれたような気もちになったことはないだろうか。それは母親が怒るという日常のなかにとつじょとして出現した非日常的な瞬間である。
こうした日常のなかに生まれる非日常は、むしろ「型」の世界である。
著者はまた、「「非日常」を作り出す「型」に身をあずけるとき、わたしたちは、ほかでは出会いがたい「きらめき」をあじわう」と言っている。「きらめき」とは、ミュージカルを観るなかで経験する独特の感動を表現したものだが、「光る瞬間」と言い換えてもよいだろう。ミュージカルは「突然歌い出す」ところに奇異の念をもたれがちであるが、わたくしが前掲書から理解したところによれば、「歌い出す」瞬間こそが「きらめく」瞬間なのであろう。比較的写実的な演技で場面が進む部分、それは「日常性」に近い次元の部分だが、そこで蓄積された感情が歌やダンスという形で解き放たれるとき、「きらめき」が生まれるというわけである。「賛」や俳句も、誕生の瞬間にさかのぼれば、日常のなかに割り込んだ非日常の「きらめき」、熱泉のごとく噴き出した感動の結晶として、とらえることができるのではないだろうか。
頂点を目指して
最後に、蓄積された想念が俳句となって噴出した例を紹介しよう。蕪村に
芭蕉去てそののちいまだ年くれず
という句がある。「芭蕉が世を去ったのち、いまだ年は暮れていない。」どういうことであろうか。
この句にはやや長い詞書が伝えられている。表記を読みやすく改めて引用する。
名利の街にはしり、貪欲の海におぼれて、限りある身を苦しむ。わきて暮れゆく年の夜のありさまなどは、言ふべくもあらずいとうたてきに、人の門たたき歩きて、ことごとしくののしり、足を空にしてののしりもてゆくなど、あさましきわざなれ。さとておろかなる身は、いかにして塵区をのがれん。「年暮れぬ笠着て草鞋はきながら」、片隅によりてこの句を沈吟し侍れば、心もすみわたりて、かかる身にしあらばと、いと尊く、我がための『摩訶止観』ともいふべし。蕉翁去りて蕉翁なし、年また去るやまた来るや。
芭蕉去てそののちいまだ年くれず
永遠に続く命でもないものを、金と名誉を追い求め、欲の海に溺れて、人は我とわが身を苦しめている。なかでも年の暮れの人間たちの体たらくには、つくづくいやになる……。「人の門たたき歩きて」のひとくだりは、『徒然草』第19段を踏まえたものだが、ここでは江戸時代の、掛け取りのありさまを言っているのだろうか。あるいは正月を目前に、早くも千鳥足で浮かれ歩く人々を描いているのかもしれない。
しかし蕪村は、そんな浮世のから騒ぎに加わって、人々とともに喜んだり悲しんだりすることができない。さりとてきっぱりと「塵区」――塵にまみれた俗世を離れることもできない。そんな彼の心に光を注いでくれるのは、「年暮れぬ笠着て草鞋はきながら」という、芭蕉の句である。「年は暮れてゆく。笠着て草鞋はきながら、今年も旅の空の下で」――部屋の片隅で膝を抱えながら、静かにこの句をつぶやくと、心が澄みわたる。自分もそのような人生を送れたら。なんと尊い句だろう。蕪村にとって、この句は天台宗の根本経典『摩訶止観』にも比すべきものであった。
芭蕉のあとに芭蕉なし。古い年は去ってゆくのだろうか。新しい年はやってくるのだろうか。「芭蕉去てそののちいまだ年くれず」。芭蕉亡きあと、「笠着て草鞋はきながら」年を越すような人物、そのような句を詠める人物は、現れていない。芭蕉亡きあと、俳諧という文学の時の流れは止まったままなのだ。
この句はまさしく、蕪村が芭蕉に捧げた「賛」である。長い詞書が語るのは、巨星の消えたあとの文学世界にぽつんと生まれ落ちた孤独、そして現代でいえば、年末のイルミネーションも、レストランの灯火も、幸せな家庭のリビングの明かりも届かぬ心の闇である。鬱屈した彼の心には、負のエネルギーが蓄積されてゆく。そこへ仏の垂らす蜘蛛の糸のごとく、芭蕉の句が一筋のきらめきを見せる。それが誘い水となって、彼の「芭蕉賛」が噴き出したのである。
江戸時代の俳句は、時として長大な詞書をもつ。ドナルド・キーンは、芭蕉の『野ざらし紀行』の一節をとりあげ、そこでは散文がなければ句の意味がわからないと言っている(キーン『古典を楽しむ――私の日本文学』所収「『おくのほそ道』の世界」)。ドナルド・キーンはこれについて、積極的な評価も消極的な評価も下していないが、現代では一般的に、ある句がその句単独で鑑賞可能でないと、評価されづらいようである。しかし今とりあげた蕪村の句のようなものは、想念の圧力を高めるための助走として詞書があり、感動の頂点として句があるのではないだろうか(5)。『おくのほそ道』を始めとした芭蕉の紀行文も、散文と句とが交互に現れるが、散文=旅路において高めた詩想を句の形で噴火せしめ、言葉によって「火山列島」を描き出したとはいえないだろうか。
賛
アニメのセリフや歌詞から始めて、一応は「賛」とそれにまつわる議論を核としつつ、韻文の生まれる瞬間を尋ねて思わぬところまで来た。しかし本稿は「中国文学万華鏡」、万華鏡のなかの景色には始まりもなく終わりもない。扱うのは文学の切れ端であっても、それらが重なり合い、反射し合い、美しい幻影が見えればと願っての題である。もし読者が、何か一瞬でも輝くものを目にされたならば、それこそ「読み手も読み手!」である。
注
- 例えば、西晋の夏侯湛の「東方朔画賛」(『文選』所収)は前漢の人物・東方朔の肖像画を見て書かれた「賛」であるが、そのなかに「我 東より来たる」という句がある。この「我」は作者の夏侯湛ではなく、東方朔を指す。この句も『詩経』の詩句をそのまま用いている(豳風・東山)。『詩経』の詩には、誰を指しているかわからない1人称代名詞「我」がしばしば現れる。
- 章題は底本に従い「頌讃」と表記し、文体の名称は「賛」と表記する。『文心雕龍』に注釈を施した近代の研究者・范文瀾は、章題も本来は「頌賛」であるべきだとしている。
- 浄瑠璃原文はセリフの順番が逆。セリフの順番は上演の際の演出によって異なる。
- 2024年、春秋社、pp. v-vi.
- 詞書を助走ととらえる理解は、岡井隆が佐々木幹郎との組詩集『天使の羅衣』(思潮社、1988年)のなかで示している由だが、原文未見。