みすず書房

「虞兮虞兮奈若何」

手向けの歌

「虞兮虞兮奈若何」

  力抜山兮気蓋世
   時不利兮騅不逝
   騅不逝兮可奈何
   虞兮虞兮奈若何
    力 山を抜き 気 世を(おほ)
    時 利あらず (すい)逝かず
    騅の逝かざる奈何(いかん)すべき
    虞や虞や(なんぢ)を奈何せん

八尺に余る身のうちに流れるのは、世々楚に仕えた将軍の血。皇帝に取って代わろうという、幼き日の志そのままに、天が秦を滅ぼすその時を失わず、都咸陽を業火に葬った西(せい)()の覇王・項羽の一生も、やがて終わろうとしていた(1)
 項王は垓下に陣営を築いたが、兵士は少なく、且つ飢えていた。漢軍と諸侯の兵はそれを幾重にも取り囲んだ。夜、漢の軍中あらゆるところで楚の歌を歌っているのが項王の耳に聞こえた。彼は強い恐怖に打たれ、言った。「漢は楚の人間を一人残らず手に入れたのか? なぜあれほどまでに()(ひと)がいるのか?」項王は夜更けに起きあがり、天幕の中で酒を飲んだ。彼には一人の美しい女がいた。名は虞。いつも彼のそばにいた。また騅と名付けた一頭の名馬は、彼がいつも乗っていたものであった。やがて項王は、こみあげる悲愁をせつなく歌いあげた。彼は己をこのような詩にした。

私は山々を引き抜くほど強かった、私の力はこの世を()さえつけていた――
 時はもう味方してくれない。騅はもう駆けようとしない。
 騅は駆けない。——私は何ができる?
 虞よ!虞よ! 君はどうなってしまうのだ?

彼はいくたびも繰り返して歌い、美しい彼の女も声を合わせて歌った。項王はおびただしい涙をこぼした。御側の者もみな涙を流し、顔を上げて彼の姿を見ることのできる者は誰一人としていなかった(2)
 騅逝かず――引いても押しても愛馬が進もうとしないのは、人ならぬ獣を通して天が意思を示したからであろう。天意である以上、それはどうすることもできない。しかし虞美人はどうであろうか。彼女は常に項羽に従ってきた。もし項羽が一人落ち延びよと命じたならば、落ち延びたであろう。最後の出陣に従えと命じたならば、従ったであろう。黄泉路にさえも従ったであろう。項王は死を賜ることすらできたはずである、後世唐の玄宗が楊貴妃にしたように。
 だが彼は何もすることができなかった。「当たる所敵無し」とは彼自身が残した言葉、かつて楚の総大将・宋義の首を刎ね、楚王の(すえ)を「義帝」として立てたかと思えばこれを殺し、秦の王子・()(えい)の息の根を止めた彼にして、愛する女ひとりを生かすことも殺すこともできなかったのである。「虞や虞や若を奈何せん」——それは己の無力を悟り、人生が無に帰してゆくのを眼前に見る、絶望の言葉であった。
 そのような絶望の底にあって項羽が「歌」を歌っているところに、わたくしは心惹かれる。当時の人々はいかなるものを「歌」とみなしていたのか、その実態には謎が多いが、史書を見渡すと、悲しみや喜びの絶頂において歌われた歌が少なからず載せられている。ある決定的な局面で歌を歌うという行為には、どのような意味がこめられているのだろうか。しばしそれらの歌に耳を傾けてみたい。

「蒼天 直を挙げん」

項羽を破り、天下を定めて皇帝の位についた劉邦にあまたの妻がいた中で、すぐれて寵愛を受けたのは(せき)()(戚夫人)であった。彼女の産み落とした男の子は、劉邦にとってまさに掌中の珠、よくもここまで自分に似たものと愛を注いで止まなかった。それに引き換え皇太子はおとなしすぎ、自分に似たところが少しもない。できうるならば太子を廃して、(おと)皇子(みこ)に位を嗣がせたい。戚夫人も同じ心である。彼女は(へい)()(こう)(そう)のさなかも常に劉邦に付き添い、この子をこそ儲けの君にと、朝な夕な泣いて訴えていたのであった。
 劉邦おもえらく——この戚夫人は、いまだ荒野に戦鼓の轟いていた頃、この眼で見出し、手ずから我が庭に移し植えた撫子の花である。太子の母なる女といえば、自分がまだ故郷にあって、家業も顧みず、男伊達の風を吹かせていたところへ、町の暮らしを守る亭長の帽子を頂戴し、形ばかりは堅気になったころ、名士だか親分だか知らないが少しは名の知れた(りょ)(こう)とかいう流れ者が、「私は若い時分から人相見が道楽でしてな、随分と人の顔を見てまいりましたが、この兄さんほど良い顔の人はいない、お若いの、御身お大事になされませよ。どうぞ娘をお貰いくださいまして、箒なり塵取りなり持たせてやってくださるまいか」と、奥さんが止めるのを叱り飛ばしてまで俺に押し付けた女である。今でこそ国の母にならせたもうたが、休暇で亭長の仕事から帰ったら、息子・娘と三人で野良仕事をしていた、あの時の土のにおいは肌にしみついている——と、己の生まれと育ちを棚に上げて、帝がいつもうとましく思っている女が、(りょ)(こう)であった。
 劉邦即位ののち、戚夫人の子・(にょ)()は趙王として立てられ、このまま太子に、と思われる動きもしばしばあったが、大臣たちの諫めにあい、智謀に富む張良の策もあって、太子の位は守られ、皇帝崩御ののち、呂后の子は前漢第二代皇帝・恵帝として即位する。
 呂后は皇太后となった。今こそ我が人生の始まる時と、彼女は思ったのかもしれない。まず趙王如意、そして戚夫人を相次いで葬り去った。やがて恵帝が若くして没すると、彼女は呂氏一族を王として封建すべく策をめぐらしはじめた。劉氏でなければ王になれないというのが、これまでの掟であった。そんな中、今度は趙王(ゆう)が目障りなふるまいを見せるようになった。趙王友も劉邦の子で、殺された如意に代わって趙王の位についていたのである。
 趙王友は呂氏一族の女を妻としていたが、彼女を愛せず、他の妃を愛した。呂家の女は怒って彼のもとを去り、呂太后のもとへ走った。「『呂氏一族が王位につけるわけがない。太后がみまかったら必ず呂氏を討ってやる』と趙王が申しております。」偽りの告げ口を聞いて呂太后は怒り、趙王を召し寄せた。趙王が都に到着すると、邸に留め置いたまま会見せず、衛士に取り囲ませ、食糧を与えなかった。王の家臣が密かに食糧を贈ろうとすると、残らず捕えて罪に落とした。そして飢えの苦しみに責められた趙王はこのように歌ったのであった。「趙王餓ゑ、(すなは)ち歌ひて曰く」——

  諸呂用事兮劉氏危
   迫脅王侯兮彊授我妃
   我妃既妒兮誣我以悪
   讒女乱国兮上曽不寤
   我無忠臣兮何故棄国
   自決中野兮蒼天挙直
   于嗟不可悔兮寧蚤自財
   為王而餓死兮誰者憐之
   呂氏絶理兮託天報仇
    (しょ)(りょ)事を用ひて劉氏危ふし
    王侯を(はく)(きょう)して()ひて我に妃を授く
    我が妃既に(ねた)み 我を()ふるに悪を以てす
    (ざん)(じょ)国を乱し (しょう)(かつ)(さと)らず
    我に忠臣無し 何の故に国を棄てし
    (ちゅう)()に自決せば(そう)(てん)(ちょく)を挙げん
    ()()悔ゆべからず (むし)(はや)()(さい)せん
    王と為りて餓死す 誰か之を憐れまん
    呂氏(ことわり)を絶つ 天に託して(あだ)に報いん

呂の一族が力をふるい、劉の家は危うい。
 王侯を脅かして、私に女を押し付けた。
 嫉妬せる妻は、偽りの罪を告発した。
 女の着せた濡れ衣が我が王国を搔き乱したが、
 帝は真実を分かってくださらなかった。
 私にはもう忠義の家臣はいない。どうして私は国を発ったのか?
 もしも野中で我と我が運命に決着をつけていたなら、蒼々たる「天」は
 身の潔白に報いてくださったであろうに。
 ああ! 悔やんで何になる? 一時も早く
 意のままになるあのことに頼ったほうがよい。
 王でありながら飢えて死ぬ――そんな身の上、誰が憐れんでくれる?
 呂氏は正義を辱めた。私は天に復讐を委ねる(3)

丁丑の日、趙王は幽囚のうちに生涯を閉じた。彼は王としてではなく、民を葬る礼によって、民の墓に並んで葬られた。
 『史記』呂太后本紀が「幽死す」と記すことからすれば、全てを奪われた彼に唯一残された自由、「意のままになるあのこと」、自財(=自裁)すなわち自殺をする力さえ、もはや彼には残っていなかったと思われる。司馬遷は「乃ち歌ひて曰く」と言っている。「乃」は前の出来事から後の出来事への移り変わりが滑らかでないことを表すことがある。ここは「趙王は飢えの極みに達し、そこでやっと(=乃ち)最後の力を振り絞って歌った」と解釈することができよう。彼は「(むし)(はや)()(さい)せん」とは言いながら、「もし野中で(=都へ来る途中で)自ら命を絶っていたならば、天が潔白に報いてくれていただろうに」と、事ここに至る前にそれができなかったことを悔やんでおり、「王と為りて餓死す 誰か之を憐れまん」という言葉は、「王と為りて餓死す」る未来を見越して、自ら憐れんでいるようにも感じられる。
 残された力はすべて歌となって尽きた。邸から漏れ聞こえる歌声は誰かの心を動かしたのであろう、それが心に残り、司馬遷の筆に載せられて、二千年を経てもなお鳴り渡っているのである。

母・呂后

そもそも呂后は、先に述べたように、劉邦出世前からの連れ合いであった。してみれば、戚夫人に嫉妬の(ほむら)を上げるのも無理ならぬことではある。――若さと美貌、それが何になる、所詮は戦のどさくさに鎧に挟まった野の花みたいなものではないか。実にいい気なもの、私はといえば子供たちと一緒に故郷の(はい)の町で家を守っていたのに、あの人ときたら何であろう。項羽の軍に一重、二重、三重とまで囲まれたのを、神風が吹いて敵が乱れたのを幸い、ほうほうの(てい)で逃げ延びて、沛までたどり着いたあの人に、落ちゆく道中でやっと会えたと思いきや、いかに楚の追手が急だからとて、息子と娘を馬から突き落とす父親がどこにある。子供たちは()(こう)(えい)どのが拾い上げてくれたからよいものの、私は(しん)()()どのに従ってお義父さまと逃げる途中、楚の軍勢に捕われ、やっとあの人とまた一緒になれたのは、漢・楚が天下を二分する形勢が定まった時だった。そういう苦労をどこまで分かっているのだろう。
 忘れもしない、あの人がまだ亭長をしていたころ、あの人が休みをもらって帰って来た時、息子・娘と親子三人、畑仕事をしていた。見知らぬおじいさんが水が一杯ほしいというので、お水だけではなんだから虫押さえばかりのものをちょっと添えてお出ししたら、私の顔を見て「おかみさんは天下の貴人だ」なんて言う。子供を見せたら「おかみさんが貴人になられるというのは、このお子のゆえですぞ」、娘にも貴人の相があると言う。
 今ならわかる、息子は帝王の顔、娘は皇女の顔になっているのは、人相見を呼ぶまでもなく母親の私にはよくわかる。男らしくないやつだといってあの人はこの子を嫌うけれども、こんなに優しい息子が天下広しといえどまたとあるだろうか。かわいい息子、夫がこの子を棄てようとするならば、私が守らねば――。
 これから記そうとする呂后のふるまいを、史書は異常なまでの冷血さに支えられた飽くなき権力欲の発露として描こうとしているようだが、「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(4)、そのような心の闇のなせる業と考えたくもなる。子への愛と自己愛の区別がつかなくなった心の闇でもあろう。『史記』呂太后本紀を読むと、市川崑監督の映画『犬神家の一族』の中で「お前恋しさのあまりとんでもない誤りを犯してしまった」と嘆く犯人の姿がちらつき、あまり遠い国、遠い昔の話とは思えない。
 呂后のふるまいとはこうである。劉邦が崩御したあと、呂太后は戚夫人を宮中の(えい)(こう)なる場所に幽閉し、国から趙王如意を召し出した。思いやり深さとは、人の心を見抜く力が健やかに育った結果に他ならないが、母の意図を感じ取った恵帝は、みずから如意を出迎えにゆき、寝起きといわず飲食といわず、片時も我が身の傍を離さず、呂太后が手を下す隙を与えなかった。かくするうち、恵帝の元年十二月のことである。ある日の朝まだき、帝は弓の稽古に出かけた。幼い如意は早起きができず、寝たままであった。夜が明け、帝が戻ってみると、如意は冷たくなっていた。呂太后が毒を盛ったのである。
 残るは戚夫人である。呂太后は戚夫人の両腕・両脚を切断し、両眼を抉り、両耳に火を吹き込み、毒薬を飲ませて喉を潰し、厠に置いて「(じん)(てい)」——人間豚と呼んだ。当時は厠の下部の空間で豚を飼い、人糞を餌として食わせていたので、かく名付けたのである。数日経ち、呂太后は恵帝を呼び寄せて「人間豚」を見せた。恵帝の目には得体のしれない物影が映ったが、何であるかわからない。御側の者に問うて初めてそれが戚夫人であることを知り、泣き叫んだ。そのまま病の床に臥せり、起き上がることができるようになったのは一年余り経ってからのことであった。
 彼は人を使わして呂太后に伝えた。「あなたのしたことは人間の所業ではありません。そんな人の子供である私はもう帝国を治めることなどできません。」帝位から降ろしてくれというのである。かくして恵帝は日々酒に浸り、放蕩の限りを尽くして政治を顧みなくなり、ついには病を得ることとなった。恵帝七年秋八月、崩御。
 呂太后は変わり果てた戚夫人の姿を我が子に見せて、「安心なさい、邪魔者はみんなお母さんが片付けてあげたから」と言いたかったのかもしれない。しかし恵帝は皇帝でありながら、趙王如意も、その母も守ってやれなかったのである。守ってやれなかった結果、彼らがどんな姿になってしまったかをその眼で見ているのである。原文には「問ふ。乃ち其の戚夫人たるを知る。乃ち大いに哭し、因りて病み、歳余起つ能はず」とあり、ここでも「乃ち」が用いられている。見せられているものの異常さを直感では感じているが、理性がそれを整理しきれていないありさまが伝わってくる。「其の戚夫人たるを知」ってから「大いに哭」するまでの間に挟まる空白の一瞬、その一瞬に、恵帝の心は壊れてしまった。そして最愛の息子に「あなたみたいな母親の子供はもう国を治められない」と言われた時、呂太后は拒まれた愛を己に振り向けて、ひたすら呂氏一族の拡大を目指すほかなくなったのであろう。

三千里のかなたより

以上は概ね『史記』呂太后本紀に基づく物語であるが、呂后の事績を載せる史書は『史記』だけではない。『史記』が太古から前漢に至る当時にとっての「世界史」通史であるのに対し、後漢の班固が撰するところの『漢書』は、秦末から前漢末・新までの歴史を記した断代史である。『史記』と重なる時代の歴史を『漢書』は『史記』を下敷きにしながら記しているが、改変を加えることもあるため、相互に読み比べるとしばしば興味深い発見がある。本稿もここまで劉邦や呂后の前半生を書く際には両書の記述を織り交ぜて書いていたのであった。
 『漢書』外戚伝上には次のようにある。高祖・劉邦が崩じ、恵帝が立ち、呂后が皇太后となると、彼女は時こそ来たれとばかり、戚夫人を永巷に囚え、髪を剃り、鉄の首枷をはめ、臼で穀物を()く刑罰を課した。戚夫人は臼づきながらこう歌った。

  子為王 母為虜
   終日舂薄暮
   常与死為伍
   相離三千里
   当誰使告女
    子は王と為り 母は(とりこ)と為る
    終日(うすづ)いて(くれ)(せま)
    常に死と伍を為す
    (あひ)離るること三千里
    (まさ)に誰をしてか(なんぢ)に告げしむべき

子は王様よ (かか)(さま)
 囚われし身のひもすがら
 臼つくうちに日が暮るる
 いつも()(びと)と五人組
 母子隔つる三千里
 誰に頼って母様の
 声をそなたに聞かしょうぞ

呂太后はこれを聞くや、「おのれ子にすがる気か!」と怒りたけり、かくして趙王如意を亡き者とすべく都に召し出したのであった。
 わたくしは『漢書』を読み、感に堪えぬ思いをなした。というのは、『史記』において戚夫人は一言も発しない。しかも薬で喉を潰されてしまうため、なおのこと呂太后に()()のごとく扱われている印象ばかりが残る。しかし『漢書』によればそうではなかったことがわかるためである。
 「死と伍を為す」の「死」を、唐代の注釈者・(がん)()()は「死罪の裁きを下された罪人」と解している。そのような罪人と五人組(「伍」)を組まされて強制労働をさせられている、というのである。それで意味は通るが、文字通り「死」と隣組になっている、と言っているようにも受け取れる。実際のありさまはそうであろう。左右にいる者は、生きているとはいうものの、死者も同然である。自分も遠からず死者の仲間に入るに違いない、その予感が「暮に(せま)る」という言葉に感じられる。この声よ三千里のかなたに届けと歌い、せめてこの音なりとも届けと、杵を振り下ろしたのであろう。
 この歌によって、戚夫人が無言のままに葬り去られたのでないことを知り、やや心が軽くなったのは事実である。後世の者がこの歌を読むことで戚夫人の魂魄が慰むというのは甘い幻想であろうが、それでも我々は彼女になにがしか心を寄せることができる。歌は一人だけのためにあるのではなく、声を合わせて歌うことができるのであるから。

「游子は故郷を悲しむ」

漢の高祖・劉邦その人も、歌を歌っている。『史記』高祖本紀によれば、皇帝に即位して七年目、(げい)()を討つべく出兵した際、別部隊に黥布追撃を命じ、劉邦は引き上げて故郷の沛に立ち寄った。彼は旧知の者たちを招待し、老いも若きも酒を酌み交わした。また土地の少年120人を呼び集め、歌の練習をさせた。宴も(たけなわ)となると、彼は(ちく)(楽器の一種)を奏でながら、自ら歌を作って歌った。

  大風起兮雲飛揚
   威加海内兮帰故郷
   安得猛士兮守四方
    (たい)(ふう)起こつて雲飛揚す
    威は(かい)(だい)に加はつて故郷に帰る
    (いづ)くにか猛士を得て四方を守らしめん

強い風が吹いていた。雲は飛び、高く高く浮き上がっていた。
 威信は全世界に認められた。そして今、私は故郷に帰ってきたのだ。
 いかにして四方を守る勇士を見つけようか(5)

「大風起こつて雲飛揚す」にいかなる寓意を見出すか、従来解釈が分かれているが、ここでは秦末以降群雄が蜂起し、世界が兵火に呑まれていた状況を歌っていると考えておく。この歌全体が醸し出す情調の受け取り方も論者によって異なっている。言葉だけを見れば、錦を着て故郷に帰ったのを意気揚々と歌い上げているようであるが、中国文学の泰斗・吉川幸次郎はこの歌の背後に不安を読み取り、「それは環境の幸福への激変に感動した歌である故に、反射的にまた幸福の喪失をうれいている。また不安があればこそ、不安をおしつぶすべく、一層つよい意力をはたらかせているのであり、そこにこの歌の壮麗奇偉さが生まれているといえる」と述べている(6)
 歌の言葉そのものだけではなく、歌の置かれた文脈を視野に入れると、この歌は違った陰翳を生ずる。劉邦は一介の無頼から身を起こし、悪戦苦闘の末あまたの強敵を打ち破り、ついに皇帝の座にまで登りつめた。そのような人物が晴れて故郷に帰り、「いかにして四方を守る勇士を見つけようか」と歌うのを見たとき、この英雄がこの世で為すべき事業はもう終わったことを読者は直感するのではなかろうか。天下を定め王朝を開く創業の仕事は皇帝のものだが、四方を守らしめる守成の仕事は次世代に任せることができる。そこまで考えずとも、物語を読んでいると、また物語ならず現実においても、ある人の行く末がふと見通せてしまう局面があるものである。
 当の本人も知ってか知らずか己が行く末を予感することがあるものである。劉邦は歌い終わると、少年たちに繰り返し歌わせた。やがて彼は立ち上がって舞を舞うと、心の奥に疼くせつなさに捕われ、幾筋も涙を流した。そして沛の父老たちに「(ゆう)()は故郷を悲しむ(「游子悲故郷」)——旅人はふるさと思い涙ぐむ。私は都を関中に置くが、世を去っても我が魂魄はなお沛を懐かしむであろう」と言っている。その半年後、劉邦は死ぬ。黥布討伐の際に受けた流れ矢の傷がもとであった。一代で帝位をかちとった英雄としてはあっけない幕引きであった。

「其の鳴くや哀し」

高祖本紀の結末を読んで思い出すのは、『古事記』に載せるヤマトタケルの物語である。ヤマトタケルは父・景行天皇の命により征討の軍を起こし、西に東にと駆けめぐった末、伊吹の神と戦った後に病を得、故郷の大和を目指すも、それが叶うことはなく、ついに力尽きる。「()()()に到りましし時に、国を(しの)ひて、歌ひたまひしく、」

   (やまと)は 国のまほろば たたなづく (あを)(かき) 山(ごも)れる 倭しうるはし

やがて彼は白い鳥となって飛び去ってゆく。
 英雄が人生の終りに国を偲ぶというところ、不思議な暗合である。もっとも記紀においてはさまざまな人物が歌を歌い、歌う場面もさまざまではある。「倭は国のまほろば」を含む一連の歌も、『日本書紀』では熊襲親征に赴いた景行天皇が日向で歌ったことになっている。いずれが真であるかは分からず、どちらも結局は伝説なのでもあろう。しかしながら、たとえ仮託であるにもせよ、『古事記』にこの歌がこのような形で残されているのは、ヤマトタケルにこの歌を歌ってほしいと願う人々の心の表れと考えることはできないだろうか。挽歌でも(るい)()でもなく、世を去りゆくその人の歌を聞きたいと願う心である。
 「(そう)()曰く『鳥の(まさ)に死せんとするや、其の鳴くや哀し。人の将に死せんとするや、其の(げん)や善し』」(『論語』泰伯)——かの孔子もまた、歌を歌ったと伝えられる。そのことは『(らい)()(だん)(ぐう)上および『史記』孔子世家に見えるが、ここでは『礼記』の記述を見てみよう。
 孔子は朝早く起きると、両の手を後ろに回して杖を引きずりながら、門のあたりを立ちもとおっていた。彼はおもむろに歌い出した。

  泰山其頽乎
   梁木其壊乎
   哲人其萎乎
    泰山其れ(くづ)れんか
    (りょう)(ぼく)其れ(やぶ)れんか
    哲人其れ(しほ)れんか

天を支うる泰山も崩るるときのくることか
 家を支うる(うつばり)も砕くるときのくることか
 哲(  さと)(さか)しき人とても萎るるときのくることか

歌い終わると中へ入り、表座敷に腰を下ろしたが、歌を聞きつけた弟子の()(こう)が「泰山が崩れたら、私は何を仰げばよいのだ! 梁が砕け、哲人が枯れ朽ちたなら、私は何を頼りにすればよいのだ! もしや先生の御身体に何かあったのでは」と走り入ると、孔子は子貢の名を呼び「()よ、随分と遅かったな」と、おのれ亡きあとの葬礼の手はずをことこまかに教え、床につくこと七日にして没したという。
 泰山にも崩れる時がくる、太い梁も折れる時がくる、知性を磨きぬいてきた人にも衰える時がくる、そのように、奮闘努力を重ねた人生にも終わりがくることを感じて歌った歌と、まずは受け取ることができる。しかし子貢にとって、孔子こそは泰山であり、梁木であり、哲人であった。子貢と同じ心を抱く誰かがこの歌を作って孔子に捧げ、伝承の中で孔子その人にこの歌を歌わせたようにわたくしには感じられる。

聞こえた言葉

これまで読んできた歌は、そもそも誰が最初に記録したのだろうか。歴史を繙くと、このような出来事がある。(すう)(てい)17年、西暦にして1644年、李自成の軍によって北京が陥落し、300年になんなんとする(みん)(ちょう)の命数も尽きたと悟った崇禎帝は、周皇后に死を賜り、皇子たちを逃がすと、まず長平公主を斬り、次に昭仁公主を斬り、宦官の王承恩とともに紫禁城の北側なる景山に赴き、首をくくった。時に33歳。皇族の女性たちを死なせたのは、賊によって辱められぬようにするためであろう。長平公主を斬るとき、帝は「そなたはどうして我が家に生まれてきたのだ!(汝何故生我家。汝何の故に我が家に生まれたる)」と言ったと伝えられる。
 しかしどうして帝のこの言葉が残っているのだろうか。実は、動揺のため剣のねらいも定まらなかったのであろう、長平公主は左腕を斬られただけで、やがて助け出され、五日後に蘇生したのである(7)。してみれば、帝の言葉は長平公主の口から伝えられたものと考えられる。
 到底まともとはいえぬ状況のさなかのこと、帝がそのように言ったのは果たして事実か、公主の記憶は定かなのか、などと疑うのは無意味である。永訣の時に聞こえた言葉が「ありがとう」であろうと「愛してる」であろうと、どこにその真実性を疑う余地があろうか。ここまで読んできた歌の中には、そのような言葉として聞くべきものがあると思われる。

虞美人草

 さながら()()の実のように 片方へ(つむり)をかしげた、それは(その)()に、
  ()()をかかえて、また春さきの雨に濡れひじ 重たくなった
  そのようにも片方へと、兜の重みに ひかれて(こうべ)を垂れたのである。
         ――『イーリアス』第8書306~308行(呉茂一訳)(8)

これはトロイア戦争の折、テウクロスの放った矢に胸を射抜かれたゴルギュティオーンの姿である。魂がこの世に置き去った空蝉をかくも美しく詠われたのは若武者の誉といえよう。
 しかしかの虞美人は――『史記』も『漢書』も彼女の行く末を語らない。項羽に合わせて「虞や虞や若を奈何せん」と、しずのおだまき繰り返し歌う姿を我々の眼に留めて、彼女は歴史の闇に消えてしまった。この世にいるのかいないのか、消息がつかめないのはいかにもつらいが、歴史の中の人物とても同じこと、生き延びたのか否か、いついかにして世を終えたのかわからないせつなさに耐えかねた心が伝説を生み、彼女は花になった。虞美人草、それは()()の花だといわれるが、虞美人の血が凝って花となったのだという。後世あまたの詩人がこの花に詩を捧げてきたが、我々は北宋の人・(そう)(きょう)の作とされる「虞美人草」を読みながら、終幕に向かってゆこう(9)
 七言二十句の詩のなかごろ、垓下における虞美人を詩人はこう詠う。

  三軍散尽旌旗倒
   玉帳佳人坐中老
   香魂夜逐剣光飛
   青血化爲原上草
    三軍散じ尽くして旌旗倒れ
    (ぎょく)(ちょう)の佳人 坐中に老ゆ
    (こう)(こん) 夜 (けん)(こう)()ひて飛び
    (せい)(けつ)化して(げん)(じょう)の草と為る

さしもの大軍も散り散りとなり、旗指し物はそちこちに倒れ、玉とみまがう(とばり)の中に坐して、美人はやつれはてている。差し上げる(しろ)(ただむき)、我と我が身へ振り下ろす剣の光が闇夜を裂くや、香しき魂は飛び去っていった。(あおぐろ)いまでに濃やかな血は、野に生うる草となった。

  芳心寂寞寄寒枝
   旧曲聞来似斂眉
   哀怨徘徊愁不語
   恰如初聴楚歌時
    (ほう)(しん)寂寞として(かん)()に寄る
    (きゅう)(きょく)聞き来たりて眉を(をさ)むるに似たり
    (あい)(えん)徘徊愁ふれど語らず
    (あたか)も初めて楚歌を聴きし時の如し

その魂は寄る辺を求めてか、ほそやかな茎の先にとまって咲いた。——この花は歌を聴かせると舞を舞うという。「虞や、虞や」と、私があの曲を口ずさむと、悲しく眉をひそめているようだ。しかし花はものをいうことはない。ゆらりゆらりと身を揺らしながら、帰らぬ昔を思いわびているのだろうか、でもそれは、初めて(ます)()()に見出され、心も体も彼の歌にしびれて、はずかしくてうれしかったあの時の姿に、どこか似てはいないだろうか。

  滔滔逝水流今古
   漢楚興亡両丘土
   当年遺事久成空
   慷慨樽前為誰舞
    (とう)(とう)たる(せい)(すい) (きん)()に流れ
    漢楚の興亡 (ふた)つながら(きゅう)()
    当年の遺事 久しく(くう)と成る
    (そん)(ぜん)に慷慨して ()が為にか舞はん

行く川の流れは絶えず、漢も楚も野辺の塚に名残をとどめるばかり。すべては夢だ。酒が回ると何やらこみあげてくるものがある、一指し舞おうか。でも誰のために? ああ、花よ、お前は誰のために舞っているのだ?

その人が作った歌。その人に聞かせたくて歌った歌。その人に歌ってもらいたくて作った歌。それらを選り分けることは難しい。我々が棺に納める花々は、その人が我々に渡してくれる花束にも見える。

  1. 秦および前漢における一尺は現在の23.1cmに相当する。中国の度量衡については例えば佐藤進・濱口富士雄[編]『全訳 漢辞海 第四版』(三省堂、2017年)p. 1796「度量衡表」などを参照。
  2. 垓下の戦いに関する以上の記述は、項羽の歌の翻訳も含め、ほぼシャヴァンヌ(1865-1918)による『史記』仏訳 Édouard Chavannes, Les mémoires historiques de Se-ma Ts’ien, Paris : Adrien-Maisonneuve, 1967-1969. の項羽本紀から重訳した。シャヴァンヌは『史記』全130巻のうち、巻50楚元王世家までを訳して惜しくも世を去り、以後の世家・列伝の翻訳は未完となった。しかしながら、シャヴァンヌ訳は西洋における『史記』訳注の最高峰としてその後長く尊ばれることとなる。池田温「シャヴァンヌ」(高田時雄[編]『東洋学の系譜 欧米篇』(大修館書店、1996年)pp. 103-113)、菊池章太『フランス東洋学ことはじめ――ボスフォラスのかなたへ』(研文出版、2007年)第12章を参照。フランス語による『史記』全訳は2015年になってJacques Pimpaneauの手で完遂されたようであるが、書籍実物は未見。
  3.  シャヴァンヌ訳呂太后本紀を下敷きとして訳出。
  4. 『後撰和歌集』藤原兼輔。
  5. シャヴァンヌ訳高祖本紀を下敷きとして訳出。
  6. 吉川幸次郎「漢の高祖の大風歌について」、吉川幸次郎[著]・高橋和巳[編]『中国詩史』筑摩書房、2023年。もと京都大学文学部中国語学中国文学研究室[編]『中国文学報』第2冊、1955年、pp. 28-44。
  7. 崇禎帝と皇族たちの運命は『明史』巻24(荘烈帝 朱由検 二)・巻114(后妃二・莊烈帝愍周皇后)・巻121(公主・莊烈帝六女)・巻305(宦官二・王承恩)・巻309(流賊・李自成)などに記されている。
  8. 呉茂一[訳]『イーリアス 中』岩波書店、1956年。
  9.  『古文真宝』前集所収。作者については異伝もある。齋藤希史「『虞美人草』:修辞の彼方」(奈良女子大学日本アジア言語文化学会『叙説』第38号、2011年、pp. 96-109)を参照。同論文によれば「虞美人の自刎も虞美人草の話も『史記』などの古い文献には見られない宋代以降のものである」(p. 98)。