みすず書房

Logophilia

再び「賦」について

Logophilia

森茉莉がこんなことを書いている。

昔からお役所というところはろくでもないことを思いつく場所だったとみえて、明治時代にも旧仮名を新仮名に直すという案を出したが、その時にはオーガイという、日本語を絶対にこわしたくない軍医がいて、その思いつきを潰してしまった。
 彼は〈…〉文章の中に、字引にもない、二十劃以上もある、自分と、桂五十郎(漢学者)と吉田増蔵(同)より読めない字を書き、その字を書いた頁の五六頁後には、それと同じ字を、又別の、ものすごくむつかしい字で書いた。(そこには子供のように自慢している雰囲気が漂っていた)(「日本語とフランス語」)

鷗外の文字づかいに啞然とさせられた思い出のあるわたくしにとって、この文は涙なしには読めぬものがある。鷗外訳の『即興詩人』を読んでいたときのことである。「旅の貴婦人」の章に現れた「卵の𪏙(きみ)」という語の「𪏙(きみ)」という字に、文字通り目を奪われた。「殻」の左下、「几」の部分が「黄」になっている。「殻」の中にある「黄」色いものだから「黄身」だというわけであろうか。
 この二十二画ある字は、字引に載っていないことはない。清代に編まれた画数引きの漢字字典、「正字」の判断基準とされることもある『康煕字典』に、この字は載せられている。「卵中の黄なり」とそこでは説明されているが、記憶のかぎり、儒教の経典や『史記』などの代表的な歴史書に使われている字ではない。鷗外はどうしてこんな字を知っていたのだろうか。『康煕字典』を読んでいたのだろうか。「読む」というのは、字を「調べる」ためではなく、ということである。それもありうる気がする。
 『即興詩人』の語彙の中で、わたくしの眼底に刻まれていまなお消えない文字をもう一つ記せば、「(けん)(かい)」の章に「道行く人々皆このあやしき凹騎(ふたりのり)に目を()けて」とある。「凹騎」に「ふたりのり」と仮名が振られているが、なぜ「ふたりのり」が「凹騎」なのであろうか。この表記は、調べたかぎり漢籍の中に見出すことができない。思うに、驢馬(原文は「(うさぎうま)」)に二人で乗っているさまを横から見ると「凹」のような形になるので、文字本来の意味とは関係なく、二人乗りを表す象形文字として、鷗外自身があみだした表記なのではなかろうか。
 鷗外が修辞すなわち言葉の組み合わせ方、さらには文字の扱い方に強い関心をもつ人物であったことを思い知らされるが、修辞へむかう鷗外の筆について思いめぐらすとき、興味深く思われる論がある。

私の評価では鷗外も漱石も共に第一流の小説家。ただし漱石は思念(イデ)の小説家であるのに対して鷗外は言葉()の小説家、言い換えれば鷗外のほうがより詩人的、さらにいえば鷗外は日本近代小説の父である以前に日本近代詩歌の父というべきではなかろうか。(高橋睦郎「詩人鷗外」(1)

思念idéeか言葉motか。この対比は、中国古典文学の文体の一つ「賦」にまつわる問題を思い起こさせる。

詩人の賦・辞人の賦

賦とは、ある一つの事物を主題とし、それをさまざまな側面から、あらゆる語彙を用いて描いてゆくものである。描写の際には、同じ部首の字を並べたり、熟語を構成する文字の子音・母音を揃えたりと、視覚・聴覚をともに喜ばせる。前回紹介した前漢の文人・司馬相如による「上林賦」の一節、山を描いた箇所を再び掲げよう。

於是乎崇山矗矗、巃嵸崔巍。深林巨木、嶄巖參差。九嵕巀嶭、南山峩峩。巖阤甗錡、𭗔崣崛崎。……

 (ここ)()いてか、(すう)(ざん) (ちく)(ちく)として、(ろう)(そう)(さい)(がい)。深林巨木あり、(ざん)(がん)(しん)()たり。(きゅう)(そう)(せつ)(げつ)、南山()()たり。(がん)()(げん)()𭗔(さい)()(くつ)()す。……

 さてもびしっと山は立ち、ずんずんぐいぐいぐいと立ち、深い森あり大きな木あり、ゴツゴツギザギザギザギザゴツゴツ、九嵕山に巀嶭山、終南山は峨峨と立ち、上が大きく頭でっかち、ごつっごつっと突き出ている。

史書によれば、司馬相如には文字学の著作があった。彼の賦に連なる奇字・難字は、文字に関する彼の特殊な知識のたまものであろう。当時の読者も「字引にもない」と嘆いたかもしれない。
 彼の賦を愛した最も熱心な読者は、時の皇帝・武帝であった。天子を愛読者としてもつ相如の賦は、しかし、彼より後の世、前漢の成帝に仕えた揚雄に批判されることとなる。揚雄をもってすれば相如の賦は「勧百諷一」、美辞麗句を用いて奢侈のかぎりを描きたて、人の欲望を搔きたてておいて、最後に君主を風刺するような文言を申しわけ程度に書き添えるだけの、不埒な文学だというのである。
 当の揚雄も、もともとは司馬相如を敬慕して文業に励んでいたのであるが、壮年になって道を改めたのであった。
 この揚雄が、おもしろいことを書き残している。

詩人之賦麗以則、辭人之賦麗以淫。(揚雄『法言』)

 詩人の賦は麗にして以て(のり)あり、辞人の賦は麗にして以て(いん)なり。

 「詩人の賦」は美麗にしてしかも秩序が備わっており、「辞人の賦」は美麗ではあるが過剰である。

「詩」と「辞」との対比から、わたくしは思念idéeと言葉motとの対比を思い起こしたのであるが、二対の概念は果たしてつながるであろうか。先を急がず、少し詳しく揚雄の言うところを検討してみよう。
 まずここに言う「詩人」は、現代の我々が思い浮かべる詩人ではない。我々が『詩経』と呼ぶ書――古くは単に『詩』と称した――に収められる詩を作ったいにしえの人々を「詩人」と言っているのだと思われる。
 それでは「詩人の賦」とは何だろうか。これについて考えるためには『詩経』の中へ分け入らねばならない。『詩経』の詩の一篇一篇には序が付けられており(詩序)、その詩の成立事情や、その詩が歌おうとしていることが解説されている。それらはおおむね短文であるが、『詩経』の開巻第一の詩篇「(かん)(しょ)」の詩序だけは長文で、一種の文学論をなし、『詩経』の「大序」と通称される。その中の一節において、詩の「(りく)()」なるものが論じられている。六義園の名の由来はこの「六義」であるが、それは「風」「賦」「比」「興」「雅」「頌」という六つの概念である。ここに「賦」が登場する。「風」「雅」「頌」は詩の分類、「賦」「比」「興」は詩の表現法に関わる概念であると考えられるが、これらが「六義」として一括されている理由についてはここでは考察しない。ともかく、「詩人の賦」とは『詩経』において実現されているような「賦」を指していると考えておこう。
 ここで注意したいのは、『詩経』の「賦」も漢代の賦もともに〈賦〉と呼ばれることである。それでは両者は同質のものなのか。少なくともわたくしには、『詩経』の中に漢代の賦のような表現を見出すことはできず、両者がつながるようには見えない。にもかかわらず、――そしてこれが重要なのだが――自分の作る賦は『詩経』の「賦」を引き継ぐものだと考える人々が、漢代には存在したのであった。賦とはそのようなものであるべきだという文学観が、揚雄の言葉には感じられる。

「詩は志のゆく所なり」

『詩経』における「賦」とはいかなるものかといえば、唐代の注釈(『毛詩正義』)によると、善きことにつけ悪しきことにつけ、比喩や婉曲な物言いを用いず、物事をありのままに叙述することであるという。具体的にどの詩篇のどのような表現が「賦」であるのか明確に指摘することは難しいが、『詩経』の「賦」を引き継ぐとは、揚雄らにとって、単に『詩経』の表現を移すことではなく、『詩経』の精神を引き継ぐことだっただろう。それは『詩経』の「詩人」の「志」を引き継ぐことと言い換えることができる。
 『詩経』の「大序」に、「詩は志の()く所なり」という言葉がある。これは『書経』にある「詩は志を言ふ」とともに、その後の中国の文学観を形づくる金言となった。詩は「志」の発露である、詩の源泉には「志」がある――それでは「志」とは何か。言葉の意味としては、単なる“思い”ではなく、方向性をもった思い、「~しよう」「~したい」という思いである。詩の種子としての「志」をわたくしなりの言葉で言い換えれば、それは「訴えたいこと」。他者に対して、社会に対して、自分の外の広い領域に対して投げかけたいこと。これである。
 「(とう)(よう)」は『詩経』の中では比較的有名な詩である。試みに、この詩を生んだ「志」について考えてみよう。

桃之夭夭 灼灼其華 之子于歸 宜其室家。

 桃の夭々たる、灼々たる其の華。()の子()(とつ)ぐ、其の(しつ)()に宜しからん。

 桃は若いよ 燃え立つ花よ この()()きゃれば ゆく先よかろ(目加田誠訳(2)

この詩は花嫁をことほぐ詩と一般的には理解されている。そうであれば、祝福や喜びがこの詩の「志」と言えそうである。しかしこの詩の詩序の述べるところを敷衍すると次のようになる。「「桃夭」には、后妃の力によって実現された状況が描かれている。后妃が嫉妬しなければ、男女関係は正しくなり、婚姻はしかるべき時に行われ、国に独り身の民はいなくなる。」ここから浮かびあがってくるこの詩の「志」は、こんな具合であろうか。「民が孤独に苦しむのは望ましいことではない。あらゆる民が伴侶を得ることができるよう、君主の妻は率先して、正しい男女関係の在り方を示すべきだ」
 これは現代の我々が「桃夭」を読んだときの受けとめかたとは大いに異なっているが、詩序は一篇一篇の詩が生まれた背景に特定の政治状況を想定し、「詩人」はその詩によって悪政を批判したり、善政を褒めたたえたりしたのだと説明することが多い。要するにそれは儒家的な立場による『詩経』理解である。
 詩序が述べる詩の成立事情が真実であるかどうかはわからず、詩序の説が古代におけるただ一つの解釈だったわけではなく、揚雄が詩序のとおりに『詩経』を理解していたとは限らない。しかしながら、「辞人の賦」を捨てて「詩人の賦」を取る揚雄が、言語表現の根柢に「志」を措定する立場に立っていたことは確かであろう。そしてその「志」は、単に個人的な喜怒哀楽の感情にとどまるものではなく、たとえ喜怒哀楽から出発したとしても、それを越えて、政治に対して何かを言おうとする「志」であった。
 このように考えると、揚雄の言葉は次のように言い換えることができるだろう――何か訴えたいことがあるからこそ表現する者の賦は、美麗でありながら秩序をそなえたものとなる。しかし特段の主張を持たず、もっぱら言語表現への興味から作られた賦は、美麗ではあるが野放図なものになる。
 「秩序」といい、「野放図」というのは、表現の面、内容の面、両方についてのことであろう。「辞人」司馬相如の賦に対する揚雄の評価は、さきに述べた通りである。わたくしが興味をそそられるのは、「詩人」「辞人」という二分法もさることながら、この二つの立場が結果としてどのような作品を生むかを語っている点である。言語表現はどのようにして生まれるのか、そのからくりを、揚雄の言葉は透かし見させてくれているようである。

線描と着色

言語表現生成のからくりということでいえば、もう一つ、西晋の()()の論も、多くのことを物語っているように思われる。

古詩之賦、以情義爲主、以事類爲佐。今之賦、以事形爲本、以義正爲助。情意爲主、則言省而文有例矣。事形爲本、則言當而辭無常。文之煩省、辭之險易、蓋繇於此。(『文章流別志論』)

 古詩の賦は、情義を以て主と為し、事類を以て(たす)けと為す。今の賦は、事形を以て本と為し、義正を以て助けと為す。情意を主と為せば、則ち(げん)省かれて文に例有り。事形を本と為せば、則ち言当たれども辞に常無し。文の煩省、辞の険易は、(けだ)(これ)()る。

この言葉をわたくしは次のように理解している。「『詩』における「賦」は、主義主張を主とし、それを表現するための助けとして事物を持ち出している。今の賦は、事物の描写を主とし、主義主張は補助的な役割しかもたない。主義主張を主とすれば、費やす言葉は少なくて済み、しかも出来あがったテクストにはおのずから秩序が生まれる。事物の描写を主とすれば、言葉は対象を言い当てることはできる。しかし、事物を描写する際には、手を替え品を替え、ああも言えればこうも言えるというように、いくらでも言葉を重ね、置き換えてゆくことができ、そう表現する必然性をもった唯一の言葉づかいに行きつくことがない。テクストが簡潔であるか煩雑であるか、言葉づかいが平明であるか晦渋であるかは、以上のことによって決まるのだと思われる」
 前半の趣旨はほぼ揚雄の説と等しい。「詩人」の手になるのが「古詩の賦」、「辞人」の手になるのが「今の賦」というように、対応させることができる。注目すべきは「情意を主と為せば」以下である。主義主張、あるいは思想は、目に見える形を持つものではない。不定形な自分の思想から、不純物・夾雑物を取り除いて蒸留し、本質的なものだけを取り出し、言葉によってそれに形を与えようとしたときには、箴言のような、例えば『論語』のような言葉さえあれば十分であろう。言葉によって自分の思想に形を与えることができたならば、それで言葉の役割は終わったとすらいえる。的確な輪郭線さえあれば、それだけで一幅の白描画として表現が成立するように。
 一方、事物を言葉で描写することは、例えば塗り絵のようなものである。対象の形はあらかじめ与えられている。あとはそこに思い思いの色を塗り重ねてゆけばよい。その気になれば、色彩はいくらでも複雑にすることができる。その結果、個々の色は見分け難くなってしまうかもしれないけれども――。

律賦

「事形を本と為」し「辞に常無」き作品として思い浮かぶのは、科挙の答案として作られた賦である。隋代に始まり、身分を問わず試験によって官吏を登用した科挙においては、賦の制作が課せられることがあった(ただし科挙全体のしくみは時代によってかなり異なる)。科挙の答案として作られた賦は律賦と呼ばれている。律賦の特徴は、主題があらかじめ与えられること、対句を重んずること、そしていかなる韻で押韻すべきかが指定されることである。作品の長さにも目安があり、唐代においては「三百五十字以上、四百字以下なるを通例と」したという(鈴木虎雄『賦史大要』)。当然、時間の制限もある。
 数々の制約のもとに作られた律賦であるが、塾や予備校に模擬試験や模範解答作成の達人がいるように、律賦も多くの「名人」を輩出した。とはいえ、文学史に挙げられる「名人」のほとんどはいま現在有名人とはいえず、見覚えのある名といえばわずかに白居易・(げん)(じん)・韓愈くらいであろうか。しかし彼らは詩人として知られているのであって、賦の作者としてではない。王維や杜甫といった人々も賦を作ってはいるが、彼らが賦によって歴史に名を留めたのでないことは明らかである。
 ここに紹介しようと思うのは、律賦の「名人」、唐の王起の作品である。清の嘉慶帝の勅撰により唐・五代の散文を網羅した『全唐文』全1000巻の中で、王起は一人で3巻分を占めている。一巻に複数人の作品がまとめて入れられている場合が多いことからしても、王起が唐代の散文作家の中でそれなりの存在感をもつ人物だったことがわかる。そんな王起が宮中の庭の篝火を描いた「(てい)(りょうの)()」を読んでみよう。下に掲げるのは全編の中ほどにある部分で、対句の構造がわかるよう表記を改めて示す。

金釭莫齊、
 銀燭非競。
 長風乍拂、
 高焰彌盛。
 華袞燦爛以相鮮、
 猛虡攫拏而交映。
 其容烈烈、
 其明杲杲。
 附寒者覺其春深、
 假寐者疑其曙早。

 金  きん)(こう)(ひと)しきもの()く、銀燭も(たぐひ)に非ず。長風 (たちま)ち払へば、高焔 (いよ)いよ盛んなり。()(こん) 燦爛として以て()ひ鮮やかに、(もう)(きょ) (かく)()して(こも)ごも映ゆ。其の(かたち) 烈々、其の(めい) (こう)(こう)。寒に附く者は其の春深きを覚え、()()()する者は其の曙早きを疑ふ。

 篝火の明るきこと、黄金の灯火とてもそれに等しきものはなく、白銀の燭台とてもそれと競えるものはない。一陣の風吹きはらえば、いよいよ高く燃えさかる。大宮人の錦の衣はきらきらと照り映え、鐘鼓を吊るす架け竿を飾る獣の彫物は、焔のかがよいの中で、揉み合い摑み合うかのよう。火炎の姿は烈々、明るさは日のごとく杲々。寒さ凌ぎに身を寄せる者は、春たけなわの心持ち、うたたねをしていた者は、もう夜が明けたかとあやしむ。

火の輝き、風を受けた炎の勢い、官人の装束や雅楽の器具を描写し、さらには人々の姿を通して篝火の光と熱を伝えている。対象をくまなく描写する、典型的な賦の筆法である。
 それにしてもなぜ篝火が主題となっているのだろうか。題意を理解する手掛かりは、この賦の叙述の中にある。
 下に引くのはこの賦の書き出しの部分と、中間の部分である。

王者崇北辰之位、
   正南面之威。
 赫朱燎以具擧、
 列彤庭而有輝。
 助彼皇明、可燭於夜色。
 叶茲睿哲、引曜於宵衣。
 〈中略〉
 昭昭彰彰、紫氣紅光。
 聲明煜煒、百物熒煌。
 覩炎上之有赫、
 知臨下之無荒。
 〈下略〉

 王者は(ほく)(しん)の位を(たふと)び、南面の威を正す。(しゅ)(りょう)(かが)やかして以て(つぶさ)に挙げ、(とう)(てい)に列して輝き有り。彼の皇明を助け、夜色を()らすべし。()(えい)(てつ)に叶ひ、(ひかり)(しょう)()に引く。〈…〉昭々彰々として、紫気・紅光あり。声明 (いく)()として、百物 (けい)(こう)す。上に()ゆることの(かく)たる有るを()、下に臨むの(おこた)る無きを知る。〈…〉

 王者は天の北極の位を尊び、自らもそれと同じように南を向いて座し、威儀を天下に示す。篝火という篝火を赤々と燃え立たせ、朱塗りの宮の中庭に並べて光を揚げさせたまう。夜半にも政をとらせたまう帝のご明徳に輝きを添えんと、篝火は夜を明るくし、夜の明けぬうちから衣冠を正して政に向かわんとするご叡慮に添うべく、御服を照らしたてまつる。〈…〉あきらかにあざやかに、気は紫、光は紅。はじける火花の音と光とを浴びて、あらゆるものは煌々と照らしだされる。まるで天子さまの徳の輝きがこの世界を照らすように。高々と燃えあがる炎を見れば、眩しきまでのご政道、下々に臨まれては政務に怠りあらせられぬありさまがしのばれる。〈…〉

つまり篝火は篝火という物そのものとして描かれているばかりではなく、皇帝の威徳の象徴として持ち出されてもいるのである。
 この賦の題名は「庭燎賦」であったが、そもそも『詩経』に「庭燎」という詩がある。詩序によれば、この詩は周の宣王を()めたたえ、かつ戒めたものであるという。

夜如何其 夜未央 庭燎之光 君子至止 鸞聲將將

 夜 (いか)() 夜未だ(なか)ばならず 庭燎の光 君子至る (らん)(せい) 将々たり

 夜はもう何時になったであろうかと問われる。夜はまだ真夜中を過ぎてはいない。王は早く朝廷に出られるので、朝寝をして時を過ごすことを恐れて、夜半頃から時間を気にかけるのである。〈…〉王庭の中には、諸侯や役人達の出勤を迎えるために、早くも(かがりび)(大燭)がともされて、明るく輝いている。高官の乗る車の鈴の音は、さらさらと鳴って、暗い中から出勤して来るのである。(高田眞治『詩経 下』(3)

この詩を読むと、王起が実に巧みに「庭燎」の詩を賦に仕立てなおしたことがわかる。夜も政務にいそしむ帝王や、参内する廷臣たちを描いたのは、詩の内容を踏まえたためだったのである。そして詩序が周の宣王に言及していることを踏まえて、この賦は次のような言葉で終わる。「()()だに君子の至るを()め、宣王の庭に在るのみならんや(豈徒美君子之至、在宣王之庭。)」――「篝火は諸侯や百官が慕い寄ることを褒めたたえ、周の宣王の庭に置かれていただけではない。篝火は今上陛下の御庭にも今まさに輝いているのだ」

100点の芸術

「庭燎賦」は的確に「出題者の意図」をとらえた、100点のできばえといってよいだろう。が、100点とは文学にとってどのような価値をもつのだろうか。
 以前、ある現代美術作家と四方山話をしていたときに、こんな話を聞いた。「芸術は100点満点をとろうとしてはだめだ。100点満点の試験で120点とらないとだめなんだ」というのである。その人がどのような意味あいでこの言葉を言ったのかはわからず、言葉そのものも記憶の中でわたくしに都合よく歪められているにちがいない。しかし芸術に触れるとき、わたくしは常にこの言葉を思い出す。
 たしかに思いあたる節がある。明末清初に生きた二人の書家、(おう)(たく)()(ざん)は、ともに長条幅の連綿草、滝の水のようにどこまでも連なる草書で知られている。彼らについて、高校時代の書の先生がこんなことを言っていた。「王鐸はどの作品もきちんとまとめあげるのに対して、傅山はだめな作品はほとんどめちゃくちゃである。しかし調子のよいときの傅山は王鐸をはるかに凌ぐすばらしさである。」もちろん、だからといって王鐸がすぐれていないというわけではない。
 わたくしの愛好する小説家であれば、永井荷風の小説は80点くらいのものが多い印象がある。しかし彼は『濹東綺譚』で150点の小説を書いた。谷崎潤一郎はおおむね90点から120点くらいのものを安定して書いているように見える。
 だが100点満点ではだめなのだ。なぜだろうか。第二外国語でロシア語を学んだこともあり、スラヴ語圏の文学・芸術に多少とも触れてきた身にとって、100点の芸術というと、どうしても社会主義リアリズムの時代を思い出してしまう。そこには“満点”があり、“採点基準”があり、“採点官”がいた。作品の「志」も、あらかじめ定められていた。
 王起の賦を、わたくしは「事形を本と為」し「辞に常無」き作品の例として持ち出した。しかしその賦は決して野放図(「淫」)ではなく、秩序の整ったものではないか、揚雄のいう「則あり」、摯虞のいう「文に例あり」ではないか、と反論されるかもしれない。しかしその「則」や「例」は、踏むべき韻の種類、全篇の長さというかたちで、外側から与えられたものであり、作品がみずからの内から生んだ秩序ではない(4)
 「志」の面ではどうか。結局この賦は、「皇帝陛下は聖天子である」という命題に沿うかたちで言葉を操っている。そしてこの命題は、作者と関係なく常に真なのであるから、「志」すらも外から与えられたものと、いえばいってしまえるのである。
 もっともそれは、当時の時代状況からして避けがたいことではあった。それに王起は本心から皇帝を褒めたたえているのかもしれない。その「志」が外から与えられたものか、内から発したものか、速断するのは慎まねばならない。
 しかしながら、自分の外にあらかじめ存在する「志」は、存外たやすく自分の中にすべりこんでくる。誰がいつ、どこで、どの言語で作ったとも知れぬ「志」を自分のものとして引き受けて、あるいは自分のものと取り違えて、100点を取ろうと競争しているような雰囲気を、わたくしは今の世に感じることがある。それが思い違いであればよいのだが。わたくしもそのような「答案」を書いていなければよいのだが。

「艶逸窮まり無し」

それはともかく、律賦の中でもわたくしが120点を捧げたいと思う作品として、唐代末期の人、(おう)(けい)の「(こう)(なんの)(はるの)()」を紹介しよう。

麗日遲遲、江南春兮春已歸。
 分中元之節候、
 爲下國之芳菲。
 烟冪歷以堪悲、六朝故地。
 景蔥龍而正媚、二月晴暉。
 〈中略〉
 悲夫!
 豔逸無窮、
 歡娛有極。
 齊東昏醉之而失位、
 陳後主迷之而喪國。
 今日并爲天下春、無江南兮江北。

 麗(  れい)(じつ)遅々、江南の春よ 春 (すで)に帰りぬ。中元の節候を分かちて、下国の(ほう)()と為る。烟(べき)(れき)として以て悲しむに堪ふ、(りく)(ちょう)の故地。(ひかり) (そう)(ろう)として正に()なり、二月の(せい)()。〈中略〉悲しいかな! 艶逸窮まり無きに、歓娯極まり有り。斉の東昏 之に酔ひて位を失ひ、陳の(こう)(しゅ) 之に迷ひて国を(うしな)ふ。今日(なら)びに天下の春と為る、江南と江北と無し。

 暮れかぬる……江南の春よ、おかえりなさい! 四季のはじめの淑気を下界に振り分けて、春は草花をにおいたたせた。もやもやと霞は心の中にまで立ちこめる、滅び去りし南朝の故地。うらうらと光はうるわしい、春二月の晴れの日ざし。〈…〉悲しいかな! この世のたのしみに限りはないのに、人のよろこびには果てがある。南の国の歓楽に酔いしれて、南斉の廃帝・東昏侯は位を失い、南の国の愉悦に心を迷わせて、陳の後主は国をなくした。今日こそは「天下の春」。「江南の春」でもなく、「江北の春」でもなく。

この賦には感情が横溢している。冒頭と末尾、「江南の春よ 春 已に帰りぬ(江南春兮春已歸)」「江南と江北と無し(無江南兮江北)」は、「春」のリフレイン、「江」のリフレイン、七音や六音の伸びやかなリズムがあいまって、歌のようなしらべをなしている。句中に用いられた「兮」字は、音調を整える助詞であり、和歌や俳句の「~や」のようなものと思えば、作者がまさしく春を歌い上げているさまが感じられる。そして「悲しむに堪ふ」「悲しいかな」という嘆き。春の愁いを隠そうともしない。この感傷の過剰さがこの賦の魅力となっている。
 末尾近く、南国の豊かさにうたたねの夢をむすんでいるうちに国を失った君主たちが描かれるが、そこから何事もなかったかのように春の喜びを歌って作品を閉じるところ、「そんな態度では政治家として困るではないか」という批判を入れるすきすら与えず、あざやかである。時は晩唐、王朝は次第に傾き、作者も滅びの気配を感じとっていながら、それに身を任せるほかないようである。政治家がそれではたしかに困るのであるが、作品の衰落(デカダンス)の美は捨てがたい。
 まさに揚雄のいう「麗にして以て淫」、美麗にして過剰である。しかしそこに、自分の心の動きを止めない、自由な息づかいが感じられはしないだろうか。
 実のところ、王起の「庭燎賦」にも“通気口”を見出すことは可能である。それは「寒に附く者は其の春深きを覚え、仮寝する者は其の曙早きを疑ふ」というところ、ここに関しては、篝火のもつ儒教的な含意を抜きにして、光・熱という身体感覚を通して篝火の存在感が浮かびあがってくる。特に皮膚感覚を喚起する叙述は、作品全体の中で異質ともいえる部分、いってみれば“勇み足”であるが、まさにこの句によって篝火は単なる儒教教理の幻影ではなくなっている。王起もひそかに100点以上を目指していたのかもしれない。そうであれば、彼に対してわたくしが最初に下した評価は撤回せねばならない。

言葉は我々を……

わたくしが「辞人」や言葉motの文学者を称えているのか、難じているのか、話がこみいって読者を迷わせたかもしれないが、要するにこういうことである。それが物体であれ思想であれ、ある固定された対象を手際よく言葉で飾る者、これは「辞人」であって、わたくしは比較的低い位置に置く。「詩人」や思念idéeの文学者に対しては、その「志」が自分自身の生んだもの、あるいは自分自身の血肉となったものであることを求める。言葉に触発されて言葉を紡ぐ言葉motの文学者、わたくしはこれを比較的高い位置に置く。なぜなら言葉に導かれて言葉を織りなす表現こそが、我々を誰かの「志」から、もしかしたら我々自身の「志」からさえも、自由にするからである。そのような表現をしてこそ、「言葉は我々を自由にする」といえるからである。

変わる景色

このごろたまたま出会った作品に、ポール・ヴァレリーの「口」という不思議な散文詩(?)がある(『雑集』(5))。「身体はわれわれが食らうことを望み」から始まるこの小品は、口をさまざまなものに喩えてゆく。「多汁な口の劇場」「舌の住居」「不連続の味覚諸地域」「複雑な組合わせ機械」……さながら「口の賦」である。
 この作品は言葉遊びなのだろうか。しかしこの作品には、そう割り切れない何かがある。「この深淵の奥は、かなり油断のならぬ(あげ)(ぶた)、瞬間装置、危険な神経質を備える」「これは古代人の地獄の入口である」……「揚蓋」と訳されている言葉の原文はtrappesで、「罠」という意味もある(ここでは声帯を表しているのかもしれない)。これらの描写は、読む者をどこか不穏な雰囲気に包みこむ。考えてみれば、食べるというのは本能を満たすための動物的な行為、他の生命を自分の中にとりこむ暴力的な行為である。口の構造はグロテスクであるし、歯はいざというとき武器にもなる。しかも口は呼吸のためにも使われるうえ、人間はこれを発音器官として転用するという、横着な真似をしている。
 口。何と奇妙な穴を我々は掲げて生きていることだろう――と、こう思えたなら、ヴァレリーの「口」は成功しているといえるだろう。口内炎か虫歯にでもならないかぎり、普段は意識しないこの器官が、薄気味悪い存在感を帯びてくる。
 言葉が対象を変質させる。言葉が対象を乗り越える。そういうことがこの作品では起こっている。賦を読みながら我々が経験するのもこれである。「庭燎賦」であれば、あるときは帝王の徳の象徴となり、あるときは実体にもどり、言葉に導かれて両者の間を揺れ動く火影を、我々は見つめることになる。言葉が対象を乗り越えようとする現場に、我々は居合わせるのである。
 わたくしには賦の言葉に出会って景色が一変した、忘れがたい経験がある。それは日本語の「賦」であった。英会話教室へ行く道であったか、帰りの道であったか、東京は飯田橋の外濠通りを歩いていたとき、このような看板が目にとまった。

道路のみどり
 江戸の昔を偲ぶことのできる坂が、この外濠通り周辺に多くあります。和らかな木もれ日につつまれた歩道や、坂道を散歩しながら居並ぶトウカエデの間から見え隠れする四季の濠端の佳景を楽しむことができます。トウカエデの紅葉は紅、うす紅と黄色と混在し、また新緑の柔らかな感じも良く、身近かな緑にも四季の変化が観察できます。

おだやかな語りにのせて、わずか数行の間に、めぐりゆく四季の景色、葉の色のうつろいを繰りひろげて見せる。そして「佳景」! 本の中でもなく、人の口からでもなく、街の風景の中でこの端正なる漢語に出くわすとは。教室への行き帰り、日ごろ見慣れた外濠の景色は、その瞬間から「佳景」となった。その時の感動を忘れることはできない。それのみではない。もしこの看板と出会わなかったならば、わたくしはこの文章を書かなかっただろう。
 都の車塵を被りながら、この看板は今もひっそりと、「東京賦」を口ずさんでいることであろう。

筆者撮影

  1. 「文京区立森鷗外記念館NEWS」No.39(文京区立森鷗外記念館、2022年6月)p.6。
  2. 目加田誠『新釈 詩経』岩波書店、1954年。
  3. 高田眞治『詩経 下』(漢詩大系 第2巻)集英社、1968年。
  4. このようなことを述べると、定型詩を全否定することにつながるように見えるかもしれないが、そうではない。賦には本来定型はなく、ここでは定型詩は議論の外におく。本来定型がないはずの賦が生む「則」「例」をここでは問題にしている。揚雄や摯虞が何をもって「則」「例」と言っているのかは問題であるが、儒教の経典の言葉に感じられる、いわば「秩序感」といったものであると思われる。「ロゴス」と言ってしまってもよいかもしれない。
  5. 以下、訳文は佐藤正彰による。『ヴァレリー全集3 対話篇』筑摩書房、1967年。