子曰、「辭達而已矣。」(『論語』衛霊公第十五)
 
  子曰く、「辞は達するのみ」
「和を以て貴しと為す」「一を聞きて以て十を知る」「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし」……これらはみな『論語』に由来する言葉である。もはや格言として、必ずしも出典が意識されることなく人口に膾炙しているが、『論語』の言葉はこのように短くて覚えやすいものが少なくない。
  『論語』の言葉は短い。しかし短すぎて、その言わんとするところを理解しがたいこともある。冒頭に挙げた孔子の言葉は、これだけで一節をなしている。「子曰」を含めてわずか7字。『論語』の中では最も短い部類に属するが、「辞は達するのみ」とはどういうことだろうか。試みに岩波文庫の訳注(金谷治訳注)を見てみると「ことばは〔意味を〕伝えるのが第一だね」とある(1)。講談社学術文庫版(加地伸行訳注)には「文章を書くなら、達意であれ」とある(2)。ひとまず意味はわかるが、同時に疑問も生ずる。原文の「辞」は、金谷訳のように「ことば」という意味を持つが、一口に「ことば」といっても、いろいろな「ことば」がある。「辞」と言った時、孔子は話し言葉を想定していたのだろうか、それとも加地訳が「文章を書くなら」というように、書き言葉を想定していたのだろうか。話し言葉にせよ、書き言葉にせよ、それらが用いられる具体的な場面は無限に存在する。家族や友人との会話も話し言葉、議会での討論も話し言葉である。日記や私信も書き言葉、詔勅も書き言葉である。「辞」という語を前に、我々はどのような「ことば」を想像すればよいのだろうか。
  『論語』の言葉は短い。それだけに、気にかかる言葉は記憶しておき、折に触れて反芻しつつ、その意味について思いを巡らすことができる。「辞は達するのみ」はわたくしにとって長年の懸案であったが、ある時偶然、この言葉が生々しい感触を伴って立ち上がってきたことがあった。それは同窓会の幹事の仕事をしていた時であった。
文使い
昨年6月、母校の高校にて、我々の学年では初となる学年全体の同窓会が開かれた。卒業13周年という、いささか妙な時期ではあったが、新型コロナウイルスが猖獗を極めた年がうち続き、昨夏になってようやく学年同窓会を開けることとなったのである。わたくしはほとんど巻き込まれるような形で、幹事の役を仰せつかった。
  幹事の中でも中心となって働く面々は、会議の議題を人工知能に作らせるような、まさしく時代の先端をゆく人々であるが、不思議と古式ゆかしいところもあり、同窓生に送る一斉メールも、時候の挨拶をはじめ、丁重な書式を整えて送るのである。そのような“電子書簡”の起草をするのが、このわたくしだというわけである。手紙は人工知能に書かせないという、一種の美意識があるのだろう。
  担任の先生方にも招待状を送らねばならない。手分けしてお一人お一人にお送りしたのだが、この時考えた。「同窓会にお出まし願いたい」という根本的な伝達事項は同じでも、全て同じ文面では心がこもらない。各先生のお人柄、現在のご状況、そして自分との関係性を考え、適切な言葉遣いを選んだほうが、先生方にとっても心地がよいだろう。ある先生は簡単なご連絡を差し上げるだけでもお越し下さるであろう。別の先生にはしっかりとご都合をお伺いしたほうがよい。このようなことを考えつつ、一通一通招待状をしたためるうち、ふと思った。これぞ『論語』に言う「四方に使ひして君命を辱めず(四方へ使者に立ち、主君の面目を失うことなく任務を完遂する)」、そして「辞は達するのみ」なのではないか、と。
  孔子とその門人たちが生きた春秋時代(B.C.770~B.C.403)、中国大陸にはいくつもの国が存在していた。古典の中には、当時の政治家や役人が各国に使節として赴き、外交交渉に従事する様子が書きとどめられている。いかにすれば相手に伝わるかを考えて言葉を練り、その言葉を携えて幹事や先生方の間を往復している時、わたくしは自分の姿が彼ら春秋時代人の姿と重なって見えたのである。
  外交の場面では、主君から預かってきた伝達事項を、正確に相手国に伝えなければならない。そういう際の「口上」を孔子は「辞」と言っているのではないか。「口上」のような儀礼的な言葉は、えてして美辞麗句に満たされがちである。そのため、やたらと仰々しいけれども結局何を伝えたいのかわからない、ということになりかねない。それでは「達」したことにならない、つまり、相手に伝わらない。そういうことを孔子は言いたがっているのではなかろうか。
孔子一門の「場」
一旦目を転じて、「辞は達するのみ」という言葉が放たれた「場」に思いを致してみる。孔子の一門はいかなる「場」を形成していたのだろうか。孔子の門人たちの略伝を録した『史記』仲尼弟子列伝を繙くと、門人たちの年齢層は実にさまざまであったことがわかる(「仲尼」は孔子の字)。孔門きっての荒くれ者で、中島敦が『弟子』でその生涯を描いた子路は、孔子より9歳年下であった。一方、その高潔な人格ゆえに、孔子最愛の弟子として名高い顔回は、孔子より30歳年下であった。さらに、その名が『論語』の篇名の一つにもなっている子張は、孔子より若きこと48歳であった。孔子が60歳であれば、子路は51歳、顔回は30歳、子張は12歳、という具合になる。門人の年齢層という一事からしても、孔子の一門が現在の学校や学習塾と全く異なる場であったことが見てとれる。
  また、門人の中には既に役人になっていた者もいたことが、『論語』を読むとわかる。こう考えてくると、孔子の一門は現在の政治塾のようなものに思えてくる。孔子が論じているのは、多くの場合倫理道徳に関わることで、実務に直接関わることは多くない。しかし、既に実務家である者や将来実務家を目指す者を相手に孔子が議論をしていたことからすれば、そこでは政治の実地の場面が多かれ少なかれ意識されていたことだろう。「辞は達するのみ」であれば、実地の場面とは外交ということになる。
  実際、門人の子貢は、春秋時代の外交場裡で一大活劇を演じたと伝えられている。『史記』仲尼弟子列伝によれば、斉が魯を攻めようとした時、彼は斉の侵攻を防ぐため、各国の君主や権臣に遊説してまわったという。まず斉に赴いて攻撃の矛先を呉に向けさせ、次に呉へ赴いて斉を討つように仕向けた。そして今度は越に赴き、越王に進言する。「もしも呉が斉を破ったら、行き掛けの駄賃に晋を攻撃するでしょう。そこで、晋が越と連合軍を組んで呉を迎え撃つという約束を、晋から取り付けて参りましょう。呉軍が斉を討って消耗し、晋との戦いで疲弊する隙をついて越が呉の国に攻め入れば、王様は必ずや呉を制せられましょう」続いて晋に赴くと、呉の侵攻に備えて兵力を整えるよう建言する。
  結果、呉は斉を破り、余勢を駆って晋に攻め込んだが、晋は呉を撃退し、その隙に越が呉に攻め入り、数年後、越は覇者となった。かくして「子貢一たび出づるや、魯を存し、斉を乱し、呉を破り、晋を彊くして越を覇たらしむ」「子貢一たび使ひするや、〈…〉十年の中、五国おのおの変有り」(『史記』)という事態になったのである。
  ここまでくると、子貢は外交官というより多重スパイ、国際政治の黒幕であるが、孔子から「四方に使ひして君命を辱めず」という言葉を引き出したのは他ならぬ子貢である(『論語』衛霊公第十五)。子貢はいわゆる「孔門十哲」の中で、宰我と並んで「言語」に長けていたとされる。子貢の活躍(暗躍?)が事実であったか否かはさておき、孔子一門は“言葉の力で世の中を動かす”ような人材を輩出したのだという観念を、古代の人は抱いていたのだと思われる。子貢のような人物がいる「場」の中に「辞」という言葉を投げ込んでみれば、外交場面での言葉遣いという「辞」の意味が一層色濃く浮かび上がってくるのではなかろうか。
春秋時代の「口上」
その後『論語』の諸注釈を調べるに及んで、日本では江戸時代の儒者・荻生徂徠が、中国では清代の歴史学者・銭大昕が、既にこれと同じ方向性の解釈を提出していることを知った。また、春秋時代の外交場面での言語表現については、董芬芬『春秋辞令文体研究』(3)をはじめ、研究は少なくなく、董氏も著書の中で「辞は達するのみ」に一節を割いて論じている。わたくしの思いつきは独創でも何でもなかったわけで、まさに孔子の言う「学ぶにしかざるなり」――自分の頭だけで考えているより、他者の考えを取り入れたほうがよい、という言葉の通りである。
  ここで、春秋時代の歴史を記した『春秋左氏伝』(『左伝』)に基づき、「辞」の実例を読んでみよう。『左伝』の文章は読み解くのがやや難しいため、現代語訳を先に記し、続いて書き下し文・原文を挙げる。時は紀元前540年、魯の叔弓が使節として晋に赴いた際のことである。晋侯は城外に使者を使わして、叔弓をねぎらおうとした。しかし叔弓はこれを辞退する。
叔弓は辞退して言った。「主人儀、古き御交誼を継がんとしてそれがしを差し遣わし、「その方、晋国に罷り越したる時、賓客同様の御あしらいにはゆめゆめ与るな」と申しつけました。貴国の執事がたへ主人の口上をお届け申すこと相叶いますれば、これ弊国の誉れにございます。ご城外へご使者をお差し越し遊ばされます儀は、何卒ご免下されたく存じ上げます」
  宿舎を提供されても、やはり辞退した。「主人儀、古き御交誼を継がんとしてそれがしを差し遣わしました。御交誼相整い、使いの主意も相立ちますれば、これそれがしの身の幸せにございます。結構なるご宿所をお貸し遊ばされます儀は、何卒ご免下されたく存じ上げます」
  晋の叔向は言った。「叔弓殿は礼というものをよくご存じであるな。身共はこう聞いておる。「忠信は礼を入るる器なり、謙譲は礼の根本なり」口上にて自国のことを忘れぬは忠信、国のことを先に言うて己のことを後に言うたは謙譲である。『詩』にも「威儀を敬み慎み、以て有徳に近づく」とあるが、あのお方は「有徳に近づ」いておられる」
 
  辞して曰く、「寡君 弓をして来りて旧好を継がしめんとし、固に曰く、「女敢へて賓と為ること無かれ」と。命を執事に徹すれば、敝邑 弘いなり。敢へて郊使を辱うせんや。請ふ、辞せん」と。館を致す。辞して曰く、「寡君 下臣に命じて来りて旧好を継がしめんとす。好合ひ使ひ成れば、臣の禄なり。敢へて大館を辱うせんや」と。叔向曰く、「子叔子は礼を知れるかな。吾これを聞く、曰く「忠信は礼の器なり、卑譲は礼の宗なり」と。辞に国を忘れざるは、忠信なり。国を先にして己を後にするは、卑譲なり。『詩』に曰く、「威儀を敬み慎み、以て有徳に近づく」と。夫子は徳に近し」と。
 
  辭曰、「寡君使弓來繼舊好、固曰「女無敢為賓」。徹命於執事、敝邑弘矣、敢辱郊使。請辭。」致館、辭曰、「寡君命下臣來繼舊好、好合使成、臣之祿也。敢辱大館。」叔向曰、「子叔子知禮哉。吾聞之、曰「忠信、禮之器也。卑讓、禮之宗也。」辭不忘國、忠信也。先國後己、卑讓也。『詩』曰、「敬慎威儀、以近有德。」夫子近德矣。」(『春秋左氏伝』昭公2年)
叔弓の発言は、二回とも「寡君 弓をして来りて旧好を継がしめんとし」「寡君 下臣に命じて来りて旧好を継がしめんとす」というように、似た表現で語り起こされている。類似表現は『左伝』の他の箇所にも見える。口上の決まり文句だったのだろう。「弓」と自分で自分の名を言うのは、謙譲の表現である。
  注目したいのは、叔弓の口上を受け、叔向が「子叔子(叔弓)は礼を知れるかな」と、叔弓を称賛していることである。叔向はまず、叔弓が「辞に国を忘れ」ていないと言っている。これは、使者として相手国(晋)を持ち上げることに終始せず、「寡君」「敝邑」と言葉の端々で自国に言及し、主君の言葉も引用するなど、彼我双方を立てていることを褒めているのだろう。また、「国を先にして己を後にす」というのは、最初の口上で「敝邑 弘いなり」(弊国の誉れ)と言い、次の口上で「臣の禄なり」(身の幸せ)と言っていることを指す。このように見てくると、叔向が叔弓の言葉をしかと受けとめていることがわかる。叔弓の「辞」は叔向に「達」したのである。
「お口上は」
わたくし自身は口上を述べた経験はないのだが、芝居を見たり落語を聞いたりしていると、ふとしたところで口上に出くわすことがある。それほどまでに口上は、かつて社会生活の中で重要な位置を占めていたのだろう。
  『仮名手本忠臣蔵』の二段目では、大星由良助(大石内蔵助)の嫡子・力弥が使者として加古川本蔵の屋敷に赴く。本蔵の娘で力弥の許嫁の小浪が口上の受け取り役となって力弥を迎えるが、彼女は力弥の弁舌さわやかな口上と水際立った姿にすっかり見惚れてしまう。
  この場面を見ていると、口上の受け取り役の責任について考えさせられる。受け取り役は連絡事項を聴き取って正確に記憶せねばならず、修練を要するものだったであろう。小浪のように相手に見惚れていては、本来受け取り役は務まらないのである。もっともこの場面では、小浪の母が娘の心を察して、わざと力弥に会わせるという展開になっている。小浪が職責を忘れてしまう姿を描くことで、観客に彼女の恋心を鮮明に印象づけるしかけになっている。力弥のほうに目を向けると、使者の側は言葉遣いのみならず、立ち居振る舞いも洗練されたものでなければならなかったであろうことが想像される。

勝川春英「仮名手本忠臣蔵・二段目」江戸時代・文化4年(1807)。東京国立博物館蔵。出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-4149?locale=ja)
口上で忘れられないのは、青木玉のエピソードである(『小石川の家』「お使い」(4))。彼女がまだ幼かりし日のこと、母親に言いつけられて、貰い物のお裾分けを届けるために、大叔母の家へお使いにゆく。母親というのは幸田文。青木玉は幸田露伴の妹・延の家への使者に任ぜられたのである。
  お使いにゆく玉に対して文が投げかけた問いが恐ろしい。「お口上は何て言うの」。「伊豆から蜜柑やなんかが来たので、おじいちゃまが叔母さんとこへ持って行くようにって」というような「甘ったれた」言い方を文はにべもなく撥ねつける。そして文は玉に「お口上」を授けるのである。「お口上は」――
入学の折にはお思召かけられ、誠に有難うございました。頂きましたものは母が要に備えて使わせて頂くと申して居ります。本日は伊豆から前栽ものが届きましたので、心ばかりのもの取り揃えてお目にかけるよう、祖父から申し付けられました。どうぞお納めください。
これを三度復誦し、途中も頭の中で復誦しながら、玉は延の家へゆく。部屋へ通されると、
手をついて、
  「おばさま御機嫌よう、今日はお使いで参りました。お口上は」
 と言いかけると、叔母さんはこちらの顔に目を止めたまま、お湯呑を卓の上に置いて手は膝の上にぴたっと決ってお口上を述べ終るまで塑像のようになられた。お辞儀をして頭を上げると笑顔があった。
  「確かにお口上伺いました。兄さんにお福分けにあずかり有難うございます。喜んでいると申し上げておくれ」
このエピソードを読むと、「格式」とはいかなるものかをまざまざと思い知らされる。口上を述べるほうもさることながら、相手も威儀を正して口上を受けとめている。日常生活に言葉の様式性が息づいていた風景を覗き見る思いがする。
  青木玉は特段何も言っていないが、最後に延が露伴への伝言をさりげなく頼んでいるのにも注目したい。「復命」という任務がまだ残されているのである。そしてまた、日頃よく使う「誰々によろしく伝える」というのを具体化すると延の言葉のようになるのではないか、とも思う。
  「誰々によろしく伝える」とは何をどう伝えることを指すのか、時々考えることがある。A先生から「B先生によろしく」と言われたら、B先生には何と伝えればよいのか。『三省堂国語辞典』第8版(小型版)「よろしく」の項は、「先生によろしくお伝えください」という表現を、「先生に―〔私がいつも感謝していることなどを、うまく〕お伝えください」と説明している。A先生の挨拶をB先生に取り次げばそれで済むのだから、深く案ずるにも及ぶまいが、辞書の説明からすると、春秋時代の使者のように口上を工夫する余地も残されているようだ。
「抑揚一ツ」
幸田露伴・文の親子は戦中、千葉県の菅野に住んでいた。永井荷風も菅野に住んでいた。露伴・荷風双方と近づきになった「土地の人で貸本屋をやってるAさん」が、ほとんど寝たきりになっていた露伴のもとへある日訪ねて来る。露伴は身辺に自著一冊もない暮らしぶりであったが、「Aさん」を介してそれを知ったらしい荷風が、自らが所蔵する露伴の著書の初版本を贈りたいと言ってきたのだという。その時の様子を幸田文が書き留めている(「すがの」(5))。
Aさんは父の前へ出ると何か気怯れがするらしく、その取次にもことばの足りないようなところが、襖越しに聴く私に感じられた。父はもとから取次に聴くことばは苦労して聴くのだった。伝言をよこした人のほんとの心をうけとるために、幾通りにも補ったり正したり、つまり将棋のいう読みの深い考えかたをした。ことばが命の取次がまるでことばになっていない話をする、とおこっていることも度々だったが、またそうやって面倒な手間をかけて考えることが、相手の人にも取次にも自分にも親切というものだとも云った。そういう帰著に達しているところを見ると、父の経て来た道中に何があったかが逆によく見える気がして、無条件に親への敬愛に頭を下げさせられた。Aさんにはこの時どう返辞をしたか知らないが、あとで私には、「あれは自分が書いたものだから、本そのものも中身もよく知っていて、そんなに特別欲しいとは思わない。喜んで持っていてくれるのなら、私にしてはその方が嬉しいのだ。」こういう返辞の取次には辞句の復誦が完全であっても、抑揚一ツで意味は違って来る懼れがある。
「抑揚一ツで意味は違って来る」――これは『論語』の言葉にも当てはまるのではないか。
孔子の口調
抑揚ひとつで、褒め言葉も皮肉になり、罵り言葉も親愛の表現になるのが、言葉というものである。孔子がある言葉を、怒気を含んで言ったのか、悲しそうに言ったのか、そのような情報を『論語』はほとんど書き残していない。『論語』の中のある言葉が本当に孔子の口から出たもので(つまり後世の偽造ではなく)、記録者による「辞句の復誦が完全」だったとしても、いかなる孔子の“口調”を想定するかによって、意味の捉え方は千変万化するであろう。
  例えばこんな言葉を取り上げてみる。孔子の門人・宰我(宰予)は、「言語」にかけては先述の子貢に劣らぬ人物とされるが、何か不行儀を犯したらしく、その時孔子にこう言わしめている。
子曰、「朽木不可雕也。糞土之牆、不可杇也。於予與、何誅。」(『論語』公冶長第五)
 
  子曰く、「朽木は雕るべからざるなり。糞土の牆は、杇るべからざるなり。予に於てか、何ぞ誅めん」と。
 
  先生「くされ木にはほりものはできないし、ごみ土の壁には鏝づかいができない、予のことでは何もしかるまい」(倉石武四郎訳(6))
「朽木は雕るべからざるなり。糞土の牆は、杇るべからざるなり」とは、憤りともとれるし、門人に信用を裏切られた悲嘆ともとれるし、そのような者に期待をかけていた自分への失望ともとれる。門弟衆の前で言った言葉なのか、独り言を誰かが盗み聞いて記録したのかによっても、言葉の真意が変わってこよう。宰我に直接言った可能性もなくはないだろう。「何もしかるまい」と言ってはいるが、「お前など叱ってもしかたがない」と当人を前にして言うことは一般にあり得るはずである。
  孔子の発言の真意を一つに定めることがここでの目的ではない。そもそも「発言の真意」とは、言った本人も含めて誰にも定められないものなのかもしれない。また、孔子の口調を始めとした背景を抜きにしても後世に伝えるべき言葉、特定の時空間の中でのみ意味を持つのではない、普遍的な価値を有する言葉として、『論語』の言葉は記録されているのであろう。しかしわたくしは『論語』を読む時、孔子の言葉に対して恐るべき“切り取り”を犯しているのではないかという想念に囚われることがある。『論語』の言葉が生まれた現場の状況にかくもこだわるのは、そのような想念のなせる業でもある。
『論語』の余白
白川静が対談の中で、面白いことを言っている。
『論語』に書いてある孔子の言葉にもせよ、弟子の言葉にもせよ、あの問答があれだけのものであるはずはない。私たちがこうしてしゃべっているように、二時間も三時間もしゃべりあげた挙げ句、結論として出した言葉が語録としてあそこに入っているはずです。この対話の背景には数時間にわたる討論があったと見なければならない。その結論を、いわば格言的に集約したものが『論語』です。だから『論語』を読むときには、それの基礎になっている何時間にもわたる問題の領域というものをさかのぼって見ていかなくてはなりません。そして、その結論としての言葉を眺めてみる。そうすると、その言葉の本当の内容が理解できるということになるわけです。(『知の愉しみ 知の力』(7))
聖人賢者といえども、何の前置きもなくいきなり箴言を口から吐き出すわけではなかろう。孔子に会うやいきなり「辞は達するのみ」と言われたならば、弟子は腰を抜かすであろう。もっとも人はさまざまであるから、突然名言を口走る者がいても悪くはないが、聖人賢者もごく普通の会話をしたに違いなく、白川静が言うように、格言の背後には「何時間にもわたる問題の領域」があったはずである。マルクス・アウレリウスの『自省録』やパスカルの『パンセ』の言葉など、箴言には始めから「書く」ことによって生まれたものもあるが、それらも書かれる前に膨大な思考の蓄積があったはずである。ともかくわたくしは、『論語』の言葉の背後に横たわる余白に目を凝らしたいのである。
  今から2500年ほど前のある日、中国大陸のある所で、若者・中年・老人うちまじって、何やら口角泡を飛ばして談じあっている。「外交の場においては、能う限りの文藻を凝らして、荘重な言葉遣いをすべきである。使者の言葉遣いに抜かりがあれば、自国の国益を損なうことになる」「いや、むしろ言葉は平明さを重んずるべきだ。修辞に埋もれて肝心の用件が伝わらなければ、それこそ虚飾を尊ぶ国と思われ、自国を貶めることとなる」……孔子は門弟の談議に耳を傾けていたが、議論がやや落ち着き、話がしばし途切れたところで口を開いた。
  「言葉っていうのはね、伝わらなきゃだめなんだよ」
  諸君は外交の言辞は壮麗であるべきか、簡朴であるべきかなどと議論しているが、それはあくまで手段なのではないか。言葉を発する目的は何か、それを見失っているのではないか。ある局面では、彫琢を施した言葉こそふさわしく、それでこそ相手が受け取ってくれることもあろう。ある局面では単刀直入な言い方が求められることもあろう。いずれにせよ言葉が相手に届くことが重要なのであって、このことさえ意識しておけば、あとはその場その場に応じてどのような表現をとるべきか、おのずと決まってくるはずである。それに誰かが言っているじゃないか、「文質彬彬として、然る後君子なり」――花も実もあってはじめて君子だとね。
  ――「先生、それでは「言葉が伝わる」とはどういうことでしょうか」と質問した弟子がいたかどうかは定かでない。「辞」をめぐって、ここまで『論語』の余白に勝手次第の落書きを描いてきたが、まだ半分、余白は残されていた。「辞」が「達する」とはどういうことか。「言葉が伝わる」とはどういうことか。それは白紙のままとしておこう。
注
- 金谷治[訳注]『論語』(岩波文庫、1999年〔改訳〕)。
 - 加地伸行[訳注]『論語 増補版』(講談社学術文庫、2009年)。
 - 董芬芬《春秋辞令文体研究》(上海古籍出版社、2012年)。なお現代中国語で「辞令」とは、応対の際の言葉やそのやりとりを意味する。
 - 青木玉[著]『小石川の家』(講談社、1998年)。
 - 多田蔵人[編]『荷風追想』(岩波文庫、2020年)所収。初出:『荷風全集』附録第15号(中央公論社、1950年10月)。
 - 倉石武四郎[訳]『口語訳 論語』(筑摩書房、1970年)。
 - 白川静・渡部昇一[著]『知の愉しみ 知の力』(致知出版社、2001年)。
 
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