少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉已に秋声
この詩を知ったのは十歳前後のことでもあったろうか。少年が老い易いとも思わず、この詩によって学問に志したわけでもなく、ただ古来有名な言葉として記憶の中に収められたのであった。いつしか時が経ち、韻文や詩について思いを巡らすようになるに及んで、時折この詩が気にかかるようになった。果たしてこれが詩といえるだろうか、と。南宋の儒学者・朱子が作者とされることも相まって、この詩は若き日に勉学に励むべきことを勧めたものと解されることが多い。しかしそれでは説教であって、説教のどこに詩を見出せるだろうか。そもそも「学」とは一生かけても「成」るといえるようなものではないのではなかろうか。夢を見ているうちに秋風の季節を迎えてしまうぞ、とは脅しのようでもあって、あまり気分の良いものではない。
この詩について考察すべく少し調べてみると、たちまち意外なる事実を知ることになった。近年の研究、といってもここ三十年ほどの研究により、この詩は日本において、五山の禅僧たちの世界で作られたとみられることが明らかとなったのである。作者が朱子、題名が「偶成」とされるようになったのは、明治時代に漢文の教科書に載せられたときのことであったという。
辞書の記述にも研究状況が反映されており、『日本国語大辞典』第二版「しょうねん老い易く学成り難し」の項目の補注には
朱熹の偶成詩〈…〉からとされているが、朱熹の詩文集にこの詩は見られず疑問。近世初期に五山詩を集成した「翰林五鳳集‐三七」には、「進学軒」の題で、室町前期の五山僧惟肖得巖の作としてこの詩が収録されている。
とある(1)。
この詩が日本で作られたのであるとすると、中国語圏では知られているのであろうか。中国・台湾に生まれ、日本で中国文学や中国語学を研究している知人四、五人にこの詩を示し、この詩を知っているかどうか、学校で習ったかどうか尋ねてみた。皆わたくしと同世代である。中国の知人は案の定、知らないと言った。台湾の知人は彼の使った教科書に載っていた記憶はないという。しかし中国出身の別の知人は「朱熹の詩ですね。随分昔のことなのではっきりしないが、かすかに記憶にある」という。さらに別の人は、最初の一句は名句で、中国ではもはや常識のようなものであると言い、iPhoneの中国語入力で「少年易老」と打つと予測変換で「学难成」「一寸光阴不可轻」と表示されることを示してくれたのみならず、家族・知友に聴取を行い、四人中三人は知っていたという報告を寄せてくれた。
詩としての価値はといえば、「「階前梧葉已秋声」が印象的ですね」と一人はいう。またこの詩の伝来、日本の禅僧の作らしきことを伝えると、「外国語でこんな詩を作れるのはすごい」という声もあった。
このような意見を聞くのはなかなか感慨深い。近代以前においては、文学にせよ思想にせよ、日本は中国の影響を受けるばかりであった。近現代でこそ日本文学が中国で読まれるようになったが、近代以前に和歌が漢訳されて中国で広まるというようなことはなかった。清の乾隆帝の勅命により、天下の図書を網羅した『四庫全書』に江戸時代の儒者・山井鼎の『七経孟子考文』が収録されたことが、わずかに例外的な事象として知られている。近現代になれば、政治・学術を始め多くの分野で和製漢語が中国語に流入するようになるが、「少年老い易く学成り難し」の詩は古典詩の一篇全体が中国において受け入れられつつあるようであり、この点が特に注目を引く。もっとも中国側でも朱子の作と理解されており、日本文学の作品として流布しているわけではない。和製中華料理が本式の中華料理と思われるようになり、それが中国に渡って、やはり本式の中華料理として広まるようなものといえようか(2)。
「どこかで見たことあるような気がするけど、なかなか良い詩ですね。和習がない」。つまり日本人が漢詩文を作る時、日本語に引かれて犯す語法の誤りや、つい忍び込む日本風の発想がない、と言いながら、中国出身の知人はすぐさまインターネットで検索して、「この詩を書いた書道の作品もありますね。それから歌にもなってるみたいですよ。最近は古い詩に曲をつけることがあります。このサイトでは聴けないけど」と、いろいろなサイトを見せてくれた。
そこでわたくしもまた調べてみると、CCTV(中国中央電視台)の番組『経典詠流伝』において「朱熹の書いた『偶成』」が歌われている動画を発見した(3)。これを見ると、朱子がいつ頃どのような状況のもとでこの詩を詠んだかを学者が解説している。事ここに至れば、もはや料理になぞらえて面白がっているわけにもゆかなくなる。朱子が作者であることを疑う中国語の論考がないわけではないが(4)、それらは顧みられておらず、日本の研究動向も知られていないのだろう。この詩の研究に先鞭をつけた柳瀬喜代志は、この詩の詩語の操り方を「稚拙」とし、「佳作とは評し難い」といい、「日本でのみよく知られ尊重されている」と記しているが(5)、我が知人たちの感想やテレビ番組における扱いをみるに、日本の学界のみならず中国社会においても、この詩は境涯の一大変化を経験したということができる。
禅林の詩
ここでこの詩の研究史をかいつまめば、まず柳瀬喜代志によって、この詩が「寄小人」(小人に寄す)という題名のもと、『滑稽詩文』(江戸初期成立)という文献に載せられていることが指摘された(6)。続いて、五山の僧侶の詩を集成した『翰林五鳳集』(江戸初期成立)では惟肖得巌の作となっていることが岩山泰三によって指摘された(7)。さらに朝倉和は室町初期の禅僧・観中中諦の詩文集『青嶂集』にこの詩があることを発見し(8)、堀川貴司はこれも室町時代の五山詩を集めた『覆簣集』にこの詩がみえ、作者は江西龍派となっていることを発見した(9)。文献によって作者名が違い、字句にも異同がみられるが、ともかくこの詩の消息は室町初期までたどることができるようになったのである。
そこでまず五山文学の文脈に置いたとき、この詩がどのような相貌を見せるかを考えてゆきたいと思うが、その前に五山文学とはいかなるものか概観しておこう。五山文学とは鎌倉時代から室町時代にかけての禅僧たちが作った漢詩文をいう。といっても、江戸時代の漢詩はまだしものこと、五山文学は一般に広く親しまれているとは言い難い。わたくしも完全なる門外漢であって、五山の詩を何か一首誦せよと言われても沈黙を以てこれに答えるほかない。五山の禅僧自体、どれほど知られているかはわからないが、美術館や茶席で目にすることのある墨蹟、それらを書いた人々の作った漢詩文が五山文学であるといえばよかろうか。
彼らは今の我々が文学作品と思う詩文のみならず、仏教儀式や日常の寺務に関わる文書まで漢文で弁じていた。禅宗では蘭渓道隆、一山一寧など中国から僧侶が来日することがあり、彼らは日本においても中国語で生活していた。日本側にも、元に渡った雪村友梅、明に渡った絶海中津など、中国語の世界に身を置いた経験のある僧侶がいる。このような背景のもと五山において漢詩文が盛行するのであるが、留学経験のない僧侶であっても、にわかには信じがたいほどの漢文力を持っているものであった。
仏法について述べたり、仏事に際して作成されたりする文章を法語といい、これは四六駢儷文という、特殊な修辞法を用いる文体で綴るのであるが、人によっては極めて長大なものとなり、横川景三がある時作った法語は8,400余字に及んだという(10)。『老子』全篇が約5,000字、『論語』が約16,000字であるのと比べれば、漢文で8,400余字というのがどれほどの分量かわかるであろう。
漢詩文を作る能力の基礎になっていたのは、日頃行う漢詩文の暗誦であった。暗誦についても抜群の力を示す者があり、亀泉集証は漢字143字の文章を二度読んでようやく暗記できたのを、加齢による衰えとして嘆いているという(11)。若い頃は一度読めば覚えられたというのである。
五山僧の漢文力はかくも常軌を逸したものであった。そして江戸時代の儒学の幕を開ける藤原惺窩・林羅山は、もとはといえば五山の世界から出た人々であった。
人を思う詩
筆が江戸初期に及んだところで、『滑稽詩文』を繙くこととしよう。原文の表記を読みやすい形に改めて引けば下のようになる。
寄小人
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘芳草夢
階前梧葉已秋声
小人に寄す
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘芳草の夢
階前の梧葉已に秋声
現在「春草夢」とされるところを、『滑稽詩文』以前は皆「芳草夢」とする。では『滑稽詩文』の文脈ではこの詩はどのように解されるのであろうか。柳瀬氏の解釈を引こう(12)。
君の稚児さんは老け易いが、君の学業成就は難しい、
だから片時もうかうかと過ごしてはいけないのです。
池堤の春草のうちに結んだ楽しい夢から覚めないうちに、
階前の梧桐の葉はもう秋を告げて落ちています(歳月はかくもはかなく移ろいゆくのです)。
氏の説によれば、「小人」は若い僧を指し、「少年」は寺院にあって男色の対象となる稚児を指す。この詩では「小人」と「少年」とが恋愛関係にあって、「小人」に対して恋愛にも学問にも時を惜しまず励めと言っていることになる。
一般に、仏教の諸宗派において男色は行われたことであるが、五山文学においては年長者が少年僧に送る艶詩が一つのジャンルを形成していた。『滑稽詩文』は禅僧の艶詩・艶文を集めた書と考えられ、そのような詩文集の中に置かれた状態で読むときには、自ずから柳瀬氏のような解釈も導き出されることになる。
同氏がこの詩の眼目をどこに見ているかを知るため、もう少しその説を引用しよう(13)。氏によれば「作者は、「小人」の稚児「少年」が「老け易」く、美貌は久しからずして老けて只の男となる道理を述べ、それにひき比べて彼の「学」は日々の研鑽を重ねても成し難いことを言い、「小人」が抱くジレンマの可笑しさを浮き彫りにし、その二つのことをなし遂げるには寸陰を軽んぜずに時を大事に過ごせと皮肉な所見を示したのである」「この詩の構想は、禅林僧侶が好んで詠み年少の人に贈った勧学詩のかたちを踏襲しながら、この「小人」を戯画化することにあったと見られる」「勧学詩のヴェールの下に「小人」を嘲笑う本意を示しているのである」という。
しかしこの詩を艶詩としてみた場合、「戯画化」「嘲笑」がこの詩の本意なのか、いささか疑問を感じる。わたくしは『続群書類従』に収める『滑稽詩文』を文字通り斜め読みしただけであり、ところどころ伝写の誤りもあるらしく意味の取れない箇所も多いのだが、それでも全体としては真情のこもった詩が並んでいる印象を受ける。笑いがあるとしても艶笑であって、冷笑ではない。
『滑稽詩文』には古柏和尚という人物の詠んだ一連の詩が収められている。その一つにこのようなものがある。
思君
尽意尽詞速不致
庭前独立悩斯身
学文若比思君意
柔弱愚夫成智人
君を思ふ
意を尽くし詞を尽くし速けども致らず(14)
庭前に独り立ちて斯の身を悩ます
学文若し君を思ふ意の比くなれば
柔弱の愚夫も智人と成らん
意を尽くし言葉を尽くし、招いても君は来てくれない。僕は一人庭に立ってこの身を悩ませる。君を思うのと同じくらい熱心に学問をしたならば、こんな意気地なしの馬鹿男も智者になれるだろう。
転句・結句はかなり屈折しているが、それが「悩」みの深さを物語っている。実際には「柔弱」さに負けて「愚夫」のまま、「智人と成る」ことなどできはしないのである。わたくしはこの詩を読むと、題名も手伝って明治時代の夭折の漢詩人・中野逍遥の「思君十首」(君を思ふ十首)を思い出す。特にその中の二首、
思君我心傷
思君我容瘁
中夜坐松蔭
露華多似涙
君を思へば我が心傷み
君を思へば我が容瘁る
中夜 松蔭に坐せば
露華 多きこと涙に似たり
訪君過台下
清宵琴響揺
佇門不敢入
恐乱月前調
君を訪うて台下を過ぎれば
清宵 琴響揺らぐ
門に佇んで敢へて入らず
月前の調べを乱さんことを恐る
繊細さにおいては逍遥の詩が優るが、古柏の詩にはまっすぐに、有無を言わさず心に届いてこようとする迫力がある。そしてその詩からは自嘲が感じられる。「滑稽」なのは自分自身なのである。
そのような眼で、今度は次の詩を見てみよう。
題「少年易老」
無常転変只難貪
月有浮雲花有嵐
訛見紅顔人莫惑
明年相遇作鬚男
「少年老い易し」に題す
無常転変只だ貪り難し
月に浮雲有り花に嵐有り
訛つて紅顔を見るも人惑ふ莫れ
明年相遇へば鬚男と作る
何かの拍子に美貌の少年を見ても迷わされてはならぬ、次の年に会ったらその子も髭男になっているだろうから、というのである。「髭男」などという口語を用い、しかもそれを詩の最後に配したところはいかにも滑稽であるが、これにもうっすらと自嘲を感じとることはできないだろうか。美少年に惑わされている男を笑っているとしても、笑っている当人もかつて同じような愚かな過ちを犯したのかもしれない。さらにいえば、笑っている当人もかつては「紅顔」であったが、一年が過ぎただけでたちまち寵が衰えた経験をしたのかもしれない。
もちろん『滑稽詩文』の詩には純粋に笑いを狙ったものや、技巧を主眼としたものも見られる。しかし恋愛が一種の喜劇となるためには、誰の身にも同じようなことが起こり得ると思う心を観客があらかじめ持っていなければならないのではなかろうか。愛するものは誰しも「痴人」となることを免れないであろう。
そこでわたくしは、「少年老い易く学成り難し」を艶詩として読むとすれば、次のような具合に読んでみたい。
少年の花時は短く、学問の道は長い。若者よ、恋するならば一瞬の時を逃すな、学ぶならば一時も無駄に過ごすな。池のほとりの草芳しい夢の中にいると思っているうちに、庭の梧桐に秋風が渡る。恋も半端、学びも半端、そのままに老いてしまった私の姿のようだ――
少年に与える詩
この詩は『翰林五鳳集』には惟肖得巌の「進学軒」として載り、『覆簣集』では江西龍派の「進学軒」とされ、観中中諦の詩文集『青嶂集』では題が「進学斎」とされている。これらの題名が示すように、この詩を五山における「勧学」の文脈にこの詩を置いた時、いかなる読みができるであろうか。
これらの詩文集において「春草夢」が「芳草夢」となっていることは先に述べたが、その他の字句については伝本間の異同を思い切って捨象し、大筋としては岩山氏の論考を道標として考えを進めてみる(15)。
まず「池塘芳草夢」という詩句には典故がある。中国の南北朝時代、南朝・宋を代表する詩人に謝霊運がいる。彼の詩「登池上楼」(池上の楼に登る)に「池塘生春草、園柳変鳴禽。」(池塘春草生じ、園柳鳴禽変ず)とある。伝説によれば、ある時謝霊運が詩を作ろうとして、一日考えても成らなかったが、そのあと見た夢の中で、族弟にして同じく高名な詩人である謝恵連と会い、たちまち「池塘生春草」という佳句を得た。後に謝霊運は、この句は摩訶不思議な力によってできたもので、私自身の言葉ではない、と語ったという。この故事を踏まえると、「未だ覚めず池塘芳草の夢」は「謝霊運の故事とは逆の境地、つまりすぐれた詩を得られない状態を示すものと解することができ」(16)る。
謝霊運のこの詩句は故事ともども五山僧に知られていた。五山においては、元旦に幼童や少年僧が新年を祝う「試筆詩」を作り、それに対して師僧が唱和詩を作る行事があったが、「池塘」「芳草」といった語を用いた詩は師僧による試筆唱和詩にしばしば用いられていることから、「五山禅林において、「登池上樓」の「池塘生春草」句は、幼童や少年僧の作詩能力の熟達を称揚するための常套句とされていたと見られる」(17)
以上のような研究を参考にして読めば、この詩の言うところはこのようになるであろう。
今は「少年」と呼ばれるあなたさまも老いるのは簡単、しかし立派な詩人になるのは難しいことです。わずかな時さえうかうかと過ごしてはなりません。「池塘春草生ず」のような名句を手にすることができないうちに、春草どころか桐の葉に秋風が吹きつける季節になってしまいますよ。
ここで「少年」という語を用いたのは、これが当時幼童や少年僧を指す用語だったからである。彼らは試筆唱和詩において「少年」「美少」「美丈」などと呼ばれている。この呼称しかり、試筆唱和詩には「少年」の容姿を称える表現がしばしば現れる。例えば希世霊彦に次のような詩がある(18)。
擁被佳眠雞促晨
不知年歳旧兼新
紅顔緑髪揮毫処
喜見池塘芳草春
被を擁して佳眠すれども 雞 晨を促す
知らず 年歳 旧と新とを
紅顔緑髪 毫を揮ふ処
喜び見る 池塘芳草の春
布団を抱いて気持ちよく眠っていても、明告鳥に起こされてしまう。おや、もう新年になったのかな?という起句・承句はあどけない子どもの姿を描いている。「紅顔緑髪」とあるからには、まだ薙髪せぬ子どもなのであろう、その子が筆を執って、「池塘春草生ず」のような上手な詩ができたのを、作者は喜んで見ている、というのである。
能面「中喝食(ちゅうかっしき)」東京国立博物館蔵。喝食とは禅宗寺院で僧侶の世話係を務める少年で、薙髪していなかった。出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/C-52?locale=ja)
孫を慈しむ翁の顔になっている作者が目に浮かぶが、「紅顔緑髪」の語、また子の寝姿を詠んでいるところに少年愛の趣を感ずることも不可能ではない。試筆唱和詩には艶詩に相当近づいた表現をとるものすら存在する。
しかしここで注意せねばならないのは、試筆唱和詩は多分に儀礼的なものと考えられ、たとえ艶詩の衣を纏っていても現実に恋愛感情が存在したかどうかはわからないことである。「少年」が試筆詩を作ると、その師僧が別の僧に唱和詩作成を依頼するのであるが、朝倉尚によれば、作詩にあたっては「少年」の縁者や師僧の地位が考慮された。幼い「少年」は「艶詞に盛られる感情や細やかな表現の真意が、まず理解不十分、不可能であった」ため、作者は「少年」の「庇護者である縁者や師僧に、迎合して事を運び、艶詞を製して贈呈していたと考えざるを得ない。その意味では、艶詞をめぐる活動は、禅林で半ば習慣化した活動、さらに言えば演出された文学活動であると位置付けられるのが妥当である」(19)というのである。
寺入りする「少年」は武家や公家の子息であることも多かった。いってみれば『菅原伝授手習鑑』の菅秀才(菅丞相(菅原道真)の嫡男)のような子どもに詩を贈るのである。先ほど「少年老い易く」の詩をかしこまった言葉遣いで訳したのはそれを意識したためである。しかしこの詩が試筆唱和詩であったという証拠はないから、これが仮想の解釈に過ぎないのは言うまでもない。
専ら学問を勧めるもの、艶情を中心に据えたもの、この両端だけを見れば天にあるオリオンと蠍の如く相隔たること遠い。しかしこの二つの間には、二つの要素の濃淡明暗とりどりの詩がちりばめられているのである。ここに「少年老い易く学成り難し」の詩の読みの振れ幅を見て取ることができ、それは人の心の振れ幅でもあろう。
「禅林における年長僧による指導が修道の先達に対する敬愛を少年僧に生み、さまざまな事情から親元を離れて隔離され、苛酷ともいえる日常の鍛錬の連続によって身体と意志が疲労し、孤独をかこったかもしれない集団生活の中で、少年僧が師弟愛とともに父性愛、兄弟愛を求めたかもしれない側面」に今泉淑夫は眼差しを向けている(20)。詩の生まれた状況の中、実際にあったことはプラトン的であったかもしれず、そこにエロースが介在していたかもしれず、そのどちらもあっただろう。しかし詩そのものはアポロンを志向しているともディオニュソスを志向しているとも言ってはいない。結局残ったのは詩だけであって、その他のことはすべてがまこと、すべてがうそである。
春の夢・秋の風
ここで再び現代に立ち返って、今の我々がこの詩をどう読めるかを考えてゆきたい。先に『日本国語大辞典』の記述を引いたが、語釈の部分にはこのようにある。
若いと思っているうちにすぐに年老いてしまい、志す学問は遅々として進まない。年月は移りやすいので寸刻をおしんで勉強せよということ。
これが一般的な解釈であろうし、この句のみならず、詩全体をこのような方向で読むことが多いと思われる。しかし「偶成」という題名のもとにこの詩を知ったわたくしは何か割り切れぬものを感じざるを得なかった。「偶成」とは「偶たま成る」の意である。偶然の感興に乗って学問を勧める詩ができるものであろうか。
実は辞典といえども、必ずしも勧学詩として解釈するものばかりではない。『大漢和辞典』の編者・諸橋轍次による『中国古典名言事典』は「未だ覚めず」以下を見出しとし、次のように解釈している(21)。
池の塘に春の若草の萌えるような楽しい夢が、まだ覚めきらぬうちに、はや、階の前の梧葉に秋風が吹いて来た。少年時代を楽しんでいるうち、はや老境がせまって来る。
また松浦友久[編]『漢詩の事典』は下のように述べる(22)。
なお、有名な七絶「偶成」は、最近の研究の結果、室町ごろの日本人の禅僧の作が朱熹に仮託された、という可能性が強くなった。しかし“時の流れに寄せる嘆き”“人の生命のはかなさに対する悲しみ”を底流させたこの詩は、これからも愛誦されてゆくであろう。
この詩を詩たらしめているのはこれであろう。学問の価値は人によっても時代によっても異なる。学ぶことが学校での勉強以上のものではない人もいれば、学問そのものが人生である人もいる。歴史を通覧すれば、学問よりも信仰にこそ意義のある時代もあった。しかしながら、死後の世界をどう考えるかは別として、人がこの世において限りある時しか与えられていないことは古より今に至るまで変わらない。
このようにいうとこの詩は至極平凡なものに見えるかもしれない。しかしこの詩を平凡というならば、我々の存在の方がはるかに平凡である。この詩の個性、それは、学ぶという営みの中で時を感じていること、学ぶべきことの多さと与えられた時間の短さを感じているところにある。やはり学ぶことが生きることであった人・時代の産んだ詩なのであった。
少年はたちまち老いるもの、学問はいつまでも成らぬもの。わずかな時も惜しむべきではなかったのだ。池の堤に草萌える青春の夢はまだ覚めぬ、そう思っているうちに、階の前の桐の木に秋風が鳴っている。
いかなる碩学も学問の完成を自ら誇ることはなかろう。この詩がたとえ悔恨の情に覆われているとしても、ある長さの人生を過ごした者にしか悔恨は生じないはずである。わたくしはそのような意味で、桐の葉が秋風にそよぐ音がどのようなものか、心惹かれてやまない。ただその音の聞こえるようになるまでは、願わくは春の夢の永く覚めざらんことを。
注
- 『日本国語大辞典』第二版第七巻(小学館、2001年)p. 227。ふりがなは引用者による。
- 似た例に四字熟語の「晴耕雨読」がある。いかにも中国の隠士が用いそうな語であるが、広く使われるようになるのは幕末以降の日本においてであったと考えられるという。齋藤希史「漢籍を読む──遊歩的読書のすすめ」(東京大学東洋文化研究所図書室[編]『はじめての漢籍』、汲古書院、2011年、pp. 29-56)を参照。現代では中国においても中国語として用いられるようになっている。
- CCTV《经典咏流传·正青春》、《蔡程昱演唱朱熹笔下的《偶成》诉说岁月匆匆,上音学子分享阿卡贝拉创作思路》、2023年5月10日アップロード。https://youtu.be/FUCQl4Xwrzc?si=HnDaaePpTr-6Wu4Y(2023年12月1日最終閲覧)。ここで「偶成」を歌っている蔡程昱は知人の好きな歌手で、彼女によれば、ミュージカルやオペラ歌手を宣伝する《声入人心》という番組が以前放送され、その後中国の若者の間ではミュージカルやオペラへの関心が高まったという。
- 束景南《朱熹佚文辨伪考录》、《朱子学刊》1996年第1期、pp. 212-218がこの問題を扱っているようだが、未見。また盛大林《「少年易老學難成……」《勸學詩/偶成》的作者不是朱熹?》がある(「毎日頭條」2021年7月15日。https://kknews.cc/culture/368apag.html 2023年12月1日最終閲覧)。
- 柳瀬喜代志「いわゆる朱子の「少年老い易く學成り難し」(「偶成」詩)考」、柳瀬喜代志『日本古典文學論考』(汲古書院、1999年、pp. 741-763)pp. 743-744, 762。初出:『文学』第57巻第2号、岩波書店、1989年、pp. 97-113。柳瀬氏の論文は旧字新仮名であるが、引用に際して新字に改めた
- 柳瀬氏前掲書。
- 岩山泰三「「少年老い易く学成り難し…」とその作者について」、『月刊しにか』第8巻第5号、大修館書店、1997年、pp. 94-99。
- 朝倉和「「少年老い易く学成り難し」詩の作者は観中中諦か」、広島大学国語国文学会『国文学攷』第185号、2005年、pp. 27-39。
- 堀川貴司「『覆簣集』について」(『文学』第12巻第5号、岩波書店、2011年、pp. 39-52)。堀川貴司『続 五山文学研究 資料と論考』(笠間書院、2015年)に再録。
- 今泉淑夫『禅僧たちの室町時代 中世禅林ものがたり』(吉川弘文館、2010年)p. 83。
- 今泉氏前掲書、p. 117。
- 柳瀬氏前掲書、p. 742。
- 柳瀬前掲書、p. 756。この論文が発表された時点ではこの詩が『滑稽詩文』以前に遡ることが判明していなかったため、以下の引用では「作者」が初めから艶詩として作ったと解釈されている。氏は同論文〔追記〕(p. 763)において『翰林五鳳集』にこの詩があり、「「寄小人」は「進学軒」という勧学の題を改めて艶詩滑稽詩としたもの〈…〉であると考え得る」としている。
- 「速不致」の読み方には疑問が残る。本稿の解釈も漢文の通常の語法からは外れる。
- 岩山泰三「五山の中の「少年易老」詩」、『文学』第11巻第1号、岩波書店、2010年、pp. 172-185。
- 岩山氏前掲書、p. 176。
- 岩山氏前掲書、p. 180。
- 希世霊彦「和南陽春初試筆」『村庵藁』。岩山氏前掲書、p. 179より引用。
- 朝倉尚「禅林における艶詞文芸をめぐって──研究の現状と現存作品集(群)」(『中世文学』第56巻、2011年、pp. 49-58)、p. 58。
- 今泉氏前掲書、p. 250。
- 諸橋轍次『中国古典名言事典 新装版』講談社、2001年、p. 728。同書はもと1972年発行、講談社。
- 松浦友久[編]『漢詩の事典』、大修館書店、1999年、p. 170。引用箇所の分担執筆者は宇野直人。