先日、みすず書房の担当編集者の方から、本連載の番外編として、通常の研究者と異なるバックグラウンドを持つ筆者の素顔がもう少し見えるようなものを書いてみませんか? 特になぜケインズを研究しているのかについて執筆してはどうでしょう? とご提案をいただきました。
略歴にある通り、筆者はふだん中央官庁において経済政策の企画立案に従事しており、本連載を含む学術研究は、公務員としての職務ではなく個人の活動として行っております。正直に言いますと、本連載の読者の皆さんに私の本業の様子を見られるのは「恥ずかしい」という気持ちがあり、今回何を書けばいいのかだいぶ迷っておりました。しかしここは観念して、研究者としてのヴェールの下に見える本業の雰囲気を差し支えない範囲でご覧いただきながら、「私の目から見たケインズ」について、(歴史研究ではなく(1))自由な随想として綴っていきたいと思います。
なぜ筆者はケインズを研究しているのか?
筆者は中央官庁における経済政策の企画立案経験の中でも、特に財政政策に関連する分野にはだいぶ長く携わってきました。そうした業務においてさまざまな主張に接する中で、ケインズの名を借りて財政支出の拡大や減税を根拠づける主張(ここではあえてかぎかっこをつけて「ケインズ主義的財政政策」と呼んでおきます)に何度も接することがあり、私は自然と、それにはどのような問題点があるのか、個人的に想いを巡らすようになりました。
当時の私の目には、「ケインズ主義的財政政策」の最大の問題点は、その非現実性にあるように映っていました。すなわち――財政出動により雇用を増加させられるとする「ケインズ主義的財政政策」は他国との貿易のない閉鎖経済を前提としているらしい。しかし現実の経済は開放経済であり、代表的な国際経済学の教科書には、変動為替相場制の開放経済においては財政出動をしても雇用創出効果はない、と書いてある(2)。したがって、拡張的財政政策を実施しても失業を減らすことはできず財政赤字だけが積み上がってしまう。そんな閉鎖経済を前提とした非現実的で無意味な理論を提唱してしまうケインズは、きっと象牙の塔にこもって現実の経済政策立案の現場を見たことのない視野の狭い経済学者だったに違いない――そのように私は想像していました。
ところが、ケインズという人のバックグラウンドについて調べてみると、(連載第1回で紹介した通り)むしろその逆だったのです。大蔵省で第一次世界大戦中のイギリスの国際金融政策を統括する課長をつとめ、有能な個人投資家であり、象牙の塔にこもることなく世界中の国々に対して政策提言を行う現実主義の塊のような人だったのです。そこで私は困惑してしまいました。なぜこのような人が非現実的な「ケインズ主義的財政政策」を提唱することになってしまったのだろうか? この謎を解くところから私のケインズ研究の旅路は始まりました。
当時すでに私は経済学の修士号までは持っていましたが、ケインズという偉大な学者であれば相手に不足はない、しっかりと時間をかけてさらに研究を深めたい、と思い、仕事のかたわら大学院博士課程に進学し、経済学の中でも「経済学史」と呼ばれる分野を専攻しました。ちょうどその頃私は管理職になったところで、若い頃のような連日遅くまで続く中央官庁名物の残業もしなくてよくなり、コロナ禍で仕事の飲み会もない時期でしたので、学業と仕事とをなんとか両立させることができました。
大学院での研究成果は、拙著『ケインジアンが見失ったケインズの財政政策』(小平(2026))にまとめましたので、詳細は同書をご参照いただきたいと思います。そこで私が発見したのは、これまで私が「ケインズ主義的財政政策」と考えていたものが実はケインズの主張していたものではなかったということでした。アルヴィン・ハンセン(1887―1975)やアバ・ラーナー(1903―1982)といった「ケインジアン」の経済学者が、ケインズに由来しない自らの独自の理論を「ケインズ主義」と称して流布していたのです。ケインズ自身は、財政の持続可能性について強い関心を持っていました。特に現実の開放経済の中で財政赤字が国際収支赤字を惹起し、いわゆる「双子の赤字」と呼ばれる状態を招くことでイギリス経済が脆弱化してしまうことを極めて正確に把握していました。
また、かつて私の頭の中にあった「変動為替相場制の開放経済においては財政出動をしても雇用創出効果はない」という主張は、ケインズ没後の1950―60年代に形作られた「マンデル・フレミングモデル」という、どの国際経済学の教科書にも載っている有名なモデルが教えているものです。このマンデル・フレミングモデルの背後には、
「もし輸出品の販売価格が少しでも上昇してしまえば、その輸出した商品はすぐに買われなくなってしまうので、輸出量はかなり減少する」
という暗黙の仮定が実は隠れています。購入者は価格に敏感で、常に少しでも安い商品を買うだろうというのです。この暗黙の前提があるからこそ、財政赤字による国内金融市場への影響が為替相場の変化を通じてそのまま輸出の減少として現れてしまうのです。これに対しケインズは、
「輸出品の販売価格が多少上昇したとしても、その輸出した商品がすぐに全く買われなくなるわけではないので、輸出量はそれほど減少しない」
という「国際貿易の弾力性ペシミズム」という考え方を有していたことも研究を進める中でわかりました(これについては連載第2回をご覧ください)。そのように考えれば、国際貿易のある世界において必ずしも常に財政政策が無効であることにはならないわけです(3)。こうした暗黙の前提の違いが、現代の代表的な国際経済学の教科書が教えることとケインズの主張していた政策提言の方向性の違いとして現れていたのですが、そうした暗黙の仮定がそれほど重要であることについては、少なくとも私の読んだ国際経済学の教科書は明示的に教えてくれてはいませんでした。
こうしたわけでケインズ研究を始める前に私が抱いていた疑問は大学院での研究の中でだいぶ解決したのですが、その過程で私が認識したことは、経済理論を正確に理解する上で、ある経済学者が暗黙のうちに当然と仮定している前提条件を読み取ることは極めて重要であるということでした。そしてそうした前提条件は、多くの場合その人が有している人間観に基づいて置かれており、それは論文を書いている本人にとってはあまりに当然すぎるため、論文の中であえて言及されることさえない、ということでした。
この連載のテーマとして「ケインズが言ったこと」を「人間観からざっくり理解する」ことにしたのはこうした筆者の経験に基づいています。それぞれの経済学者が持っている人間観は少しずつ異なるはずなのですが、彼らはそれをあえて自著の中でわかりやすく明示して説明してはくれません。それを第三者である経済学史研究者が解説することで、その経済学者の理論の独自性はおのずと見えてくるはずです。経済理論の対立は、どちらかが論理的に正しくどちらかが間違っている、というものではなく、多くの場合にはその根底を流れている人間観の違いによるものなのです。
いずれにしても、私にとってケインズはずっと興味深い研究対象であり続けています。以前も書きましたが、ケインズを研究するのは、様々な政策課題について超一流の経済学者がどのように処方箋を書いたのかという、いわば政策立案者として演習問題を解くような面白さがあるのです。そして、ケインズ自身が経済官庁の公務員でもありましたので、ケインズの立場に自分を投影することもできるという意味でも、とても惹かれるのです。
筆者は一人の人間としてのケインズのことをどう思うのか?
これまで筆者はケインズ研究者として、極めて個人的な文書も含めて大量のケインズ本人のテクストや周辺の史料を読み込んできました。ですので、ケインズがどのような人間であったのか、彼の人物像について私なりのイメージがだいぶ明確に出来上がってきています。同時代を生きた人でも彼の個人的な文書を網羅的に読む機会はなかったでしょうから、私は同時代人以上に彼の人柄を理解している可能性さえあるでしょう。以下では、もしケインズが自分の個人的な知り合いだったして、自分はその「ケインズ君」のことをどう思うだろうか? ということについて考えてみます。
まず、人間としてのケインズには、筆者にとって共感できるところが多くあります。本連載でこれまで取り上げた人間観、たとえば人生はお金がすべてではない、人は完全に合理的に考えることはできない、といったものは筆者の持つ人間観と大変に近く、強く共感できます。また、1つの学問分野を極めるだけでは飽き足らず、象牙の塔にこもらずに現実の社会の役に立つことをしたいという旺盛な好奇心や実践志向についても、筆者が持っている価値観との共通性を感じ好感を持っています。
ケインズの人柄の欠点として一般的によく指摘されるのが、述べていることに一貫性がなく無節操だということです(4)。たしかに彼は提案する政策を短期間でしょっちゅう変えてしまうことがありました。たとえば、国際経済政策について、自由貿易支持から高関税支持へ、そして再び自由貿易支持へと1929年—1931年の短期間で何度も立場を変えています。しかしそれはケインズが無節操だったことを意味していない、と筆者は考えています。「今回の付録」にその具体例を挙げてみましたが、ケインズは、政策提案の背景にあった経済情勢が変化すれば、提案そのものも当然見直す必要があるのだと主張しています。もちろん具体的な政策提案の裏側にあるケインズの理論的裏付け自体も少しずつは進化していましたが、主張する政策内容の変化ほどは短期間で変化していません。無節操という評価ではなく、普通の人だったら批判を恐れて意見を変えるのをためらうような場合でも、環境が変われば意見をすっぱり変えることのできる自信家だったという評価の方が適切だと筆者は考えます。
だからといって、人間ケインズに欠点がなかったわけではありません。それどころか彼の人間性にはさまざまな欠点がありました。彼は自分と対等に議論ができるだけの知性のない人を小馬鹿にしがちでした。そうした感じの悪いケインズの物言いを読むたびに、この人はこの時もう少し別の言い方はできなかったのだろうか? と筆者も感じてしまいます。また、「ユダヤ人は守銭奴」というような人種差別表現も新聞への寄稿などで何度も用いてしまっています(5)。それらの表現は当時の基準において必ずしも非常識とまでは言えない範囲だった可能性はありますが(6)、少なくとも現代の目から見れば不適切です。
それでも、ケインズは筆者の目から見て「かっこいい」存在です。とてつもなく頭がよく、論戦になれば絶対に負けず、将来を予言すればよく当たるところなどは、少年漫画のヒーローあるいは『三国志』の諸葛孔明の実写版のようです。ケインズの生涯がハリウッドで映画化されたら相当面白い作品になるような気がします。このようにかっこいい、言い換えれば崇拝されやすい素質を彼が持っていたからこそ、(前節で紹介したように)多くの経済学者が自らを「ケインズ主義者」になぞらえたくもなったのでしょう。
このような、欠点もたくさんありつつ魅力的な人物であったケインズを、筆者の独断で現代日本の人物になぞらえるとすれば、さまざまな分野に造詣の深い最高の知性の持ち主であり、多くの専門家の反対を押し切って斬新な金融政策を推し進めた点において、かつて私の上司でもあった、元日本銀行総裁の黒田東彦氏の名前が思い浮かびます(もっとも私の知る黒田さんは大変な人格者で、ケインズと違って人を小馬鹿にしたり人種差別発言をしたりは決してなさらない方でした)。また、過去の日本の偉人から選ぶとすれば、学者でありつつ実践志向であり、人間は必ずしも合理的とはいえないという人間観を持ち(7)、豪放磊落な人柄で江戸幕府のアドバイザーとして政策形成に影響を与えた荻生徂徠(1666―1728)のイメージが想起されます(8)。
* * *
今回は連載の番外編として、筆者とケインズとの関わりについて、本職との関係を含めてかなり自由な形で随想を述べさせていただきました。次回はもう少し経済学史的観点に戻ってケインズの人間観の紹介を続けたいと思います。
* * *
今回の付録 私の好きな「ケインズが言ったこと」:「老いたオウム」
彼らは老いたオウムそっくりだ。30年間毎日、雨でも晴れでも「いい天気ですね」と同じセリフを繰り返していれば人からの信用を築けるという。しかし実質的にみれば彼の言っていることは日々変節しているわけで、つまり嘘つきだ。(『ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション』誌、1931年4月4日号、CW20巻502頁/訳691頁。大胆に意訳しています。)
I seem to see the elder parrots sitting round and saying: “You can rely upon us. Every day for thirty years, regardless of the weather, we have said ‘What a lovely morning!’ But this is a bad bird. He says one thing one day, and something else the next.”
ケインズは優れた文筆家で、多くの巧みな比喩表現を残していますが、ここでは、連載の題名「ケインズが言ったこと」にちなんで、筆者が気に入っているフレーズをご紹介したいと思います。
上記のフレーズは、経済政策についてのケインズの主張が日々変わっており、信用ならない変節漢だと非難してきた人々のことを、鳥のオウムに例えて皮肉っているものです。環境が変われば主張も変わるべき、環境が変わっているのに同じことを言い続けるのは美徳でもなく正しくもない、とここでケインズは主張しています。本文で紹介した通り、彼は多くの論敵から主張が首尾一貫していないとの批判を受けていましたが、本人にとってみれば経済状況というのは時々刻々と変わるのだから主張が変わって何が悪いのか、ということだったのでしょう。その思いをイギリス人らしい皮肉で表現しているのです。
「変化には変化で対応する」、すなわち社会の状況が変われば、それに対応する政策も不断に見直していかなければいけない、ということを私は本職の若手時代によく先輩たちから教育されてきました。上記の「老いたオウム」の比喩はその教えとも重なります。私にとってこのフレーズは、激動の時代に英国大蔵省で政策実務に携わってきたケインズと自分との間の、時代や国を超えた水脈の繋がりを感じさせてくれます。
注
- 歴史学の学術研究では、現代人の価値観で歴史を評価してはならないこととされていますが、本稿においてはその制約からあえて自由になってみたいと思います。
- いわゆる「マンデル・フレミングモデル」に従えば、変動為替相場制度の開放経済において財政赤字を増加させれば、国内利子率が上昇して国際収支が黒字となる、そうすると自国通貨が増価するので輸出が減少してしまい財政支出による効果を輸出の減少が打ち消してしまう、したがって拡張的財政政策は効果を持たない、ということになっています。
- なぜなら、もし自国通貨が多少増価しても輸出が減少しないとすれば、上記注2で想定しているような「国債発行→国内利子率上昇→国際収支黒字→自国通貨増価→輸出減少」という因果関係のつながりが最後の矢印のところで断ち切られることになるためです。なお、輸出入の価格弾力性は、財の性質によっても異なり(例えば世界各地で製造されているような製品であれば輸出入の価格弾力性は高く、そうでなければ価格弾力性は低い傾向にある)、また、分析期間をどのくらい長く取るか(一般的に、短い期間では多少価格が変化したからといって消費者は購買行動を変えないが、長い期間には人々の購買行動は変化しうるので、長い期間を対象に分析した方が輸出入の価格弾力性は高い傾向にある)によっても異なると考えられるため、どちらの仮定の方が現実に近いかを一概に述べるのは困難です。
- ケインズの主張に一貫性がないことを指して「経済学者が2人いたら2つの異なる意見が出てくるものだが、もしその片方がケインズだったら出てくる意見は3つになる。」というジョークをウィンストン・チャーチルが言ったとも伝えられています。
- Skidelsky (1992) 238-239頁。
- Dostaler (2007) 85頁/訳202頁。
- 尾藤(2013)264頁。
- 荻生徂徠の経済政策提案をケインズ研究者の視点からみると、緊縮的な貨幣政策への批判などケインズ的なものもある一方、贅沢を戒め財政支出削減策を提案するなど表面的にはケインズ的といってよいか意見が分かれそうなものもあります。いずれにしても、それらは18世紀の日本という、ケインズの置かれていた環境と全く異なる文脈での政策提案ですので、表面的に異なっていることは何ら問題ではありません。むしろそうした提案の裏側にある、必ずしも合理的とはいえない人間の本性を前提とした現実志向・実践志向、それこそを2人の共通点として筆者は着目しています。
参考文献
- Dostaler, G. (2007) Keynes and his Battles, Cheltenham: Edward Elgar. (鍋島直樹・小峯敦訳『ケインズの闘い』藤原書店、2008)。
- Skidelsky, R. (1992) John Maynard Keynes, Vol. 2, The Economist as Saviour 1920-1937, New York: Allen Lane.
- 荻生徂徠(辻達也校注)(1987)『政談』岩波文庫。
- 小平武史(2026)『ケインジアンが見失ったケインズの財政政策』昭和堂。
- 尾藤正英(2013)「国家主義の祖型としての徂徠」(荻生徂徠『政談』[尾藤正英抄訳]所収、講談社学術文庫)。
ケインズの生涯
(本連載第1回も参照)
| 西暦 | 年譜 |
| 1883 | 英国ケンブリッジで、ケンブリッジ⼤学の教員であった⽗と、社会運動家であり後年ケンブリッジの市⻑となった⺟との間に⽣まれる。 |
| 1902 | イートン校を経てケンブリッジ⼤学⼊学。⼤学では「使徒会」会員となる。ここでの⼈間関係が後年「ブルームスベリー・グループ」に派生する。 |
| 1906 | ⼤学卒業後インド省⼊省。 |
| 1908 | インド省を退職。 |
| 1909 | ケンブリッジ⼤学のフェローとなり、⽣涯その地位を保持。 |
| 1915 | ⼤蔵省に中途⼊省。第⼀次世界⼤戦中の英国の対外⾦融政策を担当する。 |
| 1919 | パリ講和会議におけるドイツへの過酷な賠償請求に反対し、⼤蔵省を退職。ドイツ賠償問題を扱った『平和の経済的帰結』がベストセラーとなり、ジャーナリストとして世間に知られるようになる。 |
| 1923 | ⾃由党系の週刊誌『ネイション・アンド・アシニーアム』を買収し取締役会⻑となる。⾃⾝も⽣涯を通じ同誌に多数の記事を執筆。 |
| 1925 | ディアギレフ率いるバレエ・リュスのバレリーナ、リディアと結婚する。夫妻は⼦供には恵まれなかった。 |
| 1926‑30 | 「⾃由放任の終焉」(1926 年)、「ロイド・ジョージはそれをなしうるか」(1929 年)、『貨幣論』(1930 年)などを発表。市場は経済問題を⾃然に解決することはできず、拡張的財政政策などにより政府が市場に介⼊し、失業問題に対処することが必要だと主張する。 |
| 1936 | 『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表し、これまで提案してきた政策の理論的根拠づけを⾏う。 |
| 1940 | ⼤蔵省に復職、死去まで職に留まる。⼤蔵省内の政策全般について顧問として関与するとともに、対外⾦融政策について第⼆次世界⼤戦の戦費調達に関する対⽶交渉やブレトン・ウッズ会議において中⼼的役割を果たす。 |
| 1946 | 死去(62歳)。 |