みすず書房

「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」

「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」

前回の連載では、人間の合理性に関する主流派経済学者とは異なる見解が、ケインズの景気循環論やその対処法としての公共投資政策の背景にあったことを紹介しました。今回も引き続きケインズの人間観を取り上げます。テーマは「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」です。

人間とは慣習にしたがう生き物である

ケインズも学生時代には、人間の本性を合理的なものとみなしていました。人間の本質は必ずしも常に合理的であるとは限らないという考えは青年期を脱したころから顕著になり、『雇用・利子および貨幣の一般理論』に代表される独自の経済理論の背後にも読み取ることができます。

この人間観の一環として、『一般理論』を執筆していた壮年期のケインズは、必ずしも合理的とは限らない「共同社会における秩序・慣習」にも実は価値があり、人々にはそれにしたがうことが望ましい場面があるのだと主張しています(1)。すなわち、規範命題として「人は慣習にしたがうべきである」というわけです。さらに事実命題としても「人は慣習にしたがう習性を有しているものである」とも考えていました。こちらについては比較的早い時期の著作からも観察することができます。たとえば、1919年に出版された『平和の経済的帰結』の書き出しで、「自己の環境に慣れてしまう能力というものは人類の顕著な一特性で」あることから、西欧の人々は19世紀の安定した社会体制が永久に続くという前提でものごとを考えがちである、と指摘しています(2)。そして後年の『一般理論』においても、現実の人々が行動を決めようとする際には「慣行」に頼っており、この「慣行」は、現在の状況が特段の事情がない限り将来も継続する想定に基づいている、と繰り返し述べています(3)

人間の行動様式を規定するものとしての慣習・慣行に対するケインズの考え方は、英国の哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711–76)のそれとよく似ています。人々の思考プロセスは過去の経験に基づく慣習に強く影響されており、それに頼らずには人間は思考することができない、というのがヒュームの代表的な著作の一つ、『人間本性論』の主張です。ケインズは自らの考え方がヒュームの影響を受けたものと明言まではしていませんが、少なくとも彼が青年期から『人間本性論』を深く読み込んでいたことがわかっており、それを踏まえて慣習に関する自らの態度を発展させていたと考えられます(4)

一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない

そしてケインズは、人々の「慣習」は、本能的に、あるいはそれぞれの人生で経験を得る中で「徐々に」身につけるものであるがゆえに、徐々にしか変わらないだろう、と考えていました。この人間観も彼の書いたものの随所にあらわれます。たとえば「我が孫たちの経済的可能性」においては、仮に将来人類が十分豊かになり、懸命に働かなくても生きていける社会が到来したとしても、「勤勉に働く」という習慣は人類が生存のために長期間育んできたものであり、20〜30年かけても人々がそうした労働の習慣を放棄できるとは思えないと指摘しています(5)。そのほか、「国家的な自給自足」においても、(自由放任主義の背景にある)19世紀的な思考の習慣から人々が抜け出るのには長い時間がかかってしまっている、ということを述べています(6)

『一般理論』の最終章でも、「思考の習慣」に関する興味深い記述が見受けられます。そこでケインズは、同書で展開された経済理論が将来的には社会にどのような変化をもたらすか論じるのですが、その文脈で、およそ思想が社会全体へ浸透するにはある程度の時間が必要であると指摘しています。新しい思想というものは25〜30歳以下の若者に対してしか浸透しないので、それらの若者が社会に出て官僚や政治家として政策を立案する立場につき、社会に影響を及ぼすようになるにはしばらく時間がかかる、そして、いったん旧来の思想を身につけてしまった大人たちは新たな思想を吸収することができない、というのです(7)

また、「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」のはケインズ自身も自覚するところがあったようです。『一般理論』の序文では、同書を執筆するプロセスを「長期にわたる脱却の闘い……――思考と表現の慣習的方式から脱却しようとする闘い」(8)であった、とまで表現し、自分自身が慣習的思考から脱することの苦しみを告白しています。

また、本連載の第一回で紹介したとおり、ケインズは共産主義に対して批判的でしたが、その背景にも、「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」ので、それを暴力に訴えて拙速に変えようとしても決してうまくはいかない、という考え方が裏側にあったと言ってよいでしょう(9)

このようにケインズは、社会の慣習の変化は、それを身につけはじめる若い人々の考え方を内面からゆっくりと変化させていくことにより達成され、裏返すと変化には時間がかかるものであって、つまり、「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」という考えを有していたと言えるでしょう。

ケインズの政治的スタンスとの関係

なお、ケインズ自身は社会の伝統の墨守よりは社会改革の方に共感を抱いており、(本連載の第1回でも紹介したとおり)進歩主義的な自由党を支持していたことが知られています。一見すると、これは「人は慣習にしたがうべきである」というケインズの人間観にはそぐわないようにも思えます。

彼の政治的スタンスは、研究者によっても理解が異なりますが、ケインズが自由党を支持するようになったのは、ケンブリッジの知的エリート階層に属していた両親がともに自由党の支持者で、そうした家庭にたまたま生まれたためであって、自由党の進歩的な政策に共鳴したという要因は必ずしも強くなかったと言えるでしょう。事実、ケインズ自身も「進歩的な若い保守党員と平均的な自由党員を区別するものは、気質とか縁故とかの偶然事にすぎず、政策とか理想とかの真の違いなどではないことがしばしばである」(10)と言っています。 したがって、ケインズが人間観において保守的傾向があったということと、支持政党が自由党であったということとは、必ずしも矛盾はしていなかったのだろうと筆者は考えます。

彼は、社会改革を成功させるためには、変化に反対する社会的・政治的な力と折り合いをつけながら、拙速ではなく徐々に進めていかないといけないのである、とさまざまな著作で論じています(11)。社会改革の必要性は認めつつも、人々が全ての慣習を直ちに手放すことは難しく、そもそもそれを手放すことさえ望ましくないこともありうるので、説得という手法により徐々に人々の慣習を変化させていく必要があると考えていたのです。そのため、彼は学術論文だけでなく時事的問題についての一般向けの雑誌記事も多数執筆しています。1931年にはそうした論考をあつめて、まさに『説得論集』という題名で出版したりもしました(12)

失業に関するケインズの理論

――人々は限界消費性向を変えないし、賃金水準も変えたがらない

ケインズの、「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」という人間観は、これまでの連載で扱ってきたほかの人間観と同じく、彼が構築した経済理論にさまざまな領域で影響しています。まず、ケインズが失業の原因をどのように考えたか、から見ていきましょう。

経済学では、「失業」は労働市場において労働供給よりも労働需要の方が少ない状態です。市場の機能を信頼する一般的な経済学の考え方では、このような場合には市場における取引価格を調整することにより需要と供給を等しくすることができるはずです。つまり労働に対する対価である「賃金」を引き下げれば、労働需要が増加し(求人が増加する)、同時に労働供給も減少する(求職者が減少する)ため失業は解消されることになります。

しかしケインズは、このような方法では失業は減少しないと考えました。その背景にあるのがまさに「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」というものでした。

人々が所得を受け取れば、その一部は消費し、残りは貯蓄することになります。ケインズは、人々の所得が増加したとき、それが消費と貯蓄とに分配される割合(限界消費性向)は安定的であると主張しました。なぜなら、所得のうち消費にまわる割合というものは、彼の言葉をそのまま借りれば「社会を構成する個々人の主観的な必要、心理的な性向、習慣」(13)などに基づくため、短期的には大きく変化しないからです(14)

このとき仮に労働者の賃金を引き下げてしまうと、労働者の所得が減少するため経済全体の総消費額はそれに比例して減少します。総消費額が減少すれば、それだけ生産も減少し労働需要もさらに減少してしまいますので、働き口が減ってしまい、失業を解消することはできません。いわゆる「デフレ・スパイラル」と呼ばれる状態です。このように、ケインズの経済理論は、労働者の賃金を引き下げても失業を解決することができない、と主張するものですが、これは彼の「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」という人間観に裏打ちされているのです。

なお、ケインズの批判者であり、人間は合理的に判断することができるという人間観に基づくミルトン・フリードマン(1912-2006)は、この「限界消費性向が安定的」であるというケインズの仮定を攻撃しました。フリードマンの主張するところによれば、たとえば人々が不況による所得の減少が一時的なものにすぎないと合理的に予測する場合には消費は必ずしも減少しない、すなわち貯蓄にまわす割合を減らし消費の割合を増やすはずです(「恒常所得仮説」と呼ばれます)。このように考えれば、労働者の賃金を一時的に引き下げても、人々は消費を減らさないためデフレ・スパイラルは発生しないことになるでしょう(ここでも二人の人間観の違いが理論面での対立となっていることにご注目ください)。人々の所得と消費との相関関係についてはその後さまざまな実証研究が行われていますが、研究者の間で依然として意見の一致を見ていません。

さらに、過去の慣習に束縛されやすいという人間の特性は、それ以外にも、賃金水準の硬直性という論点でも、失業に関するケインズの理論に組み込まれています。賃金水準というものは人間の本性からいって速やかに価格調整できるようなものではなく、したがって賃金を引き下げる政策というのはその実行可能性の観点からも賢明な政策ではないというのです(15)。ケインズ自身の言葉を借りれば「現代社会の実際の慣行と制度の下では、硬直的な貨幣賃金政策を意図する方が、失業量の変化に漸次的に対応する伸縮的な賃金政策を意図するよりも一層得策」なのです。とりわけケインズが強調しているのは、全労働者の賃金の一律引き下げは現実的に困難であることでした。それよりは、金融政策により賃金以外の物価を上昇させることにより実質的に賃金を引き下げる方が「人間本性と我々の制度を踏まえて考えれば」賢明である(16)、そして、仮に急速な物価の変動に対して賃金の方を調整しようとしても、人間の性分から言って、早期に適切な(賃金)水準を見つけることは難しくなる(17)、すなわち経済が価格調整の完全に終わった均衡点に至ることは難しいだろう、というのです。

経済学では、市場において価格が調整され、需要と供給が均衡するまでの過渡的な期間を「短期」、短期が終了した後を「長期」と呼びますが、ケインズ理論の特徴は、この経済学用語としての「短期」が必ずしも短期間では終わらないところにある、と言い換えることもできるでしょう(18)

『一般理論』が一般理論である理由

以上のように考えたケインズにとっては、労働市場において賃金を速やかに調整すれば常に失業を解消することが可能であるとする古典派の経済理論は、特殊な状況を一般化して論じてしまっている点で誤ったものでした。これを表現するために、彼は『一般理論』の冒頭で以下のように語っています。

私は本書を、一般(General)という接頭語(prefix)に力点をおいて、『雇用・利子および貨幣の一般理論(General Theory of Employment, Interest and Money)』と名付けた。このような題名をつけた目的は、私の議論と結論の性質を、同じ問題に関する古典派理論のそれと対比しようとすることにある。……私は、古典派理論の暗黙の仮定(postulates)(19)が一つの特殊な場合にのみ当てはまり、一般的な場合には当てはまらないということを論じようと思う。なぜなら、古典派理論が想定している状態は、多くの可能な均衡状態の中の一つの極限点にすぎないからである(20)

そして「古典派理論の暗黙の仮定」のうち、働く意思のある労働者は賃金さえ適切に調整すれば市場の「見えざる手」の働きにより全員が働き口を見つけることができる(21)、というのは常に正しい仮定ではないと主張するのです。なぜなら、(上で説明した通り)もし不況で経済全体の需要が十分でないときに労働者が低い賃金を甘受してしまえば、その分だけ労働者の消費量が減少して、デフレ・スパイラルが発生してしまうからです。もちろん好況下で働く意思のある労働者が全員雇用されているという状況もありえなくはないのですが、それは必ずしも経済の常態ではない、そうでない状況のことも含めて論ずるのが、現実を踏まえたあるべき経済理論であろう、ということを熱く主張するために、わざわざ同書冒頭でケインズは「一般」という語に力をこめているのです。

* * *

このように「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」というケインズの考え方は、失業に関する彼の理論の中に深く組み込まれ、彼の理論が古典派の特殊理論と対比して「一般理論」と名付けられる根拠となっています。前回の記事では、ケインズが公共投資により失業者を吸収し、投資家の「アニマル・スピリット」を刺激することで景気の回復をはかることが必要だ、と論じたことを紹介しました。こうした主張の背景には、「人間はすぐ調子にのり、すぐ不安になる」という人間観(前回)以外にも、慣習に関する人間観もあることがおわかりいただけたでしょうか。

構造改革とケインズ

――人々は勤務場所や仕事内容をあまり変えたがらない

ケインズの政策提案には、公共事業の実施などのいわゆる経済の需要側(デマンドサイド)に働きかける政策が多い傾向があります。一方で、経済の供給側(サプライサイド)に働きかける提案、たとえば、国全体の産業構造を転換し、労働力をより生産性の高い産業に移し替えていくことで経済全体の経済を成長させる「構造改革」のようなものは比較的少ない、と言ってよいでしょう。今回紹介しているような人間観の影響も、その背景の一つとして理解できます。「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」という人間観が、「構造改革」の短期的な実効性に対して彼を懐疑的にさせたのです。

ケインズは、構造改革により労働者を斜陽産業から成長産業に移動させ、失業を減らすこと自体に反対していたわけではありませんでした。むしろそのように労働力が移動できるのであれば望ましいという立場であり、政府が労働者に対し転職に必要な訓練を提供することを提唱したりもしています(22)。しかし同時に、労働者を現在働いている地域や業種を超えて移動させることは現実問題として容易ではないとも考えていました。

労働者が新しい産業に移動するためには新しい技能を身につける必要があり、時間と手間がかかるのです。このことをケインズは『平和の経済的帰結』において指摘しています。そこで彼は、もしドイツが連合国への巨額の賠償金を支払おうとすれば国内の産業構造を大きく変化させる必要がある、そしてそうした産業構造の変化は労働力の異なる産業への移動が必要になる、しかしそうした労働力の移動は簡単ではない、なぜなら「労働力を新しい分野に移転させるためには、[労働の]能率を犠牲にし、かつ多大な資本投資が必要になる」からだと論じます(23)

また、当時の英国は石炭産業の斜陽化に直面していましたが、ケインズはそれについても論考を発表し、炭鉱労働者は他の産業どころか、別の地域の炭鉱に転職することさえままならないことを指摘しています(24)。住む場所は人間にとって重要ですから、そんなに簡単に移動できないのです。こうした状況で炭鉱労働者の賃金を引き下げ、「見えざる手」に任せて他の仕事への転職を促してみても実効性は薄く、それよりも金融政策により実質的な為替相場をポンド安に誘導し、輸出産業の競争力を回復させる方が望ましい政策である、と主張しています(25)

このほか、ケインズは同じく斜陽産業であったランカシャー地方の紡績業に対しても助言しています。すでに綿糸生産者が行ってしまった既存の設備投資からしばらくの間は収益の回収をしなければならないことを踏まえれば、根本解決には時間がかかると彼は考えました。このため、直ちに廃業させるのは適切ではなく、同地方の紡績業者でカルテルを締結して綿糸の販売価格をつり上げ、彼らが最低限の利潤を確保できるようにすることを提案しています(26)。これも広い意味での「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」という人間観のあらわれと言っていいでしょう。

* * *

今回は、「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」というケインズの人間観、そしてそれが失業に対する伝統的な経済学の理解とケインズの理論との違いの背景にあることや、ケインズの政策提言の中で構造改革に関するものが必ずしも多くない理由を紹介しました。次回はケインズの人間観から少し離れて、なぜ筆者がこのケインズという経済学者に興味を持って研究しているのかについて、少し自由な形でお話をさせていただきます。

今回の付録

ケインズの習慣

「一度できあがってしまった慣習はなかなか変えられない」と考えたケインズ自身が生涯持ち続けた習慣の一つに稀覯本の収集があります。特に集めたのが、本稿で取り上げたヒュームの直筆の手紙です。上の画像は、そのうちの一つであるヒュームの大著『イングランド史』第2巻の序文の原稿および、その代金の請求書です。ケインズはこの原稿を1944年9月にロンドンの古書店から35ポンド(本稿執筆時の日本円換算で30万円ほど)で購入しています。こうしたことからも、ケインズにとってのヒュームの重要性がわかります。

ケインズ自身が生涯持ち続けたもう一つの習慣に「なんでも記録をつけてそれを残しておくこと」があります。上は、ケインズがゴルフを始めた1898〜1900年のスコアを残していたものです。彼は同様の形で1905年9月までの186ラウンド分のスコアを継続的に記録し、それがケンブリッジ大学図書館で「ケインズ・ペーパー」として所蔵されています。初ラウンドのスコア(14歳)はこの画像にある通り「256」で、その後多少上達しますが、最終的には平均スコアは110~120くらいでした。あまりゴルフは得意ではなかったのでしょうね。

  1. ケインズ全集(以下CW)10巻449頁/訳585頁。
  2. CW2巻1頁/訳1頁。
  3. CW7巻91頁/訳91頁および152頁/訳150頁。
  4. ケインズが青年期からヒュームを重要視していたことを示す著作に、ケインズが初めて書き上げた長編論文『確率論』(1921年)があります。この第3部(CW8巻241–308頁/訳251–322頁)は、慣習を重視するヒュームの考え方への対論となっており、人間の本性を合理的なものとみなしていた若きケインズの人間観が反映されています。また、1740年執筆の著者不明パンフレット「人間本性論の摘要」がヒューム自身の手になると論じた文章も残しました(CW28巻373頁/訳508頁)。ケインズはヒュームの書簡や著書の収集を趣味としていたことも、関心の大きさを裏付けます。ケインズにおけるヒュームの影響の全体像については、Andrews (1999) 参照。
  5. CW9巻327–328頁/訳394–396頁。
  6. CW21巻234頁/訳266頁。
  7. CW7巻383–384頁/訳385–386頁。
  8. CW7巻xxiii頁/訳xxviii頁。
  9. ケインズは、暴力革命を容認する共産主義のことを「迫害・破壊・国際紛争という武器を意図的に使用して日常生活の自由と安全の破壊を容認している」(CW9巻258頁/訳306頁)とか、「暴力と急激な変化を伴うような方法の支持者」(CW9巻309頁/訳372頁)と批判しています。
  10. CW9巻298頁/訳358頁。
  11. 人口減少社会における漸進的な社会改革の必要性について、CW14巻132頁/訳163頁。資本蓄積に伴う社会構造の漸進的な改革について、CW9巻331–332頁/訳399–400頁。

  12. CW9巻。

  13. CW7巻91頁/訳91頁。
  14. このほかケインズは消費性向に影響を及ぼしうる要因として物価変動や利子率の変化なども挙げていますが、これらの影響はいずれも小さなものだと述べています(CW7巻91–96頁/訳91–96頁)。
  15. CW20巻430頁/訳603頁。
  16. CW7巻267–268頁/訳265頁。
  17. CW20巻490頁/訳678頁。
  18. ケインズのものとされる「長期的には我々は皆死んでいる(in the long run we are all dead)」というフレーズは有名ですが、これは初期の業績である『貨幣改革論』(1924年)に出てくる表現です(CW4巻65頁/訳66頁)。この時期のケインズの理論はまだ伝統的な経済学の影響下にあり、時間がかかるにせよ、市場において価格は調整され経済が均衡に至る可能性があることを前提として論じられています。したがって、このフレーズの裏にある考え方は、本文で解説したような『一般理論』の立場とはだいぶ異なります。
  19. 既存の『一般理論』の翻訳では「公準」と訳しているものが多いのですが、ここではわかりやすさを優先して「暗黙の仮定」と訳しました。
  20. CW7巻3頁/訳3頁。
  21. ケインズはこれを「一雇用者の実質賃金が現実に雇用されている労働量を提供させるのにちょうど十分なものである[こと]」と定義しています(CW7巻5頁/訳6頁)。
  22. CW19巻646–647頁/訳793頁。
  23. CW2巻131頁/訳163頁。
  24. CW19巻404頁/訳481頁。このほか、産業間・地域間の労働移動が容易ではないとするケインズのテクストは多数存在しています。CW9巻223頁/訳223頁、CW20巻319頁/訳476頁、同428頁/訳601頁。CW21巻511頁/訳588頁、同527頁/訳605頁などを参照。
  25. CW9巻224–229頁/訳265–271頁。
  26. CW19巻591頁/訳728頁。ただしこのカルテルは「カルテル破り」を行う事業者が少なからずいたため成功しませんでした。

今回の参考文献

  • Andrews, D. R. (1999), “Continuity and change in Keynes’s thought: the importance of Hume”, The European Journal of the History of Economic Thought, 6:1, pp. 1-21.
  • Moggridge, D. E. (1992), Maynard Keynes: An Economist’s Biography, Routledge: London.

ケインズの生涯

(本連載第1回も参照)

西暦 年譜
1883 英国ケンブリッジで、ケンブリッジ⼤学の教員であった⽗と、社会運動家であり後年ケンブリッジの市⻑となった⺟との間に⽣まれる。
1902 イートン校を経てケンブリッジ⼤学⼊学。⼤学では「使徒会」会員となる。ここでの⼈間関係が後年「ブルームスベリー・グループ」に派生する。
1906 ⼤学卒業後インド省⼊省。
1908 インド省を退職。
1909 ケンブリッジ⼤学のフェローとなり、⽣涯その地位を保持。
1915 ⼤蔵省に中途⼊省。第⼀次世界⼤戦中の英国の対外⾦融政策を担当する。
1919 パリ講和会議におけるドイツへの過酷な賠償請求に反対し、⼤蔵省を退職。ドイツ賠償問題を扱った『平和の経済的帰結』がベストセラーとなり、ジャーナリストとして世間に知られるようになる。
1923 ⾃由党系の週刊誌『ネイション・アンド・アシニーアム』を買収し取締役会⻑となる。⾃⾝も⽣涯を通じ同誌に多数の記事を執筆。
1925 ディアギレフ率いるバレエ・リュスのバレリーナ、リディアと結婚する。夫妻は⼦供には恵まれなかった。
1926‑30 「⾃由放任の終焉」(1926 年)、「ロイド・ジョージはそれをなしうるか」(1929 年)、『貨幣論』(1930 年)などを発表。市場は経済問題を⾃然に解決することはできず、拡張的財政政策などにより政府が市場に介⼊し、失業問題に対処することが必要だと主張する。
1936 『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表し、これまで提案してきた政策の理論的根拠づけを⾏う。
1940 ⼤蔵省に復職、死去まで職に留まる。⼤蔵省内の政策全般について顧問として関与するとともに、対外⾦融政策について第⼆次世界⼤戦の戦費調達に関する対⽶交渉やブレトン・ウッズ会議において中⼼的役割を果たす。
1946 死去(63歳)。