みすず書房

汚穢にふれる知(後編)

皿を洗う指がぱっくりと割れるとき

汚穢にふれる知(後編)

手ざわりを目で感じ、肌で音を聞く

汚穢にふれる触覚経験について書きながら、わたしは痛覚・圧覚・温冷覚の神経生理学について論じているのではない。そうではなく、何かと何かがふれあうときに、たがいの一部がはがれて相手にくっつき、混じりあうという現象について考えようとしている。ふれる感覚をめぐる議論の多くが、まさにこの接触と混淆に向けられている。

ミシェル・セールもそうした論者のひとりだ。ブリュノ・ラトゥールにも影響を与えたこの哲学者の書く文章は、えてして個人的な回想や思いつきを滔々と書きつけているようで、読んでいて煙に巻かれる気持ちになるが、少し後に思い返してはっとすることがある。『五感』のなかでセールは次のように書く。

多くの哲学が視覚に重きを置いており、聴覚に重きを置く哲学は数少ない。しかし嗅覚および触覚に重きを置く哲学はさらに少ない。抽象観念は感覚的肉体を切り離し、味覚、嗅覚、触覚を削除し、視覚と聴覚、直観と悟性のみを保持している。抽象化するとは、肉体を離れるということではなくて、肉体をばらばらに切り裂くこと、すなわち分解〔分析〕(アナリズ)することを意味するわけだ。(1)

セールはここで、哲学の関心が〈見ること〉や〈見るもの〉に偏ってきたことを指摘するとともに、そもそも感覚体験を五つの別々のものとして分けること自体に疑問を向けている。現実の経験の中では〈見る〉〈聞く〉〈ふれる〉〈嗅ぐ〉〈味わう〉といった感覚はたがいに混じりあっている。現代では絵画においてすら視覚が優位ではなくなっているとセールはいう。19世紀末から20世紀前半にかけて活動したフランスの画家ピエール・ボナールの作品がそうであるように、絵に対面すれば、浴室に置かれた布の汗を吸いとりそうな肌理(きめ)や、木の葉の感触が感じられる。また逆に、皮膚でもって世界を感知しようと感覚をとぎすますと、皮膚が音を聞き、においをかぐ体験が浮かび上がるという。

われわれの外皮は[…]ひそかに芳香をかぎ、騒音や、むき出しの光や、悪臭に絶えず震え、恐怖に後ずさりし、収縮し、あるいは歓喜する。白熱したものや、高い音の前では身を震わせ、あらゆる愛撫のもとで流れるようにしなやかになる。(2)

ものの圧力、弾力、温度、手ざわりを目で感じる。あるいは肌の表面でにおいをかぎ、音を聞く。感覚人類学を論じるサラ・ピンクが指摘するように、目や耳や鼻や肌や舌は、それぞれの感覚測定のための別個のキーボードのようなものではない。「世界の・中に・存在する」(世界内存在としてある)活動のなかで、つながりあって知覚を形成する(3)

前回の冒頭で書いた朝の作業からも、そのことは明らかだ。布団のつぶれて硬く湿った感触や、洗面器の裏のカビのぬめりなどは触覚だけの経験として語れないわけではない。しかし、服やタオルを乾かし気持ちのよい状態にする太陽光や乾いた風は、目に入るまぶしい光と肌に刺さる日差しの熱、耳元を吹きすぎる音と空気のにおいといったように、触覚的、視覚的、聴覚的、嗅覚的なものが、渾然一体となって経験されていた。

【図1】買ったみかんを物置に放置していると、1、2個にカビが生えた。袋を開けるとカビの胞子が顔のまわりにブワッと舞い上がった。

洗剤で融解する肉体の境界

ものにふれることが生み出す知についてもう一事例、わたしの日々の皿洗い作業から考えてみる。わたしの住む家には食器洗浄機がなく、食器や調理器具はみな手洗いだ。毎日のように食器を洗っていると、手の甲が荒れ、指の先が割れて、水や湯がしみるようになる。共同生活しているのは少人数で、食事の後片付けも分担しているため作業量としては大したことはない。世の中には、もっとずっと負担の大きい人が山ほどいるだろう。それでも、脂の多いものを食べて洗剤を多く使うことが続くと、しだいに手指がキシキシするようになり、親指や人差し指の爪の横がぱっくりと割れ、表皮の下にあるピンク色の層がのぞく。そこから雑菌が入って炎症が起き熱を持つこともある。とくに本や書類や荷物を持つと圧力がかかってジンジンとする。

大した痛みではない。十分に我慢できるもので、「破壊」などという言葉はそぐわない。ただ、指先を走るかすかな疼痛とともにわたしが実感するのは、よごれ物質をほぐし、その境界を侵食して皿から引き剥がそうとする化学成分は、同時にわたしの皮膚の境界をも侵食してくるということだ。それは前回食器用洗剤と自分の皮脂について書いたこととも通ずる。動植物を切り刻んで手を加え、皿の上に並べる。食後、皿についた生き物たちの残滓は次の食事にそなえて界面活性剤をはじめとする洗浄成分で除去される。その同じ洗浄成分が、同じく有機物であるわたし自身の肉体を、境界から融解させようとする。もしわたし自身の体が、切られ、ちぎられ、加工され整えられて、何かの生き物の食物として供されることがあったなら、その食事のあとのよごれ——わたしの体から出た水分やアミノ酸や脂がほかの材料と混じり合い食器にくっついたもの——も、同じ食器用洗剤を使って洗浄されうるだろう。指先の痛みから湧き起こるのはそんなイメージだ。

前回のエッセイでも登場したプイグ・デ・ラ・ベラカーサは書く——触覚的なものは、視覚的な探知レーダーでは感知されないような、いまだ出来事として浮かび上がらず意味もさだかでないものを感じとると(4)。彼女もセールも、触覚が視覚より優れていると主張しているわけではない。そうではなくて、視覚的なものが言葉を、表現を、そして世界についての知識を代表するなかで無視されてきた経験や領域があり、それらが触覚的な出会いによって浮かび上がると論じているのだ。そしてそのような遭遇も知も、自分自身が傷つき破壊されるかもしれないというおそれや躊躇とわかちがたくある。

身体をつつむ布から変化を知る

生活用品にふれる作業のなかで、自分やまわりの人間の心身の状態について初めて気づくこともある。たとえば以前、一緒に暮らす子どものシーツを洗濯しようと布団からはずしていたら、小さな茶色い点があちこちについていた。指でふれてみるとゴワゴワする。血だ。寝ている間に鼻血を出したのか? いや、これはさすがに頭の位置ではない、いくら寝相が悪いとは言っても。むしろ脚のどこかではないか。思い出すのは、少し前にその子どもの膝裏や太ももの肌が荒れ、かゆみが出て、掻きこわし血をにじませていたことだ。軟膏を塗ってそのときはよくなって、すっかり忘れていた。のちに聞いてみると、やはり最近かゆみと痛みがぶり返しているという。見れば肌が真っ赤になり、血がにじみ、小さなかさぶたがあちこちにできている。気づかなかった。

シーツからえられる知。下着やタオルの場合もあるだろう。身体そのものを目の前にしているときにはかえって見すごしてしまう事柄が、身体にじかにふれる布に浮かび上がることがある。ときには苦痛や体の不調が、ときには齢を重ねることにともなう変化が。

こうした気づきや知を有していたのは、ときには家事労働を担う女たちであり、ときには下働きの女たちだった。古びた紋切り型の文句である「母子の情緒的なつながり」のようなものが仮にあったとすれば、それは持って生まれた母性などに発するのではなく、「母子」のみに、「母子」だから生じるものでもなく、日々のこうした作業から生まれてくるのではないか。同じように、さまざまな時代のさまざまな場所で「ものを洗う」ことに携わってきた女たちも、きっとその作業ゆえに、彼女らしか持ちえない認識や知を有していただろう。

よごれと乱れに直接ふれる作業は長く階級構造に組みこまれてきた。多くの場合、人は社会的属性ゆえになかば強制されてその仕事を担ってきた。そして住まいや生活用具をきれいにする作業は、かつては重い労働だった。たとえば洗濯においては、上下水道のインフラストラクチャーの整備以前は水を汲んで運び、排水すること自体がひどく骨の折れる作業だった。地面に置いたたらいで行なう洗濯は、長時間しゃがんで前屈みになる姿勢をとらざるをえず、骨や筋肉に負担をかけやすかった。また洗浄剤が使われる際の肌への負担も今よりずっと大きかった。17世紀のイングランドの洗濯婦たちは、石鹸原料の輸入が国策として禁止され、アルカリ性が強く手荒れにつながる国産石鹸を押し付けられたとき、団結して新型石鹸に反対する嘆願書を出したという(5)。それほどまでに手荒れは彼女たちの心身を苦しめたのであろう。

ひるがえって、電気とガスと上下水道の線が縦横無尽に地下を走る現代都市での事情はずいぶん違う。ボタンを押して蛇口をひねれば湯がいくらでも出て、いくらでも排水でき、ドラッグストアに行けば手肌に優しいものから洗浄作用の強いものまでよりどりみどりの商品が棚に並ぶ。全自動洗濯機のおかげで布をこすり合わせたり絞ったりする作業も激減している。逆に、ひとつひとつのものを洗うための作業量の減少ゆえに、ある種の清潔さが当然視されるようになり、家事労働者は毎日のようにひたすらものを洗いつづけ、掃除しつづけ、その全体としての労働量は減ることがない(6)

ものを手入れし、片づけ、洗浄する営みのあり方は、その時々の社会に普及したテクノロジーに応じて様変わりする。何がよごれであり何が清浄と見なされるのかもそうした条件に依存している。そのなかでなお、数十年前・数百年前の、別の土地の、まったく別の条件のもとでよごれにふれる営みを、わたしは思い描く。それは触覚的な気づきをきっかけに湧き起こる想像なのだ。

【図2】下水道のない時代、洗濯する体の負担を和らげるため木のたらいに脚と排水栓を取り付けるアイディア。『美しい暮しの手帖』第1世紀第4号、衣裳研究所、1949年、14頁。1948年に創刊された『暮しの手帖』は、炊事・洗濯・掃除にかかわる作業を生きることの中核にあるものと見なし、それらをいかに苦痛なく、合理的に、納得いくよう行なえるかを、戦後まもない時期から追求している。(画像提供:暮しの手帖社)

日常の二つの極——他者と一体化し、他者から距離をとる

一方で忘れてはならないことがある。乱れやよごれに向き合う作業が、実は日常の維持のために同じことを繰り返すルーティン・ワークでもあるということだ。よごれや乱れとの接触のダメージが蓄積すれば、今度は生活が維持できなくなってしまう。したがって自分とのあいだに何かをさしはさむことも選択される。

指のひび割れが深くなってくると、わたしはゴム手袋をつけ始める。手荒れは幾分解消される。しかし、今度は皿がきれいになったかどうかわからなくなる。指と手のひらに皿表面の飯粒やチーズのこびりつきが引っかかってこないか、豚バラ肉から出た半固形の脂がまだへばりついていないか。目ができる仕事には限界があり、直接の感触なしには十分に確認ができない。

指と手のひらの肌の感触が閉ざされるなかでわたしが代わりに頼るのは、儀式——人類学の用語では儀礼——にも似た了解のプロセスだ。「スポンジに洗剤をつけて泡立てる」「皿をこする」「水で泡を洗い流す」というステップを踏んで、身体感覚では確認できないがよごれが落ちた「ことにする」。定まった形式を定まった順番で経ることで、直接は認識できない何らかの変化が「起きたことにする」のだ。そのように考えると、とても卑近で日常的なルーティン作業が、宗教的ととらえられている通過儀礼や葬送儀礼とよく似た構造をもっていることもまた、浮かび上がる。はっきりと分類できないあいまいな状態にある人やものや時空間を、定められた手続きをふむことによってどちらかのカテゴリーに状態変化させる。儀礼とはそういうものでもあるからだ。

ところで何度かふれてきたプイグ・デ・ラ・ベラカーサの触覚論は、人間以外のものを射程に入れてケアを考えようともしている。彼女が議論の出発点とするジョーン・トロントの定義では、ケアとは「私たちがこの世界で、できるかぎり善く生きるために、この『世界』を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる」(7)。このエッセイで見てきた作業の多くもこの定義に当てはまる。ものや空間に向けられたものではあるけれど、人が心身の大きな苦痛なく生きつづけるための作業でもあるからだ。人のケアと、人を超えた範囲にあるケアは、実は分かちがたく混じりあっている。

プイグ・デ・ラ・ベラカーサが指摘するのは、ケアに関心が寄せられるとき、ケアにおいて自分と他者とが一体化する局面が強調されがちだということである。相手の感情や痛みに共感し共振し、自分のなかに同じものを見出す局面ということだ。しかし実は、「ケアとは融合ではなく、適切な距離のこと」でもある(8)。ケアとは愛情や慈しみのような情感にかかわるものであると同時に、何かを具体的・現実的に維持していく営みでもあって、その維持のためには一定程度の距離が必要となる。プイグ・デ・ラ・ベラカーサは、この二つの側面の双方を重視し、二つのあいだを緊張感をもって揺れ動く両義的なものとしてケアを考えようとする。

この同じ両義性を、乱れやよごれにふれ、はたらきかける日常の営みも持っている。掃除や洗濯や片づけなどの作業の大半は、明日や来週や来月が大きな破綻なく「回っていく」ために行なわれる。ゴム手袋をつけて行なう皿洗いの儀礼は、汚穢と手指と洗浄剤の接触領域で起きていることに関心を向けたりはしない。それをやっていては洗いの作業がいつまでも終わらず、次のご飯を準備し食べることができない。代わりに決まった手順をたどることで洗いものが「再び使える状態」に戻った「ことにし」て、生活の現状維持を担うのだ。

一方で、作業の最中にふと手をとめ、さまざまな感覚器官をそばだて、汚穢としてあらわれていたものに息をあわせてゆくと、わずらわしく除去すべきものとして扱ってきた汚穢が生きる自分の身体と同じもののように感じられたり、あるいは自分や身近な存在についての重要な知を与えてくれることがある。その二つの揺れ動きのなかに、ものを片づけ、洗い、調整するという営みがある。

【図3】夕食に食べようと思って買ってきた鶏の心臓。

よごした手につく傷と暴力

この両義性は、別の言葉でいえば矛盾である。日常は重要な問いを棚上げにすることで維持されている、と言ってもいい。その片づけや洗浄は本当に必要な作業なのか。自分がたった今ルーティン作業で除去したもののなかに、めくるめく興奮が隠れている可能性はないのか。そうした問いは脇に置いておかれる。それはある種の無責任さでもあって、汚穢を調整しきれいにするという作業の暴力性についての思考も停止させてしまう。

そう、生活空間のなかの生き物や物品を、自分の生活の役にたつものと役にたたないものに分類し、後者を不要・不快・有害なものとして排除していく行ないは暴力的なのだ。そこではひょっとすると特殊かもしれない価値基準が絶対的な力をもっている。「片づける」「きれいにする」といった言葉はその加害性を覆い隠す。その破壊・排除によっていったい何が失われ、未来の環境世界に対するどのような負債が生じたのかという問いは、たとえば封じこめられている。

しかし言い換えれば、ものに直接ふれるそれらの作業をおこなわずに済む人間は、この加害行為にたずさわることも免れている。前編で書いたように、生きていくために空間や物品を整え、きれいにし、再度利用できる状態に戻すことは、あらゆる人間のために行なわれる。その人自身がやらないとすれば、ほかの誰か(何か)がその作業を担う——「手をよごす」のだ。この言葉は、ただ人が加害的なことを行なうだけではなくて、責任主体と行為主体、つまり加害に責任があるものと実際にそれを行なうもののねじれや乖離がありうることを仄めかす。「手をよごす」者は、自分のものだけでなく、ほかの誰かの加害性をも引き受けているのだ。しかし「よごれ」は直接行為をおこなったその人にしか付着しない。接触にともなう傷も暴力性も、その手にもっとも深く、濃く「つく」(付く/憑く)のである。

気づけば何やら蒸し暑い。そういえば数日前からエアコンフィルターの要洗浄のランプがついていた。たぶん、ほこりが溜まりすぎて温度調節がまともに動いていないのだ。わたしは鬱々と思案する。研究室でやるはずだった作業をもう諦めて、今フィルターを洗うか。それとも意地でも原稿を進めることにして、次に時間を確保できる日まで不調なエアコンとともに生活するか。

身のまわりの空間や物品を洗い、手入れし、調整する作業を、わたしは来週も、数年後も、もしかすると形を変えて数十年後も行なっているだろう。そしてきたなく、くさく、面倒であると感じ、同時に一抹のよろこびや驚嘆を得るのだろう。

  1. ミッシェル・セール 『五感――混合体の哲学 新装版』米山親能訳、法政大学出版局、2017年、18頁。
  2. セール、前掲書、92頁。
  3. Sarah Pink (2009) Doing Sensory Ethnography. Sage.
  4. María Puig de la Bellacasa (2017) Matters of Care: Speculative Ethics in More Than Human Worlds. University of Minnesota Press, p117.
  5. 山本浩司「男性としてジェンダー史をはじめること」『世界思想』50号、2023年。
  6. ルース・シュウォーツ・コーワン『お母さんは忙しくなるばかり――家事労働とテクノロジーの社会史』高橋雄造訳、法政大学出版局、2010年[原書 1983年]。
  7. ジョアン・C・トロント『モラル・バウンダリー――ケアの倫理と政治学』杉本竜也訳、勁草書房、2024年、113頁[原書1993年]。もともとこの定義は、トロントがベレニス・フィッシャーとの共著論文で示したもの。Berenice Fisher and Joan C. Tronto (1990) ‘Toward a Feminist Theory of Caring’, in Emily Abel and Margaret Nelson eds., Circles of Care: Work and Identity in Women’s Lives, State University of New York Press.
  8. Puig de la Bellacasa, op.cit., p5.