掃除、洗濯、消えうせた時間
時計を見上げればもう11時だ。これから身じたくを整え、戸締りをして、自転車に乗って研究室に着けばもう午近い。午前いっぱいは書きものに使えるはずではなかったのか。〆切の足音が迫っているのに、今日も「何もせずに」午前が終わってしまう。朝7時に起きて、その後の4時間がきれいにどこかに消えている。自分がいやになる。仕事が遅々として進まない、「生産性が低い」。
しかし考えてみると、おかしい。朝のあいだ、ずっとわたしはせわしなく動き回っていたはずだ。いったい何をやっていたのか反芻してみる。
朝食準備と、家の中のゴミ集め・分別・ゴミ出しはわたしの担当ではなかった(夕食も今日は担当ではなく、この点楽をしている)。けれども朝食後に洗濯をしなくてはならなかった、小学校の体操服を今日洗わないともう替えがないから。そして布団が限界レベルにつぶれ、じめっと湿っているので陽にあてて干さねばならない。幸い今は花粉が飛び交う時期ではない。明日は朝から会議、明後日は日帰り出張、その後は雨の予報。今日やるしかない。壁やドア枠などあちこちぶつかりながら東向きの部屋に布団を運ぶ。
明るい日差しが顔を刺し、乾いた風が首に当たる。よく乾きそうだ。いざ干そうとして、ふと布団をかけるベランダの桟をぬぐってみるとチリが色濃くついて指が黒くなった。ああ、雑巾はどこにしまったろう。洗面所に行って雑巾を探し出し、水をかけて絞って、持ってきて桟をふいて、やっと布団を干す。次にいよいよ洗濯だ。
とくに汚れていそうなものを分別して濃いめの石鹸液にひたす。靴下、下着、給食用タオル、トマトソースや肉汁が飛んだTシャツ。台所の手拭きタオルがかなりにおう。毛のセーターはソフトで別洗いだ。以前は洗うものをすべて洗濯機に放りこんで自動運転のスイッチを押すだけだった。が、干して乾いたかと思えばもう饐えたにおいや使い古した雑巾に似たにおいが漂って、取りこんだ洗濯物のある部屋に入ると「うっ」と息がつまるほどだった。汚れが落ちきっていないのかもしれない。仕方なく分別とつけおきを始めたのが2、3ヶ月前のことだ。
風呂と洗濯機をホースでつないで残り湯を洗濯機にためる。これは水道水を使うのに比べて追加の一手間にはなるが、やらないわけにはいかない。水資源の浪費が気になるのと、水の温度が低すぎない方が石鹸がよくはたらき汚れ落ちがいいと、昔、本で読んだ。すすぎも残り湯でやりたいが、雑菌がついて洗った洗濯物がにおいやすいともどこかで読んだので、妥協してこちらは水道水にする。湯をためる間、風呂場でかびが生えてヌルヌルになった洗面器の底をスポンジでこする。洗濯機に洗濯石鹸を入れて湯と混ぜ、ふたかかえある洗濯物を押しこみ、ようやく洗濯機を回し始める。
ああそうか、いま思い出した。この時点ですでに9時半近かった。その後、いくつかの部屋に掃除機をかけて部屋のすみのにぎりこぶし大のわたぼこりを除去した。ほこりだらけでも死にはしないというが、ハウスダストのアレルギーがあり放置しすぎると鼻水が止まらなくなる。そしてぶらさがりっぱなしだった前回の洗濯物を片づけ、洗い上がった洗濯物を干したら、11時という時間になったのだ。
合点がいった。時間はただ消えうせたわけではなかったのだ。振り返ってみると混みいった思考で動いてもいる。服やタオルのよごれは落としたいし、くさいのも嫌だが、同時に衣類の生地をいためないようにという思惑も働いている。洗濯の過程で水資源を浪費せず、太陽光や外風のような自然条件を活かしたいという気持ちもある。そして家事作業のタイミングも内容も、花粉症やアレルギーなど自分と共同生活者が抱えているものに沿って進める必要がある。さらには学校のような社会制度と社会生活への対処。いくつもの関心事が並行して走り、行動を形づくっている。
それなのに、無為な時間を過ごしてしまったという焦りと落胆がある。掃除や洗濯を通じて何かを創造的に生み出したとか、意義あるプロセスにかかわったと思うことがなかなかできない。そもそも「創造性」だとか「意義」だとかで行動を評価すること自体がつまらないが、払拭しがたい価値観なのである。自分がやったことと言えば、身の回りのものや空間がどんどんよごれ、乱れていく流れに一瞬のストップをかけた、ただそれだけ。洗濯した服も干した布団も掃除機をかけた部屋も、数日後か翌週にはまた同じように皮脂や汗や食べこぼしがつき、湿ってぺったりし、ほこりだらけになり、同じ作業を必要とする状態になっているだろう。延々と繰り返されるルーティン作業。数日前も、数週間前も、数年前も。そして数年後も、数十年後も、もしかしたら。

【図1】久しぶりにかけたクイックルワイパーに大量のごみがつく。化学繊維の光沢をきらめかせるわたぼこり、髪の毛、乾燥した食べ物のかけら、消しゴムのカス、何かわからない灰茶色のスス状のもの。
においや手ざわりという「下位」の感覚がひらく世界
衣服・生活用品・生活空間の日々生み出されるよごれを処理し、乱れを整え、継続的に使っていける状態に戻す、掃除や洗濯などの作業。これらは、生きとし生けるほぼあらゆる人のために——その内容や量はまさしく千差万別であろうが——その人自身が、あるいは別の誰かが行なっている作業だ。
多種多様な洗浄剤を企業が次々と市場に送り出し、上下水道のインフラとゴミや廃棄物の処理システムがはりめぐらされた現代産業社会では、言うまでもなくそうである。たくさんの興味深い研究が、近代という時代が清潔さをひとつの規範として制度、都市、産業、そして国民道徳を作り上げてきたことを指摘してきた(1)。
それだけではない。たとえ同種の道徳が支配的でなく、洗浄剤が商品として出回っておらず、インフラストラクチャー事情が近代社会と大きく異なるような場所であっても、なお人は、自分や身近な人がものを食べ、体を休め、あるいは何かを楽しむための日常活動の一環として、空間やものを調整しよごれを除去するなんらかの営みを行っている。ちまたの広告で見るような清潔さや美しさへ向かうベクトルではなかったとしても、食べものを載せる容器を再度使える状態にしたり、眠るための場所を整えることは人の生に必須の営みだ。
しかし、こうした作業が人間にとって何であるのかが深く考察されることはまれだ。歴史的に見ても、これらの作業は位の低い人々の仕事とされてきた。古代のギリシャ・ローマでは家内奴隷が担った。19世紀西ヨーロッパの中産階級は、経済的に無理をしてでも女中を雇ってこの種の仕事をやらせた。よごれに直接ふれることは人の品位を落とすこととされていたためである。
そして現代日本では機械が活躍する。掃除機や洗濯機は一住居に一台が当然のことと見なされている。衣類乾燥機や食器洗浄機を備える家も多い。近年はロボット掃除機が普及し、スイッチさえ入れれば家の中をひとりでに動きまわり、住人本人が存在すら知らない家の中のごみやチリを吸い取ってゴミパックに収めてくれるようになった。
よごれや乱れを処理する作業は、できることならほかの人間あるいは機械にやらせたい。やらせてとくに問題ない。そう思われてきたということは、人が求めるのはよごれや乱れ——言い換えれば汚穢が——「取り除かれた」結果のみであって、汚穢にふれる経験そのものにはなんら重要性は見出されてこなかったということだ。しかし、果たしてそうなのだろうか? これらの営みと経験は、人を人たらしめる重要な何かではないのだろうか。
汚穢にかかわる経験は身体の感覚ぬきに語ることができない。肌にべたつきを感じた時に、人は手を洗い、体をふき、あるいはテーブルや床をふく。4日前から冷蔵庫に入っているおかずの残りは、もう捨てるべきなのか、それとも今日の昼食に食べられるのか、保存容器のふたを開けてにおいを嗅いだり、少しだけ口にしてみて「くさった味」がするかどうかで判断する。「よごれている」「乱れている」と人が感じるとき、それは見えるものはもちろん、肌にふれ、口や鼻に入ってくるものを含めた総合的な感覚である。
その重要な構成要素であるにおいや味や肌の感触、つまり嗅覚、味覚、触覚は、西洋の知の歴史において視覚や聴覚に比べて下位とされ、哲学や美学の対象たりえないとされてきた。日々の具体的な経験と切りはなして抽象化することができない主観的な感覚であり、さらには肉体的欲求や快・不快に直接結びついた原始的な感覚ととらえられてきたのだ。
しかし動物的・原始的であるはずのこれらの感覚が、近年多くの人文学者を惹きつけ、「知」とはそもそも何であるのかという従来の理解を大きく広げ、ないし転覆する可能性を秘めたものと論じられている。そうであるなら、汚穢を感じ、汚穢にはたらきかける日常的な営み——「私的」な時空間における、きたなく、くさく、面倒で、隠されていて、しかしまれに一抹のよろこびや驚嘆をもたらす営み——もまた、これまで閉ざされていた認識世界への入り口となるかもしれないのである。
双方向的で不安定で、状況に根ざした感覚
先にみた感覚のうち、とくにふれる感覚についての考察を通じ、人間存在とケアの問題を、人間中心的に狭められた枠組みを超えて議論しようとする論者のひとりにマリア・プイグ・デ・ラ・ベラカーサがいる(2)。プイグ・デ・ラ・ベラカーサの論の基盤には、西洋近代の視覚中心主義を批判的に見る態度がある。目で見るイメージのみを通じてあたかも世界を把握したかのように考えてしまうことが、人にとって、および人をとりまく世界にとって重要な営みや経験を、無視し貶めることにつながってきたという考え方だ。
そもそも西洋哲学の歴史のなかで視覚が重んじられてきたのは、目が身体から離れたものも「とらえ」ることができるからである。写真や映像、あるいは精緻に描かれたスケッチは、肉眼では届かない距離にあって直接の影響関係が生じにくいものも眼前に映し出す。それゆえ視覚的なものは、見る者と見られる者のあいだの関係に左右されることなく、判明に——つまり明晰で、ものとものの区別をはっきりと示せるような認識をもって——、理性的に分析できると考えられてきた。言い換えれば客観的感覚とされてきたのである。今回は踏み込んで論じることができないが、このことは、人間集団の間、そして地域と地域の間に権力関係を作り上げてきた近代の知のあり方と密接な関係をもっている(3)。
いっぽうで、肌が感じる感覚は距離と客観性の対極にある。「自分が見られぬまま対象を見ることはできる。しかし、自分がふれられないままに対象にふれることはできない」とプイグ・デ・ラ・ベラカーサはいう(4)。接触は自分自身を相手の影響にさらすことであり、そこにはふれようとした側の意図を超えて、たがいがたがいに干渉される同時的な変容が生じうる。伊藤亜紗氏の『手の倫理』でも論じられたことだ(5)。
この双方向性は人と人の関係のみならず、人間以外のものと人との関係を考える上でも重要な視点となる。たとえば、危険性も不確かな未知の物質に手がふれてしまったときのことを想像してみよう。草やぶのなかを移動していたら、蹴つまずいて転んで、思わずついた手の下にムニョッと何かを感じるのだ。肌と肉と骨に伝わる手ざわり、温度、弾力、固さ・やわらかさに、瞬時に全身に緊張が走るはずだ。「何か」の性質によっては、手のひらが灼けたように熱くなったり、広範囲に手を損傷することだってあるかもしれない——接触した感覚器官そのものの変容・破壊である。何かが自分に「うつって」しまう(移ってしまう/伝染ってしまう)可能性もある。その感覚と経験が自分という存在を変化させるかもしれない(草やぶや野山を歩くこと全般に強い恐怖を感じるようになる、など)。
ふれる感覚がもたらす認識や知は、そのように身体が物質として持つ傷つきやすさ・変容しやすさ、そして〈わたし〉の個別の位置や状況や、脅威にひるむ情動に根ざしている。
このような見方は、ダナ・ハラウェイが論文「状況づけられた知」で論じたこととも共鳴する。こんにちの人文学に広く影響を与えているこの論文は、あらゆる知が個別で特殊な状況と歴史的偶然性の結果であることを指摘する。すべての知は、ある特定の場所で、ある特定の利害を内にふくむものとして生まれる。そのことを認めず、いつでも・どこでも通じる知を標榜して権威づける態度を、ハラウェイは近代の科学や法を特徴づけてきた「位置づけることができない、それゆえに無責任な知の主張」と呼ぶ(6)。

【図2】小学校の上靴は、一学期に一回しか洗わないので真っ黒になる。毎週、あるいは毎月洗うことを一度心がけたが、すぐに諦めた。数十分漂白液につけてから石鹸をなすりつけ、古い歯ブラシでこすると多少は白くなる。最近は子どもが自分で洗う。
洗剤と皮脂とカニバリズム
では、ものや空間を洗浄したり手入れする作業において、身体に根ざした感覚を通じてえられる知とはどんなものだろうか。
もちろんそれは、きれいによごれを落とす意外な物品の知識や効率的な片づけ方法といった具体的なノウハウでもあるが、それ以上のものでもある。知識として有していたはずの事柄が、自分の家というもっとも身近な生活空間に下りてくるとき、環境世界や社会のなかにある自分という存在への気づきが訪れることがある。
よく知られていることだが、洋服の襟や袖についた黄ばみには食器用洗剤をつけておくと落ちやすい。わたしもその情報をインターネットで目にし、あるときためしに、台所から食器用洗剤を持ってきて洗濯物の襟と袖に振りかけてみた。数十分置いてぬるま湯でこすると、きれいに黄ばみがとれた。
なんということもない経験だが、不思議と記憶に残っている。この生活上の実験でわたしが〈知った〉のは、食器用洗剤の新たな活用法だけではない。むしろ、おいしいと思って食べていた肉・魚・乳製品由来の油とタンパク質の混合物と、自分の体からにじみ出てくる分泌物とが、同じたぐいの物質なのだということを予想外の状況で再認識したのである。同じ来歴をもち同じような化学構造でできているからこそ、同じ洗剤の、同じ化学的なしくみで落ち、水とともに流れ出ていくのだ。
「自分の体は食べたものでできている」とはよく聞くフレーズだ。しかし上の発見がわたしにとって強い印象とともにあったのは、そのときある種のカニバリズムを感じたからである。毎日の食事で自分が同種喰いをしているという感覚が、このとき具体的な実感として沸き起こったのだった。
当然のことながら、それはすぐに役立つ実用的な知でもイメージでもない。しかし自分と世界との関係のあり方を、それまでとはわずかに異なる質感のものにする何かだったのである。
注
- ジュリア・クセルゴン『自由・平等・清潔——入浴の社会史』鹿島茂訳、河出書房新社、1992年[原書1988年];キャスリン・アシェンバーグ『図説 不潔の歴史』鎌田彷月訳、原書房、2008年[原書2007年];ジョルジュ・ヴィガレロ『清潔になる〈私〉——身体管理の文化誌』見市雅俊監訳、同文舘出版、1994年;川端美季『近代日本の公衆浴場運動』法政大学出版局、2016年。
- María Puig de la Bellacasa (2017) Matters of Care: Speculative Ethics in More Than Human Worlds. University of Minnesota Press.
- 距離と客観性を重んじる知のあり方が、近代の植民地主義や帝国主義、および中央集権的な国家統治とも切っても切れない関係にあることが、過去30年で論じられてきた。すべてを見通すことができる超越的で安定した立ち位置なるものを想定し、自分たちこそがその地点に立ってものを認識し行動しているという前提のもと、限られた認識しか持たないとされた土地の人びとを支配・啓蒙することや、彼・彼女らの住む土地をわがものとすることが正当化されてきたとも言える。James C. Scott (1998) Seeing Like a State: How Certain Schemes to Improve the Human Condition Have Failed, Yale University Press; Martin Jay & Sumathi Ramaswamy eds. (2014) Empires of Vision: A Reader, Duke University Press.
- Puig de la Bellacasa, op.cit., p99.
- 伊藤亜紗『手の倫理』講談社、2020年。
-
Donna Haraway (1988) ‘Situated Knowledges: The Science Question in Feminism and the Privilege of Partial Perspective’. Feminist Studies 14(3), p583.
過去の連載記事
(汚穢の満ち引き)汚穢にふれる知(前編)
襟よごれの皮脂とカニバリズム
2026年7月1日
汚穢と出会いなおすために
2026年4月1日