みすず書房

新刊紹介

本書を貫く独自性

2025年2月17日

ホロコーストについてはすでに夥しい数の本がある。新刊が出るたびに、まだ新しい本が必要なのか、読むべき内容があるのか、と感じる人は多いだろう。本書の刊行もそういう印象を与えるかもしれない。原書はペンギンブックス傘下のペリカンブックスという、学術研究の成果を一般向けに伝えるシリーズの1冊である。タイトルはHolocaust: An Unfinished Historyと地味だ。しかし、サンデータイムズ、オブザーバー、デイリーテレグラフ、ウォールストリートジャーナル、ニューリパブリックほか数々の書評で取り上げられ、本書の独自性が高く評価された。たとえばニューヨークタイムズの書評の見出しは、その独自性をこう要約している。「ホロコーストを歪曲と紋切り型から救う――歴史家ダン・ストーンの新著は私たちのホロコースト理解の修正(そして発展)を目指す」。

先月1月の27日、アウシュヴィッツ強制収容所が解放から80年を迎えた。戦後、ホロコーストは徐々にその実態が知られるようになり、1990年代に爆発的に関心が高まった。その象徴的な存在である映画『シンドラーのリスト』の初公開が1993年、日本公開は94年だった。それから30年。無数の研究書ばかりでなく、ホロコーストを題材にした小説や映画が毎年のように作られ、多くの人がホロコーストについてある程度のことを知っているという状況に私たちはいる。ところが、こうして広く共有される知識やイメージは紋切り型を生み、実像からズレたホロコースト理解を流通させることにもなった。前述の書評の見出しは、本書がこのような状況を意識して書かれたことを指している。

本書を貫くいまひとつの独自性は、ホロコーストは強制収容所の解放で終わったわけではないという問題意識である。それは現在とのつながりについての考察でもあり、歴史家がふつうは踏み込まない領域かもしれないが、著者が敢えてそうするだけの理由がある。解説の武井彩佳氏は著者のこのような問題意識を受けて、「ホロコースト以降の世界が人間の尊厳を護るための制度を創ろうとしてきた」ことに、ホロコーストと現在との関連性を見ている。そして、このつながりが今、壊れつつあることを指摘している。 

実際、国際法が堂々と破られ、排外主義が普通のこととなり、人権が鼻で笑われる。法も人権も、国々が争い、特定の人々を抑圧に晒すのではなく、共存していこうと世界中が努力してきた結果であるのに、そのことが忘れられ、絶対善として君臨する権威として敵認定される。「ヒトラーは、ナチスは、良いこともした」というのは、そうした敵に投げられる石のようなものかもしれない。著者ストーンによれば「つまり、ホロコーストの記憶の「前向きな」バージョンは、残念ながら終了したのである」(本書285頁)。

最後に本書のまた別の独自性を挙げておきたい。ダン・ストーンはヒストリオグラフィー(歴史学の歴史)の専門家であり、その立場から、領域横断的な研究を統合してホロコーストの全体像を描いている。しかも非常にコンパクトに。研究が細分化され全体像がつかみにくくなり、また前述のように型にはまった一般的イメージが広まる今、じつはこれが最も欠けていた仕事であるかもしれない。