みすず書房

メリトクラシー

メリトクラシー

中学校進学の壁

フランス語が全くできない状態でエリート予備校のような小学校に入ってしまった息子は、どう考えても10歳の子どもに適しているとは思えないような授業内容や宿題の海に沈んでいた。息子は小学校の最終学年(CM2)に編入したので、しばらくすると皆の関心が中学進学に注がれていることが分かってきた。問題は、国際リセの中学に進めるかどうからしかった。

国際リセは幼稚園からのバイリンガル一貫校なのだが、中学部が受け入れる子どもの数は、小学部に在籍する子どもの数からかなり絞られる。特に数の多い英語圏出身者(アメリカ・セクション、イギリス・セクション)は、半分ぐらいまで絞られるようだ。国際リセの中学校に進めなければ、学区にある他の中学校に行くことになる。つまり「退学」させられるのである。「転校」ではなく「退学」という言葉が使われていたのは、将来国際リセに戻る可能性が排除されているからだろう。逆に言うと、中学校に入れれば、基本的には高校へと上がれるため、一定数がふるい落とされる中学進学がエリートコースに乗れるかどうかの最初の壁らしかった。

このため親たちが集まる機会があると、たいてい中学進学の話になり、さまざまな「こわい話」で盛り上がった。イタリア・セクションでは、成績下位の半数が学区内の他の小学校の優秀者と「入れ替えられる」らしいと聞いて震え上がった。テキサス出身のアメリカ人の父親は、子ども2人を国際リセに通わせていたが、1人は転校させたと涙した。担任に「お前らはできが悪い」と言われ続け、心が折れたそうだ。そんなことがあれば、日本ではハラスメントで即教育委員会マターだが、教員の権限が大きいフランスでは担任の当たり外れはちょっとした不運でしかない。対して子どもの自主性を伸ばす教育で知られる北欧出身の母親は、フランスのエリート養成システムを「気が狂っている」と言い切り、リセの中学には進ませないと断言した。

しかしこうしたシステムに疑問を感じて離脱する家庭は例外で、多くはその過酷な選抜から振り落とされないよう、真剣勝負であった。このため、学校にすべてお任せの日本とは大きく異なり、親は子どもとつねに二人三脚で、子どもの生活を管理し、学校行事にも求められる以上に熱心にかかわっていた。

10歳の子どもが、学校と地区の教育委員会が考えるところの「能力」により、ふるい落とされようとしていた。そしてこの選抜は、本人には必ずしも十分に認識されないままなされていた。リセに残れなければ、子どもには友達と同じ中学に進めなかったという悲しみとして記憶されるだろうが、親の側はそれが将来的に意味することを理解している。この学校でやっていくには力が足りないと判断されることは、まさに脱落を意味し、この時点で何かからひとつ遠ざかるのである。フランスの子どもたちの人生には、早くからいろいろな場所で列車の切り替えポイントが点在しているようで、一つのポイントで本線から外れると、最終的に列車がどこに向かうのか、一気に不透明さが増すのである。

とはいえ、学校は10歳の子どもの「能力」を本当に評価できるのだろうか。評価の対象となっているのは、子どもの力というより、実は「親」の勉学に対する姿勢なのではないか。つまるところ、親の社会経済的な地位に比例した教育環境、家庭の文化資本の問題なのではないか。こうした疑念は、クラスメートの親の職業を知れば、いやが上にも強まった。弁護士、銀行役員、IT起業家、官僚、国際公務員。つまり、学歴主義的な世界で生き残ることで現在の職業的地位にある人たちしかいなかったのである。彼らは自身の経験から、「振り落とされる」ことの影響を想定でき、このため自分の子どもが穴に落ちてしまうことを心底恐怖していた。

PTA総会の夜

ある時、PTA総会のようなものがZoomで開かれることになった。話題の中心はもちろん中学への進学であった。ところがこの席で、現在日本セクションは小学最終学年に18人在籍しているが、中学への進学枠は16人分しかないということが発表された。親たちがざわつき、雰囲気が一変した。つまり、成績順で2人の退学者が出るということである。

フランス語のできない息子がその振り落とされる一人であることは火を見るよりも明らかであったため、諦めの境地で聞いていたが、Zoom画面の向こうで親たちは激怒していた。ほかの学校とは比べものにならない量の宿題をこなし、何度も入学テストを受けてようやく学校に入れたというのに、ここにきて2人落とされるとはどういうことか。16人しか進学できないのに、なぜ2人も余分に入学を認めたのか。その時私は、息子の編入とは誰かの席を奪う可能性に他ならなかったことを理解したのである。彼らの怒りは学校に対して向けられているものの、間接的には、途中で入ってきた私たちに向けられていた。

しかしその怒りは十分に理解できた。子どもの入学に合わせて学区に引っ越した、職場も変えた、家も買ったという人には、レールから外れることの影響はあまりにも大きい。ここに至るまでにすでに大きな投資をしている。残酷な話だと思ったが、これを受けてPTA会長が語った言葉にさらに驚いた。

彼はこう言った。選抜は常に行われてきた。小学校に入るときでさえ、競争を勝ち抜いたわずかな数の生徒しか受け入れられなかった。これは選抜がいつ行われるかの問題にすぎない。退学になる2人は確かに可哀想だ。しかし、16人ではなく、18人の子どもに真のバイリンガル教育を与えることができたという事実を評価するべきである。

彼は、本来はこの学校で学ぶことができなかった2人にチャンスを与えたのであるから、それには意味があったと結論した。夜8時から始まったPTA総会は、終わる頃にはすでに日付が変わっていた。

この夜のことは、私に深い印象を残した。こうした選抜を是とする社会とは何なのか。これが底辺からでも自分の努力次第で成功できるというアメリカン・ドリームを信じる国ではなく、社会正義や人々の連帯を謳うフランスにおいて展開している。大きな負荷をかけ、少なからぬ子どものやる気をくじきながら、選りすぐりの一握りを創り出すシステムに、人々は文句を言いながらも従っている。何がこの制度を正当化し、国民に受け入れさせるのか。

これを理解する鍵が、「メリトクラシー(能力主義)」である。

メリトクラシーとは

日本語で能力主義と訳されることが多いメリトクラシー(meritocracy)という言葉は、メリット(能力、業績)が個人の社会に占める地位を決めるという考え方で、イギリスの社会学者、マイケル・ヤングによる造語である。彼の1958年の著書『メリトクラシー(The Rise of the Meritocracy)』では、出生前から能力を判別して、知能検査による能力階級が生まれる近未来が描かれているそうだ。

教育学者の中村高康が指摘するように、「メリトクラシーにはただ単に能力主義という意味合いがあるだけでなく、能力を持った人間による支配の体制を意味する側面もある」(1)。アリストクラシーが貴族、貴族制、貴族による支配を意味したように、メリトクラシーもこれを備えた人による体制と支配ということだ。フランス語のméritocratieも、言葉の実感としては、能力と業績によって選ばれた人により統治される社会、教育を受けた能力のある人々による支配のこととして使われている。

日本でもメリトクラシーという言葉は徐々に市民権を得始めている。おなじみのハーヴァード大学教授マイケル・サンデルが、近年メリトクラシー批判を展開しているが、邦訳もある彼の『実力も運のうち――能力主義は正義か?』(2021)の原題は、Tyranny of Merit、つまり「能力の暴政」である。

しかし、貴族や平民といった出自、肌の色、性別などの属性に基づく地位の配分をやめて、その人を能力で評価し、これに見合った待遇を与えるという考えは、生まれによって見る世界も到達できる場所もまったく異なった近代以前の世界に比べると、格段にフェアな印象を受ける。かつてのように、貴族や僧侶などの特定集団しか教育を受けられなかった時代とは異なり、学校は万人に開かれ、またこれが義務とされている。そうすると、才能と努力次第で誰もが成功できる世界は、明らかに生まれで固定化された世界より、公正ではないか。

いち早く身分制を打破したフランスにおいて、新しい地位の配分原理として能力という基準が採用されたのも、理由があるようにも思う。グランゼコールという、大学システムとは別系統の教育機関が存在し、極めて選抜的に国家的なエリート養成を行うフランスは、まれに見る学歴主義の国と言える。近年の「黄色いベスト」運動などを受けて、マクロン大統領がグランゼコールの頂点の一つ、ENA(国立行政学院)を廃止したところで、体質が変わるわけでもない。フランスはメリトクラシーの典型である。

実は先のサンデルの本でもっとも考えさせられたのは、何を隠そう、人種やジェンダーによる差別が認められない世の中にあって、学歴差別は容認されているという指摘であった。サンデルは、「人種差別や性差別が嫌われている(廃絶されないまでも不信を抱かれている)時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見」と書いている(2)。肌の色や性別など、自分のせいではない事柄で差別され排除されるのは不当だが、学歴のような、事後的に獲得可能なものについては、自己責任であるというわけだ。これは、自分の境遇に対する自身の責任を問う考えと結びついている。だから学歴のない人が成功せず、底辺でもがいていたとしても、人種差別に苦しむ人のようには助けてもらえない。アファーマティブ・アクションのような措置を求める声は上がらない。

メリトクラシーの何が問題か

サンデルによるメリトクラシー批判は、まずメリトクラシーがすでにある秩序を正当化し、学歴主義的な支配構造を維持させるという点にある。私たちは能力のある者が設計する制度や社会は、効率的で合理的であるという前提に立っているが、実はこのシステムが生み出す果実を最も多く得る者が、能力によってこの場所にいるとされるその人たちに他ならない。彼らが自分たちの地位や富を保持するシステムの賛同者であることは間違いがなく、それゆえに彼らは能力による評価にこだわるのである。能力が彼らの地位を正当化し、また彼らが能力を定義するのだ。

実際には「能力」とされるものは時代や環境によって異なり、つまり社会的に定義されるため、現在能力が高いとされる人たちが10年後もそう見なされるかは分からない。実際に、インターネット登場の前と後では、能力の評価はまったく異なっただろう。それでも、メリトクラシーの上層にいる人たちは富や資源の近くに位置する、つまりコネもカネもあるため、彼らがまた新しい「能力」を見出してゆくに違いない。メリトクラシーが自己再生産的であるのは、官僚体制の自己保存に似ている。

サンデルの批判の二つ目は――これが彼の最も言いたかったことだと思うが――メリトクラシーが他者への共感を困難にし、社会の連帯や団結を阻むという点にある。落ちこぼれた人たちには能力と努力が足りないと理由付けし、実際には様々な要因で彼らがその場所に押しとどめられているのだとしても、それを見ないことを正当化する。実際われわれは、同じ社会的地位、同じ学歴レベルの人から成る集団の中にいるとき、多くの価値観の類似性を見つけ、もっとも居心地が良いと感じる。実は人種やジェンダーは、現代ではそこまで人々を分断しない。その不正義については誰もが同意するためである。社会階層による分断の方が深刻なのは、現在のアメリカ社会を見ればあきらかである。

やはり能力主義の最大の問題は、個人の能力を評価することで不平等や貧困を解決すると言いながらも、むしろ格差が世代を超えて継承される要因を作っていることだと思われる。格差の継承は、経済的な要素のみならず、読書の習慣や芸術への嗜好など、言語・文化も媒介とするということは、社会学ではおなじみの考えである。日本でも東大卒の親を持つ子どもがやはり東大に進むことが多いのは知られているし、それは塾に通わせることができるといった経済的要因のみならず、勉学への姿勢や、さらに言えば、親が東大なのだからその子どもは勉強ができるはずだという、周りからの期待による「予言の自己成就」が作動するためでもある。そうするとその子どもは実際によく勉強するし、親の期待にそって東大に進学する。こうして再生産されたメリトクラシーのなかで、子どもは自分が良い大学と一流企業に入れたのは自分に能力があり、また努力したからだと錯覚する。対してアンダークラスの「能力のなさ」は、彼らの境遇がその証拠であると解釈する。

こうした社会において富の配分が均一でない以上、親は自分の子どもに能力が足りていないことを恐れる。いわゆる「能力不安」である(3)。自分がいま享受する社会的地位を何としても子どもに継承させたいと願い、子どもの将来の進路をおもんぱかって初等教育の早い段階から学校の選択を決定するという傾向が強まる(4)。むしろ親の富や願望が、子どもの進路を決定してゆくということである。これを、メリトクラシーの社会が生む「ペアレントクラシー(parentcracy)」と呼ぶ。

私は、このペアレントクラシーの中に落ち込んでいたのであった。他の親たちも同じような強迫観念にとりつかれていた。実際、息子が学校の授業について行けないことに非常に大きな危機感を覚え、彼が「落ちこぼれ」ないように必死に尻を叩いていたのは私自身であった。たしかに息子は宿題が多くて厳しいのが嫌だと言っていたものの、実は本人は授業についていけなくてもたいした問題だと思っておらず、エリートの親を持つ彼の仲間の多くも、実はそうなのであった。息子にとり重要なのは、とりあえず朝学校の門をくぐってから、夕方出てくるまでの7時間を先生に怒られずに乗り切ることに他ならなかった。

パリのある地下鉄の駅に、いつも同じ物乞いがいた。その人は、無数の人が行き交うホームの真ん中で、土下座をして額を地面にこすり付け、そのままの姿勢で、何時間もじっとしていた。イスラム教徒がモスクで祈るときの、あの格好である。日本人からすると、小銭をもらうために土下座することの卑屈さ自体が耐えがたく、このような戦略をとることの効果を疑問に感じた。息子はその駅を通る度に、あの人またいるね、と言っては遠巻きにじっと視線を注いでいた。

彼はフランスに来て社会に大きな格差が存在することに気づき、それは日本ではあまり目にしない種類のものであることを理解した。彼の頭の中で「格差」とは、あまり良い匂いがせず、よく大きな犬を連れており、ゴミをそこらに捨てて、その辺につばを吐く人たちのことであった。これに対し、自分の通う学校や友達については、その対岸に位置しているように見え始めていた。ただし本人にとってそれは、長い詩を暗唱させられる、夜まで勉強させられる、先生にノートを見せると「まあ、なんてさま!(Quelle catastrophe!)」と突き返されるといった、むしろ嫌なことを甘受せねばならない原因のようなものとして、整理されていた。

着実に、息子が偶然に飛び乗った列車はレールの上を走り出しており、すでにいくつかのポイントの切り替えがなされつつあった。日常生活から始まるこうした分離とすみわけが、フランスのメリトクラシーを再生産しているのではないかとふと思った。

  1. 中村高康『暴走する能力主義――教育と現代社会の病理』筑摩書房、2018年、77頁。

  2. マイケル・サンデル『実力も運のうち――能力主義は正義か?』鬼澤忍訳、早川書房、2021年、175頁。

  3. 中村、前掲書、102頁。

  4. 宮島喬『文化的再生産の社会学――ブルデュー理論からの展開』増補新版、藤原書店、2017年、241頁。