みすず書房

国籍・市民権と軍隊

国籍・市民権と軍隊

アメリカ黒人の義父のこと

私の夫の義理の父は、アメリカ黒人であった。夫の母の再婚相手で、私からすると義理の父だが、名をアルヴィスといった。

国籍や市民権と、人種や民族の関係性に関心を持つようになったのも、この人との出会いが影響している。ずいぶん前に鬼籍に入っているが、実に面白い男で、いつかアルヴィスについて文書館で史料を探し、その人生について書きたいと願ってきた。まだ試みたことはないが、私は彼に関する史料はアメリカの公文書館で見つけることができると信じており、それは軍や国務省、情報機関の史料あたりなのではないかと思う。ただし、名前が黒塗りになっていなければの話である。

アルヴィスは1922年5月7日、ジム・クロウ法下のサウスカロライナで生まれた。黒人奴隷の子孫で、チェロキー族の血も入っていたので、肌は黒というより茶褐色であった。母は文盲の掃除婦だったが、信心深いキリスト教徒だったという。アルヴィスは素晴らしい声の持ち主で、小さい頃から合唱隊で歌っていた。第二次世界大戦で従軍し、フィリピンで日本軍と戦い、現地人との連絡役となる特殊部隊にいたため、タガログ語を解した。フィリピンで負傷して戦線から離脱し、米軍のヨーロッパ展開に関連してだと思うが、終戦前後に渡欧した。除隊後はパリでしばらくジャズ・シンガーとして日銭を稼ぎ、ここでフランス語を覚えたようだ。がっちりした大男で、ボクサーとしてリングに立つこともあった。アメリカへ帰国後、1946年から48年まで『コール・ミー・ミスター』というミュージカルでブロードウェイの舞台に立った時期もある。

1949年、軍での功績もあって奨学金を得てリベラルアーツ大学の名門、カールトン・カレッジの最初の黒人学生として入学した(写真は1949年当時)。その後はイェール大学へ進み、1961年にイェールから博士号をもらっている。博士論文のテーマは、アレクシ・ド・トクヴィルと一緒にアメリカへ視察旅行に行った、ギュスターブ・ド・ボモンについてである。トクヴィルはこの経験を基にアメリカの平等と不平等について考察し、『アメリカのデモクラシー』を書くが、ド・ボモンも『マリー、あるいはアメリカの奴隷制』という小説を出している。後者はトクヴィルほどの名声を得ることはなかった。

アルヴィスは自分の人生について断片的にしか話さなかったが、彼には表向きの仕事と、裏の仕事があったのだろうと思われた。本人は、最終的にはカリフォルニアの小さな私立大学でフランス文学を講じてキャリアを終えるが(その関係で客員教授として早稲田大学に来ていた時もある)、誰もが彼の大学教授としての仕事にはいさかか疑念を持っていた。彼は流暢なフランス語を話したが、私が彼を知った頃には家の本棚にはフランス文学の本など一冊もなく、真面目に教えていたとは到底思えなかったのである。

アルヴィスの職歴には明らかに不自然で怪しげなものが多くあった。例えば冷戦まっただ中の1960年代、西側の重要な拠点となっていたトルコのアメリカ大使館でなぜか「文化担当官」として勤務していた。本国アメリカは当時、公民権法によりようやく黒人差別が撤廃されつつある頃だったが、そんな時代になぜ黒人の文化担当官が在アンカラ米大使館に必要だったのだろうか。

また、アパルトヘイト下の南アフリカを含むアフリカの国々で、米企業の駐在員として務めていた。セネガル建国の父サンゴールや、コンゴ民主共和国で西側先進国からの支援金を不正蓄財して国を追われたモブツ大統領も個人的に知っていた。さらに怪しいのは、イスラエルヘの渡航歴がやたらと多かったことだ。「イスラエル人は政治的すぎて嫌だ」と漏らすこともあり、アメリカ黒人がイスラエルで何をしていたのかは語らずじまいであった。

こうした断片をつなぎ合わせていくと、アルヴィスはおおよそ、冷戦下アメリカの反共政策の展開のもとで国のために動いていた人物だったのだろうと想像された。だから私たちは、彼はアメリカの情報機関で働いていたのだろうと考えていた。実際に義母の話では、アメリカで暮らしていた頃のアルヴィスは、暗くなったら影が映る窓には近づかないようにしていたし、寝るときはいつも枕の下にピストルを忍ばせていたという。空港で何の変哲もない輸送機を指して、あれはCIAの飛行機だと口走ることもあった。スパイ映画のような話だとは思っていたが、アルヴィスと話せばなぜか腑に落ちた。彼は恐ろしく頭脳明晰で、普通の人ではないことは明らかであったからである。しかし、本当は何をしていたのかという私たちの問いに、アルヴィスが答えることはなかった。

さて、なぜ私はアルヴィスの話をするのか。それは、まだ黒人差別の激しい時代に彼がアメリカ社会の階段を昇っていけたのには、軍隊でのキャリアが始めにあったためと思われるからだ。

1868年の合衆国憲法修正第14条が、国内で生まれた者を市民(citizen)とし、これがアメリカ国籍の生地主義(jus soli)を担保することは知られているだろう。修正第14条は、奴隷制廃止後のアメリカで、元奴隷の黒人に国民としての地位を明示するものであった。しかし、国籍を認められた黒人の市民権行使には様々な障壁が設けられ、特に元奴隷州であった南部では、ジム・クロウ法の下で実質的に黒人の権利は奪われていた。つまりアルヴィスは、生まれた時からアメリカ国籍であったが、人生の前半はほとんど市民権を否定されていた。アメリカ人としての彼の生き様とその職業人生は、軍が扉を開け、そのつながりにより導かれたと思う。

カールトン・カレッジのフォト・アーカイブより

軍隊と国籍

国民たる者、国のために戦うことは権利であり義務であるという考え方から、軍隊や徴兵制は国家の成員資格、つまり国籍や市民権と深く関わってきた。

歴史を振り返ると、貴族や傭兵などから成る王の軍隊であったものが、国民主権が確立されたことで、徴兵制による「国民の軍隊」、つまり「国民軍」が生まれた。このため、軍隊は「国民とはだれか」という問いと直結するものとなった。例えば「生地主義」の代表的な国家として知られてきたフランスだが、19世紀末にフランスが生地主義を採用する流れを決定づけたのは、外国人に兵役を課せないジレンマだったと歴史家パトリック・ヴェイユは指摘する(1)。血統主義に立つと、外国人から国内で生まれた者も外国人にとどまるため、居住の実態がありながら兵役を免除される集団が出るためである。国籍が国民の境界を引き、従軍がこれに実態を与えた。

これは必然的に、政治参加の資格と結びつく。国民としての完全な権利を行使できるのは、国の防衛に参加できる者とされてきたため、戦わない女性に権利が与えられないのは当然とされ、必然的に市民権もないという構造を支えてきた。したがって兵士になれることは国民として認められることと同義であり、国への務めを果たすことは男性の名誉の問題でもあった。

このため、国家ヘの帰属に疑念が示されていたユダヤ人は、帰化が困難であった上に、軍隊でのキャリアから事実上閉め出されていた。ユダヤ人の身体は軍務に向かないとされ、彼らの「長すぎる」腕や「偏平足」がその証とされたのである(2)。ドイツ帝政期に「小さなコーン氏」という反ユダヤ的な絵葉書シリーズが好評を博したが、そこには入隊の際の健康診断できわめて貧弱な肉体をさらけ出すコーン氏が描かれている。

こうした状況があったので、19世紀末のヨーロッパのユダヤ人男性は、完全な市民と認められるために、あえて軍隊でのキャリアを求めた。1894年にフランスでおこったドレフュス事件は、ユダヤ系の将校にドイツのスパイの罪がなすりつけられた疑獄事件であったが、これはまさにユダヤ人による市民権獲得と社会的上昇への試みと、彼らを周縁にとどめようとする力が衝突したものであった。

「小さなコーン氏」1905年ころ

また、病気や障碍などで「戦えない男」や、戦おうとしない「女々しい男」は、近代では最も唾棄すべきものとされた。それゆえに手足を失った傷痍軍人のように、戦えなくなった者たちの扱いに国家は苦心し、手厚い恩給だけでなく、儀式的な顕彰制度が作られてゆく。これに対し脱走兵にはどの国も極めて厳しく、彼らは国家の保護の外に置かれてきた。ナチ時代の脱走兵は、軍法会議さえも開かれず処刑されることも多かった(3)

脱走兵はもちろんのこと、徴兵制のある国では兵役拒否者に対する扱いも厳しい。男女ともに18歳以上の兵役があるイスラエルでは、兵役を拒否すると刑務所送りになるだけでない。大学に入るにせよ、就職するにせよ、兵役を済ませているか確認されるため、良心的な兵役拒否であっても、事実上社会生活から閉め出される。

さらに、他国の軍に入隊した者の国籍剝奪を定めている国は少なくない。フランスのようないわゆる外国人部隊を軍の一部として位置づけている国や、外国人にも軍隊への門戸を開いているアメリカなどの国は別として、通常一国の軍に入隊できるのはその国の国籍を持つ者であるから、他国で軍務を務める者は国籍を失うとは、理解できることではある。ドイツ、オーストリアなどは、二重国籍者が他国の軍隊に入隊した場合、無国籍状態に陥らない限り、国籍の喪失を定めている。ただし他のEU加盟国との二重国籍者やNATO加盟国の軍隊であれば、従軍しても問題とはならないようだ。敵対的な国家の軍に入る場合が問題となる。

ちなみに、日本の国籍法は外国の軍隊への従軍による国籍の喪失を定めていない。そもそも軍隊としての自衛隊の地位が明白ではないので、国籍法のような国民の定義に関わる重要な法律に他国の軍隊うんぬんは当然書き込むことはできないからだろう。

平等への媒体

このように、軍隊とは国家とその成員との排他的な関係性が示される場所であったが、逆に言えば、成員間の不平等が解体され、国家への包摂が推し進められる場所でもあった。

例えば第二次世界大戦中の1941年、時の大統領ローズヴェルトは大統領令8802号で、軍需産業における人種差別を禁止している。軍の受注を受ける企業のみならず、その労働組合なども対象となっていた。ローズヴェルトの後を引き継いだトルーマンは、1948年に大統領令9981号で軍隊における人種差別を禁止した。もちろん、実際には軍隊内での差別が蔓延していたからこうした措置が取られたのだが、1960年代に公民権運動が盛り上がる以前に、最初に国防の領域において上から差別撤廃への政策が示されたことの意義は、過小評価されるべきでないだろう。

一般的に保守的な場所だと信じられている軍隊がなぜ平等を牽引するのかというと、軍務をこなし国民と認められる徴兵制においては、国のために命を捧げる者たちの間には不平等は存在しないことが前提とされているためである。国のために差し出される命に格差があったら、誰も戦ってはくれないだろう。したがって建前としては、出自は命の重さに関係がなく、兵士は死して平等でなければならなかった。

実際には、軍隊においても兵士の命は人種や民族により重さが違い、アメリカ軍では第二次世界大戦まで人種別の部隊が編成されていた。黒人部隊や日系人部隊が激戦地に投入されたため、彼らは命を懸けて国への忠誠を示さねばならなかった。当然、戦死者も多く、国としても彼らの犠牲に対し敬意を示す必要性に迫られた。

このため従軍は退役後の様々な手当の受給と連動して、退役軍人を対象とした貸付や無償の大学進学などへの道も開いた。こうして軍隊が、十分な市民権を認められていないマイノリティの社会的地位の向上を牽引したのである。アルヴィスもその死まで、十分すぎるといえる額の軍人恩給をもらっていた。この点は、政治や経済などの分野で不平等が構造化して長く残ることを思うと、興味深い。コリン・パウエルが黒人初の米統合参謀本部議長となったのは1989年だが、バラク・オバマが初の黒人の大統領になるまでには、さらに20年を要したことを思い出せばよいだろう。

現在も、軍隊はアメリカ国籍取得への近道とされている。基本的には、最低1年間勤めあげ、名誉除隊であれば、帰化への権利を得られることになっている。外国人であってもアメリカ軍に入隊することは可能なため、国籍取得を目指して軍隊に入る人が多いことを前提とした制度が作られている。これはまさにアメリカという国家の性格を物語っているだろう。

成功者のまなざし

アルヴィスの話に戻ろう。アルヴィスが日本軍と戦ったフィリピンは、死者150万人を出した激戦地で、日本兵の死者数は約50万人とされ、アメリカ兵も1万数千人が死亡している。第二次世界大戦当時、アフリカ系アメリカ人は二つの戦線で戦っていたといわれ、一つは海外のファシズムとの戦い、もう一つが国内の人種差別との戦いであった。「臆病」で戦闘能力が低いとされた黒人兵士は、身をもって国家への貢献を示すことが完全な市民権の獲得につながると信じ、二つの勝利(ダブル・ヴィクトリー)を求めて戦ったのである。

アルヴィスの個人史には、20世紀のアフリカ系アメリカ人の歴史が凝縮されている。軍隊での評価を携えて奨学金を得、名門大学へと進学し、社会の階段を昇っていった。ただし彼は、公民権運動など、黒人の地位向上のための運動からは意識的に距離を置いたと生前に語っていた。それは、自分が黒人として差別を受けてきたとは考えていなかったためである。確かに毛色の違う者に対する「区別」はあったが、明白な「差別」は経験したことがないと、様々な機会に話した。いかにも、自分の力で階段を上ってきたと考えるエリートのアメリカ黒人が言いそうなことではあった。出自によるハンディは自分の能力と努力により克服されうるという、アメリカ的理念の体現者であり、その意味では彼は理想的なマイノリティであった。

むしろアルヴィスは、黒人として成功するのは大変であったに違いないという世間一般の先入観にうんざりしていた。だから母校カールトン・カレッジに残るインタビューでも、自分が最初の黒人学生であったことについては、黒人メジャー・リーガーとして名の残るジャッキー・ロビンソンの例を出して、何につけても「最初の黒人」は、その後に続く者たちの道を閉ざさないためにも模範的である必要があったと語っている。

様々な意味で模範的な黒人であったアルヴィスは、アフリカ系アメリカ人女性である最初の妻との間にできた3人の子どもたちが、社会的には父の足元に遠く及ばなかったことを深く嘆いていた。息子の一人はかろうじて学校の先生になったが、娘はまともな職についたことがなく、末の息子は麻薬の売人となった。麻薬の売人といってもむしろ元締めの方で、羽振りの良い時にはファーストクラスでよくヨーロッパに遊びに行っており、世界各国の刑務所を経験し、何度も本国に強制送還された。そんなわけで、私のアマゾンの履歴には以前ドイツの刑務所の住所が登録されていた。英語の本を差し入れたことがあったからである。

アルヴィスは、刑務所と仮釈放を行ったり来たりする黒人アンダークラスに対して、極めて批判的であった。彼らの状況をアメリカ社会の差別構造に帰す意見に対しては、鼻で笑っていた。彼がもう少し長く生きていて、初の黒人大統領の登場やブラック・ライブズ・マター(BLM)運動を見たとしたら、どうコメントしたのだろう。さらに言えば、公民権運動から半世紀以上たっても、国籍と市民権、基本的人権の三つの輪が、必ずしも重なっていない祖国をどう考えただろうか。

私にはいつかアルヴィスの人生について調べる仕事があると思うと、心が躍る。アメリカ国立公文書館(NARA)は退役軍人の記録を保管し、簡単な情報はオンラインで得ることができる。アルヴィス・リー・ティニン、1922年5月7日生、1939年6月6日入隊、性別:男性、人種:黒人。「歴史的価値」ゆえにデータ作成との付記がある。

  1. 以下を参照のこと。パトリック・ヴェイユ『フランス人とは何か――国籍を巡る包摂と排除のポリティクス』宮島喬・中力えり・大嶋厚・村上一基訳、明石書店、2019年、59-94頁。
  2. 以下を参照のこと。サンダー・ギルマン『ユダヤ人の身体』管啓次郎訳、青土社、1997年。
  3. 以下を参照のこと。對馬達雄『ヒトラーの脱走兵――裏切りか抵抗か、ドイツ最後のタブー』中央公論新社、2020年。