みすず書房

言の葉の四つ辻

典故について

言の葉の四つ辻

漱石の『草枕』を読みながら、こんなことを考えた。
 人の世について、詩について、画についての思索の流れに身をまかせつつ、山路を歩いていた主人公は、石を踏みそこなって平衡を失い、岩の上に腰を下ろす。これがきっかけとなって、主人公のまなざしは自己の外側の世界へ向いてゆく。再び歩みを進めると、足の下から雲雀(ひばり)の声が聞こえてくる。

巌角を鋭どく廻って、按摩なら(まっ)(さか)(さま)に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの()(がね)の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、(あが)る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。

岩波文庫版では「十文字に擦れ違う」に注があって、これが芭蕉の門人・向井去来の句

   ほととぎす鳴くや雲雀の十文字

を踏まえた表現であることがわかる。このほかおびただしい注釈が施されているが、語釈や固有名詞の説明のみならず、詩句の出典を指摘したものも多い。
 が、なぜ小説に注釈が必要なのだろうか。注釈に書かれているような内容を読者があらかじめ承知していることを漱石は期待していたのであろうか。また、古の文人の名をちりばめ、古美術をそこここに置き、詩文を織り込む表現は、装飾として行っているのだろうか、学を衒っているのだろうか、それともそれにとどまらぬ意味があるのだろうか。
 『草枕』を読みながら考えたのは、以上のようなことである。
 「十文字」に関しては、装飾・衒学を超えた意義を見出すことができる。この場面のすぐあとに、シェリーの雲雀の詩の引用がある。またそのあとには、陶淵明の「菊を採る(とう)()(もと)、悠然として南山を見る」、王維の「独り(ゆう)(こう)(うち)に坐し、(きん)を弾じて()(ちょう)(しょう)す」が引かれている。このような流れからすると、去来の句をにおわせる「十文字」という言葉は、主人公が詩的世界へ入ってゆくことを予告する役割を果たしているといえる。主人公の身になれば、雲雀の動きを述べるにあたって「十文字」という言葉を用いることで、自身がこれから詩境の住人たらんとすることを宣言していることになる。
 『草枕』で俳句が直接引かれるのはまだだいぶ先、第二章に入ってからのことである。「十文字」に俳句の気配を感じとった読者は、ようやくそこで俳句と出会う。読者をじらす手管はなかなか心憎い。読者が勝手にじれるだけかもしれないが、勝手にじれるのも楽しみのうちである。作者の手に乗るまいと身を(よろ) い、作者の手の内を見破ろうと眉根を寄せるより、座興にひとつ騙されてみようと大様(おおよう)に構えているほうが、文学はおもしろくなるものである。

「述べて作らず」

古人の文章・詩句を引用しつつ詩文をつづることは、中国古典文学の基本的な技法である。このような技法はなぜ発達したのか。さまざまな理由があるだろうが、孔子の言葉の影響を考えないわけにはゆくまい。

子曰、「述而不作、信而好古。」

子曰く、「述べて作らず、信じて(いにしへ)を好む。」

先生が、こう言われた。「私は、先人が残された古い文化の遺産に従ってそれを離れず、新しいものを勝手に作り出すことはしない。私は、ひたむきに古き世のよさを信じて、いにしえを好むのじゃ。」(藤堂明保訳(1)

伝説によれば、『詩経』『書経』などの経書を編纂したのは、孔子その人であったという。今から見ればそれは伝説であるが、近代以前の人々にとっては伝説ではなかった。重要なのは、孔子は経書を「編纂した」のであって、「書いた」のではない、と考えられていたことである。彼は編集者であって、作者ではなく、古き世の人々の言葉を伝えただけであって、独自の哲学を作ったわけではない──それはかつて、疑い得ない事実であった。
 かの孔子が「述べて作らず」と言い放っているのである。述べて作らぬ態度は、程度の差こそあれ、後の世の者が言葉を用いる上での「倫理」となった。中国古典文学においては、現実の倫理すなわち文学の倫理だったのである。少なくとも、それが建前であった。
 述べて作らぬ態度が極端に表れている例を一つ紹介しよう。詩・書・画に秀で、明代を代表する文人に文徴明(1470-1559)という人物がいる。彼はわたくしが最も敬愛する文人であるが、彼の曽孫・文(しん)(こう)(1585-1645)に『長物志』という著書がある。名は「無用の長物の記録」というほどの意、住居や花卉草木、香や茶や文房具といった、文雅なくらしをとりまく「物」を品評した随筆である。『枕草子』の「山は」「河は」「虫は」「木の花は」などなどの章段を思い起こすと想像がつきやすいかもしれない。
 この書は明代文人の美意識カタログである。例えば「茶寮」すなわち茶室の項には次のようにある。

ごく小さな室を一つ、山斎のそばに構え、内に茶道具をしつらえ、童僕一人を茶の用に専念させ、そうして日がなの清談に、寒夜の独坐に備える、これは幽居の人の第一の務めで、一時も怠れぬことである。(2)

浮世の塵を離れた境涯、さながら文徴明の「品茶図」のなかに身を置く心地がする。

ところが、である。この『長物志』は、なかなか一筋縄ではゆかない。というのも、この書は著者自身の意見のみならず、無数の引用、しかも出典を示さない引用によって成り立っているのだ。注釈書によれば、上に引いた「茶寮」の項は、『長物志』に先立つ文献『(こう)(はん)()()』の巻四「茶寮」とまったく同文で、『考槃余事』の「茶寮」の項そのものも『(じゅん)(せい)(はっ)(せん)』巻七「茶寮」に基づくという(3)。『長物志』の記述は孫引き・曽孫引きなのである。しかしこれを剽窃ということはできない。『長物志』に訳注を施した荒井健はいう。

けれども、旧中国一般の著述スタイルからすれば、これはごく普通、厚顔どころかむしろ謙虚な著述者の態度なのだ。どういうばあいにせよ、信頼に値する先行文献があるならば、それをひたすら忠実に引き写したあと、ごく控え目に自説をちょいと付け加える――孔子様のいわれる“述べて作らず”だ。オリジナルあるいはユニークな発言発想をひけらかすのは必ずしも価値的ではないのである。(4)

孔子の言葉の規制力は、かくも強大なものであった。思想の書であれば、それが思想の書であるだけいっそう「述べて作らず」に規制されることになる。朱子は旧来の儒学と異なる哲学を打ち建てたことで知られるが、彼は自身の思想を経書に対する注釈の中で披瀝したのであった。独自の思想を記した思想書ではなく、あくまで注釈だ、というわけである。『論語』に対する朱子の 注釈『論語(しっ)(ちゅう)』は、彼に先立つ学者たちの言説を集成した上で自身の意見を記しており、「述べて作らず」の体裁をとっている。しかし先学の言説といえども、それらは朱子の判断によって選ばれている上に、注釈といいつつ結局は独自の思想を開陳しているのだから、「述べて作らず」は多分に建前の性質を帯びている。

【図版】文徴明「品茶図」
國立故宮博物院蔵。

「信じて古を好む」

述べて作らない著述態度は、建前なのか。惰性なのか。しかし『長物志』を読んでいると、必ずしも建前や惰性とは言い切れぬものを感ずる。筆を置いておく盆状の器「筆船」について、文震亨は次のように記す。

紫檀烏木細鑲竹篾者可用、惟不可以牙玉爲之。

紫檀・()(ぼく)にして細かく竹篾(ちくべつ)()めたる者 用ふべし。ただ()(ぎょく)を以て之を(つく)るべからず。

紫檀・烏木に竹の小片を細かくはめこんだものは使い物になる。ただし象牙や玉で作ってはならない。

この項は『考槃余事』巻3「筆船」(『遵生八牋』巻15「筆船」と同文)に基づくが、後半部分は「『余事』では牙・玉製をも「佳」とする」旨、訳注が指摘している(5)。実際、『考槃余事』の原文は「牙・玉を以て之を為る者有り、亦た佳(有以牙玉爲之者、亦佳。)」となっている。つまり、象牙・玉に対する『考槃余事』の評価を、『長物志』は覆しているのだ。
 「述べて作らず」をかなり忠実に実践している文震亨にしては、思い切った書き方である。自身の美意識に対する矜持がほとばしり出ているようである。この章段はごく短いながらも、他者の言葉に自己の言葉を対峙させる緊張感に満ちている。
 かつてある人から、このようなことを聞いた。「古典詩文というものは、99まで先人の作を踏まえつつ、そこに1だけ自己の新味を加えるものだ」と。そうであるとすれば、1の新味はそれまでの99に対抗できるだけの強靭さを持っていなければならない。己の1は、先人の99と釣り合うか。古典詩文の作者たちは、そう自己に問いかけていたのだった。
 なぜ彼らは99の重圧を自らに課したのであろうか。それは、「信じて古を好む」からである。
 孔子の時から2500年を経た今となっては、「述べて作らず」に消極的な響きを聴きとってしまうのも無理はない。しかしこの言葉には「信じて古を好む」という言葉が寄りそっていたことを忘れてはなるまい。「述べて作らず」が長く人々を縛ったことは否めないが、「信じて古を好む」気風は、いまなお中華圏には残っているようである。それは書を見るだけでも感じられる。中華圏の人々の臨書を見ると、石碑の書であれば、点画が長年月を閲して損なわれ、風雪に遭ってやせ細ったところまでも忠実に筆で書き表そうとしていることがある。
 文震亨が『考槃余事』その他の書物を事実どの程度敬い尊んでいたかは知るよしもない。彼はただ机辺の書を手すさびに写していただけなのかもしれない。しかし先人の言葉をひたすら書き写し書き抜く文震亨の姿は、「信ずること」「好むこと」の力に動かされた者の姿を、はしなくも我々に示している。先人の言葉に賛同するときは、その言葉をそのまま書きとどめることによって、彼は暗黙のうちに賛意を表した。しかし99の圧力によって密度を高められた己の1が噴き出そうとするときは、噴き出すままに、それを筆先に載せたのである。
 杜甫の詩に「語 人を驚かさずんば死すとも()まじ(語不驚人死不休)」――あっといわせる言葉を吐けなければ、死んでも死にきれない――という句がある。これもまた、99の重みを一身に受け、それを跳ね返そうとしている言葉として受け止めることができるだろう。

典故の典型

古人の文章を引用し、その結果著作が引用の貼り混ぜ帖の様相を呈するに至る。これは前近代中国の随筆の筆法である。しかしあらゆる文学ジャンルにおいてこのような書き方がなされたわけではない。引用の別のありかたとして、ここからは詩文における「典故」に目を向けてみたい。
 典故とは「史実または古い書物の文章に根ざした言葉であり、もとの史実・文章を知っていなければ理解できない、すくなくとも十分な理解は得られない」表現のことである(前野直彬「修辞論」(6))。それでは典故はいかなる効果を発揮するのであろうか。これについて考えるために、李白の「春夜 桃李園に宴するの序(春夜宴桃李園序)」を読んでみることとしよう。やや長くなるが、全文を下に掲げる。

夫天地者萬物之逆旅、
  光陰者百代之過客。
 而浮生若夢、
  爲歡幾何?
 古人秉燭夜遊、良有以也。
 況陽春召我以煙景、
  大塊假我以文章。
 會桃李之芳園、
 序天倫之樂事。
 群季俊秀、皆爲惠連。
 吾人詠歌、獨慚康樂。
 幽賞未已、
 高談轉清。
 開瓊筵以坐華、
 飛羽觴而醉月。
 不有佳作、
 何伸雅懷?
 如詩不成、
 罰依金谷酒數。

夫れ天地は万物の(げき)(りょ)にして、光陰は百代の過客なり。(しか)して浮生は夢のごとし、歓を為すこといくばくぞ。古人 燭を()りて夜遊ぶ、(まこと)(ゆゑ)有るなり。況んや陽春 我を(まね)くに煙景を以てし、(たい)(かい) 我に()すに文章を以てするをや。桃李の芳園に会して、天倫の楽事を(つい)づ。群季の俊秀は、みな恵連たり。吾人の詠歌は、独り康楽に()づ。幽賞未だ()まず、高談(うた)た清し。(けい)(えん)を開きて以て華に坐し、()(しょう)を飛ばして月に酔ふ。佳作有らずんば、何ぞ雅懐を()べん。もし詩 成らずんば、罰は(きん)(こく)の酒数に依らん。

そもそも(あめ)(つち)はあらゆるものの宿、時はとこしえの旅人である。そして人の世は夢のようだ。歓び楽しみもどれほどのことだろうか。古人は昼の短さを悲しんで、明かりを灯して夜まで遊んだという。それもことわり、まして輝く春は霞立つ景色を見せて私を誘い、造物主は私に文章の才を貸し与えてくれたとあれば、なおさらのことだ。桃や李の花匂う園に集まり、兄弟の楽しき交わりをしたためる。詩に秀でた従弟たちは、さながら謝恵連だが、私の詠む歌は謝霊運に及ばぬ腰折ればかり、身の縮む思いがする。はてしなく、心静かに眺めを味わい、浮世を離れた(もの)(がたり)はどこまでも清い。紅玉にまがう絨毯を広げて花のかげに坐り、翼を広げた姿の杯を巡らして、月を仰いで酔いしれる。すばらしい詩ができなければ、どうしてもののあわれを言葉にできようか。もし詩が成らなければ、金谷園のためしにならい、罰として酒三斗を乾していただくことにしよう。

この文章には「恵連」「康楽」「金谷」という固有名詞が用いられている。これらの言葉の由緒がわからなければ、「みな恵連たり」「独り康楽に慚づ」「罰は金谷の酒数に依らん」の意味もわからない。
 「恵連」は南朝・宋の詩人、謝恵連のこと。「康楽」はこれまた南朝・宋の詩人、謝霊運のことで、封ぜられて康楽公となったことにちなむ呼び名である。二人は同族・同世代であり、長幼の順でいえば謝霊運が兄、謝恵連が弟であった。ともに南朝を代表する詩人として知られる。
 「金谷の酒数」は、西晋の富豪・石崇の故事に基づく。石崇は洛陽の郊外に別荘・金谷園を構えていた。別荘といっても、森あり、泉あり、竹あり、果樹あり、池もあれば洞窟まであったと伝えられ、日本でいえば明治の元勲・財閥の別邸、あるいは大名庭園のようなものだったのであろう。石崇はこの別荘に人々を集め、夜を日に継いで宴を催し、みなで詩を詠んだ。そして詩を作れなかった者には罰として酒三斗を飲ませることとした。一同の詩は詩集にまとめられ、石崇みずから序文「金谷詩序」の筆をとった。金谷園の風景や詩会の様子は、この「金谷詩序」に記されている。

春の夜の幻

「恵連」「康楽」「金谷」という固有名詞を用いることで、李白は「見立て」を行っているのだと思われる。そもそも「春夜宴桃李園序」の宴は、李白が年少の親族たちとともに開いた宴であった。そこで李白は、自身と親戚の諸弟との関係を謝霊運・謝恵連の関係に見立てたのである。それと同時に、「諸弟が謝恵連のようにすぐれた詩を作れるならば、自分は謝霊運のようであるべきだが、自分は詩が拙く、慚愧に堪えない」と謙遜し、諸弟を引き立てたのである。
 そして篇末で金谷園の故事を引くことで、今度は桃李園の宴が金谷園の宴に見立てられることになる(7)。さらにいえば、「春夜宴桃李園序」そのものが「金谷詩序」に見立てられることになる。李白の文は石崇の文と同様、宴を機に編まれた詩集の序文という体裁をとっている。桃李園の宴のあとに事実詩集が編まれたかどうかは別として、とにかくそのような設定になっている。宴の詩集の序は、王羲之にも「蘭亭集序」があるように、一つのジャンルを形成しており、李白の文の設定は当時の読者・後世の読者が容易に理解できるものであった。李白は自身を、饗宴の主人にして序文の筆者たる石崇になぞらえているのである。
 石崇は西晋の人、謝霊運・謝恵連は南朝・宋の人。彼らを同居させるのはアナクロニスムであるともいえるし、ないともいえる。西晋にせよ宋にせよ、広くいえば魏晋南北朝時代、李白にとっては過ぎ去りし世、大宮人たちが詩文に姸を競うた時代であった。唐の時代、李白を(あるじ)に諸弟が桃李園に会する光景は、仮想の魏晋南北朝のある春の夜、石崇の金谷園に、謝霊運・謝恵連をはじめとする公達が集い、花に酔い、月影を浴び、紅玉の莚の上、酒を酌みかわす幻影に転化する。
 しかし仮想の魏晋南北朝を浮かび上がらせる舞台装置は、固有名詞だけではない。李白の文には、なおも典故が隠されている。まず「古人 燭を()りて夜遊ぶ、(まこと)(ゆゑ)有るなり」。曹操の子・魏の文帝曹丕の「呉質に与ふる書」に「古人 燭を()りて夜遊ばんことを思ふ、良に以有るなり」とあり、李白はこれをほぼそのまま取り込んでいる。曹丕の文は、さらに初期五言詩の名作群「古詩十九首」の第十五「生年百に満たず(生年不滿百)」の「昼短くして夜の長きに苦しむ、何ぞ燭を秉りて遊ばざる(晝短苦夜長、何不秉燭遊。)」に遡る。曹丕が「古人 燭を炳りて夜遊ばんことを思ふ」と書いたのは、「生年百に満たず」の作者の願いを推し量ったためであろう。(へい)(しょく)()(ゆう)は、あくまで願望であった。古代の人々にとって、蠟燭を煌々と灯しつづけ徹宵の宴を催すのがどれほどの富を要することであったか、想像するに余りある。これに対して、李白は金谷園の宴という前例を知っている。彼にとって秉燭夜遊は事実であった。彼が「思ふ」を省いて引用したのはそのためであろう。「古人秉燭夜遊、良有以也。」と書けば、字数は六字・四字、四六駢儷文という文体の格律にいっそう合致することにもなる。
 次に「浮生は夢のごとし、歓を為すこといくばくぞ」。曹操の詩「短歌行」に「酒に対してまさに歌ふべし、人生いくばくぞ(對酒當歌、人生幾何?)」とあり、李白の表現にはこの残響を聴きとることができる。
 そして「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」。陶淵明の「雑詩十二首」その七に「家は逆旅(やどり)たり、我はまさに去るべきのごとし(家爲逆旅舍、我如當去客。)」とあり、「逆旅」「過客」を対にする発想は、陶淵明に淵源すると考えられる(8)。「月日は百代の過客にして」と『おくのほそ道』が書き起こされることもあって、李白のこの文は広く知られているが、かくも有名な表現にも基づくところがあったのである。

典故の裏表

「春夜宴桃李園序」は明示的な典故・暗示的な典故が両々相まって、読者を仮想の魏晋南北朝に誘い入れる。それでは読者は、このような典故をすべて見抜けることを期待されているのだろうか。
 一般的には、期待されているといわれる。読者が自分と同等、あるいはそれ以上の教養の持ち主であることを前提として書くのが、表現者の礼節であり、表現に品位を与えると考えられていた。従って『論語』のように、知識人たるもの必ず読んでいてしかるべき書物の言葉を引く際に「『論語』に曰く」などと書けば、読者の教養を低く見積もっていることとなり、それはまた著者の見識が問われることにつながったのである。
 ただわたくしは、ある種の典故は読者がその出典を知っていることを必ずしも期待していないのではないかと思っている。固有名詞のように、そこに典故があることを明示しているものは、出典に思い至らなければ文の意味が通らない。逆にいえば、文を文字通りに解して意味が通らないところには何らかの典故が隠されているのであり、そのような部分は出典を知っていることが期待されていると判断できる。一方、「古人 燭を秉りて夜遊ぶ」のようなものは、「古人」とある以上典故の存在が予想され、恐らく読者が出典に思い当たることが期待されているであろうが、たとえ出典を知らなかったとしても、文の解釈には支障をきたさない。ただ表現の厚みを汲み取りきれないうらみは残る。
 「逆旅」「過客」の対は、個々の単語ではなく、対の作り方に典故があるもので、高度な修辞といえる。しかしこれもやはり、典故を見破れなかったとしても文の意味をとることはできる。ここに陶淵明を忍ばせたのは、極論すれば李白の自己満足である可能性もあろう。わかる人にだけわかればよい。わかった人は、ここに陶淵明が姿を見せることにどのような意味があるのかを、思い思いに考えればよい。李白がこの文章に取り込んだ作者のうち、曹操・曹丕・謝霊運・謝恵連は皇族・貴族、石崇は富豪であり、陶淵明は彼らと趣を異にするが、貴族的で艶麗な要素と、超俗的で平淡な要素との共存は、李白の文学の特質をいみじくも表しているかのようである。
 ともあれ、「春夜宴桃李園序」で用いられた典故は、単なる飾りではなく、見立てによって仮想の時空を浮かび上がらせるものなのであった。そしてまた、「天才」という印象をしばしば持たれる李白といえども、自分の言葉だけで作品を書いたのではなく、古人の言葉を融通無碍に取り入れていたのであった。どのような天才も他者から何かを学ぶものであり、どのような名作にも下敷きはあるのである。

見立て尽くし

桃・李の花咲く園から、鳥歌う『草枕』の山里にもどろう。第四章の末尾に、このような文章がある。

ほーう、ほけきょうと忘れかけた鶯が、いつ勢を盛り返してか、時ならぬ(たか)()を不意に張った。一度立て直すと、あとは自然に出ると見える。身を(さかし)まにして、ふくらむ()()の底を震わして、小さき口の張り裂くるばかりに、
 ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうー
と、つづけ様に(さえ)ずる。

「身を逆まにして」は、芭蕉の門人・宝井其角の句

   鶯の身をさかさまに初音かな

を踏まえている。第五章は、主人公が床屋にいる場面から始まる。江戸弁を操る親方。顔に石鹼を塗られ、髭を剃られる主人公。そして「身をさかさまに」の句――まるで横溝正史の『獄門島』のようだ。
 『獄門島』では、床屋の親方と金田一耕助とが問答を交わしているところへ、「鏡花の小説にでも出てきそうな世にも美しい少年」鵜飼章三が現れるが、『草枕』で現れるのは禅寺の小坊主「了念」。『獄門島』の禅寺・千光寺の住職「了然」は、彼の後身であろうか。『草枕』と『獄門島』との類似を指摘した論考はすでに存在するが(9)、そこへもう一つ付け加えるならば、『草枕』に現れる謎めいた女・那美の実家は「志保田」、『獄門島』の網元の一つ・(わけ)()(とう)の嫁にして、鵜飼章三を鵜のごとく飼いならしている女の名は「志保」である。
 『獄門島』では、芭蕉の

   むざんやな(かぶと)の下のきりぎりす

が引かれている。この句は『おくのほそ道』の旅で、芭蕉が小松の多太神社に詣でたときの作である。神社には斎藤別当実盛の兜と錦の(ひた)(たれ)とが奉納されていた。平安時代末期の武将・斎藤実盛は、はじめ源氏に仕えたが、のち平家方につき、加賀の国・篠原の戦いでは平維盛に従い、木曽義仲の軍と戦った。老兵・実盛は白髪を黒く染めて奮戦したが、ついに討ち取られる。しかし源氏方は、その黒髪の首が誰のものであるかわからない。樋口次郎兼光が首実検をすると、兼光は実盛と旧知の仲であったため、一目見てそれが誰であるかを悟る。そのとき兼光は、『平家物語』では「あなむざんや」といい、謡曲『実盛』では「あなむざんやな」という。芭蕉はこれらに基づいて句を作ったのである(10)
 伝説によれば、実盛は稲の株に足をとられて転倒したために、討ち取られてしまったのだという。田を荒らす虫は、実盛の怨霊の化身なのだという。貝原益軒の『大和本草』「(イナムシ)」の項にも、「倭俗ニ実盛虫ト称スルアリ、イナゴニ似テ小也。青色也。首ハカブトヲキタルガ如シ」とある。芭蕉の句の「きりぎりす」も、実盛の霊として現れているのだと思われる。
 このように考えてくると、芭蕉の句は次のように解釈できるだろう。

ああ、いたましいことだ。兜の下、きりぎりすがまるで実盛その人のように、ないている。

それでは――これまでくり返してきた問いだが――「むざんやな」「きりぎりす」の典故は、読者が由緒を知っていることが期待されているのだろうか。「むざんやな」は謡曲ないし『平家物語』に基づくため、実盛物語の中の印象深い言葉として、かなりの人が知っていたことだろう。聞くところによれば、加賀の金沢では「謡が空から降ってくる」といわれるほど、能がさかんであったという。大工のような職人すら、仕事の間に謡を謡っている、ということであろう。浴びるように謡曲を聴いていたかどうかは別として、金沢に限らず江戸時代の人々、殊に芭蕉のごとく武家と関わりのあった人々にとって、謡曲は身近な存在であったはずである。
 「きりぎりす」については、稲に害をなす虫を祓う「虫送り」の行事が現在でも各地で行われているほどであり、虫と実盛とを結びつけるのは無理なことではなかったであろう。
 とはいえ数百年を隔てた我々が、芭蕉やかつての読者と同等の前提知識を持ちあわせていないのはやむをえぬことである。しかし芭蕉の句から出で立ち、注釈の導きに助けられて、謡曲や『平家物語』を一見し、さらには本草学や民俗学の原野を探り歩けば、『おくのほそ道』だけでは見られなかったあまたの景色と出会うことができる。

狂言じたて

『おくのほそ道』の中で謡曲の面影がほのめく句は、「むざんやな」の句ばかりではない。

   一つ家に遊女もねたり萩と月

「僧形にさまをかえて旅する私は、ゆくりなく一つ屋根の下、遊女と泊まり合わせた。我々の間柄を表すかのように、真如の月がたおやかな萩の花を照らしている」というこの句には、謡曲『江口』の移り香があるという。『江口』に現れる亡霊は、その昔摂津の国・江口の里で西行と歌を詠み交わしたという遊女である。『おくのほそ道』の旅人と遊女の関係が、西行と遊女との関係に見立てられていると見るわけである。
 ただし、西行と遊女との関わりを伝える作は『江口』に限らない。また、「むざんやな」の句とは異なり、謡曲を知らなかったとしても「一つ家に」の句意を解し得ないわけではない。芭蕉がはたして本当に『江口』を踏まえているのか、知るすべはない。典故に関する議論には、読者が深読みに陥っている可能性がつねにつきまとっている。
 しかしながら、読者が芭蕉と西行とを重ね合わせ、芭蕉が西行を演じていると見ることは、たとえ作者の目論見になかったことだとしても、彼にとって本意なきことではあるまい。
 こんなくだりもある。永平寺を発って福井を目指す旅人は、等栽という知人を訪ねにゆく。等栽のすみかは、「市中ひそかに(ひき)(いり)て、あやしの()(いへ)に、夕顔・へちまのはえかかりて、鶏頭・帚木にとぼそをかくす」というものであった。戸を叩くと、「侘しげなる女」が現れる。等栽の妻である。この場面は、芭蕉自身「むかし物語にこそ、かかる風情ははべれ」と記すように、昔物語――『源氏物語』夕顔の巻を思わせる。その巻のはじめには、おちこちに立ち傾く貧しげな小家の軒に夕顔が生えまつわっているさまが描かれている。『源氏物語』ならば、夕顔のからむ家に住むのは、やんごとなき婦人か、優美な女君でなければならない。しかし『おくのほそ道』で姿を現したのは「侘しげなる女」であった。この落差に「俳諧」がある。
 そしてこの場面が夕顔の巻を本歌とするものならば、芭蕉は光源氏を演じていることとなる。俳諧の極致といえよう。
 『おくのほそ道』において、芭蕉は典故をたよりに古の文学と交歓を果たすとともに、自らをそれらの文学の主人公たちに擬するという、変幻自在の「狂言」を演じているのである。

道行

「述べて作らず」という倫理からにせよ、「信じて古を好む」という希求からにせよ、見立てという表現上の趣向からにせよ、単なる文飾であるにせよ、典故を用いることの価値は結局何なのだろうか。思うにそれは、「他者の言葉にむかって己を開く」ことである。自分の言葉に閉じこもらず、他者の言葉にむかって己を開き、自分よりも大きな存在とつながることである。
 このように感じたのは、『曽根崎心中』を読んでいたときである。

この世の名残、夜も名残。死ににゆく身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足づつに消えてゆく。夢の夢こそあはれなれ。
 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり。
 鐘ばかりかは草も木も、空も名残と見上ぐれば、雲心なき水のおと、北斗は冴えて影うつる……

ここまで読んで、わたくしは本を伏せて溜息をもらさぬわけにはゆかなかった。「雲心なき水のおと」――これは陶淵明の「帰去来の辞」ではないか。「雲心無くして以て(しゅう)を出づ(雲無心以出岫。雲は無心のままに、山の岩穴を出る)」――しかし、これは心中の道行である。今まさに人が死のうとしているときに、悠長にも言葉を飾るとは、(わきま)えがないといわれかねないふるまいである。
 だがこの悠長さ、心の余裕に、わたくしは救いを感じた。腹を切る前に歌を詠むのにも似た、余裕。もしも語り手が、死ににゆく二人になりきり、二人になりかわって嘆きの言葉をひたすら連ねていったならば、聴き手もろとも、悲しみの淵に引きずりこまれることとなろう。しかし近松はそうしなかった。見物人めく態度を敢えてとることによって、悲しみは己の外側に置かれる。他者の言葉を引き入れることによって、語り手の私的な言葉で語り手・聴き手の心が埋めつくされることは防がれる。そして古人の言葉を入口として、両者はともども古の、永遠の、普遍的な言葉の世界へと放たれることとなる。
 心中とは、ごく私的な営みである。死出の旅路へと手を取り合うとき、二人にとって、この世はもう二人だけのものだ。二人だけの世を求めて、彼らは死ぬのであろう。しかしお初と徳兵衛の死は、近松という語り手を得、近松の言葉は典故をなかだちとして、古の言葉とつながっている。このくだりを読んで、わたくしはこの若き男女の存在そのものが、永遠なるもの、普遍的なるものへと昇華したように感じたのである。
 「われとそなたは()(をと)星、かならず添ふとすがり寄り」――二人の星は、まぎれもなく文学の星座のなかにきらめいている。

  1. 藤堂明保[訳]『論語』(中国の古典1)学習研究社、1981年。なお、藤堂氏は「述」を「(したが)う」と訓読し、「「述」は長年人びとが歩いてできた村の古道。また、既成の道に従って離れないこと」と注する。
  2. 荒井健[他訳注]『長物志1――明代文人の生活と意見』平凡社東洋文庫、1999年、p. 60。
  3. 注2に同じ。
  4. 荒井健[他訳注]前掲書、p. 18。
  5. 荒井健[他訳注]『長物志2――明代文人の生活と意見』平凡社東洋文庫、2000年、p. 193。「筆船」の項の訳文は筆者による。同項前半にも、『長物志』が「用ふべし」とするところを『考槃余事』は「精なること甚だし(精甚)」とするといった異同がある。
  6. 鈴木修次・高木正一・前野直彬[編]『文学概論』(中国文化叢書4)(大修館書店、1967年、pp. 1-24)、p. 14。ここに引いたのは典故の一般的な定義だが、本稿では典故の範囲を広くとり、隠喩などをも含めて議論する。
  7. 川合康三は「宴そのものを、また宴の捉え方を金谷園の饗宴になぞらえている」と述べる。川合康三「うたげのうた」(『中國文學報』第53冊、京都大學文學部中國語學中國文學硏究室內中國文學會、1996年、pp. 1-31)、p. 27。
  8. 碇豊長の指摘による。「詩詞世界 碇豊長の詩詞」、https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/r90.htm(2024年7月29日最終アクセス)。
  9. 村上裕徳「横溝正史・作「獄門島」に於ける漱石・作「草枕」の影響と、「草枕」に於ける探偵小説的興味について〔前編〕」、『『新青年』趣味』第23号、『新青年』趣味編集委員会、2023年、pp. 105-135。
  10. この句の上五は、初案と定稿とで違いがあり、何を典故に用いているのか厳密には問題になるが、本稿では深く立ち入らない。