羊とは
羊の話をいくつかさせてほしい。といっても羊に個人的な思い入れがあるとか、psychology を表すギリシア文字の Ψ (PSI、プサイ)は羊の角を表す象形文字に由来があるとか、そういったことではない(1)。たまたま今回のテーマにかかわる話が複数、羊と関連を持っていただけである。
一つ目は、とある論文の冒頭で紹介されていた冗句である(2)。天文学者と物理学者と数学者が大ブリテン島を列車で北上していた。スコットランドに入ったところで車窓から黒い羊を見つけた天文学者が言った。「スコットランドの羊は黒いんだね」。それを聞いた物理学者が「スコットランドには黒い羊もいる、というべきだ」と返した。二人のやりとりを聞いていた数学者が言った。「スコットランドの、ある草原には、少なくとも体の半分が黒い羊が、少なくとも一頭いる」。
二つ目は羊といっても山羊(GOAT)の話である(3)。史上最高、つまりGreatest Of All Timeの頭文字をとって「サッカーのGOATは誰だ」のように使う。例えば自転車のロードレースでは1960〜70年代に規格外の強さを見せたメルクス(Eddy Merckx)が長年にわたって誰もが認めるGOATであった。ところが2020年代に入ってポガチャル(Tadej Pogačar)(4)という、これまた規格外の選手が現れたことで状況が変わりつつある。単純な成績(勝利したレースの格式と数)だけを見れば、ツール・ド・フランスこそ総合5勝でメルクスに追いついたものの、世界選手権の勝利数はまだ3対2で負けている。しかしメルクスの時代と現在では競技環境が大きく異なり、ゆえに単純な勝利数だけで比較することはフェアでなく、すでにポガチャルはメルクスを上回っていると主張する人も出てきた。他方、むしろ往時の環境であれだけの成績を残したメルクスこそがGOATに相応しいと主張する人もいて、自転車ロードレースが盛んな欧州あたりでこんなネタを持ち出したら、下手をすれば炎上しかねない。
三つ目は羊羹の話である。某漫画(5)ではないが、羊羹の中の羊羹、すなわち究極の羊羹とは何かというお題を考えてみたい。「虎屋でしょ」というのが一つの定番の答えだろうか。たしかに「羊羹中の羊羹」味がある。一方、羊羹を極めるとなれば、そもそも羊羹とは何か、その起源を探ることも大事だろう。などと考えると話がややこしくなる。もともと羊羹は中国大陸から伝わった羊肉の羹(あつもの=スープ)だったという話があるのだ。あまりの変貌っぷりに眉につばを付けてフーフー吹きたくもなるが、京菓子資料館(京都市上京区)にもそういう説明があったので、信憑性は高そうだ。熱々の羊スープも究極の羊羹の候補に加えるべきだろうか。そんなことを考えていると「その変貌ぶりから分かるように、時代に合わせた変化こそ羊羹の羊羹たる真髄である。すなわち究極の羊羹とは井村屋のスポーツようかんというべきであろう」などという意見にも、それなりの説得力があるように思われる。運動中の疲れた時でも片手で簡単に手を汚さずに栄養補給できるよう工夫されたあのパッケージは、確かにあっぱれである。
一般化の罠
長々と何の話をしてきたのか。注まで丁寧にチェックする抜け目のない読者は最初の冗句の引用元の論文タイトルで気づいたかもしれない。曰く、“The Generalizability Crisis”、つまり一般化の話である。上記の例はいずれも、何らかの根拠をもとに、ある主張をどれだけ一般化できるのかを問いかけるところに共通点がある。一つ目の話は、列車の車窓から見えた一頭の黒い羊の存在から、その地域の羊全体という“主語の大きい”話をするのか、それとも極めて抑制的な判断に留めるのかという話だった。エビデンスからの一般化において自然科学の中でも分野による違いがあることを表している(6)。
二つ目のGOATの話は、測定の一般化にある限界を表している。第2回でも触れたように、競技スポーツとはなんらかのルールのもとに選手たちのプレイに数値(例えばタイムや得点、順位)を割り振るシステムと言える。それぞれのスポーツにおける「優れたパフォーマンス」をルールを通じて操作的に定義し、競技(試合やレース)を行ってパフォーマンスを測定し、優劣を決する。しかし、そうして得られた数値を比較できるのは、測定条件が(ある程度)等しい場合に限られる。直接対決ならば勝敗に異論が生じることはほとんどないだろう(7)。しかし条件が異なれば比較は難しくなる。異なる時代の間での比較となれば尚更で、それぞれの時代における測定(競技)がどれだけ厳正であったとしても、単純な比較(「3勝は2勝より偉い」)は論争の火種にしかならない。陸上競技のタイムのように100分の1秒単位の厳密な測定であっても、1968年に10秒03を出した選手と2025年に9秒75を出した選手の、どちらがより偉大かを決めるのは容易ではない(8)。
三つ目の羊羹の話は、気づかずに“主語の大きすぎる”話をしてしまう危険を表している。私たちはしばしば、日常的に使っている語や概念が、いつでもどこでも同じ意味を持つと思ってしまう。「究極の羊羹」と聞けば、小豆を甘く煮て固めたあの和菓子の究極形のことだと考えて、それがどんな時代にも通用する話だと思ってしまうし、トコロテンと言えば酢醤油で(または黒蜜で)食べるものだと信じて疑わない。普段の生活で特に問題が生じないためか、自分の理解が古今東西で普遍的に通用するものと勘違いしてしまうのだ。
“本物”の範囲
もちろん心理学における一般化の話をしたいからこのような前置きをしているのだが、そちらに進む前に、あともう少しお付き合いいただきたい。
一般化と関係するものに「本当」とか「本物」という言葉がある。本物というからには偽物があるわけで、「メッキが剥がれる」などという表現がある。純金の指輪だと思っていたら中は真鍮だった、みたいなことだ。このとき「本物の純金である」とは何を意味するだろうか。一つは、その指輪が金(Au)という物質のさまざまな性質(比重、導電性、融点など)を持つと確信できることである。冷静に考えるとこれはなかなかすごいことだ。純金の物質的性質についての知識は、別の純金を調べて得たものである。その指輪自体を調べたわけではない。「他の金ではそうだったかもしれないけれど、この指輪の金は違うかもしれない」と疑問を持つことも可能なはずなのだが、それにもかかわらず、その指輪が本当に純金製ならば、別の純金から得た知識を一般化してよいことが保証されるのだ(9)。逆に言えば偽物にたいして知識の一般化はできない。中身が真鍮の指輪の物質的性質を、純金についての知識から推測することはできない。
それでは「純金の指輪」が「本物」であるためには、その構成物質が純金であれば良いのかと言えば、必ずしもそうとは言えないのが人の世の面白いところだろう。例えば「むかし、まだ恋人だった時のおじいちゃんからもらったものなの。私にはもう似合わないから、あなたが使ってちょうだい」と、ある人が祖母から譲り受けた“純金の指輪”があるとする。この指輪の“本当の”素材が何かを問うのは野暮である。話をきいて「あー、これは比重から言って中身は真鍮ですね。3Dスキャンを撮って、傷から歪みから全て完璧に純金で再現してあげるから、この紛い物は処分したほうが良いですよ」なんて言い出す人がいたら、話が通じないこと甚だしいと言わざるを得ない。この場面において、その指輪が「純金の指輪」であるとは、そういうことではないのだ。たぶん(10)。
つまり「それは本物の◯◯なのか」という時の「本物」の意味は、状況によって変わる。金の物質としての性質の話をするときには、その範囲において「本物の純金とはかくかくシカジカの物質的性質を持つものである」という物性科学の知識を用いた一般化が許される。しかし、そうした知識を適用範囲を超えて一般化しようとすれば痛い目にあう。言い換えれば、どのような一般化にもそれが通じる範囲があるということだ。学問の分野、特に自然科学の分野というものは、自らが知識を一般化する範囲を明確に定め、その範囲内で出来るだけ一般化可能な知識の蓄積を試みるものとも言えるかも知れない(11)。
心の物差しの作り方(復習)
そこで考えたいのが、心理学はどのような範囲で一般化を試みているのか、ということである。とは言うものの心理学という分野は非常に広く、心理学一般についての議論(“本当の心理学”についての議論)は困難である。今回は、この数回あつかってきた心理尺度開発に限定して考えてみたい。
ここで改めて心理尺度とは何で、どのように作られるのか振り返っておこう。心理学が扱うさまざまな概念(知能、性格、態度などなど)の一人ひとりの違いを数値化するのが心理尺度で、それは心理尺度開発と呼ばれる一連の手続きを経て考案され、提案され、受容される。尺度開発において重視されるものには大きく二つあり、一つは尺度の信頼性(reliability)、一つは妥当性(validity)だった。信頼性とは同じものを測ると同じ数値が得られるということで、これが成立しないと尺度(物差し)として使えないことは言わずもがなだろう(詳しくは第7回を参照)。妥当性は一般に「測りたいものを測れている程度」と説明される。例えば仕事ができる度合いを測るシゴデキ尺度(第7回、8回参照)によって得られた数値が、本当にその人の仕事ができる度合いを測れている程度である。
妥当性にはいくつか種類があり、中でも収束的妥当性と弁別的妥当性を前回は紹介した。測りたいもの(シゴデキ度)と理論的に関連が深そうなもの(例えば感情知能)を探してきて、同じ人から得たそれぞれの得点を並べてみる。シゴデキ得点が高い人は感情知能得点も高い傾向が見られたならば、シゴデキ得点はシゴデキ度を測っていると言える。これが収束的妥当性だった。他方で、測りたいものと理論的には関連していないはずのもの(例えば不安傾向)を比べて、シゴデキ得点の高低と不安得点の高低は無関係であることを示すのが弁別的妥当性だった(第8回を参照)。
こうして信頼性と妥当性を確認し、その経緯を論文にまとめ、それが査読をパスして専門誌に掲載されると、当該尺度にたいして心理学コミュニティから品質保証が与えられたことになる。
尺度は個人を語らない
さて、このようにして作られたシゴデキ尺度にかんする知識は、どのような範囲で一般化できるのだろうか。“本当の心理学”を知らない方は、次のように考えるかも知れない。「シゴデキ尺度を使えば、うちの求人に応募してきた人がどれくらいシゴデキなのか知ることができる。なぜならシゴデキ尺度は専門家の手によって信頼性と妥当性がチェックされて、品質保証が与えられているものなのだから」。残念ながら、これは心理学者の仕事をいささか過大評価していると言わざるを得ない。少なくとも前々回、前回に説明した程度の手続きで検証されたものだとしたら、シゴデキ尺度にそこまでの一般化可能性を求めるのは酷である。
なぜなのか。まず、そもそもの話として、少なからぬ心理尺度の主目的は、特定の人物の心理的傾向を知ることではない。そのようなことを言うと、以前(連載第7回)にこう書いていたではないかと指摘されるかもしれない。
心にかかわる概念(協調性、真面目さ、優しさ)にかんする量によって対象者を選別したいという願望[……]に応える客観的な指標を提供しようと思うのならば、「協調性」や「真面目さ」「優しさ」を測る物差し、すなわち心理尺度が必要となる。
あれは嘘だったのかと言われると、嘘八百とは言わないまでも、盛った表現であったことを告白せざるを得ない。大事なことなので慌てて書くが、もちろん中には特定個人の心理的特徴を知るために開発される心理尺度も存在する。代表的なのが知能検査で、その起源には個々人の知的能力を得点化し、分類・序列化したいという社会の要請に応えることがあったと思われる(12)。他方、そうしたことをあまり考えていない心理尺度も少なからず存在するのである。
具体例を出したほうが説得力もあると思うので、筆者がかかわった尺度開発の話を紹介しよう。これまた大慌てで書き添えるが、この尺度開発は複数人による共同研究であり、共著者たちは異なる意見を持っているかもしれない。あくまで筆者個人の話として読んでほしい。
開発したのは、いくつかの三段論法に回答してもらうことで知能を測定するという尺度だった。確認すると、三段論法とは次のようなものである。
すべてのアスリートは健康的である。
いくらかの健康的な⼈は裕福である。
したがって、いくらかのアスリートは裕福である。
二つの前提から「したがって」で示される結論を得る。開発した尺度では三段論法を5問提示して、それぞれの論証が論理的に妥当と言えるのか(前提から結論が必然的に導出されるのか)を回答してもらうこととした(13)。その正答数をもって回答者の知能の“測定値”とするのである。たとえば、このアスリートと裕福さについての三段論法における結論の導出は妥当でない(13)。
この三段論法尺度(正式名称は BAROCO Short という)を開発している時の(筆者の)動機は、郵送で簡便に知能を測定できる尺度があると便利に違いない、というものであった。通常の知能検査は、学力試験などと同様、回答時間などを厳密にコントロールした環境で行う必要がある。そのため数百〜数千人の知能データを集めようとすると、大きな会場を準備して多数の検査担当者を配置するなど、大変な手間と費用が必要となる。それが郵送調査――郵送した問題冊子に回答を書き込んで返送してもらう――でも可能となれば、その便利さは計り知れない。大学入試を郵送で行えたら、どれだけのコスト削減になるか想像すると、その便利さがお分かりいただけるだろう。
大学入試を例に出すと、回答者一人ひとりの知能得点を簡便に測れるようになることが開発動機であったように思われるかもしれない。ところが、実は一人ひとりの得点を知ること、つまり特定の個人の得点を知ることに、筆者はほとんど興味がなかったのである。興味があったのは、得点の全体的な分布と傾向であった。
概念間の関係を知りたい
大学入試では、個々の受験者の得点が大きな意味を持つ。ある受験者の得点が合格ラインよりも上ならば合格するし、下ならば不合格になる。「特定の個人の得点に興味がある」とは、その得点を使ってそれら個人への対応を変える気がある、ということである。
他方、三段論法尺度を開発したときに興味があったのは、その尺度の得点が、他のさまざまな得点とどう関係するのかということであった。例えば三段論法尺度で高得点の人は幸福感も高いだろうか、といった疑問である。特定の個人が三段論法尺度で何問正解するかに特段の興味はないし、もしもこの尺度を使って誰かの人生にかかわる決断(入試や採用試験の合否など)をする計画があるなどと耳にしたら「そんなことに使える保証はありません!」と大反対したに違いない。
このように、少なからぬ心理尺度は、それが測る対象――三段論法尺度なら知能、シゴデキ尺度ならシゴデキ度――と、なにか別のもの、例えば「幸福感」とか「家事負担」などとの間に、どのような関係が見られるか知ることを動機として作成される。「シゴデキな人は幸福感も高いのではないか」「職場でシゴデキな人は、家庭も大切にしているのではないか」といった疑問(リサーチ・クエスチョン)を検証するための道具を作ることが目的なのであって、ある特定の求職者の採否判断に使える道具を作っているのではない。関心のある心理構成概念(知能、性格、幸福感、シゴデキ度、家族を大切にする程度)の間にどのような関係が見られるか、それを明らかにするために作られているのだ。
概念は互いの意味を与える
ここで勘の良い読者は、構成概念間の関係というものが、妥当性の検証の時に用いたものと同じであることに気づいたことだろう。シゴデキ尺度の妥当性を検証するために、シゴデキ度と関係するはずの別の構成概念(感情知能)を測定し、二つの得点の間に関係が見られるか検討するという話であった。このとき、シゴデキ度の妥当性検証に使われる他の尺度(感情知能尺度)もまた、往々にして、他の尺度を用いてその妥当性を検証している。つまりさまざまな心理尺度の妥当性は、他の心理尺度によって支えられており、それら尺度の妥当性もまた他の尺度によって支えられている、という関係がある。
そこまで聞くと「はて、それは辞書の冗句のようなことにならないか?」と疑問に思う読者もいるだろう。「右」の定義を辞書で調べたら「左の反対」と書いてあった、という話である。もちろん実際の辞書はそのようなことになっていないし、それは心理構成概念のあいだの関係についても同じである。
語の意味がどのように成立しているのか、はじめに出てきたGOAT(Greatest Of All Time)を例に考えてみよう。この語が何を意味するのか理解するためには、アクロニムを構成する4つの単語(Greatest, Of, All, Time)の理解だけでは不十分である。競技スポーツには勝者と敗者がいること、とりわけ強い選手(チャンピオン)が時に現れること、そのチャンピオンも時代と共に変わること、それが選手の老いゆえの変化であること、などといった背景の理解があって初めて、GOATという概念が理解できる。
さらに「自転車ロードレースのGOAT」について語ろうとすれば、その競技の詳細な理解が必須となる。先に「ポガチャルはツールこそ5勝でメルクスに並んだものの、まだ世界選手権は3対2で負けている」と書いたが、なぜそれがGOATたる資格を語るうえで鍵となるのかを理解するためには、この競技における世界選手権、ツール・ド・フランスというレースの位置づけが分からないと話が始まらない(14)。逆に言えば、そうしたさまざまな概念(勝者、チャンピオン、老い、競技の性質)が連関してはじめて「ポガチャルを自転車ロードレースのGOATであるとする意見にはまだ異論も多い」といった言説が何を意味するのか理解できる。ある概念の理解は、関連する概念のあいだの連関の中から生じるのだ。ここまで読んだ読者諸賢の多くが(日本ではマイナー競技である自転車ロードレースの話について)「いまいちよく分からないなぁ。野球で説明してよ」といった感想を抱いているであろうまさにそのことが、この構造をよく表している。
心理構成概念の関係を探る
心理構成概念のあいだにも似たような関係がある。ある心理構成概念(シゴデキ度)の意味は、さまざまな背景知識の網目(ネットワーク)の中から生まれる。前回、シゴデキ尺度の一項目として「意見が対立しても、関係を悪化させずに話を進められる」というものを提示した。「シゴデキ」にそのような意味を認めることは、人間がしばしば共同作業をする動物であること、同じ目標をもって働く人々の間でもしばしば意見の相違が生じること、意見対立は一般に忌避されるものであることなど、さまざまな背景理解があって、初めて可能となる。
そうした背景理解の中には、他の心理構成概念との関連も含まれる。例えば意見が対立した際に関係を悪化させないためにどのような方策が有効なのかは、文化によって異なるかもしれない。年長者を立てることが効果的な文化もあるだろうし、立場に関係なく意見をきいて妥協策を提案する方が良い文化もあるだろう(「年長者を敬う程度」や「フラットな議論の重視度」もまた心理構成概念となりうる)。さらに一歩進んで、ある文化(例えば儒教文化圏)では前者の方が効果的であるという予測を、蓄積された先行研究から理論的に導くことができるかもしれない。シゴデキ尺度は、その予測をリサーチ・クエスチョンとして検証するために用いることができる。そして、もし予測が支持されたのならば、それをもってシゴデキ尺度の妥当性を強化する根拠とすることもできる。逆に支持されなかったならば、理論の見直しや、尺度の側の改善と洗練の機会とすることができる。
これが少なからぬ心理学研究が行っていることである。心理構成概念の間の理論的な予測を立てて、問題となる構成概念を測定する尺度を開発し、検証する。その作業の蓄積を通じて、心理尺度を洗練させ、数多の心理構成概念の繋がりについての知識を充実させ、「心」とは何かを理解する。それは自転車ロードレースに興味をもった人が、そこで使われるさまざまな概念(マイヨ・アルカンシェル、グランツール、北の地獄、ドメスティークなどなど…)の関係を少しずつ把握し、もって競技の全体的理解を含めていくことと似ている。そうした営みのために心理学者は日々、対面、郵送、オンラインで心理尺度を配布し、データを集め、分析しているのだ。
何のために測るのか
このような目的で作成した心理尺度を、そのまま「特定の個人の心理的特徴を測るもの」として使うことは、なぜできないのだろうか。それは、ある特定の点数――例えばシゴデキ尺度得点が20点満点の15点であること――の意味もまた文脈、すなわち他の概念との関係で決まってくるからである。読者の中には数字だけを見て「20点満点中15点ならば、ほどほどシゴデキかな」と思った方もあるかもしれない。しかし仮にシゴデキ尺度の平均点が16点だと分かったらどうなるだろう。15点は平均よりややシゴデキナイことになる。なにがしかの基準が示されなければ、個々の得点の意味を語ることはできないことが分かる(15)。
こうした基準を決めるのはそれなりに手間のかかる作業である。もしシゴデキ尺度を「日本で働く全ての人」を対象に使えるものにしたいと考えるのであれば、対象者全体からまんべんなく回答を集め、平均点などを調べなければならない(16)。シゴデキ度には経験がものを言いそうなので、就業年数ごとに基準を定めたほうが良いかもしれない(経験20年で16点はシゴデキナイだが、1年目なら十分にシゴデキなど)。そんなことを考えると調査に必要な回答者数はさらに増えてしまう。ところが、そんな手間がかかる一方で、多くの心理学者にとっての主たる関心事――構成概念間の関係を知ること――のためには、そうした基準は特に必要ないのだ。得点の相対的な関係が分かれば分析上は十分で、査読もパスできる。となればわざわざ手間の掛かる調査を行う人が少なかったとして誰が責められようか。
冒頭のスコットランドの羊にかんする冗句は、数学や物理学と比べて天文学では一般化の基準が緩いことを(かなり意地悪な)冗談にしたものであった。しかし、仮に天文学が本当に主語の大きい主張をしがちなのだとすれば、それは天文学者の怠惰や知的不誠実さゆえではなく、扱うデータに由来すると言うべきだろう。なんと言っても、人類が足を下ろしたことのある天体はまだたった二つ(地球と月)だけなのである。少ないデータをもとに推論を進めるために一般化の幅を広めにとらざるを得ないとして、それを不誠実というのは言いすぎだろう。つまり一般化の進め方や範囲には、その学問分野ごとの興味や事情がどうしても反映されてしまうのだ。
測った値の意味は共有されているか
問題があるとすれば、そうした分野の制約から生じる限界について、分野外への説明が不十分な場合だろう。心にかかわる概念(シゴデキ度、知能、パーソナリティなどなど)の間の関係を知ることにしか使えない尺度を、あたかも「あなたのシゴデキ度が分かります!」のように喧伝しているとすれば、それは不誠実と言わざるを得ない。
現在の心理学がそのような事態に陥っているかと言えば、事態はもう少し複雑だろう。心理学者たちのコミュニティでは、そうした使い方が不適切であることは、ほとんど周知の事実である。しかしそれが常識として身に染み込みすぎているがゆえに、分野外の人たちへの説明が疎かになっているように思われる。「シゴデキ尺度でシゴデキ度を測れますよ。信頼性と妥当性も検証してますよ。専門家のチェック(査読)も通ってますよ」とだけ言ったら、門外漢の人の多くは「自分のシゴデキ度がバレてしまう尺度なのか!」と焦るであろうことへの想像力と、そうした誤解を解く丁寧な説明が、不十分ということだ。それは羊羹と言えば和菓子であることがあまりにも普通であるがために、「究極の羊羹」を語る時、中世の人々への想像力が欠けてしまう現代人の姿と重なるところがある。コミュニティ内部で受け入れられている概念の一般化可能な範囲に制約があること、そうした制約は時に見えにくいものであることに、もっと自覚と注意が必要であろう。
それに加えてもう一つ問題がある。仮に個々人の得点の意味を与えることがないとしても、全体的な傾向(「職場でシゴデキな人は家庭を大事にする傾向がある」など)が分かれば、それはそれで十分に社会の役に立つように思えるかもしれない。しかし少なからぬ心理学の理論と知識には、それを実際に社会で応用する上で足りていないものがあるのだ。それが傾向の強さ――専門用語では効果量――にかんする視点である。次回はこの問題を考えてみたい。
注
- 念の為、どちらの話も嘘八百です。
- Yarkoni, T. (2019). The Generalizability Crisis. https://doi.org/10.31234/osf.io/jqw35
なお上記はPsyArXivに投稿されたプレプリント(出版前原稿)の第1版である。当該論文はBehavioral and Brain Sciences 誌に掲載されたが、公刊版にはこのジョークは載っていない。今回の原稿の編集部チェックでプレプリント版からも削除されていることが確認された(筆者の手元にはジョークの載ったPDFがある)。天文学者への配慮がその背後にあったのかもしれない。言うまでもないことだが、これは大げさな戯画化であり、天文学は天文学の分野において、どこまで一般化した議論をして良いのか慎重な議論を重ね、その方法論を磨いているはずである。
Yarkoni, T. (2020). The generalizability crisis. The Behavioral and Brain Sciences, 45, e1. https://doi.org/10.1017/S0140525X20001685 - 山羊は羊とは同じ科に入る近縁ではあるものの、異なる属に分類される動物である。といっても分岐は250万年ほど前とのことなので、ヒトとチンパンジー(科は同じだが属が異なる。分岐は700万年前ほどとされる)よりは近縁のようなので、ご容赦いただきたい。
- カタカナ表記ではタデイ・ポガチャルとするのが一般的。スロバキアの選手。
- 「美味しんぼ」
- くりかえしになるが、冗句はあくまで冗句であって、天文学がたった一つの証拠だけから一般的な主張をする学問であるとするのは誇張である。しかし数学や物理学と比較した時に、学問の性質上、一時的に少ない証拠からより一般的な主張をせざるを得ないことがあるとは言えるかもしれない。
- 機材の比重が大きいスポーツ——例えばモータースポーツなど――では、機材の故障や、そもそもの機材の性能差が存在するために、直接対決であっても、単純な着順をそのまま選手のパフォーマンスの順位と評価することに異論が呈されることが少なくない。
- 男子100メートル走タイムについてはWikipedia調べ https://ja.wikipedia.org/wiki/100%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E7%AB%B6%E8%B5%B0
- 逆に言えば知識を一般化できるカテゴリーを「本物」と呼ぶのかもしれないが、そうした哲学的な議論に立ち入ると〆切に到底間に合わないので、ここでは深入りはしないでおく。
- 中には「純金で再現してくれるなら、その方が嬉しい」という人もいるかもしれないし、それはそれで文脈が異なるということである。祖母の「あなたが使って」の意味が、例えば「留学資金の足しにして」であった場合もまた、何をもって「本物」とするかは変わってくるだろう。
- 必ずしも一般化可能な知識の蓄積を志向しない学問分野も存在する。例えば歴史学(の一部)などは、そのようなものかもしれない。
松沢裕作. (2024).『歴史学はこう考える』筑摩書房. https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076403/ - 知能検査開発の歴史についての文献としては下記を参照のこと。
カート・ダンジガー. (2005)『心を名づけること 上・下』 (河野哲也ほか訳). 勁草書房. https://www.keisoshobo.co.jp/book/b27029.html 、
繁桝算男編著. (2025).『知能とは何だろうか:5つの視点から考える』新曜社. https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b666928.html - この三段論法は尺度に含まれるものではなく、 Manktelow (1999) より引用した。既存の知識が論理的推論を歪める信念バイアスを示すものとされる。当該書籍は人間の思考に見られるさまざまなバイアスを網羅的に紹介した名著である。邦訳もあります。
Manktelow, K. I. (1999). Reasoning and Thinking. Routledge. https://doi.org/10.4324/9780203015568
邦訳:K・マンクテロウ. (2015). 『思考と推論 : 理性・判断・意思決定の心理学』 (服部雅史 & 山祐嗣ほか訳). 北大路書房. - ややマニアックな話をすると、ツール・ド・フランスのように何日間も続くレース(ステージレース)で総合優勝することと、世界選手権のように一日限りで決着がつくレース(ワンデーレース)で勝利することには、やや違う能力が必要とされる。過去にも、ツールで何度も総合優勝したものの世界選手権で未勝利の選手もいれば、世界選手権で3勝してもツールの総合優勝では(大げさではなく)箸にも棒にもかからなかった選手もいる。ステージレースとワンデーレースの両方で優れることは、野球の二刀流に似た難しさがある。
- 例えば通常の知能検査では、一般に100点が平均となっている(同年齢層の母集団平均が100点になるように検査を作っている、というのが正しい)。
- 専門用語で言えば、日本で働く人を母集団とした代表サンプルを収集する必要がある、ということになる。