みすず書房

汚穢と出会いなおすために

汚穢と出会いなおすために

検便容器を冷蔵庫に入れられない

便潜血検査というものがある。

大腸がんを見つけるための検査のひとつで、便表面に血液が付着していないかどうかを調べる。40歳以上には定期的な検査が推奨されているらしく、わたしも数年前から健診や人間ドックのさいに受けている。

検査を申し込むと、細長いプラスチック容器を渡される。長さ6―7センチ、指1本くらいのサイズ感である。なかにはジェル状の保存液のようなものが入っている。ふたの内側には溝のある細い棒がついており、閉じた状態では棒が保存液に浸かる構造になっている。便が大腸のなかを移動するとき、腸壁にがんやポリープがあるとこすれて便に血がつくことがあるという。その有無を調べるため、この棒で便の表面をこすって微量を採取するのだ。

ふたを容器に収めたら、ジップつきビニール袋に入れ提出する(わたしの職場ではいつも緑の色つきビニールだ)。採取した便から血中成分であるヘモグロビンが検出された場合には、内視鏡などの精密検査が推奨されることになる。

さて、この検査では多くの場合、2日分を提出する必要がある。一度では血液がたまたま含まれない場合もあるからだろう。つまりは便をとった容器は数日のあいだ、自宅に置いておかなくてはならないのである。

どこでこの容器を保管するか、わたしはいつも悩んでしまう。

容器とともに渡される説明プリントには、冷蔵庫など冷暗所に入れるようにとある。はじめてこの検査を受けたとき大いに戸惑ったのを覚えている。

台所の冷蔵庫に入れる? これを?

便は重量にしてかなりの割合が細菌とその死骸で構成されているという。細菌の活動が活発な温度では急速に成分変化が進むのだろう。調べてみると、常温ではヘモグロビンは数日で分解・変性してしまい、出血があっても陰性になりやすくなるそうだ。

しかしわたしにはどうしても、その容器を冷蔵庫に入れることができない。容器の入った袋を別のジップつき袋に入れて、さらにそれを別のビニール袋に入れるという三重の封印を施してもなお、無理なのだ。

たとえばビニール一枚を重ねるたびに石鹸で毎回しっかり手を洗えば、その作業を3回繰り返したのちのビニールの外側には便のいかなる成分も細菌も付着していないだろう。少なくとも衛生的に問題になる濃度では全くないはずだ。頭ではわかっているのに。

直近の検査でもひとしきり逡巡したのち、結局わたしは容器の入った何重かのビニールを物置部屋の床にそっと置いた。6月のことである。()が入らない空間ではあるが、摂氏30度近くにはなる。結果は陰性だったが、常温に置いたことによるヘモグロビン変性のためかもしれないと、数カ月たってもふと思う。

その一方で、わたしはあるものを冷凍庫に入れて保存しようとしたことがある。夏場に出る生ゴミだ。わたしの住まいでは週に二日の自治体の回収日にゴミを出すので、野菜や果物の皮、肉の脂身、魚介類の頭や内臓なども何日かは家のなかにある。生ゴミは小さな袋に入れて閉じているが、気温が高くなってくるとすぐ腐敗臭が漂うようになる。

あるときインターネット上の情報を見ていると、ゴミ回収日まで生ゴミを冷凍庫に保管する方法が薦められていた。これは良いアイディアだ、ぜひやろう。そう思った。しかし共同生活する家族の反対にあって頓挫する。

わたしは不満だった。生ゴミとはいえ出たばかり、つまりまだ腐敗もしていなければカビも生えていない。調理し口に入れる部位と直前まで物理的につながっていたものだ。それなのに、包丁で切り落として「ゴミ」に分類した瞬間、冷蔵庫や冷凍庫に入れられなくなるなんておかしいではないか——

それとも、おかしくはないのだろうか?

おかしいのはわたしの方なのか?

なぜわたしは、生ゴミは自分から冷凍庫に入れようとするのに、便潜血検査の容器は指示されても冷蔵庫に入れられないのか。検査の説明書に書いてあるのだから、安全性と検査の信頼性が高いとして医療機関が推奨する方法なのだ。にもかかわらず、なぜ自分は受け入れることができないのか。冷凍庫に生ゴミが常時でかでかと入っていることに抵抗があるというのに比べ、わたしの感覚や行動になんの正当性があるというのだろう。非科学的で固定観念に縛られた態度と言われても反論はできない。

自分の体のなかに入っていくもの、それを準備する過程で切り落とされたもの、そして体から出ていくもの。あらためて考えてみれば、どれも根っこを共有している気もする。では、これらの違いとはいったい何なのか。どうしてこれらを一緒にすることに、かくも違和感や嫌悪、不安が湧き起こるのだろうか。

なぜ汚穢を考えるのか

排泄物、ゴミ、ヘドロ、腐敗、臭気。家に入りこむ虫。生活のなかで出くわす死体。伝染するもの・させるもの。乱れ、きたなさ、忌避感や不穏な感覚をもたらす何か。それが、わたしがここで汚穢(おわい)という言葉で呼んでいるものだ。できれば遠ざけていたいような、不快感や不安と結びついたものばかりで、なぜそんな対象を掘り下げようとするのか疑問に思う人も多いかもしれない。

けれども、きたなさや乱れととらえられているものは広く奥深い世界への戸口でもある——わたしが書いていきたいのはそのことである。この連載が続くにしたがって、汚穢という言葉が指し示す対象は、例外的で分類不能なもの、理解を超えたもの、予測不可能なもの、わざわいと恵み、異種のもの同士の出会いと触れ合い、肌や粘膜が見知らぬ触感に打ちふるえる不安と興奮へと広がっていくだろう。人の利便と意味世界の外側に、豊かに、獰猛に広がる世界へと、この言葉はつながっていくだろう。

それは、なぜ今、汚穢を考えることが重要なのかという問いにもつながってくる。汚穢をただ消滅させるべき何かとしてとらえるのではなく、その内部がどうなっているのか、なぜ嫌悪されるのか、汚穢は何を自分にもたらし、自分は汚穢をどう生み出しているのかを考えることは、効率性の対極に向かうことだ。効率性は何かを予測し規格化し、目的や生産物のために不要なものを削ぎ落とすこととともにある。しかし汚穢とはまさしく予測困難なものであり、与えられた型からはみ出し漏れ出てくる何かであって、一つに定められる意味だとか明白な生産性をもたないからだ。

機械やロボット工学やAIの発達にともない、人が自分の体と感覚でもって直接何かを感じ、経験し、他者やものや現象にはたらきかける局面が減少してきていることは、あちこちで論じられている。カビ胞子やほこりに目鼻をさらしたり、黒くぬめって悪臭を放つ汚泥に直接手で触れねばならないような毎日のいやな作業が、高機能家電の開発によって無くなるとすれば嬉しいことかもしれない。あるいは、PCや電子デバイスのスクリーン上でイベントや会議が完結することの利便性も圧倒的だ。コンピューター・ネットワークのインフラストラクチャーは、これまで特権的な人たち(たとえば、お金に余裕があり、常にケアの必要な共同生活者がおらず、いつでも一人で外出することが身体的に可能な人たち)にしか事実上許されていなかった機会を多様な人たちに開いたり、距離の離れた人同士のコミュニケーションを可能にすることもある。機械化・電子化はたしかに人の解放をもたらしうる。

一方で、こうしたシステムが常態化するにつれ、ある種の知が失われていくようにわたしには思える。乱れやよごれや軋みの現場に身をおいて、そこに何があるのか・何が具体的に起きているのかを身体で知覚し、はたらきかけることをもって初めて理解される世界があるのではないか。外出先でスマートフォンを操作し自宅のロボット家電を動かすことであらゆる掃除が完結したならば、あるいは未来において、便をまったく飛び散らせず完全に隠して目にふれさせず、においも感じられないようにし、全自動で掃除のいらない清潔なトイレができたとしたならば、それは人間とその生活についての重要な知を失うことでもあるのではないか。

木製のテーブルの上に置かれたバターナッツかぼちゃ。

【図1】親戚にいただくバターナッツかぼちゃをよくポタージュにする。日もちがする野菜なので油断していたら、あるとき盛大にかびが生えた。ふわふわの白い菌糸が灰色に硬く隆起した果皮とコントラストをなす(著者撮影。以降、とくにことわりのないかぎり同様)

「場違いなもの」としての汚穢

そんなふうに考えるのは、わたしが人類学者であるからだろうか。人類学調査とはaround-the-clockの(時計が一周するような)、つまり24時間体制の調査であると言われる。事前に質問リストを準備しておいたインタビューやアンケートの回答のようなものばかりが「データ」になるのではない。フィールドで朝に夕に交わされる雑談、そのときの人びとの表情や言葉の間。はたまた調査地の空気の温度、におい、明るさ、そして調査に向かうときの自分の気持ちまで。研究者その人の手、心と心臓、動作と移動、そして感覚、言い換えればその心身が経験するものすべてが何かを伝えうる——2025年に亡くなったオクスフォード大のジュディス・オクリーという人類学者はそう言った(1)。物事に興味をもったとき、その要約や帰結の情報を得るだけでは満足できない。出来事が展開する現場に身を置き、進行形で、体感しなければ得られない理解がある。そうした姿勢を人類学は持っている。

そういえば、人類学者にとって、〈不浄〉は長く重要なトピックだった。ただしそれはまず、近代ヨーロッパ的な世界認識とは異なるエキゾチックな価値観や信仰として定式化された、ということに注意が必要ではあるのだが。1890年に初版が出版された『金枝篇』において、ジェームズ・フレイザーは多くの「未開社会」に〈浄〉と〈不浄〉に関する複雑なルールがあることに着目し、〈不浄〉とは危険な状態のことだと結論づけた。エミール・デュルケームやエドマンド・リーチといった、のちの名だたる社会学者・人類学者たちに影響を与えた議論である。さらにフレイザーは、そうした社会で〈不浄〉と〈聖なるもの〉がしばしば混同されている現象にも目を向けた。そして両者が重なるものとして扱われるのは社会の未熟さの証であって、近代の西洋のようなより成熟した社会においては、汚染は宗教的な神聖さから明確に区別されている、と考えた。

この議論に影響されながらも、それを「未開社会」分析を超えた、より洗練された形で抽象化し、今日の人類学における清浄・汚穢観の基礎となる理論を築いたのがメアリ・ダグラスである。この連載もダグラスの考え方を一つの出発点としているから、彼女の主張した内容をざっとまとめてみよう。主著『汚穢と禁忌』のなかで彼女が行なった主張とは、ひとことで言えば、よごれたもの——あるいは汚染——とは、「場違いなもの」である、ということである(2)

どういうことか?

たとえば二つのものを思い浮かべてほしい。一つは泥だらけの靴である。畑作業に使って、あるいは近くの山の茂みを一日歩いて、靴ひもの結び目にまでまっ茶色の泥が入り込んだ履き古した靴。

もう一つは食後の皿だ。肉料理を食べたあとのもので、のせられたフォーク、ナイフ、箸ともども料理の汁や脂が分厚くこびりつき、肉や野菜の食べかすが散らかっている。それが何枚も重ねられている。

どちらに対してあなたは「きたない」「きれいにしなくては」と感じるだろうか。

ある人は、皿にこびりついているのは成分としては口に入れるものと同じであって、それに比べれば通常家のなかには入れない泥の方がきたないと思うという。別の人は、何枚も重ねられた使用後の皿のほうが、より「片付けなくては、洗わなくては」という気分にさせられると答える。泥のついた靴よりも使用した皿の方が、毎日、あるいは毎食後に、片づけ洗うという習慣と結びついていることが背景にあるだろう。

どちらの感覚にも相応の理由があって、人類学理論に鑑みればどちらがよりきたない、などの「正答」はとくにない。わたしならたぶん後者の皿と答えるだろう。自分の体に入っていったもの、あるいは自分の体を作っているのと同じ種類の質感やにおいが生々しく感じられることが、わたしにとっては嫌なインパクトになる。唾液や胃液に感じるものとおそらく通じている。

重要なのはこの次である。ここで条件を狭めてみよう。

たとえば置かれた場所だ。あなたが友人の家を訪れ部屋にあがろうとしたとき、たくさんのものや靴が出ていて玄関たたきがいっぱいだった。そこで「靴箱に入れさせてもらうね」と言ってその扉を開けると、ものを食べた後の汁と脂と食べかすのこびりついた皿が目に飛び込んでくる。あるいは、泥だらけの靴を発見する。ぎょっとするのはどちらだろうか。

もしくは食事に使うテーブルの上だったらどうだろう。人気のレストランに入ったら混んでいて、まだきれいに準備されたテーブルがなく、給仕が申し訳なさそうに「すぐ片付けますので」と言う。そのとき、肉汁と脂がついた皿がのったテーブルと、泥だらけの一足の靴が真ん中にのったテーブルがあったとすれば、あなたはどちらに案内されたいと思うだろうか。

多くの人が集まる講義でこの質問をしてみると、当初は靴と皿とで答えがばらける。皿がいやだと答える人が多い場合も、逆の場合もある。しかし、靴箱のなか、あるいはテーブルの上、と条件を狭めると答えはぎゅっと収斂し、靴箱の場合は皿に、テーブルの場合は靴に、より違和感や嫌悪感を感じると答える人が大半となる。

こうして少しずつわかってくるのは、あるものが忌避感を感じさせるとき、そのもの自体がいつでも・どこでも同じようにきたなく忌避感を感じさせるものとは限らない、ということだ。むしろ強い嫌悪や不安、忌避感を呼び起こすのは、往々にして置かれた場所や状況の方なのである。

冒頭にあげた例でもそうだ。排泄物・分泌物や生ゴミは、「いつもの」場所にあるかぎりは、あって当然のものとしてやりすごすことができる。問題なのは場所との関係なのである。

言うなれば汚穢とは、秩序からの逸脱である。あるものが通常の分類と居場所をはみ出し「あるべきでないところ」に現れたとき、それは「なんとかしなければ」と人に感じさせるものになる(・・)のだ。同時に、分類にうまく当てはまらないもの、曖昧なもの、両義的なものも汚穢として扱われる。「不浄もしくは汚物とは、ある体系を維持するためにはそこに包含してはならないものの謂いである」(3)。その点に関しては、「原始的宗教祭祀」を行なっている人たちと、衛生学に支配された現代人の間に区別はない、とダグラスはいう。不浄忌避の慣習をもつ人びとを衛生学的な正しい理解をもたない非合理な未開人と見なしたフレイザーの、ヨーロッパ中心主義的な社会進化論を、ダグラスはそのように跳ねのけたのである。

もしあるものが、それ自体の性質というよりは周囲の環境のためにいちじるしい汚穢になるのだとすれば、その場の秩序を維持しようとする人びとにとってのみ、それは危険としてあらわれることになる。したがって社会や集団のなかで何が清浄とされ汚穢とされているのかを分析することは、物事を逸脱・汚れとみなす秩序の体系と権力のメカニズムを相対化し、揺るがす告発にもつながりうるのだ。

汚穢にふれ、汚穢を生み出す生活の作業

こうした理論は清浄・不浄、そして秩序と逸脱について多くのことを気づかせてくれる。けれども同時に物足りなさもある。それはこうした理論が、人が汚穢とまじわり、汚穢とともにある具体的な経験それ自体のなかで何が起きているのかという細部に関心を寄せてこなかったからである。

日常的レベルにおいては、汚穢と出会う経験、すなわち「乱れている」「きたない」「おぞましい」という感覚は、なにかの空間や身体やものに対して感じられている。服や書類や食品パッケージが足の踏み場もないほど散乱した部屋であったり、風呂の排水溝に溜まって石鹸カスと絡み合った髪の毛であったり。これらが「そこにある」現場に身をおいて、人はこうしたものから身を引き離したり、片づけたり、見えない場所に隠したり、あるいは気にするもののそのまま放置したりする。

これら生活の現場における人の経験と対処が汚穢の分析でとりあげられることは、これまでほとんどなかった。日々生み出されるごみや体からの分泌物・排泄物に対処したり、しなかったりする。居住空間を「きたなくない」、もしくは居住者が落ち着ける状態に保つ。これらは面倒で、心地良くもないルーティン作業だが、どんな生活の現場においても当たり前に生じ続けている。いずれにせよ、とりたてて言葉にしてもなんら発見はない——少なくとも秩序だとか権力だとか社会変革に関係はなく、抽象化された学術的な議論にも関係はない——そのように見なされてきた。

しかしこの「当たり前に生じ続けている」作業は、本当に、深く検討しても何も生み出さないのだろうか。さらにいえば、これは果たして誰もが行なっている作業なのだろうか。そこでの経験や視点が「言葉にしてもとくに何も生み出さない」と見なされてきたのは、それらの作業を担いがちな傾向にある人の声や視点が軽んじられてきたからではないのだろうか。

食事の準備と片づけ、掃除、洗濯、身づくろい。「家事」や「ケア作業」などと呼ばれるこれらの営みは、要は「生活を回す作業」であり、より噛みくだけば「生活空間および自分と共同生活者の身体を維持し、それらにはたらきかける作業」と言い換えられる。実は〈衣〉〈食〉〈住〉にかかわるこうした作業のほとんどは、汚穢にふれ、片づけ、あるいは汚穢を生み出す行ないなのである。

たとえば〈衣〉にかかわる洗濯は、皮脂や食べ物・飲み物のしみを洗い流し、衣服に付着した体臭を薄くする作業である。〈住〉にかかわる掃除は生活空間のきたなさや乱れにはたらきかける作業だ。

そしてこれらはみな、汚穢をなくす(・・・)作業であるように見えて、反対に汚穢を生み出す(・・・・)作業でもある。〈食〉にかかわる作業では、最終的に口に入るものだけではなく、不可食部分つまりゴミが副産物として多量に生み出される。食べものの準備とは、そのかなりの部分が動植物の死体——植物(野菜・果物)の皮や魚の骨・内臓など——の食べられない部分・おいしくない部分をより分ける作業、言いかえれば分類の作業なのである。掃除や片づけについても同様で、床に落ちた体毛や虫の死骸やほこりの塊を見つけ出すことが逆説的にごみを生む。入浴や洗髪は、体と髪のよごれを洗い流したあとの汚水を生み出す。ごみや汚れは、何かを他のものから区別して分類し、物理的に隔離したり洗浄する、まさにその過程を通じて生み出されるものなのである。

これらはみな、毎日あるいは数時間おきにやってくる心身の要求と欲動を満たし、自分および共同生活者の心身を「よい」状態——言い換えれば「大丈夫な」「辛くない」状態——に保ち、翌日・翌週が大きなトラブルなく回っていけるように保つための作業である。

実はこうした行ないは、自分と共同生活者の心身、そして住まいに現在進行形で何が起こっているのかを知り、推測することにもつながっている。使ったあとの洗面所の床に落ちた、明らかにいつもより多い自分の髪の毛におののくとき、これ以上睡眠時間を削ってはならないことをわたしは悟る。共同生活者である子どもの手のかぶれ(皮膚の乱れ)に軟膏を塗りながら、自宅や学校で、新型コロナやインフルエンザの感染予防のために1日何度となく手洗いをさせられることが、肌のかゆみ・痛み・炎症という別のつらさや病につながっている可能性を考える。

これらの気づきや推測が、頻繁に繰り返される「つまらない」「生産的でない」ルーティン作業を背後にもっていることを考えたとき、汚穢にふれる作業は、じつに豊かな人間味と知につながるものとして浮かび上がってくる。

なぜそれらを「汚穢」と呼ぶのか

以上の視点は、本連載で「汚穢」という語を用いていることとも関連している。

「汚穢」の「汚」は日々経験されるきたなさやよごれを含む日常的な語である。一方の「穢」だが、これは「あい」「え」「かい」とも読む。訓読みでは「けがれ」だ。けがれといえば、少なくとも現代においては、たとえば死や葬送にかかわる習俗や年中行事にあらわれるような儀礼的・象徴的な何かをさすことが多い。

ちなみにダグラスの『汚穢と禁忌』の原題はPurity and Danger、「清浄と危険」である。「汚穢」に相当する語はこの主題ではなく副題のAn Analysis of Concepts of Pollution and Taboo(「汚穢と禁忌の概念の分析」)にあらわれる(4)。なおこの邦訳では「汚穢」という語の初出ページに「けがれ」のルビがあてられている。ダグラスの議論の主軸が〈浄〉〈不浄〉をめぐる象徴構造の解析だったためだろう。そしてこれは、人類学の主要な関心が、長らく象徴的なものの記述と分析にあったことのあらわれでもある。

しかしこの連載では、なにかが物質的であるか象徴的であるかの区分を前提とせず、それらが未分化であるような経験や現象にも注意を向け、記述し、考えていきたい。そのため「汚」「穢」の双方が入った語を用いるのであり、これをひとまず「おわい」と呼んでおきたいのである。

1本のバラ。花びらは乾燥して色あせており、葉にはツヤがある。

【図2】活けていたバラがしおれてきたのでドライフラワーにしようと思う。葉の緑がまだ鮮やかだ。

交通網と郵便網を飛び交うもの

冒頭の検査の話に戻るが、少し前に受けた人間ドックで、わたしは2回採るはずの便を一度しか採ることができなかった。月経が始まったからだ。微量の血液も検出する便潜血検査であるから、経血が混じるかもしれない状況で検査はできないだろうと、そう思った。しかし病院の受付では、2日分がないと検査できないので、数日以内に再度とって持参するか郵送するようにと言われた。

「郵送ですか」

驚いて、わたしは聞き返した。受付の人は表情を変えることなく、郵送ですと繰り返した。普通郵便でいいという。人の排泄物というものが、医療廃棄物のように、危険な汚染や感染を引き起こすかもしれないバイオハザード物質として隔離され特別に扱われるようなイメージを勝手に抱いていたわたしは、何か不思議な気持ちで帰途についた。

しかし考えてみれば、使用後のおむつがそうであるように、便は普通ごみとして出すことができるものなのだ。汲み取り式トイレから汲み出したものを運搬する車両もまた、一般道路を普通に行き来している。であれば、検便容器であってもさほどの特別扱いはされなくて当然だ。普通郵便で送られていてもおかしくないのかもしれない。

無数の検便容器がビニールにくるまれ、封筒に入れられ、郵便網と交通網を人知らず飛び交っているイメージを、わたしは頭のなかに描いていた。気づかなかっただけ、見えないように構造化され調整されているだけで、人が身体から出したものは、すぐそこの身近な場所にあって、さまざまな物質的・社会的システム内に入りこんでいる。当然のことなのだ——この地球上の物質世界も、生き物がかつて生命活動のなかでさまざまなものを産み出し、排出し、そして死んでいった、そのなれのはてによって多くが構成されているのだから。

このエッセイが見ていこうとするのは、汚穢との出会いであり、汚穢をあたらしく内側から感じなおすことであり、そこで生じる反応の即興性のあやうさと創造性である。出すべきではないとされているところや、あるはずがないと思われているところで意表をついて、わたしの、あなたの、何ものかの生命のしるしがあらわになったとき、そこでいったいわたしは、あなたは、何を感じ、どのように反応・応答することができるのか。汚穢の影のなかには、どのような満ち引きのリズムが隠されているのか。しばしのあいだ考えていきたい。

  1. Judith Okely (2012) Anthropological Practice: Fieldwork and the Ethnographic Method, Berg.
  2. メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』塚本利明訳、筑摩書房、2009年[原書1966年]。
  3. ダグラス、前掲書、112頁。
  4. 副題と主題を逆転させたのは同書の数ある翻訳のなかでも主なところでは日本語訳だけらしいが、ダグラスの本はもともとの主題の清浄さ(purity)よりも副題の汚穢(pollution)を分析しており、適切だったとも評される。Richard Fardon (2016) ‘Purity as Danger: “Purity and Danger Revisited” at Fifty’, in Robbie Duschinsky, Simone Schnall, and Daniel Weiss eds. Purity and Danger Now: New Perspectives. Routledge.

過去の連載記事

(汚穢の満ち引き)