ハチはもちろん、すべての昆虫への見方が変わらずにはいられない生物学のあらたなる基本書『ハチは心をもっている――1匹が秘める驚異の知性、そして意識』。2月17日の刊行に先駆け、本書「はじめに」の一部を特別公開いたします。
はじめに
異星人の心を理解するのは容易ではないが、やってみたいと思うのであれば、それを探しに宇宙にまで出かける必要はない。異星人の心は、身のまわりのあちこちに存在している。ただし、大きな脳をもつ哺乳動物にそれが見つかるとは限らない――哺乳類の心理の研究は、やや形を変えた人間らしさを見つけることだけを目的に行なわれたりする。一方、ハチのような昆虫については、こうした誘惑に駆られることがない。ハチの場合は、その社会も各個体の心理も、人間の社会や心理とは似ても似つかないものだからだ。ハチは、人間とはまったく異なる感覚器官に支配された独特の知覚世界をもち、まったく異なる優先順位に従った生活を営んでいるので、実際、地球に暮らす異星人だと思っても間違いではないかもしれない。
私たち人間から見ると、昆虫の社会は、各個体が心をもたぬ歯車となって組織を回している社会のように見えるかもしれないが、もしかすると、うわべしか見ない異星人もやはり、人間社会について同じような結論を下すかもしれない。本書全体を通して私が目指しているのは、読者の皆さんに、ハチは1匹1匹が心をもっている、と確信してもらうこと――ハチは周囲の世界を認識し、自らの知力を自覚していると確信してもらうことだ。ハチの知力とは、自伝的記憶、自らの行動の結果についての理解、さらには基本的な情動や知能といったもので、これらはまさに心の主要な構成要素にほかならない。そして、これらを支えているのが、見事なまでに精巧な脳である。これから見ていくように、昆虫の脳は決して単純なものではない。ヒトの脳には860億個の神経細胞があるのに対し、ハチの脳は100万個ほどにすぎないかもしれない。しかし、神経細胞のひとつひとつが、まるで成熟した樫の木のように、細かく枝分かれした複雑な構造をもっている。そして各々の神経細胞が、他の1万個の神経細胞と接続が可能なのだ。ということは、ハチの脳内にはそのような接続部が10億以上あってもおかしくない。しかも、こうした接続部はすべて、多少なりとも可塑性をもっており、個体ごとの経験によって変化しうるのだ。このようにすっきり見事に小型化された脳は、単なる入力・出力装置などでは決してない。予測能力をもって可能性を追い求める生体コンピュータなのである。さらに、ハチの脳は刺激がまったくない夜間にも自発的に活動している。
ハチであるとはどのようなことか
ハチの心の中がどのようなものかを探るためには、自分がハチになったつもりで、日常世界のどんな側面が自分にとって重要か、それはなぜなのかを考えてみるといい。ハチであるとはどんな感じか、思い描いてみてほしい。まず、外骨格を纏っている自分を想像しよう。外骨格とは騎士の鎧のようなものだ。しかし、その下に皮膚はなく、筋肉が直接、鎧に付着している。体の外側は硬い殻に覆われているが、その内部は柔らかい。殻の中には内蔵型の化学兵器も備えている。それは、自分と同じサイズの動物ならば殺すことができ、自分の1000倍の大きさの動物に対しても激しい痛みを与えることができる注射針として設計されている。ただし、それを使うのは最後の手段。なぜなら、それを使えば自分も死んでしまうからだ。では、ハチのコックピットの内側からは、世界がどのように見えるか想像してみよう。
あなたは300度の視野をもっており、あなたの眼はどんな人間よりも迅速に情報を処理することができる。栄養分はすべて花から得ているが、1個の花から得られる食料はごくわずかなので、たいてい花から花へと何キロメートルも飛び回らなくてはならず、しかも何千匹ものハチと競争しながら餌集めをしなければならない。見える色の範囲はヒトよりも広くて、紫外光も見えるし、光波の振動方向も感じとれる。磁気コンパスのような、ヒトにはない感覚能力ももっている。頭部から出ている突起は腕と同じくらい長く、その突起で味、におい、音、電界を感じとることができる。そして空を飛ぶこともできる。以上のことをすべて考慮すると、あなたは心の中で、何を気にかけ、何を考えるだろうか?
野生の採餌者にとっての課題
ヒトも含めた動物の心の中身は、さまざまな情報から構成されている。進化史から得た情報、進化の過程で感覚フィルターを通して得た情報、個体ごとの経験から記憶した情報、そして想像されることや予測されること。
心の中身を探るには、その動物にとって何が大切か――日々の生活の中で重要な意味をもつものは何か――を考えてみるといい。たとえば、ミツバチのワーカー(働きバチ)の念頭にはないと自信をもって言えそうなのが、セックスだ。というのも、ワーカーはふつう不妊であって、繁殖を行なうメスは女王に限られているからである。一方、ハチの心の中で、花というものは、私たち人間の場合とはまったく異なる大きな意味をもっている可能性が高い。植物が太陽エネルギーを糖質に変えて作ったエナジードリンクである花蜜はまさに、個々のハチやそのファミリーにとっての命の糧である。また、植物の精子にあたる花粉も、集めるべき花資源として同じくらい重要なものだ。なぜなら、栄養価の高いタンパク質を高濃度で含んでいるからである。
花こそが命の糧である生物の心を占めていそうな事柄をさらに探るために、初めて巣の外に出かける日を迎えた、若いハチを思い浮かべよう。このハチに与えられた課題は、巣の場所とその周囲にある目標物の位置を記憶すること、そして有益な花資源を探し当てることだ。さらに、ほんの数回の採餌飛行で、余剰食料を巣に持ち帰ることも求められる。さもないと、幼いきょうだいが餓死してしまうからだ。もちろん、探索に飛び立つこのハチの中には、進化の過程で獲得した知恵の膨大なアーカイブがあるはずだ。たとえば、飛ぶことを学ぶ必要はない。また、風景の中に色と香りのある点々が現れたら、それは花の可能性あり、という生得的な知識ももっている。
しかし、進化の過程で得た指針では対応しきれないことも少なくない。状況は世代ごとに変化しており、予測不能なことが多数あるからだ。生まれたばかりのハチはまだ、花はどこに咲いているのか、どんなふうに見えるのか、どのように扱えばいいのかを知らない。それに花蜜や花粉が含まれているのかどうか、上質な資源なのかどうかも知らない。たとえ優れた蜜源の花を探し当てても、競争相手がすでに採り尽くしているかもしれない。こうした事柄はすべて、個々のハチが試行錯誤を繰り返しながら学んでいく必要がある。つまり、ハチは3週間ほどの短い成虫期にさまざまなことを学習せねばならず、さもないと、巣に戻ることも、効率よく花資源を採取することもできずに終わってしまう。
ハチの初飛行には最大の危険が伴う。マルハナバチの場合、初めて採餌飛行に出発したハチの10%が、二度と生まれた巣には戻ってこない。巣の場所を正確に覚えていなくて帰巣できないハチもいる。昆虫食の鳥や、花の上で待ち伏せしているカニグモのような捕食者の餌食となってしまうハチもいる。
この試練がどれほど大変なものかを理解するために、人間の子どもがこうした状況に置かれた場合を想像してみよう。新米の採餌バチの能力とだいたい釣り合うように、ここでは、生まれてから数年経っている子ども(たとえば6歳くらいの学童)を想定しよう。その子どもたちを、自然のままの環境中に――つまり、ビルのような、目的をもって建てられた覚えやすい目標物がない場所に――解き放つ。子どもたちの場合は、課題をもっと単純にして、環境中に捕食者がいない状態にしておこう。食料を持ち帰ること、という指示だけを与える。その食料は、ハチの食料と同様に、自宅から5キロメートルほど離れたところにある。無事に戻ってくるためには、行動食を十分に携えていく事前準備が必要だし、それが尽きたときには自力で見つける才覚が求められる。複雑な構造をした花の場合と見合うように、食料は、多種多様なパズルボックスから取り出さねばならない仕掛けにしておこう。その開け方は、大人からは一切教わらずに、子ども自身で工夫する必要がある。食料を手に入れたら、善意の通行人の助けを借りずに、家までたどり着かなくてはならない。さて、その日の終わりに、相当量の余剰食料まで持ち帰れる子どもは、いったい何人いるとあなたは思われるか。
持ち帰れる子どもがいたとすれば、その子は、並外れた空間記憶、優れた探索能力や運動学習能力、そしてさまざまな資源に対する高度な品質判断力を備えた子どもであることは間違いない。それから数日のうちに、どんどん上達する子どもが出てくるかもしれない。そういう子どもたちは、最も有益なパズルボックスを覚えておいて、それを探すこと(そしてそれに似た別のパズルボックスを見つけること)に専念し、それらを結ぶ最短ルートも見つけるだろう。しかし、状況はいつも安定しているとは限らない。子どもたちのグループ間に何らかの競争を持ち込むとともに、予測不能な変化も起こしてみよう。これは花の世界でもよく起こることだ。それま で存在していた有益な花畑が姿を消し、新たな花畑が現れた場合には、さらなる探索が必要になる。
以上は、ハチが直面する基本的な課題――ハチの心を占めていそうな課題――のごく一部にすぎない。次の節では、こうした課題をこなすには、さまざまな形の複雑な意思決定と、効率的な記憶編成が求められることを学んでいこう。
(つづきは本書でお楽しみください)
(原著作権者および翻訳著作権者の許諾を得て転載しています)
- チットカ『ハチは心をもっている』今西康子訳の目次ほか詳しい書誌情報はこちら(みすず書房ウェブサイト)
