書評紹介
- 西崎文子(東京大学名誉教授)評「平和へのリアリズム――〈怖れ〉の病理に陥らぬために」
(朝日新聞2023年7月29日(土)読書面「ひもとく」)読書好日(2023.08.02) https://book.asahi.com/article/14969882
われわれは古典と近代の間を架橋する戦略的に重要なポイントを前にしていることになる。Thoukydidesはかくも典型的に古典的であるので、後古典期ないしヘレニズム期に既に遠くに見上げる一個の理想であった。他方Hobbesはかくもラディカルに近代的であり、現在でもなおスキャンダラスなまでに前衛的である。それにもかかわらず、われわれは彼らの間にこそ特権的な橋が架かるのを見るのである。これは全く奇妙なことである、いわゆる「リアリスト」たちはこの二人を区別しさえしないが。われわれは、Thoukydidesが近代的すぎるのか、Hobbesが古典的すぎるのか、わからない。このミステリアスな関係を同定するに最大限の慎重さを以て探究を始めなければならない
(木庭顕「若い読者のための小案内」p. 223)
政治社会形成における最重要の役割を怖れに見出すことになった哲学者が同時にまさにThoukydidesの翻訳者Thomas Hobbesであった、ということを、もし、想起するならば
(J. de Romilly「Thoukydidesにおける「怖れ」の観念」p. 7)
彼は「リアリスト」ではなかったが、「リアリスト」以上にrealistであり、真の意味でrealistであったが故にこそ(Kleonのような)「リアリスト」を、ante litteramに、完膚なきまでに批判したのである
(木庭顕「Thoukydidesによる情念の歴史分析」p. 12)
Elements of LawやLeviathanの政治理論のポイントとなる部分において、内容と形態の両面で、Diodotosの言葉(III. 46. 4)や他のThoukydidesのパッセージ(VII. 57. 7; VIII. 38. 3)が鳴り響いているのである。“a common power to keep them all in awe”という定式化された表現が繰り返されることによって、Hobbesの諸作品を隔てるクロノロジカルな距離が埋められてしまうかのようでさえある。Eight Bookes刊行(1629年)からLeviathan刊行(1651年)まで22年を経過していることをわれわれは考慮しなければならない
(L. Iori「Thomas HobbesによるThoukydides翻訳」p. 77-78)
国家間は自然状態であるという現在の支配的な解釈は、Hobbesを帝国主義ないし少なくとも攻撃的な外交政策に加担した人物であると理解することに繫がってきた。しかしながら、ThoukydidesがHobbesに何か教えたことがあったとすれば、それはそのような政策には如何なるものであれ警戒的でなければならないということであった。Hobbesの主権者は確かに武装して防備怠りない。しかしそれは偶発的に市民の防衛が要請される事態に対応するためであり、そのようにして平和を保障するためである
(K. Hoekstra「HobbesのThoukydides」p. 120)
Hobbes の国家間関係理論について書かれた現代の著作を、奇妙な非対称が支配している
(N. Malcolm「Hobbesの国際関係理論」p. 129)
Hobbesの自然主義は、現にそこに権力が存在しているという脈絡において発揮されてくる人間の本性に内在する絶妙の属性を通じて機能していく。
Hobbesは平和と安全保障を公理とするから、誰でも誰か個人ないし家族ないし党派ないし特定形態の政体に固定的に忠誠を誓うということは予め排除される
(K. Hoekstra「Hobbes政治哲学におけるde facto「転回」」p. 220-221)
自己保存則そのものが内的軍事化を禁ずる。人民を非防御的戦争にさらすからである。人民を危険にさらす権力は公権力たる正統性を失う。占有破壊的買主が占有を取得しない(引渡無効)ように。
もし近代が非論理的なまでの人工を意味するならば、HobbesのThoukydidesないし真のThoukydidesは最高の戦術的選択であったろう。
(木庭顕「若い読者のための小案内」p. 252)
5名の筆者の6論考は、もとは別々の場に独立して書かれていながら、そうとは信じがたいほどの稀有な強度で結び合って一書を構成する。
誤読を解き、平和の議論の核心へ。The classical foundations of modern political philosophy.