みすず書房

新刊紹介

世相の片隅に眼を凝らす美術記者の3巻完結

2023年1月25日

読売新聞で活躍した美術記者、芥川喜好さんの連載コラム「時の余白に」を書籍化したのは2012年5月であった。その6年後、2巻目となる『時の余白に 続』を出し、そしてこのたび3巻目の『時の余白に 続々』をもって無事完結した。足かけ11年の長丁場であったが、編集担当者としての責任を果たすことができてホッとしている。

連載第1回が2006年4月29日。その書き出しは「いつも通る地下鉄駅の一角に、見慣れぬものが出現しました――」とある。17年前にスタートした月一コラムを読み返してみて、連載終了にいたる間に少しぐらい変化があるかと思ったが、“芥川節”は変わることはなかった。ひとたび語りだすと、読者はグイグイと引き込まれてしまう。お家芸というか名調子というか、噺家の話芸に近いものがある。ですます調のやわらかい語り口のなかに、硬質で強靱な信念が貫かれていて、その清々しい読後感がクセになる。1巻目が刊行された折には、ライバル紙の朝日新聞に書評が掲載されるというハプニングが起こり(評者:鷲田清一氏)、版を重ねることができた。

芥川さんとの出会いは鮮烈であった。2011年夏、別の企画で芥川さんに執筆をお願いしたいと銀座で初めてお会いしたのだが、「時間がとれないので難しい」と断られてしまった。困った顔をしていると、「ご依頼を断っておいてなんですが」と鞄から原稿の束を取り出し、「新聞で連載しているコラムなんですが、みすず書房で書籍にしてもらえませんか」と言われ、面食らった。読売読者ではなかったので連載を存じ上げなかったが、美術業界で名を馳せる芥川さんのまとまった文章を読める好機でもあり、お預かりすることにした。読み進めると、自分が好きな作家(美術家)が次々と出てくることに驚かされた。感性が近いのだろう。同志を見つけた思いがした。美術評論家の酒井忠康さんから「ボクらは深海魚みたいなもので、同じ深さを泳いでいる魚を見つけるとうれしいんだよ」と伺ったことがあり、まさにその感覚であった。

そして、決定的な文章と出会った。2011年6月「いのちは海からきた」。東日本大震災で最大の被災地となった宮城県石巻市のことが書かれていて、思わず身を乗り出した。石巻出身の彫刻家・高橋英吉(1911-1942)を紹介しながら、木彫作品を展示・収蔵していた石巻文化センターが壊滅し、勤務中の学芸員が津波に呑まれて亡くなったことなどが書かれ、災害発生から数ヵ月に満たない被災地へ優しいまなざしを投げかけていた。最後はこんな一文で結ばれる。「海際に、残った文化センターの建物が見えます。そのなかに、今は閉じこめられた海の男たち(英吉の彫刻作品のこと。筆者注)がいます。必ずや、復活のシンボルとなるはずの男たちです」。仕事に私情をはさむことは憚られるが、この人と一緒に仕事がしたいと思った瞬間であった。

企画書を書いて会議に諮り、無事通過した。初校が組み上がった11月頃、銀座の読売新聞社(大手町の本社ビル建て替えのため日産自動車旧社屋を使用していた)近くの喫茶店で芥川さんと会い、さっそくお礼を伝えた。

「石巻のことを書いてくださりありがとうございます。実は石巻出身なんです」
「そうでしたか。石巻のどちら…?」
「南浜町です。文化センターのすぐ近くでした」
「えっ? ではご家族は…」

このあと、石巻で体験したことを話しているあいだ、芥川さんは目もとをハンカチで押さえながら「そうでしたか、そうでしたか…」とうなっておられた。この日から、著者と編集担当という関係以上の絆が生まれたと言ってよい。初校の受け取り、再校のお渡し、装画をお願いした版画家・丹阿弥丹波子さんのアトリエ訪問など、機会を見つけては芥川さんにお会いして、この間に見た絵や彫刻のこと、復興をめざす石巻の現状などを話した。その時間の楽しかったこと。芥川さんのほうも、私とのこうしたやりとりをコラムに書いてくださって、とてもうれしかった(2013年2月「復活のシンボルは、いま」『時の余白に 続』所収)。

震災当時の筆者自宅周辺。三角屋根が石巻市文化センター(2011年3月14日撮影)

3冊目となる本書には石巻にふれたコラムはないが、広範な新聞読者層をつねに意識して、飽きられないように広い視野を保ちながらも、人々が見逃しがちな世相の片隅に眼を凝らし、そこに息づく美をめでる“芥川流”を最後まで貫かれた。出版と新聞の違いはあるが、尊敬に値するジャーナリストであった。なんだか追悼文のようになってしまったが(笑)、記者人生最後のお仕事をご一緒させていただいたことをうれしく思う。

最後に石巻の高橋英吉のこと。3.11津波の被害を受けた「海の三部作」をはじめとする彫刻群が、専門家チームによる修復作業を経て、2021年に内陸部に新設された石巻市博物館「高橋英吉作品展示室」に常設展示されているので、宮城にお越しの節はぜひお立ち寄りいただきたい。また旧・文化センターがあった南浜町一帯は、国営の復興祈念公園となっており、震災遺構・旧門脇小学校(筆者の母校)と合わせて見学をお勧めしたい。この12年、故郷の復興を見守りたいと石巻詣でを続けてきたが、ひとえに芥川さんとの交流に支えられてきた。出版の仕事とは、人との出会いがすべてである。あらためて感謝の意を表したい。

高橋英吉「海の三部作」。右から《黒潮閑日》《潮音》《漁夫像》


蛇足ながら、この3月をもってみすず書房を退職することをご報告して掉尾といたします。2005年の入社から18年間、充実した時間を過ごさせていただきました。4月からは石巻に帰ってさらなる復興のお手伝いをします。ありがとうございました。(Y)

[みすず書房在籍中に企画編集した書籍]
酒井忠康『若林奮 犬になった彫刻家』 2008.2
北御門二郎『ある徴兵拒否者の歩み トルストイに導かれて』 2009.8
酒井忠康『鞄に入れた本の話 私の美術書散策』 2010.9
芥川喜好『時の余白に』 2012.5
『小林且典作品集 ひそやかな眼差し』静岡市美術館公式図録 2012.9
野見山暁治『遠ざかる景色』 2013.2
若江漢字・酒井忠康『ヨーゼフ・ボイスの足型』 2013.5
牛尾京美『ベイリィさんのみゆき画廊 銀座をみつめた50年』 2016.3
酒井忠康『芸術の海をゆく人 回想の土方定一』 2016.11
芥川喜好『時の余白に 続』 2018.7
伊藤佳之・大谷省吾・小林宏道・春原史寛・谷口英理・弘中智子『超現実主義の1937年 福沢一郎『シュールレアリズム』を読みなおす』 2019.2 第31回倫雅美術奨励賞受賞
安井雄一郎『松田正平 飄逸の画家』 2020.12
弘中智子・清水智世編著『さまよえる絵筆 東京・京都 戦時下の前衛画家たち』板橋区立美術館・京都文化博物館公式図録  2021.2 第32回倫雅美術奨励賞受賞
酒井忠康『芸術の補助線 私の美術雑記帖』 2021.3
塩田純一『アルフレッド・ウォリス 海を描きつづけた船乗り画家』 2021.9
ピート・フレイム『ロック・ファミリー・ツリー』新井崇嗣・瀬川憲一訳 2022.8
菅章『ネオ・ダダの逆説 反芸術と芸術』 2022.11
芥川喜好『時の余白に 続々』 2023.1