みすず書房

新刊紹介

わたしたちのめざすところ。声や語りがよみがえる世界とは

2023年1月25日

みずからの声で物語ること、
命を寄せ合って物語る場を開くこと、
そして、みずからの命を、誰のものでもない自分の時間の流れの中で生きること。
それが抗い。

(前口上「名残の声に耳を引かれて」)

「わたしたちのめざすところ。声や語りがよみがえる世界とは、どんな世界なのか?」
少なくとも、放たれてもすぐ消える声によって共有される世界と、刻まれ記され消えることのない文字によって共有される世界は、根本的に異なるはずです。記憶のありようも違ってくるはずです。
標準語という近代語をベースに作られている文字表記ではボロボロと零れ落ちるほかない、風土と結びついた声の多様性を想い起こしてみるならば、ただ単にこの列島にはたくさんの方言があったし、今もある、ということではすまない、多様性をめぐるより根本的な思考が呼び出されてもくるでしょう。
そして、先回りして私なりの答えを言うならば、ともかくもそのめざすところは、たった一つの中心、たった一つの真実に力ずくで縛られる世界ではないということ。
無数の中心が遍在し、その場に根差した真実が中心の数だけ存在して、それが菌糸のように互いにつながり合い、生かし合うような世界であるということ。
そこでいう真実とは、人間のみならず、生きとし生けるすべての命に向き合う誠実さの別名であるということ。
いま、ここから、声のほうへ、語りのほうへと、出発です。
実に不穏な出発です。
この時代にあって、こんな時代だからこそ、声は不穏。
声を放って生きる「命」はますます不穏です。
もちろん、それは声を封じたい者たちにとっての不穏です。

 


(第9章「来たるべきアナキズム」)

近代日本において、「異人/まれびと」とは、いったい何者だったのか?
「おまえは異人か?/おまえは皇国臣民か?」と問われ、「私は異人ではない」と言わせられる者たちがいました、実にたくさんいました、
「おまえは異人か?」と問う者のほかは、すべてが異人である、と言ってもよいでしょう。
近代日本においては、想像以上に多くの者たちが「怯える異人」として生きてきたし、いまもなお生きているのでしょう。
「おまえは異人か?」と問われたなら、殺されたくない私は、「私は異人ではない」と弁明する私になることでしょう。
美しい「日の丸」を汚す「シミ」(谺雄二、ハンセン病を生き抜いた詩人)と呼ばれて、処分されることを恐れて、「シミ」ではないと命がけで訴える私になることでしょう。
私は朝鮮人ではない、
私は支那人ではない、
私は琉球人ではない、
私はアイヌではない、
私は癩者ではない、
私は部落民ではない、
私はアカではない、
私は水俣病ではない、
私は福島出身ではない、
私はLGBTではない、
私はわきまえのない女ではない
私は敵ではない、
ああ、きりがない、はてしない、
私はあなたと同じだ、あなたとなにもかも同じだ、同じだ、同じだ……、
殺されたくない私はどこまでもそう言いつのるほかはない者になることでしょう。
そう言いつのる私は、もし自分が異人でないとしたら、異人を殺す側にまわらねばならないかもしれないことに怯える私でもあることでしょう。
殺し、殺されるかもしれない「暴力の予感」(冨山一郎)を生きるしかない私であることでしょう。
(中略)
しかし、だからこそ、異人こそが新たな芸能・文学のはじまりをもたらす者になる。そう私は思っています。


 

(納口上「私はケモノで、声で、カビで」)

私と祭文語りが携えて旅する「物語」は、いまこの世界を生きる言葉、生きる声で歌い語られる物語です。
水俣も語れば、沖縄も語ります。済州島も語るし、東北も語ります。まあ、いろいろです。命と命がつながっているかぎり、この世のできごとは目に見える線だけでなく目には見えない線でもつながっているのですから、歌い語ることは果てしなくあります。
語ること歌うことは祈ることなのだとも、ごくあたりまえに信じています。
命を断ち切ってゆくばかりのこの世界には、祈りが必要です。
この近代世界の数多の「無惨」を顧みて、断ち切られた命に深い想いを寄せると同時に、来たるべき世の幸いを予め祝って引き寄せるのもまた祈りでしょう。
語って歌って踊る鎮魂の祈りがあり、予祝の祈りがあるんです。
祈りが無力だなんて、声はただ消えてなくなるばかりだなんて、いったい誰のたわごとですか。
与えられた言葉ではなく、命を奪っていく者たちの言葉でもなく、生きているその場所で、生きてゆく命の言葉で語ること、歌うこと、踊ること、それが祈りではないですか。
ただ一つの中心が力を握る世界にあって、そこに無数の穴を穿つように、無数の小さな中心を呼び出す、語りの「声」は、まことにアナーキーです。
歌い語る声が開く無数の小さな「場」が、酵母のように、カビのように、無数の菌糸がのびていくようにはびこる世界を私は思い描きます。
私はケモノで、声で、カビでいいんです。
それぞれの場所で声を放って物語り、歌って踊って穴を穿つケモノたちとの邂逅を切に願っているんです。
へたれで、びびりで、夜行性で、群れることもつるむこともできない協調性なしの私が密かにあげるこの小さな声が、どうかあなたの内に潜むケモノに届きますように。

『人倫訓蒙図彙』より比丘尼