サル痘と疾病捜査官
アリ・S・カーン『疾病捜査官』より、サル痘に関する記述の一部をウェブ公開
2022年7月26日
ウイルス学の第一人者、山内一也・東京大学名誉教授に、書評をお寄せいただきました。
山内一也
本書は、Covid-19(新型コロナウイルス感染症)の発生という緊急事態の最中に書かれた。オックスフォード大学ジェンナー研究所で、過去に例を見ないスピードでワクチンが開発された経緯を、当事者が語っている物語である。
この研究所の特色の一つは、ワクチンの研究施設だけではなく、臨床用バイオ製薬施設(CBF)が設置されていて、ここで適正製造規範(GMP)に適合した治験用ワクチンを製造していることにあった。ワクチンの設計から治験の開始まで、すべて自前で行える体制が整っている大学は世界でも非常に稀であると思われる。
Covid-19の発生が確認された2020年1月、この研究所のワクチン学教授サラ・ギルバートは、ウイルスの遺伝子配列が公表される前からワクチンの設計を決めていた。すでに、チンパンジーアデノウイルスをワクチン遺伝子の運び屋とするベクターワクチンの基盤技術が、エボラをはじめとするいくつかのワクチンで確立されていたからである。そして新型コロナウイルスのゲノム配列が公表されるとすぐに、抗原となるスパイクタンパク質のDNAの合成を発注し、1月下旬に受け取ってワクチンの出発物質が作られた。それから65日目の4月21日に治験用ワクチンが完成するまでの息をのむような展開が、ギルバートとCBF主任のキャサリン・グリーンにより語られている。
治験用ワクチンをできるだけ短期間に用意するために、彼女らは通常ならば数年かけて順番にこなしていく複数の工程を同時並行で進める必要があった。また、予算の獲得も大仕事だった。まず手持ちのODAの予算を流用して製造をスタートさせ、2月になって感染症対策イノベーション連合(CEPI)に緊急ワクチン開発の助成金を急遽申請した。5週間後に助成金を獲得して出発物質製造と試験の予算の裏付けができたが、一部の作業は予算を確保する前から見切り発車で進められている。この間にも、世界での感染者数は指数関数的に増加していた。ワクチンを求める声が日増しに大きくなるのを聞きながら、彼女らは計画を絶えず見直して、治験用ワクチンを完成させた。その2日後から治験が開始された。
4月末にはアストラゼネカ社と合意が成立し、オックスフォード・アストラゼネカワクチンとなり、世界的な供給のための量産が可能になった。オックスフォード大の専門グループにより、治験が7ヶ月間にわたり規模を拡大しながら行われ、12月8日にワクチンの有効性と安全性を確認した結果がランセット誌に発表された。その年末に使用許可が出ると、英国でワクチン接種が始められた。通常のワクチン開発では考えられないスピード感である。
治験開始から1年後の2021年4月末までに、このワクチンは世界195カ国中の172カ国に届けられた。このワクチンは2-8℃で少なくとも1年は安定であり、世界保健機関(WHO)のポリオや麻疹根絶計画で整備されたコールドチェーンにより世界のどこへでも届けられたのである。日本ではほとんど使用されなかったが、「エコノミスト誌」は「このワクチンはほぼ間違いなく、他のどのワクチンよりも多くの人命を救っている」と報じている。
本書は、Covid-19パンデミックにおけるワクチンの迅速な開発という医学史に残る成果を紹介しているだけでなく、今後新たに発生する新興感染症への備えについても貴重な情報を提供している。日本がワクチン後進国から脱出するための手引きとして必読の書である。オックスフォード大学名誉博士でもあるジェンナーの没後200年記念の年に、本書の和訳が出版されたことは大変喜ばしい。
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