みすず書房

新刊紹介

ことばを通じて、こころに迫る

2023年5月25日

古代から現代まで、この列島の上に生まれ育った人びとは、空気のように日本語を吸い込み、日本語でことばを発してきた。
長い時間のなかで姿を変えてきた「日本語」を探究するのが「日本語学」であるが、そんな学問としてのカテゴリーが意識にのぼるずっと前から、日本語を深く研究し、現在の姿から古代のかたちへと遡ることで、日本の始源の姿を知ろうとした人びとがいた。

彼らにとっての「現在」とは、江戸時代。
契沖、賀茂真淵、本居宣長、富士谷御杖――現代の私たちが国学者と呼ぶ人びとは、どのような「知の枠組み」のなかで、どのような知にふれて、どのような知にたどりついていたのか。

この本はまるで入れ子のようだ。
4人の国学者たちが、あるテキストをたどる。丁寧に読んでたどる。
そうやって彼らがたどりついた知への道筋を、著者がたどる。国学者たちが書いたテキストを丁寧に読み、たどっていく。

丁寧に読んでたどる。著者はこの知へのアプローチへのひとつの方法を「精読」=「追跡(トレース)」と呼んでいる。

著作を手にいれた読み手は、どのようにそれを読んだか。そのことを教えてくれるのが、さまざまな読み手の「手が入った」当時の刊本だ。
本文のわき、余白を埋め尽くす書き込み。テキストを読みながら自身の考えをそこに書き込むという営みが、ある人びとのあいだではごく自然に行なわれていたことが、図版から伝わってくる。

現代のように書店に大量の本が並んでいたり、読みたい本がネット書店ですぐに手にはいるわけではない。印刷・出版・流通がだんだん安定的に行われるようになってきたとはいえ、手にいれた本は貴重なものとして、読まれ、蔵書となっただろう。貴重なものだからこそ、そこにわざわざ何かを書き込むとすれば、それは、なんとなく書かれたものであったはずはない。そうするだけの必然性のようなものがあった。だから、読み手は墨を磨り、筆を手にとって一字一字書き込んでいったのだ。それもまた、江戸時代の「丁寧に読んでたどる」=精読の跡といえるだろう。

買った本に書き込みをすることも、いまではあまりしなくなっているように思う。本はきれいに扱いましょう、というのは、図書館の本に関してはそうだが、それらの刊本への書き込みを見ると、当時の「読む」という行為は、現代の私たちの本を買って読むという行為とは根本的に異なる行為、異なる気持ちで向き合う行為だったのではないかと思えてならない。そのような読み方から一人ひとりの「考える」につながっていったのだ、とも。

一見、まちまちにみえる国学者たちのテキストから浮かび上がる、「日本とは何か」という共通の問い。それを、国学者たちは「日本語」を通して知ろうとした。
その知の跡をトレースしながら、著者は、過去に成立したテキストを現代に(過度に)引きつけて読むことに、たびたび待ったをかけている。それもまた、正しく道筋をたどる=「追跡(トレース)」をするときに忘れてはならないことだから。

知見の広げ方も、情報の伝達方法も、意見交換のやり方も今とはまったく異なる、江戸時代。21世紀の目からみれば「不便」で「非効率」なその江戸時代の、知のネットワークの豊かさ。それは、師から弟子(門人)へ、という縦のネットワークにとどまらない横のネットワーク、知のひろがりだ。そのネットワークのなかで、4人の国学者たちは、どのような「日本」にたどりついたのか。
ことば(日本語)を通じて、こころ(心情・感情)に迫る、スリリングな追跡劇。